フランス革命期の公教育論の検討を通じて、この時期の啓蒙思想の野望が明らかになった。キリスト教に代わる国民の道徳原理ないしは行動原理となることである。その結果として啓蒙思想はルソーの『エミール』に見られるように教育に対して積極的な提案を行っていく。啓蒙思想自らが理想とする原理を教えることがその目的だが、この目的を実現することによって、啓蒙思想は自らだけは疑われることのない絶対的な権利として君臨することが可能に なる。 そして、いよいよ『エミール』の内容考察に入っていこう。まずは個々の内容に立ち入る前に、全体の見取り図でも描いておこうと思う。まず、教育期間であるが、ルソーは男性の教育に必要とされる年数を25年間とする。大学院に進学し20代後半ぐらいまで学生生活を送る人もいるのが当たり前の現代ならば不思議ではないかもしれないが、当時としては教育期間が異常に長い。そして、この25年間をルソーの言う教師がつきっきりで教育にあたることになる。その間、どの年齢にどのような人と交流するのかも教師によって決定される。 さらに25年間の教育は5段階に分けられる。細部は次回以降に説明するとして、今はそれぞれの段階をルソーがどのように見なし、何を教えるべきと考えたのかを紹介するに留めておこう。第1〜3段階は準備期間と見なされ、 第4〜5段階が教育を行う機関とみなされる。 【第1段階】0歳〜言葉が生まれるまで 今ならば、胎教なんて言葉があるように、子どもへの教育は早くから取り組まれることが多いが、ルソーが生きていた時代の富裕層の親たちはおそろしくこの時期の子どもに対して無関心であった。子どものことは農村で乳母に任せきりという家庭も多かったらしい。それに対して、ルソーは教育上の観点から子どもを都市ではなく農村に移して両親から引き離すことは重要とするが、教師も農村に行き、乳母を監督するものとした。この時期は運動にしても言葉にしても何かを教えるというよりも、人為的に自然な発達を妨げないことに重点が置かれる。 【第2段階】言葉が生まれる〜12際 現代ならば、この時期からの知育が重視されるが、ルソーはこの時期は子どもに理性が芽生えておらず、観念を必要とする教育は不必要かつ有害であると考えた。従って、語学,歴史学,物語,寓話,読み書き,幾何学などはこの時期には学ばれることがない。苦痛に耐えられるように身体を鍛錬すること,模写などを行い、事物の形を正確に 捉える力を養うことなどを重視した。 【第3段階】12〜15歳 この時期も知育の前に対象そのものを示すことを重視した。この段階から少しだけ社会体験学習のようなものが取り入れられ、職人修行(職業体験)にも参加する。ただし、公民のような学習は行わない。 【第4段階】16歳〜20歳 情念と悩みが強くなり、良心が芽生えてくる第2の誕生とされる時期である。この時期から観念を利用した学習が 認められるようになり、寓話,宗教などの学習が開始される。ただし、この時点では「言葉より行動で示せ」「物体から精神を」という言葉に見られるように、具体から抽象へという教育方針は貫かれている。宗教については神によって創られた自然(誰でも経験しうるもの)についての教育は重視されるが、予言や奇跡などの超自然については退けた。 【第5段階】21歳〜25歳 教師の導きによってルソー流の教育を受けた女性ソフィーと出会い、恋愛を経験する。しかし、婚約した後、2年間はソフィーから引き離され、ヨーロッパの政治制度を教えられ、それを探求するための旅に出る。その学習が終わった後、結婚が認められ、教育段階は終了する。 全体を読んでわたしが気がついたルソー教育論の特色をいくつか挙げておこう。第一に民主主義理論家として比較されやすいロックとの違いについてだが、ロックの教育論との明らかな違いは知育に対する考え方であろう。ロックの場合は、幼少期から子どもに対する語りかけを重視し、どちらかと言えば「精神から物体へ(先に知育をしてから観察を行う)」という教育方向を採用している。それに対して、ルソーの場合は具体から抽象へという方向が常に貫かれている。その結果教育の順番は @学習をするために必要な感覚,基礎能力を身につけること A具体的な体験を行うこと B知識を学ぶこと という順番になりがちである。その結果、ルソーの教育論では知育は常に最終段階で学ばれるものとなっている。これはロックが子どもを理性的な存在と見なしていたのに対して、ルソーは少なくとも15歳までは理性的な存在とは見なしていなかったためであろう。この点は小学校段階から発達段階に応じて系統的な知育を行うコンドルセの教育論(現代の教育カリキュラムに近い)とも異なる。最も、単純に現代の教育カリキュラムとは異なるという理由だけで、ルソーを非難することならばできないだろう。確かに現代教育は子どもの体験外のことを大量に学習することによって成り立っているからである。 そういう意味で経験学習重視という点はルソーの教育論の特色と言ってもいいだろう。ただし、その体験は教師によって極めて周到に操作的に行われている点については注意を要する。生徒にとって好ましくない経験や相手を遠ざけ、好ましい経験だけを与えようとする点においてルソーの教育論ほど執拗なものはない。極論することが許されるのであれば、教師の役割は生徒の経験の管理者と言ってもよいぐらいである。そのことは次回以降に詳しく述べていこう。 以上のことを踏まえてルソー教育論の細部を検討していこうと思うが、特に注目をして欲しいのは、ルソーの社会契約論と宗教や教育との関係である。個人主義および自由主義を重視するルソーの社会契約説にあって、なぜ宗教や教育のような内面を統制する装置が必要とされたのか?この点については何度か言及してきたが、まだ核心にはたどり着いていない。特に第4段階以降において、この点について考察をしていきたいと思う。 |
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前回と趣を変えてルソーの教育論の掘り下げですか・・・・・ |
ぶじこれきにん 2008/07/23 18:47 |
はう。正確には、本来探求しているテーマがルソーの教育論であり、フランス公教育の方が寄り道だったんですじゃ。もっとも、前回のコメントが書き終わった後、大急ぎで『エミール』の読み直しをしなければならなかったのですが。 |
こうもり 2008/07/24 21:42 |
ただいま、通信課程のレポート書き、9月に3本ある講演レジュメの作成のためML更新滞り中。しばし待たれよ。 |
こうもり 2008/08/10 09:59 |
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