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公教育の理念と方向性はフランス革命期、コンドルセによっていちおうの完成を見た。その後の民主主義を標榜する社会では障害児に対する教育についてのものを含めて様々な理念が提示されてきたが、基本的にはコンドルセ案に沿った理念と言っても過言ではないだろう。それは、公教育が民主主義を標榜する社会の教育と一見矛盾しないものに変貌していく過程でもあった。その過程で公教育こそ新しい社会にはそぐわないとするルソーの観点は忘れられていくことになる。 しかし、コンドルセ案にも何か不吉な兆しがある。もう一度、フランス革命の牽引役となったミラボーの叫びを思い起こしてみよう。 「この制度によって諸君の建設したものは不滅なものになる。」 ここでミラボーとコンドルセ案の間に微妙な不協和音が奏でられていることが分かる。コンドルセは啓蒙の目的が達成された暁には、公教育は必要がない制度となると唱えていた。じっさいの学校では学校のカリキュラムについていけない子どもが量産されるので、コンドルセのもくろみ通りにはいかないだろう。しかし、少なくともコンドルセには公教育を永続させる意図はなかった。それに対して、ミラボーはフランス革命で作り出された新しい政府を永続させる手段として公教育を捉えていた。ミラボーの目的に沿うならば、公教育もまた永続させなければならないからである。その後、コンドルセ案には修正がかけられていくことになる。 まず、1792年12月のロムの案では知育とともに徳育を導入が図られた。徳育とはロムによれば、「人格を育て心に健全な意欲を刻み込み、感情を抑制し、意志を導いて行動に移させ、精神の理解力を活動させる。さらに徳育は習俗を維持し、行動と思想の良心を法廷に従わせることを教える。」となっている。そして、これを導入することにより、 「公教育はとりわけ祖国への神聖な愛を広めるだろう。祖国愛こそ、すべてを活気づけ統一し、全てを美しくし強化して大きな結合体すべての利益を融和と兄弟愛によって市民に確実に獲得させるだろう。」 としている。当然のことながら、ロム案は国民に単純に道徳を教えることを目的にしているのではなく、それによって祖国愛を植えつけることを目標にしている。いわゆる愛国教育の先駆けとなる考え方である。また、コンドルセ案が行政による教育への介入を拒否したのに対して、ロム案は特に知育に関する分野においては行政府の監督が必要とした。その理由は 「束縛ではなく刺激を与え、教育の抑制ではなく教育を導く監督であり、知性や発見や理性を有効に啓発し、産業に新たな手段を提供する仕方をいっそう適切に選別し、もっと一様かつ迅速に広めるのに役立つ監督である」 としている。優秀者支配による学問の発展を思い描いたコンドルセ案に対して、ロム案は行政による教育権限の奪回を目指した案と見ることができる。 その翌日に出されたラボー・サン=チテエンヌ案においてはついに「国民教育」なる言葉が登場した。あまりよく知られていない案だが、これほど国民教育という教育のあり方をはっきり提示してくれる案はないので、詳細に紹介しておこう。 まず、ラボー案ではコンドルセ案では克服されるべき教育とされたキリスト教の僧侶によって行われた宗教教育の効果に一定の評価が与えられることになる。 「僧侶は誕生の時点から人間を支配した。彼らは幼児期,青年期,壮年期において、結婚や誕生の時点で人間をつかみ、悲しみ、過ち、富、貧困において、その良心の内面において、すべての世俗の行為において、病と死において人間を捉えた。彼らはこのようにして、人々を同じ鋳型の中に投げ込み、同じ意見を与え、習俗や言語や肌の色や身体の造りの異なる多くの民族に対して、山や海による隔たりを超えて、同じ習慣を教え込むことに成功したのである。」 この評価は現代の公共哲学の評価から見ると、案外的を得ている。キリスト教,儒教,仏教,イスラム教など民族を超えた宗教は近代以前においては習俗や文化の異なる国同士が交流するための共通の社交ルールという側面を持っていた。つまり多文化の共存のためには宗教というある種の幻想や虚構が必要とされたのである。ラボーは宗教教育のそのような機能を重視する。そして 「天の名においてわれわれに語る抜け目のない立法者たちよ。お前たちがかくもしばしば誤謬と隷属のためになしてきたことを、われわれが自由と真理のために行うことができないだろうか。」 と語りかける。ちょうど、ルソーの市民宗教と同様、自らの政府を維持するために旧時代に行われていた宗教教育のやり方を応用することが提唱されたのである。これがラボーの言う「国民教育」である。ある意味では国民の思考を画一化するための教育と言ってもいいかもしれない。ラボーは続けて言う。 「この観察から知的な公教育と国民教育を区別しなければならないという結論が出てくる。国民教育は心を鍛えなければならない。公教育は知識を与え、国民教育は美徳を与えなければならない。前者は社会の輝きをなし、後者は社会の内実と力をなすであろう。(中略)両者は姉妹だが、国民教育が姉である。それどころか国民教育は前市民の共通の母である。」 ここで、プラトン以来の公教育論で同一視されて議論されていた公教育と国民教育が明確に区別された。ラボー案の功績は国民教育の重要性を語ったことではなく、この2つを区別して考えたことにある。この結果、公教育は愛国教育とは全く異なる教育理念となり、さらに民主主義社会において理想化されることになった。そして、その後の民主主義を標榜する国の教育においては思想・信条の自由と愛国心の関連をめぐる論争が果てしなく続くことになる。思想・信条の自由の理念を重視する立場から見れば国民教育などは思想,良心の強制であり、学校教育の場で行われるべき教育ではない。それに対して、愛国教育推進論者の立場から言えば、国民のほとんどが現在の民主主義国家の理念を無条件に正しく幸福なあり方だと信じ込んでくれていなければ、民主主義国家そのものが成り立たなくなってしまうということになるだろう。そのことはラボーの以下の言葉によって明確になる。 「すなわち、フランス人を新しい人民たらしめ、その法律と合致した習俗を与え、好ましく魅力的な教育を示し、新しい人民の特徴である幸福な熱狂とともに、自由,平等,友愛−社会の最初の法であり、唯一の幸福であるこの感情を彼らに植え付けなければならない。」 その後もルペンティエ案やプーキエ案(ロベス・ピエール派)などが提出されたが、いずれも政情不安定という環境も手伝って、国民教育重視の傾向が強まっていく。プーキエ案に至っては、反知識人教育の傾向が強まり、知育重視のコンドルセ案は批判の対象となっていった。テミルドールの反動によって、ロベスピエール派が失脚しコンドルセ案は再評価されるようになったが、ここではエリート教育が重視されるようになり、「全ての子どもに教育を」というコンドルセ案の重要理念は消滅してしまうことになる。フランスで全ての子どもに学校教育が行われるようになったのは、日本よりもはるかに遅い時期である。 そして、コンドルセ案以降の教育に関する議論の進展は「話し合いと議論を深めることによって、より優れた結論に辿りつくことができる」という民主主義の理想を大きく裏切っている。じっさいにはそこに革命家たちの権力闘争,利害対立と調整,政治的な意図が絡み合っていくうちに、その理念や価値はむしろ退行していったのである。これらの教育案のうち、現代の民主主義社会で積極的に評価されうるのは最初に出されたコンドルセ案のみである(あくまで、民主主義の観点からの評価ではあるが)。 いちおう、公教育をめぐる理論の変遷についてはここまでにしておこう。次回はこれらのフランス革命期に出された教育案の舞台装置的側面についての考察である。 |
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フランスの公教育にも色んな考え方があり、ナショナリズムを伴う愛国教育を公教育と分離したことで、思想・信条の自由とは教育にとって何かという21世紀の現代にも論じる普遍的テーマが生まれた。 |
ぶじこれきにん 2008/05/13 10:58 |
▼ぶじこれきにんさん |
こうもり 2008/05/14 18:46 |
こうもり氏はわが道を行く。自分の興味あるルソーの公教育論を掘り下げて述べる。知性に疑問を持つアンチインテリ派なんですね。 |
ぶじこれきにん 2008/05/14 19:44 |
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