(寒中お見舞い申し上げます。前回述べた通り、アブノーマライゼーションの序論的な内容から再開してみようと思います。) 障害者のための国際人権条約における「障害者の人間としての承認および人権の尊重」,ノーマライゼーションが唱える「人間としての当たり前の生活の実現」,WHOが唱える「人間にふさわしい健康の実現」,ユニヴァーサル社会やインクルージョン社会が唱える「障害のあるなしに関係なく誰もが参加しやすい人間社会の実現」,支援科学(教育,医学,心理学,リハビリテーション学,福祉)が目指す人間にふさわしい立ち振る舞いや行動やスキル,機能の実現。人間の安全保障における恐怖と欠乏からの自由。 一見すると全く異なる体系を持つこれらの支援理念も実はある一つの共通する理念に貫かれていると考えられる。障害者の「人間らしさの実現」。障害者支援の理念は恐ろしいほど、この目標の実現に帰結していく。じっさい、支援提言をしているわたしもまたこれらの理念から全く自由である訳ではなく、例えば人間の安全保障,ユニヴァーサル社会といった理念に束縛され、その影響下にある状態と言ってもよい。 もちろん、これらの理念で納得できる発達障害者ならば、それでよい。そんな当事者に対してこれらの理念に基づく支援は喜んで力を貸してくれるだろう。両者の目的はめでたく一致し、それで何ら問題はない。 しかし、わたしはこれらの理念に基づいて支援提言を行いつつ、どこかで「何かが違う」と叫びたかった。わたしは水頭症の疑いをかけられながら、帝王切開で出産した。出生があと5年早ければ、1970年前後は「不幸な子供を産まないキャンペーン」が都道府県レベルで展開されており、生まれていたかどうかすら分からない。当然、そのことを知ったのは青年期になってからだったが、複雑な気持ちに襲われたことを覚えている。人間社会はその子どもが生まれるまでは、できるだけこの社会に障害のある子どもが生まれてほしくないと願い、産婦人科医による出産前診断,羊水チェック,妊婦への健康指導を行い、生まれてくるのを防ごうとする。しかし、いったん生まれてくると、「この子は神の授かりものだ」「生まれてきてよかった」と、それまでのことがなかったかのように全力で障害者の生を歓迎しようとする。その欺瞞に耐えられなかったわたしは、「人間らしさの実現」という理念に対しても強い疑念を抱いた。そこにも何か許しがたい欺瞞があるのではないかと感じた。他の当事者のために「人間らしさの実現」を目指す支援提言をした場合ですら、自分がその理念に基づいた支援を受けることに対しては強い拒絶感を感じた。もちろん、支援者の中にはこう考える識者もいるだろう。確かに当事者を「人間社会に従順な身体に規律訓練すること」「人間社会に適合ないしは歓迎されやすい身体,機能,行動,立ち振る舞いを押しつけること」ならば問題だろう。しかし、生活条件に関する内容まで否定する必要はないのではないか、と。それでも、やはりわたしは人間らしい生活条件に納得することができなかった。 アブノーマライゼーションはそんなわたしの疑問や問題意識を徹底的に考え抜くために創り出した思考実験装置である。ここでは一切のごまかしなく自分の問題意識に従って問題を考えてみたい。まずは、一番最初に思い浮かんだテーマを羅列してみよう。 @支援者,保護者が人間らしさの実現を目指す感情の根源について −『荘子』の混沌寓話からの考察− A人間としての承認と人権はなぜ問題なのか? −「8日目の生命」を目指して− B当事者理解と知の権力 −フーコー,サイードが残した問題− C人間の生の様式の理想化 −「人間らしい生活」 1月は少し忙しいので、少しずつ書き進めてみようと思う。 |
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ぶじこれきにん 2009/01/05 18:25 |
今年ものんびりと進めてみたいと思います。ではでは |
こうもり 2009/01/07 20:29 |
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