アブノーマライゼーションへの道(by こうもり)

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help リーダーに追加 RSS アブノーマライゼーション序章(6) 支援理念の道徳化

<<   作成日時 : 2009/03/07 12:24  

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ノーマライゼーション,インクルージョン,ユニヴァーサル社会,人間の安全保障など「人間らしさの実現」を目指す理念を批判的に検討する場合2つの切り口がある。1つはこれらの理念の内容を吟味することであり、もう1つはなぜこれらの理念が至高の価値として崇め奉られているのかを吟味することである。まずは後者の検討から入ってみよう。

医療社会学などで扱われるテーマの1つに医療の道徳化,逸脱の医療化,医療の生活化というのがある。医療の道徳化やの例を挙げてみよう。喫煙や飲酒は道徳的には完全な禁止こそされにくいが、過度になれば道徳的に非難されることになる。一方、医学的な見地からも過度の喫煙や飲酒は禁止されるが、その理由は健康に悪影響を与えるからである。両者の飲酒や喫煙を制限する理由は異なっているが、両者は共闘して喫煙や飲酒の節制を主張する可能性がある。性感染症についても同様のことが言える。性感染症撲滅を主張する際には性道徳を守るべきだという主張と逸脱した性は性感染症を起こしやすいという主張は結びつきやすい。あるいは発達障害や精神障害,知的障害支援について考えてみてもいい。いずれの支援も当事者が適切かつ文化的に許容された言動や立ち振る舞いをすること,社会的に健全と見なされる社会参加を行うことが、その当事者の幸福な生につながるという前提に立ってしまっている。道徳的な生活は健康的な生活でもある。本当にそうなのかは分からない前提によって、医療の道徳化は成り立っている。

逸脱の医療化は、逆に薬物の常用,性的な逸脱(過去で言えば同性愛,倒錯愛など),不適切な立ち振る舞い,犯罪などそれまで道徳次元で扱われていた問題が、当事者に診断がつけられ、医療の問題として扱われていく過程を指す。ここでは、逸脱者たちは処罰や更正の対象ではなく、治療の対象と見なされる。

医療の生活化とはこれらの結果、医療が私生活に深く介入する事態を言う。今日では障害者をコロニー(収容所,施設)にとじこめなくても、地域福祉や介護によって、障害者をある程度は管理することが可能になっている。また、
元々障害者施設で編み出された支援の技法をペアレント・トレーニングなどのような形で障害者のいる家族に伝えることはいとも簡単になっている。善意ある家族ほど必死になって施設の知や技を一生懸命に学ぼうとするだろう。
日本の少年院で行われている支援プログラムも海外では評判が高く、地域生活を営むADHDの青少年たちの支援にも応用されようとしている。

こうして、医療は道徳,私生活などあらゆる範囲に版図を拡大していく。しかし、現在のように医療,教育,心理学,福祉が連携して障害者支援にあたるようになってくると、医療化だけでは説明できない事態も生まれてくる。それが
支援の道徳化、さらに進めば支援理論の道徳化につながっていく。支援の道徳化については今までの内容でも充分に説明できる。例えば、SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)などを例に考えれればいいだろう。当事者がどのような言動や立ち振る舞いをすればよいのかの解答はSSTが握ってしまっている。つまり、支援プログラムが当事者の行動基準や指標の役割を果たしてしまっていることになる。別の言い方をすれば障害者がよりよく生きるための道具であるはずの支援が、当事者の行動を統制する役割を持ってしまっていることになる。これは倒錯以上の何者でもないだろう。

そして、最後の支援理論の道徳化である。これはノーマライゼーション,インクルージョン,ユニヴァーサル社会,人間の安全保障のように支援や障害者運動のバックボーンとなる理論が聖典化して、当事者の目指すべき目標,至高の価値,理想となってしまう事態を指す。例えば、人間としての尊重,障害者の自立,適応,共生,社会参加,理解と肯定的態度の促進などである。不思議なことだが、診断される前のわたしはこれらのいずれも望んだことがなかった。というより考えたこともなかった。それが自分から望んだとは言え、診断を受け、障害者としての役割を与えられるようになると、これらの理念を前提とした希望をお前は持っているはずなのだから、そのために必要な支援を語ってくれと頼まれるようになってしまった。仮に「人間らしさの実現」の枠組みの中で考えても、わたしが望んでいたことは、暴力や虐待のない生活と必要な生活財の確保ぐらいだった。しかも、それらは生存欲求に根ざす以上、
人間以外の動物だって望んでいることだろう。それを人間のあり方や生活を理想化した上で、崇め奉ることについてわたしは納得がいかなかった(支援提言においてはよく利用する人間の安全保障について唯一不満を挙げるとすればここだ)。

では、アブノーマライゼーションはそれに対して何を求めるのか。これらの理念とは別の生き方,生の様式を提案しようという訳ではない。ただ、支援理念を自らの至高の価値,行動原理にはしないというだけである。

(次回、「人間にふさわしい健康」)

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コメント(3件)

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支援理念の中枢の道徳的なもの、当事者を統制する規範的な支援について切り込み論じるわけですか。そういえば思い当たる節がある。なるほど・・・・。
ぶじこれきにん
2009/03/09 16:13
医療の私生活の介入ね。私が交流ある高機能自閉症の女性ブログ管理人は医療によって短期入所のショートスティの日数まで介入を受けている。医療の道徳化って言う視点なら医療の私生活介入の事例だ。施設がグループホームにも管理する。そういえばそうだな。
その通りだろう。
ぶじこれきにん
2009/03/10 16:24
ジル・ドゥルーズならば、これを管理社会という概念で説明します。つまり、障害者,高齢者の脱施設化というのは、街全体が施設のようになり、もはや施設に収容する必要がなくなった状態なのだ、と。

こうもり
2009/03/10 21:52

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