有望な怪物論については金子書房から出版したスローランナー本でも、このブログでも何度か取り上げた。しかし、どういう位置づけの理論なのかはあまり話してはこなかったので、もう少し詳しく紹介をしていきたい。そのためにはまずチャールズ・ダーウィンの淘汰説に遡らなければならない。 ある生物種から別の新種が進化するためにはどのようなプロセスが必要なのだろうか。ダーウィンは以下のように考えた。 @まず、変異体が発生する A次に変異体は自然の選択を受け、自然に適応できた者だけが残る B適応した変異体が子孫を残し種が持続していく いわゆる自然淘汰説である。しかし、同時にこれだけを見ても新種が発生するのは非常に難しいことが分かる。もちろん、@についてはそれほど難しくない。変異体(フリークス)はヒトの社会でいくらでも実例を見ることができる。人間社会で障害者や「畸形」と呼ばれるのは要するにヒトの中から生まれてきた変異体なのである。じっさい、ダーウィンは「人間もまた進化の途上にある」と述べており、ヒトがこれからも変異していく可能性も否定していない。ただし、ここで進化という言葉を使うのは適切ではないだろう。いちおう「障害者」であるわたしとしても自分はヒトよりも進化した存在だなどと名乗るつもりはない。ここではあくまで「人間もまた変異の途上にある」と言い換えた方が適切だろう。しかし変異体が生き残る上で最も難関になるのはAとBであろう。ある種の中から発生した変異体は少なくとも母種の間では多くの場合、機能や形態,能力や特性の変化によって母種の持つ生の様式を獲得するのが困難になってしまう。さらに母種の中ではマイノリティーとなるので、迫害のリスクも高くなる。さらに子孫を残すためには複数の交配可能な変異体が生き残り、持続的な生を実現し、そして子孫を安定的に生み出し生き延びさせることに成功しなければならない。特にヒト以外の種においてそれは奇跡と言っても差し支えがないだろう。 なお、若干付け加えておくと、ダーウィンは自然淘汰説をヒトにそのまま適用できると考えていた訳ではない。興味深いことに彼はヒトの場合、道徳を高度に発達させることによって自然淘汰を妨げることに成功していると考えた。このような考え方は現在では群淘汰説と呼ばれ、彼はそこにヒトという種の独自性を見出した。もっとも、道徳の発達が博愛精神を生み出し不良な変異を遂げた障害者などの淘汰も妨げていると考え、具体的ではないが断種政策などを提案したのは余計であった。ダーウィンのおいのゴードンは優生学の祖としてもよく知られる人物であり、進化論は障害者支援の分野では優生学と結びつけられ、極めて忌み嫌われる理論の1つとなっていった。もっとも、そういう面を除いたとしても群淘汰説自体については確かに魅力的な側面があることは間違いない。後のフランスの哲学者ベルクソンも指摘したように、宗教や道徳を創り出すというのは現時点ではヒトだけに見られる特徴であることは確かだからである。アブノーマライゼーションとは一線を画すが、あくまで人間社会での共生を目指す当事者の場合は、共生の道徳(ノーマライゼーション,ユニヴァーサル社会,インクルージョン,人間の安全保障などもその一例)を発達させ普及させていくという戦略をとればいい。少なくとも、わたしが市販本で著している内容はこの戦略に沿って書かれている。しかし、それはこのブログで扱われるべきテーマではない。 話を自然淘汰説に戻そう。しかしながら、ダーウィンは自説についていくつかの説明できない事柄があることを既に理解していた。1つは母種と新種の間をつなぐ中間種の化石があまり見つかっていないという点である。例えば、現在ではヒトの祖先はチンパンジーということになっているが、チンパンジーとヒトの中間に位置するような化石というのは意外にも見つかっていない。当然のことながら、アウストラロピテクス,北京原人,ネアンデルタール人などはヒトの直接の祖先という訳ではない。これについてダーウィンの仮説はやや混乱や矛盾が含まれるが、以下のようになる。 @中間種はそれを生み出した母種か後になってより進化した新種との生存闘争に敗れて短期間で滅亡してしまうため、化石が残りにくい A変異は急激に発生するのではなく、極めて微細な変異が長期間をかけて積み重なっていく(自然は飛躍しない)ので、化石にはその変化は現れにくい。 それぞれについて説明が必要であろう。Aについては20世紀になってもリチャード・ドーキンスとスティーブン・ジェイ・グールドという進化論の有力な論客たちの間でも大きな論争となった。ドーキンスは基本的にダーウィンの説を踏襲しているが、グールドはカンブリア紀の種の爆発という現象の観察から生物はある時期に急激な変異を遂げるが、その後はあまり変異をしない時期が続くと考えた。現在ではダーウィン・ドーキンス説の方が有力であるが、残念ながらわたしにはそれを判断できるだけの力はない。しかし、ヒト世界の障害という現象を見ていると、ついダーウィン・ドーキンス説の方を支持したくはなる。通常化石に残るのは骨格や歯が中心だが、遺伝子の変異などは当然のことながら化石には現れにくい。つまりどの種でも骨格が変化しない程度の変異体というのは、かなり高い確率で生み出されている可能性があると考えられるのである。 一方、@についてはより詳しく述べていく必要がある。ダーウィンの理論の観点に立てば自然は飛躍しないので、ある種から新種が枝分かれしていくためには、母種と新種の間をつなぐ中間種の存在が不可欠である。ダーウィンはこれを「失われた輪(ミッシング・リンク)」と表現したが、「失われた輪」がなければ、新種の発生を引き起こすことはできない。しかも中間種が短期間であれ持続的な生と種の持続を実現しなければ、新種の誕生につながる可能性も少ない。そして、ゴールドシュミットの有望な怪物論というのはまさに中間種がその奇跡をどのように実現していくかについての議論だったと位置づけることができる。 ここで以前からよく引用していたゴールドシュミットの言葉を再度引用しておこう(小泉義之訳)。 (前略)もちろん、大抵の場合には、部分プロセスのシフトは怪物的なもの、ないしは畸形的なもの(monstrosity)を生産することになるだろう。……しかし忘れてはいけないことは、今日において怪物と見えるものが、明日には、特別な仕方で適応する系統の起源になっていくだろうということである。……たしかに発生プロセスシフトが起こる多くのケースは生存不能な結果になっている。……しかし私はこう信じることに反対する理由を見い出すことはできない。すなわち、極めて稀であるにしても、機会に恵まれて、そんな変異体が新しい進化のラインをスタートさせると信ずることだ。 小泉氏はこの説明を以下のように解釈している。 「今まで奇形的と見なされてきたもの、今まで流れて死んでいったものが、発生プロセスを変更することによって、新しい有機体制として生まれて生きて生むことによって起こること」(生殖の哲学参照) もちろん、ゴールドシュミットの有望な怪物論は生物学の有力な定説とは言いがたく、むしろ嘲笑の対象とされてきた。現代でも生命論の観点から見れば極めて魅力的であるが、生物学に影響を与えている議論とはとても言えないだろう。ただし、ある種の中に生まれた怪物的,畸形的な生命こそが新種を生み出すという発想は現在の進化論から見ても傑出していると言ってよい。わたしもここに障害者を人間社会に仲間入りさせようとする思考の支援とは全く異色な発想を感じている。例えば、同じ障害者支援を推進するにしても、群淘汰説に基づくものであれば、「障害者もまたかけがえのないヒトの一員であり、尊重されなければならない」という前提に基づき、障害者が人間社会で共生できる道を模索していくだろう。それに対して有望な怪物論に基づけば、有望な怪物(障害者)に対して人間ができることは有望な怪物が新しい種の起源となっていくことを妨げないこと,むしろ推進していくことが目指されることになる。前回の議論に当てはめるならば、前者は6日目の生命論であるのに対して、後者は8日目の生命論なのである。 こうして、8日目の生命論と有望な怪物論を通じて、脱人間化という新しい思考が誕生した。多くの人間化を目指す思考とは異なり、脱人間化においてはもはや人間らしさの実現を目指すことは究極の目標でも至高の価値でもなくなり、むしろ格闘し乗り越えなければならない思考となってしまう。とりあえず、人間らしい生活を目指したい当事者向けの提言は市販本や講演で続けていった上で、わたし自身は脱人間化を最大のテーマとして今後の思索を続けていきたい。 次回からは「人間らしさの実現」を目指す理念とアブノーマライゼーションの違いがどこにあるのかを論じていこう。最初のテーマとなるのは特に反響が大きかった「人間としての承認」「人権」との対立点である。 |
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内容を一部修正して再公開しました。 |
こうもり 2009/02/21 23:08 |
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ぶじこれきにん 2009/02/24 17:22 |
いへいへ、アブノーマライゼーションを無理やり日本語にすると脱人間化になるという感じです。 |
こうもり 2009/02/24 20:24 |
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