アブノーマライゼーションへの道(by こうもり)

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help リーダーに追加 RSS アブノーマライゼーション序章(5) 人権および人間としての承認批判

<<   作成日時 : 2009/02/28 23:10   >>

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前回予告した通り、アブノーマライゼーションが「人間らしさの実現」を目指す諸価値や理念とどの点において意見が対立するのかを明らかにしておこう。

アブノーマライゼーションは障害者運動などで主張される異文化モデルと混同されやすい。決定的な違いは異文化モデルの場合はあくまで人間という枠組みの中で「人間の多様性」や「異文化の尊重」という主張がなされるのに対して、アブノーマライゼーションの脱人間化はむしろ人間の枠組みを解体しようとする点にある。つまりあくまで人間の内部にとどまるか、人間の外部に飛び出そうとするかの違いである。そして、よく質問されることとしては、アブノーマライゼーションで主張されていることは、異文化モデルの枠組みの中でも充分に実現できることなのではないかという点である。

では、なぜ脱人間化などを唱える必要があったのだろうか。その点について、わたしの考えを述べておこう。最初にテーマとして挙げられるのは人権および人間としての承認である。今まで社会福祉協議会などで精神障害,身体障害,高次脳機能障害の当事者と共演で講演に出させてもらったことがあった。その際に共演者が一様に人間としての承認を訴えていることに、わたしは不思議な違和感を覚えた。もちろん、共演者たちはわたしなどからすれば想像を絶するような過酷な体験をした末に、そのように訴えていたのだと思う。もちろん、次回のテーマになるが、なぜ障害者支援の理念がそのまま当事者が生きる目標,至高の価値になっているのかという疑問も芽生えた。しかし、それは今回の問題ではない。一番はじめに取り上げたいのは、「共演者たちが誰に対して承認を求めているのか」という点にある。

答えは聴衆だということになるが、その聴衆というのはどのような人たちなのだろうか。おそらく、誰からも疑いなく「人間の一員だ」と見なされている人々である。つまり、人権および人間としての承認はそれを求める障害者よりもはるかに広く人間と承認されている人々でなければならないということになる。別の言い方をすれば、人間としての承認を行う者は承認を行うことのできる権力を持つ。同じことが人権についても言えるだろう。天賦人権説(人は生まれながらにして権利を与えられている)という説もあるが、これはいくらなんでも虚構にすぎる。人権もまたそれを承認するための権力を必要とする。そして、その承認が与えられるのは大抵の場合、無条件に人間として承認された人々によって構成される政府でしかありえない。つまり、人間として承認されるということ自体が既に権力性を帯びた関係なのである。

そして、イタリアの思想家ジョルジュ・アガンベンはこう考えた。人権および人間としての承認をできる権力は同時にどんな人間ならば殺してもよいか,どのような状態ならば人間とは言えないのかを決定する権力も持っている、と。
アガンベンの言葉を使うならば、例外状態を作り出すことができるということである。例外状態にされる可能性があるのは戦争の捕虜や難民,実験体,胎児,重度の障害者,脳死者,終末医療の患者などである。そう考えると、とてもじゃないが、人間としての承認などを受ける気にはなれない。人間としての承認が解かれれば、生を否定されてしまうからである。逆に人間としての承認を行う立場にもなりたくない。それは人間が生み出した生命の生殺与奪の権利を与えられた特権者に等しいからである。

人間から生み出された変異体が持続的な生を目指すのに、人間であることを強調したり、人間の特権性を主張していく必要はない。人間であろうがなかろうがありったけの力で持続的な生をめざしていけばよい。従って、アブノーマライゼーションにおいては人権および人間としての承認はむしろ批判的に解剖されなければならないだろう。

次回は人間らしさの実現を目指す理念が当事者たちの思考を制約してしまう側面について光を当ててみたい

(次回、「支援および支援理念の道徳化」)

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
こうもりさんは人間に不可欠な人権は人間としての承認が前提であって、障害者は脱人間的存在であるべきだと主張しているんですね。
 当事者は人間だと思っている人には過激な論調だな。
ぶじこれきにん
2009/03/02 17:29
こうもりさんは人権をベースにした障がい者権利条約についてどう思っているんでしょうか???人間として人権を尊重する事に疑義を唱えているこうもりさんの見解を聞きたい。
 私は人権をベースにこういう条約で自分達の権利を主張する武器になると思うんですが・・・・
ぶじこれきにん
2009/03/04 15:21
こう考えてみるとどうでしょうか?

とりあえず、公共政策アプローチを行っているわたしは人間の安全保障,ユニヴァーサル社会構想などの理念を活用しています。とりあえず、障害者の大多数を占める人間らしさの実現を目指す当事者向けの提言をする際はそれで戦略上有効だと思います。また、障害者権利条約や国際労働条約などを利用してみる価値はあるでしょう。

しかし、これらの理念を戦略上利用することと、これらの理念を心酔あるいは信奉できるかどうかというのは別問題なのです。労働組合の幹部が常に労働者運動の理念に心酔するとは限らないように、蜃気楼の中にいくら美しい世界が広がっていたとしても蜃気楼の中で暮らすことができないように、「何かが違う」という感覚がわたしにはあるのです。

ではでは
こうもり
2009/03/05 20:30
こうもりさん、こんばんは。
最近、私のfreemlの日記の方に『高次脳機能障害』の当事者のかたが、立て続けに、コメントを入れてきてくださっているのですが・・
(足跡暦を、見たら40個!暗いあって、驚きましたが)
哀しい事に、彼の伝えてくる状況が中々、理解してあげられなくて
メッセージなども、以前2度ほど送ってくださいましたが、私の理解力の
足りなさか、認知の欠如なのかも知れません。

障害者を支援してくださる方々の、思う「人間らしさ」と、障害「当事者」に位置している私たちの「人間らしさ」
何処まで行っても、合流を目指しながら、並行している川の流れの様に
感じてしまうのは、私だけなのでしょうか?

私が、奈良に転居してきて、現実に感じたことがあり、その様に思ってしまっている部分があるのです。
中々、其処から出口を探せなくて独り心の中をウロウロしては、ため息を
付いている今日この頃です。

この、違和感?は、なんなんだろう・・・?と、答えを探せずにいます。
すみません、何だか変な話を持ってきてしまいました。。。
 かのこ
2009/03/07 20:12
かのこさん

かのこさんの話を聴いていると、異邦人という言葉を思い出します。日本にも外国にもどこにいっても違和感を感じる異邦人。。。

でも、人間として生きてもそういうそういう道しかないような気がするんですよね。

こうもり
2009/03/08 02:43

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