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強制連行されて日本で亡くなった北朝鮮市民。死亡者の多くは甲子園で亡くなったのか=北朝鮮取材から(上)

強制連行されて日本で亡くなった北朝鮮市民。死亡者の多くは甲子園で亡くなったのか=北朝鮮取材から(上)
北朝鮮、平壌市内。川は大同江。チュチェ思想塔から写す(08年5月、撮影:新納直子)
【PJ 2009年03月11日】− 新聞報道などによると、大阪府警は8日、北朝鮮から脱出した日本人妻が、自分の家族と偽って中国人の男女を不法に入国させたとして、入管難民法違反容疑(不法入国など)で、この日本人妻と中国人4人の計5人を逮捕した。捜査関係者によると、日本人妻は在日朝鮮人の夫や長女とともに、「帰還事業」で北朝鮮に渡った。子どもを5人産んだ後、2001年ごろ北朝鮮から中国に脱出。同年8月、長女を装った中国人の女とともに日本に入国。入国後、日本人妻は東京都板橋区で、一人で生活。中国人らは同居せず、東京周辺で暮らしていた。日本人妻は「二男」や「めい」に成り済ました中国人男女の不法入国を手助けした疑いが持たれている。不法入国には、日本人妻の脱北を手助けした中国人ブローカーが関与した可能性があり、府警が経緯を調べるとしている。

 帰還事業とは、第2次世界大戦中に、強制連行された北朝鮮市民に対して、1950年代から1984年にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による日本から北朝鮮への移住に向けて、朝鮮総連が推進した運動のことである。そもそも、このような帰還事業は、北朝鮮市民を強制連行した日本政府が積極的に関らなければならない運動なのだ。日本政府の腰が重いため、朝鮮総連が推進して帰還事業を行わざるを得なかった事情があるのだろう。

 記者は昨年5月、朝鮮総連大阪本部が主催する北朝鮮親善訪問ツアーに参加した。訪朝目的は、1)自分の目で見た平壌の状況を、自分の視点で、PJニュースを通して多くの人に伝えること、2)個人的な思いからは、記者の父が13歳のころ、父の母親が平壌市内で病死(1945年7月25日)し、父と父の父親が、母親の亡骸(なきがら)を大同江付近に埋葬し、翌年の1946年に平壌から引き揚げて帰ってきて以来、父が一度も母親を埋葬した地を訪れることなく死亡してしまったので、記者が父の代わりに父が母親を埋葬した地を訪れ、慰霊したかったというものであった。

 父の母親、つまり記者にとってはおばあちゃんにあたる日本人女性に対する慰霊について、現地の関係者は難色を示し、父が埋葬した場所での慰霊を行うことはできなかった。その理由について、招聘(しょうへい)団体の朝鮮対外文化連絡会(対文協)は、「日朝間の国交正常化が実現していない現況下、日本に強制連行された北朝鮮の市民が日本で死亡し、その遺骨を北朝鮮の遺族が、日本政府に返してほしいと嘆願している。にもかかわらず、日本政府が返還してくれない現状があります。そんな中、北朝鮮の遺族と逆の立場となる渡辺さんのような立場の人が、現地で慰霊をすることをこちらが公式に認めるわけにはいかないのです。そして、それをテレビで報道されることは現時点で許されることではありません。北朝鮮の市民が知ると、さらに反日感情が高まることになりかねません。日本が北朝鮮市民の嘆願を受け入れてくれないから北朝鮮側も、日本人の嘆願を受け入れないという考えではないことをご承知置きください。やってくれないからやってあげないというわけでは決してないのです。私たちは、どのようなことでも、日本政府と対話の上での解決策を模索しています」と説明した。

 記者は、このときの対文協の説明により、学ぶものがあった。それは、現在、北朝鮮側としては、戦時中、北朝鮮市民が日本に強制連行された後、日本で死亡した北朝鮮市民の遺骨を返還してほしいと日本政府に嘆願しているのに、日本政府が遺骨の返還をしない状況にあるということだ。このときの取材では、戦時中、日本に強制連行されたキム・ヨンゴルさんの話を聞くことができた。キム・ヨンゴルさんの強制連行先は、鹿児島県出水市だった。キムさんは、出水市の格納庫などの建設作業員として仕事をさせられたという。

 記者は、北朝鮮取材に行く前から、日本政府が国策により北朝鮮などから徴用してきた人々を、兵庫県西宮市の甲子園球場付近にあった川西航空機および関連企業の工場で、建設作業員や工員として仕事に従事させていたのではないかと思っていた。

 キム・ヨンゴルさんの証言から見ると、甲子園球場付近に強制連行された人々が多くいるのではないかと感じた。「西宮市史」によると、昭和20年3月19日から始まった計8回におよぶ鳴尾村の空襲被害を「川西航空機・昭和電極・豊年製油・日本ファイバー・東亜工作所ほか16工場が壊滅し、人的被害では死者188人、傷者235人。住居の全焼3,611戸、半焼237戸、全壊106戸、半壊204戸、19,993人ら罹災(りさい)した」と概括している。だが、死者の数188人には、川西航空機工場で死んだ徴用工や、飛行場や高射砲陣地で命を落とした兵士の数は含まれていないという。川西航空機工場で死んだ工員の中には、北朝鮮から強制連行されてきた人々もいたはずだ。川西航空機全体の総従業員数は昭和5年の時点で352名だったものが、昭和19年には、6万人を超える数になっていたという。

 今年1月30日、韓国国務総理室傘下の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、およそ12万人の朝鮮人が強制的に徴用されたと発表している。西宮市が、死者の数を市民、国民に限定して算出したのであれば、6万人ちかい北朝鮮の市民が、甲子園球場付近で亡くなったのではないかと容易に推測できる現状だ。その人たちの遺骨が、まだ、日本から北朝鮮に返還されていないということなのか。それは、なぜなのか、全く不可解だ。日本が、北朝鮮市民の遺骨を返還しない理由については、今後、取材を進めるとして、記者がこれまでに調べた戦前、戦中の甲子園球場付近の歴史と、北朝鮮取材で聞いた強制連行被害者の話を伝えたい。

戦前、戦中の甲子園球場付近の歴史

参考文献:「鳴尾村誌」「西宮市史」

 1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに、世界恐慌が起きた。世界恐慌とは、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌のことだ。日本もその波をかぶった。

 翌年の1930年(昭和5年)、金輸出解禁により、不景気はいっそう激化して倒産する企業が多くあった。米価の大暴落で農村は窮乏化した。北海道、東北地方の農家は壊滅的な打撃を受け、都市でも企業倒産、労働争議が相次ぎ、失業者は急増した。世界的な経済危機への対応政策において、豊富な資源保有力によって国際市場を支配できる国ではなかった日本は、国際的孤立の中で国内の経済不況を打開する方策として、満州支配政策を強化していった。

 このころ、兵庫県西宮市の甲子園球場近くの海でも大きな変化があった。当時、甲子園球場辺りは、「鳴尾村」と呼ばれていた。鳴尾村で鳴尾沖埋め立て事業がはじまったのだ。埋め立て事業は、工業用地確保のためのものであった。事業を担当したのは、山下汽船所有の埋め立て権を受け継ぐ阪神築港株式会社であった。阪神築港株式会社は1929年(昭和4年)に山下汽船と南満州鉄道の共同出資で設立された会社である。関西の有力事業家である山下亀三郎と立憲政友会政権に推された満鉄総裁・山本条太郎が提携した。その目的は、中国からの資源調達を円滑にし、阪神間の工場地帯化を急ぐことであった。当時の政財界にとって、埋め立て事業による阪神間の商工両面での発展が、第一次世界大戦後の国際収支不均衡と不況の重要な打開策であったのだ。

 同社が最初に請け負ったのが、1930年(昭和5年)から開始された川西航空機鳴尾工場の敷地地上げ工事だった。海軍の指定を受けた川西航空機株式会社の工場では、海軍戦闘機を生産することになった。川西航空機は、ゴルフ場だった敷地のうち24万平方メートルを購入し、本社工場の建設に着手したのだ。鳴尾村鳴尾字大東一番地に完成した鉄骨造りの工場は、巨大な白亜の建築物であった。これを契機に甲子園球場付近は次第に軍需工業地域としての性格を帯びていったという。現在の浜甲子園団地と武庫川団地の間を流れる鳴尾川という川がある。川の東側に川西航空機株式会社の鳴尾工場が存在し、西側には、海軍飛行場が存在したのだ。

 1932年(昭和7年)、陸軍・海軍が軍用機の国内開発と生産力増強政策を発表したことを受けて川西航空機は、設計技術力を駆使して軍の注文に応じていった。1938年(昭和13年)9月、同社は海軍管理工場になり、国策企業として管理されることになった。鳴尾ゴルフ倶楽部が使ってきた土地も海軍からの生産力拡充命令に従って買収された。1939年(昭和14年)、同社はゴルフ場など隣接する土地約11万5000平方メートルを敷地に加えて、拡張工事を行った。

 このころ、国策にのっとって重化学工業などの企業が、鳴尾村に工場を建設していった。資料によると、1937年(昭和12年)当時の村内企業は、川西航空機株式会社のほか、黒鉛を用いて電極をつくる昭和電極株式会社、皮革の代用となるボール紙状の素材を作る日本ファイバー製造株式会社、諸鉱石の分析や製錬の研究を目的とする石原産業海運株式会社武庫川研究所、メリヤス肌着を作り海外に輸出していた村岸メリヤス株式会社武庫川工場、カメラを製造した千代田化学精工株式会社武庫川工場、豊年製油株式会社鳴尾工場、株式会社甲子園ホテル、阪神築港株式会社鳴尾工場、三和商事株式会社、合資会社島田ゴム製造所、合資会社大阪フェルト工業所鳴尾工場、鳴尾ジャム製造株式会社である。千代田化学精工株式会社は、さらに昭和14年に武庫川工場の西方に小松工場を建て、陸海軍指定工場として双眼鏡や戦闘機の射撃用照準機を制作した。

 村民にとって、それらの工場は、地域に生まれた新しい就職口と受け止めたようだ。だが、社会全体から見ると、地元で製造される化学製品やカメラや戦闘機など、鳴尾村で生産される品々が、社会から注目を集めるものばかりだった。

 1940年(昭和15年)、大政翼賛会とともに大日本産業報国会も結成された。川西航空機は、本社工場の拡張に続いて、甲南製作所(現・神戸市東灘区)と宝塚製作所を新設。さらに、姫路製作所、福知山工場も設立した。生産拡充には、従業員確保が不可欠であった。兵役体制強化のために、労働力の補充は極めて困難な状況にあった。工場拡張に伴い、川西航空機は鳴尾村から宝塚を含む地域で大きな存在となった。国家資金総動員法により同社には銀行からの強制融資も可能となり、寮、社宅など施設になりうる建物は次々と買収した。

 このような状況の中で、国民徴用令が発令された。全国での適用第一号は、開戦直前の1941年(昭和16年)から行われた川西航空機の従業員徴用だった。統制令により従来の職業から無理やり転職させられた人々も多かった。技術力の向上、熟練を使命とする生産現場において、数だけに頼った動員方法がもたらす混乱と非合理性は計り知れないものだった。しかし、人員増強は、工場規模の拡張とともに、繰り返し行われたという。

 川西航空機の企業としての歩みと、そこで働いた人々の仕事を克明に描いた小説「零からの栄光」(城山三郎著)には、鳴尾工場についてつぎのように記されている。

「大相撲の力士も、力道山など30余人が来て、重量物運搬に従事した。藤村富美男、呉昌征(ごしょうせい)、景浦将(かげうらまさる)、若林忠志、天保義夫、中谷準志など、阪神・阪急の野球選手たちも動員されてきた。選手たちは、朝はトレーニング代りに、駈足で武庫川堤を工場へやってくる。作業は「紫電」関係で、鋼板を折り曲げたり、リベット打ちなど、毎日のように変わった。『野球しかやっていなかったから、リベット打ちなど、たのしくて仕方がなかった。職場へは、軍艦マーチなどとともに常にニュースが流され、敵艦を沈めた報せなどがあると、自分たちも戦闘に参加しているんだと言った戦慄感があり、バンザイを叫んだり、喜んだりしたものだ』。リーダー格であった藤村氏の思い出である。『監督官や憲兵など軍人がいばっていて、よく巡回してきた。おもしろくなかったが、鳴尾飛行場から爆音が聞こえるたびに、また一つ飛んで行ったな、という感慨があった』と、かつての強打者・呉氏も思い出す」

 戦後「空手チョップ」で一世を風靡したプロレスラー力道山も、この頃は、大相撲二所ノ関部屋の力士であった。当時、部屋を率いていた親方は、尼崎市に拠点を置いて、力士らとともに工場での労働に従事しながら部屋を維持していたという。

 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍によるハワイ・真珠湾への攻撃が行われた。日本は、アメリカ海軍基地を攻撃し、アメリカ・イギリスを中心とする連合国軍との間で戦争を開始したのだ。戦争の長期化を予測した日本は、事態の打開を図るために、日本、ドイツ、イタリアで3国同盟を結んで対米英戦へ突き進んだ。このような国際状況にともない、国内の戦時体制が強化されていった。川西航空機の労働状況は、さらに過酷になった。増産体制が強化され工場も増設される中で、各地から徴用され鳴尾村にやってくる人々が多くいた。川西航空機全体の総従業員数は昭和5年の時点で352名だったものが、1944年(昭和19年)には、6万人を超える数になった。

 一般の村民は、「急に地域の雰囲気が変わった感じがした。近所の細い道で知らない顔に出会うこと増えた」と感じていた。従来、鳴尾は他所からやって来る人への排他性は薄く、開放性の強い土地柄であった。だが、あまりにも多くの人が一度に村にやってきたので、驚いたのだ。他所からやってきた人々は、工場周辺の各集落に住みつき、食堂、散髪屋、風呂屋に顔を出すようになったという。他所からやってきた人とは、北朝鮮から強制的に連行されてきた人々だったに違いない。北朝鮮の人々が、地元商業に与えた影響は大きかった。笠屋地区に生まれた商店街も、最初は地元村民が、タバコ屋、パン屋、菓子屋など数店の店を作ったのがきっかけだった。瞬く間に店が増え、村内の他の集落からも買い物客が来るようになったという。

 海軍局地戦闘機「紫電改」の試作1号機の初飛行は、1944年(昭和19年)1月1日だった。海軍鳴尾飛行場で行われた。同年3月から、川西航空機を中心に工場施設の空襲対策が進められた。軍需省は、同年9月に航空機製造工場の疎開指令を出した。アメリカ軍の爆撃目標になることを見越しての措置であった。川西航空機は疎開本部を設置し、ただちに疎開を開始した。空襲を受けても生産体制が致命的な打撃を受けないよう製造工程を分散し、工場内に従業員のための防空壕をつくるなどした。鳴尾工場の疎開工場として福知山工場が設けられ、山間の防護工事で部品をつくって「紫電改」の製造を継続しようとした。徳島県にも四国工場がつくられた。姫路・甲南・宝塚製作所も疎開工場を設けた。

 1945年(昭和20年)、米軍による制空権の支配が決定的になると、川西航空機は海軍から「紫電改」を短期間に大量生産するよう命じられた。川西航空機の技術陣が製作に心血を注いだ「紫電改」は、四国、九州方面で本土爆撃に来襲する米軍機を相手に戦果を上げた。だが、米軍による終戦間際の空襲で、工場は壊滅し、多くの機体が飛び立つことなく焼失した。甲子園球場内にも分工場があったため、いずれの工場も激しい爆撃の標的となった。目標は2000機であったが、実際に生産されたのは、その5分の1であった。鳴尾工場から退避させ、村内の住宅地などに隠した未完成機も爆撃によって失われた。一般の住宅地が執拗に爆撃されたのは、「紫電改」を村内に分散して隠していたことを、アメリカ軍が熟知していたからだと言われている。【つづく】

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パブリック・ジャーナリスト 新納 直子【 兵庫県 】
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