アブノーマライゼーションへの道(by こうもり)

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help リーダーに追加 RSS 【第1空間】規範と状況倫理

<<   作成日時 : 2007/01/31 07:55   >>

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そろそろ、復活に向けて気合を入れて書き始めるとしよう。

以前、このブログでコミュニケーション・ルールというテーマを扱ったことがある。自閉当事者にとって扱いやすい対人ルールを扱ったのだが、以下のような基本ルールを取り扱った。

@ルールは条項が少なく、細かくなりすぎないこと(簡素であること)
A内容,目的ともに理解がしやすく、暗黙の了解を必要としないこと(明快であること)
B厳格すぎず、誰でも実践できるルールであること(実現可能性)
Cルールの目的そのものが正しいこと(目的の正しさ)

そして、その後色々本を読んでいるうちに、日本社会の思わぬ側面に光を当てていることが分かってきたので、そのことでも補足しておこう。参考文献は広井良典『持続可能な福祉社会』(ちくま新書)。自閉人同士の間で話題になりやすい社会性の問題を考える上でも非常に重要な手がかりとなる可能性を秘めている。

ちょっと前に「場の空気が読めていない若者が増えている」という意見が、企業幹部の意見として紹介された。そして、一般的に自閉スペクトラム障害とされる当事者は暗黙の了解を飲み込むのは苦手とされているから、複数の当事者が「自分もそう思われているのではないか」と不安になっていた。「場の空気を読めていない」ということと「自閉における社会性の障害」を完全に同一視してはならないが、「場の空気を読む」を求める風潮が自閉当事者の社会参加の障壁となっていることだけは確かである。「場の空気を読む」は広井氏の言葉で言えば、「個々の場面ごとの関係の調整」ということになるだろう。相手,場面に応じて態度,関わり方を変えていくコミュニケーションと言ってもよいだろう。例えば、子どもの世界で言えば、学校の先生は子どもに対して「他の子が悪いことをしたら注意するのが親切です」「困ったことをする子がいたら先生に言いなさい」と子どもたちに語るかもしれない。しかし、子どもたちは特に小学校高学年になると、本当にその指示に従うことはめったになくなる。むしろ、子ども同士の世界にある暗黙のルール「先生にチクるのはよくないことだ」「先生みたいに注意してくる同級生はウザイ」という状況倫理に従って行動するようになる。例外的に自閉児はこのような状況倫理の使い分けをしないので、学級内で浮いてしまうことがあるのだが。企業なども似たようなものだろう。大企業の不祥事はよくニュースになるが、騒ぎの張本人は自分が法律を違反していることや公共のルールに違反していることを知らない訳ではない。ただ、企業内の自己防衛論理(多少の不正があっても、「どこでもあることだ」と言って騒ぎ立てない,見て知らぬふりをする、外部にもらさない)を守っているだけである。このような「個々の場面ごとの関係の調整」(状況倫理と言い換えてもよい)は確かに自閉人の苦手とするところであろう。状況倫理にはその人がどのように行動すればよいのかの明確な基準がないあまりにもケースバイケースなルールだからである。この関係には非言語的要素が強く、集団が内側に閉じる閉鎖的な関係性においては有効だが、ある規模を超えると有効には機能しなくなる。また、なじみのある者同士の関係ならばよいが、なじみのない他者との関係(異なる文化を持つ者,異なる世界を持つ者)との関係性は未成熟になる。さらに、明確な禁止や規範がない代わりに「個々の場面ごとの関係の調整」(目に見えない多くの微細な拘束が存在するようなあり方)は非常に窮屈なものになってしまう。(以上、広井氏の要約)

このような状況の中で多くの自閉当事者は状況倫理への順応を目指してしまう。「個々の場面ごとの関係の調整」に慣れようと努力するのだが、その努力はたいていの場合破綻してしまうだろう。明らかに自閉人のあり方にそぐわないからである。また、このような社会状況が閉塞状況を生み出しており、別によい状態ではないということにも留意しておく必要があるだろう。

むしろ、広井氏がこのような状況を打破するために提示している解決策に目を向けてみよう。
広井氏が提示しているのは普遍的な規範の確立である。こういうと不思議に思われるかもしれないが、コミュニケーションにおける「個々の場面による関係の調整」の占める比重が大きい日本社会においては意外に普遍的な規範は存在しないのである。しつけ教育論などで過去の日本にはしっかりした規範があったというようなことを語る論者も多いが、おそらくフィクションであろう。そんなものははじめからなく、状況倫理によって動いていたというのが正しいところであろう。規範が状況倫理と異なっている点は

・言語的で明確であるため「なじみのない他者」にも理解しやすい(状況倫理は非言語的で暗黙の了解が多い)
・規範とされている部分は遵守しなければならない代わりに、それ以外は個人の自由の領域として明確に確保される(状況倫理は明確な禁止がない代わりにあらゆる領域を拘束する)

といった点である。どちらも人間の行動,関係をある一定拘束するものではあるのだが、状況倫理と規範のうちどちらが自閉人の肌に合うだろうか?おそらく、自閉の特性を知る人ならば後者の規範であると答えるだろう。現実的に考えても、自閉当事者が学ぶことが可能なコミュニケーション・ルールは規範である。

近年の自閉人支援の傾向として、規範を教えても実際の生活場面で応用が利かないため、より実践的な状況倫理を含むようなソーシャル・スキルを学ばせた方がいいのではないかという論調もある。わたしから言わせれば、その方が余計うまくいかないだろうと思う。それよりも日本の社会の中に普遍的な規範(政治的規範ではない)を作り出し、その規範を遵守している限りはそれ以上干渉はされないという形の方がよほどすっきりする。そしてどうやらこのやり方は冒頭で紹介した我流コミュニケーション・ルールにも通じるようである。

社会性と言った時に状況倫理(場面ごとの関係調整)と規範(普遍的なルール)が混同された議論が多く見受けられる昨今なので、補足的にコメントしておいた。以上

(次回よりいよいよ、第2空間の準備的内容に入ります)

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コメント(21件)

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田舎猫
2007/02/01 22:55
田舎猫さん:

ちょうど今回扱ったようなテーマを倫理学の世界では規範倫理(ドイツのキリスト教,カント,ヘーゲルなどの流れを汲む)といいます。わたし自身がよく扱う分野ではないのですが、どうも自閉人には規範倫理が1番相性がいいということははっきりしてきました。少なくとも教育場面においては規範倫理から出発していくのが、正しいでしょうね。将来的に、本人がどのような方向に思考を昇華させていくかは別にしても。
こうもり
2007/02/02 00:39
多分だけど・・・(この本読んでない)
広井さんが言っているのは、
普遍的な規範の「確立」であって状況倫理の「(完全)撤廃」ではないと思う。(そこを勘違いしてはいけないと・・・)
自閉人である人にとっては、普遍的な規範「だけ」の方が生きやすいしわかりやすいと思う。しかしそれ以外の人(特に日本人)にとっては、状況倫理で判断する方がはるかに安易で心身共に負担が少なく効率的である場面がそれなりにあると思う。

自閉人とそうでない人がどこで折り合いをつけるかかも。

ただし、仕事などの公的な場は、可能な限り
@ルールは条項が少なく、細かくなりすぎないこと(簡素であること)
A内容,目的ともに理解がしやすく、暗黙の了解を必要としないこと(明快であること)
B厳格すぎず、誰でも実践できるルールであること(実現可能性)
Cルールの目的そのものが正しいこと(目的の正しさ)
であるべきだと思います。
Route S.T
2007/02/02 01:13
あと、

>規範を教えても実際の生活場面で応用が利かないため、より実践的な状況倫理を含むようなソーシャル・スキルを学ばせた方がいいのではないかという論調もある。

は非自閉人が自閉人に負担を押し付けすぎだし
@ルールは条項が少なく、細かくなりすぎないこと(簡素であること)
A内容,目的ともに理解がしやすく、暗黙の了解を必要としないこと(明快であること)
B厳格すぎず、誰でも実践できるルールであること(実現可能性)
Cルールの目的そのものが正しいこと(目的の正しさ)

とも矛盾し、誰もが社会参加しやすいような環境設定からも間違った方向だと私は思います。
Route S.T
2007/02/02 01:24
STさん:

まずは広井氏の論の確認からです。もちろん、広井氏は完全撤廃を主張している訳ではないと思います。しかし、やはり肯定的に捉えている訳ではないと思われます。基本的にはこんな要旨だった、と。

「小規模な閉じられた社会では状況倫理は有効に機能するが、ある一定の規模を超え、外部との交流(具体的には外国人か)が多い社会ではむしろ弊害が大きくなる。よって、日本人には極めて苦手な課題だが、全ての人に公開された(開かれた)普遍的な規範の確立が必要なのだ」と。
こうもり
2007/02/02 02:31
次に規範の範囲について。

例えば、人間社会に原初的にできた規範としては儒教やキリスト教などが挙げられます。広井氏によればこれらも異民族,部族,異なる文化背景を持つ人々がやりとりする時の共有ルールとして出来上がったものとされております。ただし、古代宗教の規範の問題点はあまりにもその扱う範囲が広すぎたこと。今で言えば私的なことにまでくちばしを入れてしまうところがありました。そこで、ルソーの民主主義理論以降の規範は公共場面の規範のみを扱い、公共場面以外の人間関係のあり方にはあまり介入しないという態度を取った訳です。

もちろん、ルソー以降の規範も家庭内暴力や虐待のような問題に対処できないという問題はあるのですが、基本的にはわたしも規範は公共場面でのみ通用するものと理解しております。(広井氏がこの辺りのことに言及している訳ではありません)
こうもり
2007/02/02 02:40
その上で、公共圏(労働,学校など)ではできるだけ全ての人に公開され、理解や実行の容易な規範を中心に動いていくというのがわたしの意見ということになります。言うなれば公共的な場ほど文化,世界観の異なる人が容易に参加しやすい設計が必要だという話です。たぶん、この点についてSTさんとわたしの見解は近いと思います。
こうもり
2007/02/02 02:46
ところが、近年俗流社会性などで行われている議論はそうじゃなくなっているんです。人間関係の複雑化に対応して、さらに複雑な状況倫理を自閉人に学ばせた方がいいんじゃないかという話もちらほら。

こと自閉児教育に関して言えば、これほど有害なことはないのではないか、と。彼らが学ぶことは開かれた規範の範囲を超えてはならないし、そこまで身につけば、それで十分と考えます。
こうもり
2007/02/02 02:59
なるほどです。
私の以前の精神科の主治医は、規範を決める事、守る事のみ確認しました。
私が、通常の社会生活、特に仕事においては他者と軋轢や衝突があるのではないかと問いかけると、
軋轢や衝突はあるのです。
それでいいのです。
と、はっきりと断言しました。
おかげで、かなり気持ちが楽になりました。
ただ、仕事や生活基盤が危うくなった時の公的支援は必要ですが。
終末
2007/02/02 18:40
終末さん:

ある意味では自閉人これでいくしかないと思うのです。色々な価値観,雑音に振り回されなくなるのが、理想の境地かな、と。

言うなれば自分のスタイルを確立してしまうというのがいいかと思います。
こうもり
2007/02/02 23:51
こんにちは。診断結果が出まして、お仲間でした。
今回のネタにしても、自分のことも、アスペルガー症候群や他の障害一般についてもそうですけど、なんだかやっぱり青い芝の会が言ったことって、かなり重要なことの感じがしています。
最近、これから大学を卒業して養護学校の先生になるという方と、自閉症児の教育についてディスカッションしました。その人は障害者教育の専門のコースで勉強なさって熱心な方なのですが、障害者運動や障害学の歴史についての基本的情報をまったくお持ちでなかったのですよ。「なんだかな〜。あんた、自分の専門分野について素人に講義されるなんて恥と知れ、恥と。」と、喉元まで出そうになって、結局一部出てしまいました(笑)。

では、これから始まる第2空間の話を楽しみに待ってます。
捨松
2007/02/03 00:14
捨松さん:

診断おめでとう(?)ございます。今後ともよろしくお願いいたします。

確かに障害者運動,障害学とLD,ADHD,HFAの歴史はひどく断絶していますよね。LD,ADHD,HFA支援の取り組みが日本で本格化した1990年代には、障害者運動の源流と言える反差別運動は既に下火になっておりました。まあ、わずかながら両者に連続性のあるわたしの役割の1つはこの断絶を埋めていくことでしょうにゃ〜。(自伝的文章参照)

青い芝の会の影響は間接的ながらわたしにも強い影響を与えております。社会参加が実現できずに社会,健常者社会に憧れを強めていく当事者たちに「それは幻想だ」と語った彼ら。その後の流れを見ていると、だから社会環境を改善していこうという動きと社会に背を向ける動きに分かれていますが、やはりどちらの源流とも言えるでしょうね。
こうもり
2007/02/03 21:58
あ、ありがとうございます(笑)。こちらこそよろしくお願いします。
小学生の頃から「どうやら他の人と自分とでは見た目は似たようでも中身はずいぶん違うメカニズムで動いてるのかも…」なんて考えてきたので、半分スッキリ、半分これからどうしよう、って感じです。

断絶… そうですね、ほんと。
障害者関連に限らず(日本の)社会思想一般がそうなのかもしれませんけど、何十年も前に決着してる話をなんで今わざわざもう一回? っていうところ、ありますよね。「またふりだしからかよ〜」みたいな…
捨松
2007/02/03 23:59
独り言。

しかし、自分が言ったことが正しいかどうかはともかくとしても規範と状況倫理の区別は重要かもしれない。というのは、欧米のマイノリティー運動がある意味でははっきりとした伝統的な価値観や偏見などを相手に格闘するのに対して、日本のマイノリティー運動は戦う相手がはっきりしない。もちろん、規範や偏見と戦うこともあるのだが、基本的には「そうは言っても現実には・・・」というタイプの状況倫理的な価値観とも格闘を続けなければならない。いや、正確に言えば、状況倫理にいかに飲み込まれないようにするのかが重要な鍵だったりするのだ。難しいにゃ〜。
こうもり
2007/02/06 09:57
さらに重要なこと。

では、規範が確立したとして、その内容が明らかに納得できないものを含んでいる場合はどうするのか?もちろん、そういう場合もあるだろう。しかし、わたしはそれでいいとも思うのだ。そのことによって本人が許容しがたい規範や価値観,受け入れがたいルールが何であるのかもはっきりしたのだから。価値創造には自分が対立する価値観が何なのかはっきりしていることも大切なのである。

こうもり
2007/02/11 20:16
 自閉人をプラスの視点で考えればクリアーな透明的目に見える環境を志向している。それが閉塞感を打開している。
 先月支援センターの聞き取り調査で状況倫理を読む自閉人がモテやされた。彼はどうやって状況倫理を読み状況倫理を読むことで不正を黙認する企業風土で通用したのかわれわれに教えてくれない。
 目に見えない決まりを守る事で村社会の安定を保つ。自閉人はアウトサイダーである。状況倫理を読む彼にして作業所に通所している。
 状況倫理を読む企業社会の壁は厚いのに、それが礼賛される支援者達は、状況倫理が読めない人にどう支援するのか考えない。彼ら自体が村社会で育っているから、アウトサイダー自閉人をどうすべきかという視点が抜けているから・・・・・・・・こうもり氏の意見に同感である。
状況倫理を読む自閉人がもてはやされる。
2007/12/06 16:55
空気という場の状況倫理がもてはやされると個性ある発言、本音は言えない。建前のみ言う。万人受けする発言のみがもてはやされる。
 空気が読めない有名人のコメントを集めた雑誌を買ってみた。本音、ユニークな発言、断定した物の言い方、自分の願望、傲慢な発言が場にそぐわないというだけでばっさり斬られる。
 空気ファシズムに日本は汚染されている。
自閉人には透明なルール、公正なルールで運営される企業社会であれば社会に参加できるのではないか?????
 目に見えない決まりより、目に見える決まりごとのほうが自閉人も生きやすいだろう。KYを読むのは相手の気持ちになりにくい自閉人の苦手とするところだ。こうもり氏の指摘は空気を読むから閉塞感に陥いる日本社会を浄化するには、空気を読まないわれわれが社会に参加して換気をよくしていくことが大事なのではないか。
 SNSのような閉鎖的ネットワークは空気を読む日本社会が作り出したネット空間だろう。
 女子高生ら若者ももKYというからその手の淀んだ空気に染まりがちで、異論を言う事で換気をよくしようとは思わない。隠語を言う仲間意識に染まる。

 
ぶじこれきにん
2007/12/10 19:54
空気を読まないわれわれはもっと自信を持っていいのでは???ないか。
 空気が読めて状況の倫理、規範が読めたから定型が心を開き、仲間に入れてくれるのか???こうもり状態に何の変化もない。
 先ほどわかりにくい表現があった。空気が読めるから閉塞感のある日本社会に風穴を開けるには、空気を読まないわれわれが浄化して換気を浴していくべきだ。定型だってすべての人が場の空気を読める達人ばかりいるわけじゃない。その場の空気を読んでいくことはそんなに大事か???
 若者も空気読む同質性の空間で異世代に理解できない自分達のみの隠語を言う事でお互いの仲間意識を確認する。SNSという閉鎖的空間でネット参加者は解放されない閉じた空間でコミニュケーションをする。
 空気読まなく手もいい。これが結論である。
ぶじこれきにん
2007/12/10 20:54
どうもご意見ありがとうございました。

空気が読めないを非難する論調が強くなっていますね。しかし、本当は社会を運営するのに空気を読むに頼りすぎること自体がよくないことなんですよね。こと仕事に関しては規範中心の社会になってほしいものです
こうもり
2007/12/12 14:29
拙論への返信、年末ご多忙なのにありがとうございました。
 空気を読まないのをまじめにやる人を若者言葉でMKY、あえて空気を読まない人をAKYというそうです。空気の読めないわれわれアスペルガーに不利な状況になりつつある。
 仕事でも空気の読むことがビジネスに欠かせない。マニュアル本まで出る始末。規範、(たとえば日本国憲法のような国家のルール)中心のビジネス社会になるとわれわれも働きやすく、生きていける。
 現実はその思いと違い遠ざかっていく。若い世代ほど、空気を読む同質性の垢に染まりがち。あげくは女の子に好かれるには空気を読むことが大事。
 人間関係・仕事で空気を読むことがもてはやされて、しない人を非難されて私は肩身が狭い思いをしている。(すべてのアスペルガーの人は空気を読む努力が仕事に欠かせないと思い、無理な努力を重ねてあえいでいる。)こういう状況は良くないですね。同感です。
ぶじこれきにん
2007/12/25 18:57
そう言えば最近KY(空気が読めない)という言葉が流行っていますね。本当は空気を読めじゃなく、何をやればいいのかを明確にせよが正しいあり方なのですが。
こうもり
2007/12/27 03:37

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