前回予告した通り、アブノーマライゼーションが「人間らしさの実現」を目指す諸価値や理念とどの点において意見が対立するのかを明らかにしておこう。 アブノーマライゼーションは障害者運動などで主張される異文化モデルと混同されやすい。決定的な違いは異文化モデルの場合はあくまで人間という枠組みの中で「人間の多様性」や「異文化の尊重」という主張がなされるのに対して、アブノーマライゼーションの脱人間化はむしろ人間の枠組みを解体しようとする点にある。つまりあくまで人間の内部にとどまるか、人間の外部に飛び出そうとするかの違いである。そして、よく質問されることとしては、アブノーマライゼーションで主張されていることは、異文化モデルの枠組みの中でも充分に実現できることなのではないかという点である。 では、なぜ脱人間化などを唱える必要があったのだろうか。その点について、わたしの考えを述べておこう。最初にテーマとして挙げられるのは人権および人間としての承認である。今まで社会福祉協議会などで精神障害,身体障害,高次脳機能障害の当事者と共演で講演に出させてもらったことがあった。その際に共演者が一様に人間としての承認を訴えていることに、わたしは不思議な違和感を覚えた。もちろん、共演者たちはわたしなどからすれば想像を絶するような過酷な体験をした末に、そのように訴えていたのだと思う。もちろん、次回のテーマになるが、なぜ障害者支援の理念がそのまま当事者が生きる目標,至高の価値になっているのかという疑問も芽生えた。しかし、それは今回の問題ではない。一番はじめに取り上げたいのは、「共演者たちが誰に対して承認を求めているのか」という点にある。 答えは聴衆だということになるが、その聴衆というのはどのような人たちなのだろうか。おそらく、誰からも疑いなく「人間の一員だ」と見なされている人々である。つまり、人権および人間としての承認はそれを求める障害者よりもはるかに広く人間と承認されている人々でなければならないということになる。別の言い方をすれば、人間としての承認を行う者は承認を行うことのできる権力を持つ。同じことが人権についても言えるだろう。天賦人権説(人は生まれながらにして権利を与えられている)という説もあるが、これはいくらなんでも虚構にすぎる。人権もまたそれを承認するための権力を必要とする。そして、その承認が与えられるのは大抵の場合、無条件に人間として承認された人々によって構成される政府でしかありえない。つまり、人間として承認されるということ自体が既に権力性を帯びた関係なのである。 そして、イタリアの思想家ジョルジュ・アガンベンはこう考えた。人権および人間としての承認をできる権力は同時にどんな人間ならば殺してもよいか,どのような状態ならば人間とは言えないのかを決定する権力も持っている、と。 アガンベンの言葉を使うならば、例外状態を作り出すことができるということである。例外状態にされる可能性があるのは戦争の捕虜や難民,実験体,胎児,重度の障害者,脳死者,終末医療の患者などである。そう考えると、とてもじゃないが、人間としての承認などを受ける気にはなれない。人間としての承認が解かれれば、生を否定されてしまうからである。逆に人間としての承認を行う立場にもなりたくない。それは人間が生み出した生命の生殺与奪の権利を与えられた特権者に等しいからである。 人間から生み出された変異体が持続的な生を目指すのに、人間であることを強調したり、人間の特権性を主張していく必要はない。人間であろうがなかろうがありったけの力で持続的な生をめざしていけばよい。従って、アブノーマライゼーションにおいては人権および人間としての承認はむしろ批判的に解剖されなければならないだろう。 次回は人間らしさの実現を目指す理念が当事者たちの思考を制約してしまう側面について光を当ててみたい (次回、「支援および支援理念の道徳化」) |
<< 前記事(2009/02/21) | トップへ | 後記事(2009/03/07)>> |
タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
---|
内 容 | ニックネーム/日時 |
---|---|
|
ぶじこれきにん 2009/03/02 17:29 |
|
ぶじこれきにん 2009/03/04 15:21 |
こう考えてみるとどうでしょうか? |
こうもり 2009/03/05 20:30 |
こうもりさん、こんばんは。 |
かのこ 2009/03/07 20:12 |
かのこさん |
こうもり 2009/03/08 02:43 |
<< 前記事(2009/02/21) | トップへ | 後記事(2009/03/07)>> |