そろそろ、復活に向けて気合を入れて書き始めるとしよう。 以前、このブログでコミュニケーション・ルールというテーマを扱ったことがある。自閉当事者にとって扱いやすい対人ルールを扱ったのだが、以下のような基本ルールを取り扱った。 @ルールは条項が少なく、細かくなりすぎないこと(簡素であること) A内容,目的ともに理解がしやすく、暗黙の了解を必要としないこと(明快であること) B厳格すぎず、誰でも実践できるルールであること(実現可能性) Cルールの目的そのものが正しいこと(目的の正しさ) そして、その後色々本を読んでいるうちに、日本社会の思わぬ側面に光を当てていることが分かってきたので、そのことでも補足しておこう。参考文献は広井良典『持続可能な福祉社会』(ちくま新書)。自閉人同士の間で話題になりやすい社会性の問題を考える上でも非常に重要な手がかりとなる可能性を秘めている。 ちょっと前に「場の空気が読めていない若者が増えている」という意見が、企業幹部の意見として紹介された。そして、一般的に自閉スペクトラム障害とされる当事者は暗黙の了解を飲み込むのは苦手とされているから、複数の当事者が「自分もそう思われているのではないか」と不安になっていた。「場の空気を読めていない」ということと「自閉における社会性の障害」を完全に同一視してはならないが、「場の空気を読む」を求める風潮が自閉当事者の社会参加の障壁となっていることだけは確かである。「場の空気を読む」は広井氏の言葉で言えば、「個々の場面ごとの関係の調整」ということになるだろう。相手,場面に応じて態度,関わり方を変えていくコミュニケーションと言ってもよいだろう。例えば、子どもの世界で言えば、学校の先生は子どもに対して「他の子が悪いことをしたら注意するのが親切です」「困ったことをする子がいたら先生に言いなさい」と子どもたちに語るかもしれない。しかし、子どもたちは特に小学校高学年になると、本当にその指示に従うことはめったになくなる。むしろ、子ども同士の世界にある暗黙のルール「先生にチクるのはよくないことだ」「先生みたいに注意してくる同級生はウザイ」という状況倫理に従って行動するようになる。例外的に自閉児はこのような状況倫理の使い分けをしないので、学級内で浮いてしまうことがあるのだが。企業なども似たようなものだろう。大企業の不祥事はよくニュースになるが、騒ぎの張本人は自分が法律を違反していることや公共のルールに違反していることを知らない訳ではない。ただ、企業内の自己防衛論理(多少の不正があっても、「どこでもあることだ」と言って騒ぎ立てない,見て知らぬふりをする、外部にもらさない)を守っているだけである。このような「個々の場面ごとの関係の調整」(状況倫理と言い換えてもよい)は確かに自閉人の苦手とするところであろう。状況倫理にはその人がどのように行動すればよいのかの明確な基準がないあまりにもケースバイケースなルールだからである。この関係には非言語的要素が強く、集団が内側に閉じる閉鎖的な関係性においては有効だが、ある規模を超えると有効には機能しなくなる。また、なじみのある者同士の関係ならばよいが、なじみのない他者との関係(異なる文化を持つ者,異なる世界を持つ者)との関係性は未成熟になる。さらに、明確な禁止や規範がない代わりに「個々の場面ごとの関係の調整」(目に見えない多くの微細な拘束が存在するようなあり方)は非常に窮屈なものになってしまう。(以上、広井氏の要約) このような状況の中で多くの自閉当事者は状況倫理への順応を目指してしまう。「個々の場面ごとの関係の調整」に慣れようと努力するのだが、その努力はたいていの場合破綻してしまうだろう。明らかに自閉人のあり方にそぐわないからである。また、このような社会状況が閉塞状況を生み出しており、別によい状態ではないということにも留意しておく必要があるだろう。 むしろ、広井氏がこのような状況を打破するために提示している解決策に目を向けてみよう。 広井氏が提示しているのは普遍的な規範の確立である。こういうと不思議に思われるかもしれないが、コミュニケーションにおける「個々の場面による関係の調整」の占める比重が大きい日本社会においては意外に普遍的な規範は存在しないのである。しつけ教育論などで過去の日本にはしっかりした規範があったというようなことを語る論者も多いが、おそらくフィクションであろう。そんなものははじめからなく、状況倫理によって動いていたというのが正しいところであろう。規範が状況倫理と異なっている点は ・言語的で明確であるため「なじみのない他者」にも理解しやすい(状況倫理は非言語的で暗黙の了解が多い) ・規範とされている部分は遵守しなければならない代わりに、それ以外は個人の自由の領域として明確に確保される(状況倫理は明確な禁止がない代わりにあらゆる領域を拘束する) といった点である。どちらも人間の行動,関係をある一定拘束するものではあるのだが、状況倫理と規範のうちどちらが自閉人の肌に合うだろうか?おそらく、自閉の特性を知る人ならば後者の規範であると答えるだろう。現実的に考えても、自閉当事者が学ぶことが可能なコミュニケーション・ルールは規範である。 近年の自閉人支援の傾向として、規範を教えても実際の生活場面で応用が利かないため、より実践的な状況倫理を含むようなソーシャル・スキルを学ばせた方がいいのではないかという論調もある。わたしから言わせれば、その方が余計うまくいかないだろうと思う。それよりも日本の社会の中に普遍的な規範(政治的規範ではない)を作り出し、その規範を遵守している限りはそれ以上干渉はされないという形の方がよほどすっきりする。そしてどうやらこのやり方は冒頭で紹介した我流コミュニケーション・ルールにも通じるようである。 社会性と言った時に状況倫理(場面ごとの関係調整)と規範(普遍的なルール)が混同された議論が多く見受けられる昨今なので、補足的にコメントしておいた。以上 (次回よりいよいよ、第2空間の準備的内容に入ります) |
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タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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内 容 | ニックネーム/日時 |
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この記事には100%同意します。 |
田舎猫 2007/02/01 22:55 |
田舎猫さん: |
こうもり 2007/02/02 00:39 |
多分だけど・・・(この本読んでない) |
Route S.T 2007/02/02 01:13 |
あと、 |
Route S.T 2007/02/02 01:24 |
STさん: |
こうもり 2007/02/02 02:31 |
次に規範の範囲について。 |
こうもり 2007/02/02 02:40 |
その上で、公共圏(労働,学校など)ではできるだけ全ての人に公開され、理解や実行の容易な規範を中心に動いていくというのがわたしの意見ということになります。言うなれば公共的な場ほど文化,世界観の異なる人が容易に参加しやすい設計が必要だという話です。たぶん、この点についてSTさんとわたしの見解は近いと思います。 |
こうもり 2007/02/02 02:46 |
ところが、近年俗流社会性などで行われている議論はそうじゃなくなっているんです。人間関係の複雑化に対応して、さらに複雑な状況倫理を自閉人に学ばせた方がいいんじゃないかという話もちらほら。 |
こうもり 2007/02/02 02:59 |
なるほどです。 |
終末 2007/02/02 18:40 |
終末さん: |
こうもり 2007/02/02 23:51 |
こんにちは。診断結果が出まして、お仲間でした。 |
捨松 2007/02/03 00:14 |
捨松さん: |
こうもり 2007/02/03 21:58 |
あ、ありがとうございます(笑)。こちらこそよろしくお願いします。 |
捨松 2007/02/03 23:59 |
独り言。 |
こうもり 2007/02/06 09:57 |
さらに重要なこと。 |
こうもり 2007/02/11 20:16 |
自閉人をプラスの視点で考えればクリアーな透明的目に見える環境を志向している。それが閉塞感を打開している。 |
状況倫理を読む自閉人がもてはやされる。 2007/12/06 16:55 |
空気という場の状況倫理がもてはやされると個性ある発言、本音は言えない。建前のみ言う。万人受けする発言のみがもてはやされる。 |
ぶじこれきにん 2007/12/10 19:54 |
空気を読まないわれわれはもっと自信を持っていいのでは???ないか。 |
ぶじこれきにん 2007/12/10 20:54 |
どうもご意見ありがとうございました。 |
こうもり 2007/12/12 14:29 |
拙論への返信、年末ご多忙なのにありがとうございました。 |
ぶじこれきにん 2007/12/25 18:57 |
そう言えば最近KY(空気が読めない)という言葉が流行っていますね。本当は空気を読めじゃなく、何をやればいいのかを明確にせよが正しいあり方なのですが。 |
こうもり 2007/12/27 03:37 |
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