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(このブログを読んでいる数少ない読者の皆様へ。本日は内容が長くなってしまったため、内容を2つに分けて投稿しています。このコメントはそのうちの後半部分にあたります。SNSからブログにジャンプして読んでいる場合、同じ日にニ連続投稿すると、後半部分しかSNSには記録されない可能性があります。前半部分から読まないと内容がつながってこないので、必ず前半部分からお読みになるようにお願いいたします。) では、コンドルセが考案した国立学術院が管理するものがなんであるのかを明らかにしていこう。結論から言ってしまえば、コンドルセが管理しようとしたものは教育カリキュラムであった。もう少し具体的に言えば、子どもあるいは教育の対象になる大人に何を教えればよく何を教えない方がいいのかの選定である。啓蒙思想家であるコンドルセには「全ての子どもに無償の教育を」という目的の他に以下のような目的が掲げられていた。 「教育を組織して、大多数の人々が社会に必要な職務を果たすことができるようになり、知識の絶え間ない進歩がわれわれの必要を満たすこの上なく豊かな源泉を開き、災厄から救い、個人の幸福と共同の繁栄の手段となるようにすること。 最後に、各世代の肉体的・知的道徳的能力を培い、それによってあらゆる社会制度が向かうべき究極目標である人類の全般的で斬新的な完成に貢献すること こうしたこともまた教育の目標であり社会の共通の利益と人類全体の利益によって公権力に課された義務である」 おそらく、現在の国連の教育に関する取り組みを支持している論者でコンドルセ案に違和感を持つ者がいるとすれば、この部分であろう。コンドルセ案では進歩に対する明るい理想が語られ、その目標を実現するための手段として教育が語られているからである。21世紀初頭を生きる人間たちは進歩に対して明るい希望を見出せなくなっている。しかし、啓蒙思想家であり、進歩の思想家であるコンドルセは進歩に対して現代人よりも楽観的な態度を取っていた。当然、彼が立案した教育カリミュラムにもそれは反映されている。 まず、コンドルセは彼が提示した五段階教育において、それそれの教育内容を以下のように定めている。 (初等学校)読み書き,いくらかの文法知識,算術の四則,土地や建物を測る簡単な方法.地方の産物工芸農業技術の基本的な説明,基本的な道徳観念と規範の説明.社会秩序の原理と説明 (中等学校)技術に必要な数学,博物誌および化学の基礎知識,道徳と社会科学の原理についてのより広範な説明,商業の基礎的講義 (学院)農業,工芸,軍事技術,それほど高度ではない医学知識(職業教育重視) (リセ)教育内容は教授に委ねられる (国立学術院)数理科学,精神・社会科学,数理科学の応用技術,語学・文法・古典・芸術 おおまかに言えば、国立学術院の分類に沿った学問をその段階のレベルに応じて系統的に教えていくと考えればいいだろう。そして、今までも若干説明してきたように、数学,物理学を重視し、古典,宗教教育を基礎教育からは排除する傾向が顕著である。彼が数学,物理学を重視した理由は以下のように説明されている。 「数学と物理学にある種の優位を与えたことにはいくつかの理由がある。まず、長い思索に没頭したことがまったくなく、いかなる種類を深めたことがない人々にとっては、数学と物理学の初歩的な研究でさえ知的能力を発展させ、正しく推論し、諸観念をうまく分析するためのもっとも確実な手段となる。」 「最後にわれわれは、ヨーロッパの人々の一般的な精神的動向がますます熱心に自然科学に向かっていることを考慮に入れた。人類の一連の進歩によって、自然科学の研究は人類の活動に永久に尽きることのない栄養源となっており、社会秩序が完全なものになればなるほど、、野心や貪欲の対象になるものはますます減少するに違いないから、自然科学の研究は今後ますます必要になると、われわれは考えた。」 すなわち、子どもの論理的思考力を育てるのに有意義であること,進歩する社会において自然科学の発展は不可欠であるということが理数系重視の理由であった。その反対に古典については 「今日ではあらゆる偏見は消滅しなければならないのだから、古代人の言語を長期にわたって深く学習すること、つまり彼らが残した著作の購読を必要とするような学習はおそらく有益であるよりも有害であろう。われわれが教育に求めているのは真理を認識させることだが、これらの著作は誤謬に満ちている。われわれは理性を育てようとしているのに、これらの書物は理性をかき乱す。われわれは古代人から遠く隔たっており、真理への道程では彼らよりはるかに進んでいるのだから、すでに完全に整った理性を持っていなければ古代人の貴重な遺産を理性の頽廃ではなく、豊富化に役立てることはできないだろう。」 と学ぶことを禁止してこそいないが、古典学習にあてる時間を減らすことを主張している。特に革命期に出された教育論であることもあるのだろう。革命以前の古典については偏見と誤謬に満ちているとして、学ぶことを歓迎していない傾向さえ見られる。革命にとって、革命以前の思想は克服されるべき存在でしかないのである。宗教教育についてはさらに厳しい姿勢を見せる。 「公教育において一部の市民の子どもを排除して社会的利益の平等を損ねたり、言論の自由に反して特定の教義を優先したりすることは許されない。したがって、道徳をすべての特定の宗教の原理から切り離し、公教育においてはいかなる宗教的信仰の教育を認めないことが必要であった。宗教の原理はその宗教の寺院でそれぞれの聖職者によって教えられるべきである。」 これも読み方によっては宗教と教育の分離を唱えているようにも読み取れるが、別の読み方をすると宗教を旧時代の思想と位置づけ、それを公教育からは排除すると言っているようにも取れる。こうして、コンドルセ案では宗教と宗教が推奨する古典研究には低い地位が与えられるようになった。そして、それに対抗する形で教育の第3段階においては、新しい道徳の教育が主張される。その内容は一言で言えば、市民として守るべき法律の遵守であろう。 「理性が承認した法律に対して理性的に忠誠を尽くすこと、法律が危険を含み、不完全なものであることが分かった時でも市民の義務として法律に従い、表面上は法律を擁護することとを区別しなければならない。法律を愛しながら、しかも法律を裁くことが出来なければならないのである。」 そして、この目標が達成した第4段階以降にはじめて宗教や古典の研究が公教育の場で認められることになる。矛盾したような言い方になってしまうが、自由と平等を守るための思想統制と言ってもいいかもしれない。旧来の思想による進歩的な学問や思想の迫害統制を免れるためには、旧来の学問を統制しなければならないというパラドックスがここには生じてしまっている。宗教や政治が進歩的な学問に対して行う統制には敏感だったコンドルセも、自らが信奉する進歩的な学問が他の学問に対して行う弾圧には意外に無頓着であった。 以上のことから、コンドルセ案でも学術的管理がなくならないことは明らかになった。政府や宗教による学術管理の可能性は減った代わりに、啓蒙思想による学術管理が進行しはじめたのである。しかも、コンドルセ案が教育の対象とする人々はあらゆる階層,世代に及んでいる。つまり、見方を変えればそれまで以上に広い範囲の人々を教育の統制下に置くことができてしまう制度なのである。また、全ての人にコンドルセが教えるべきと見なした学問,価値観を教えることを目標にしているのだから、内容こそ民主主義的であっても、画一化教育に行き着いてしまう。いや、民主主義社会だからこそ、ある発達段階に到達するまでは画一化教育が必要とされるというパラドックスもここには発生してしまっている。 コンドルセ案の検討はこれでおしまいにしよう。次回はコンドルセ以降の革命期のフランス公教育論の進展をたどっていくことにする。むしろ、彼らの主張により公教育の学術管理的側面はより強められていく。 |
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こうもり氏のフランス革命後の公教育の考察は勉強になる。さすがインテリこうもり氏である。 |
ぶじこれきにん 2008/05/13 10:53 |
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