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「逆境子育て」で強い絆

AERA1月13日(火) 12時58分配信 / 国内 - 社会
――楽な育児なんてない。仕事も親の介護も、楽しみながら、苦しみながら。
乗り越えなければならないハードルが高いほど、親子の絆は深まる。――

■社長が育休取っても会社は増収増益を達成
大里真理子さん
アークコミュニケーションズ社長

 世界的な不況のなか、勢いに乗るベンチャー企業がある。翻訳・通訳・WEB制作事業と、それらの専門性に特化した人材派遣事業を展開する「アークコミュニケーションズ」(東京都港区)だ。
 社長の大里真理子さん(45)は、設立3年にして、社員数を4倍、売り上げをほぼ2倍(2008年9月期は4億8000万円)にした。現在、契約社員を含めて社員数は40人。数十人の派遣スタッフも率いる。
 07年10月、決算も終わり、社員全員が顔を揃える会議の席上で、大里さんはこう切り出した。
「突然ですが、私、来年4月から長期休暇をいただきます。出産することになりました」
 エーッというどよめき。当時妊娠5カ月。社員の反応は、
「うちの社長なら何を始めても驚かないけど、出産は想定外」
 というのが大半だった。
 長期休暇には前例があった。
 大里さんは、オリンピック出場を目指す「スポ根社長」でもある。雪原のなか、地図とコンパスを頼りにクロスカントリースキーのタイムを競う「スキーオリエンテーリング」の競技者で、毎冬、マスターズ世界大会を転戦してきた。06年には北欧での大会に出場するため、年末から年始にかけて、まるまる1カ月間休暇をとった。

■臨月も普通のスーツで

「社長が会社から消える」というのは、大里さんの経営哲学からはみ出るものではない。「プロアクティブ」といって、社員それぞれが自ら動ける人材に育ってほしいと、会社設立当初から考えてきた。
「設立3〜5年で伸び悩む会社は、社長個人のキャパシティーを超えた仕事ができないから」
 と、起業する際に先輩経営者からアドバイスされた。事業部制を敷き、部門長に権限を委譲してきた。典型的なオーナー企業にはせず、自分を超えて成長する会社にしようと考えている。
「もちろん、それを狙って子どもをつくったわけじゃないですが、プラス思考なので、出産も会社にとって、いいチャンスだと捉えました」(大里さん)
 会議で「出産宣言」した頃、海外出張を控えていた。大里さんは大きなおなかでも、行く気満々だった。当時、管理事業部長だった佐々木由美子さん(44)は、社長に「ダメ出し」をした。
「現地で何かあったときに、ご自分も傷つくでしょうし、何より同行した社員が傷つきます」
 この言葉を受け、大里さんは日本に残った。
 臨月に入っても、妊婦服ではなく、普通のスーツを着ていた。チャックを半分開けて穿いていたタイトスカートは、おなかの突き出た分ずり上がって、ミニスカートのようになっていた。

■出産2カ月で職場復帰

 大里さんの人生は、キャリアまっしぐら。東京大学文学部を卒業後、日本IBMに入社。その後、アメリカの名門、ノースウエスタン大学のケロッグ・ビジネススクールでMBA(経営学修士号)を取得。通信機器メーカーのユニデンに課長として入り、中国での事業展開を任された。その後、ユニデン時代の上司とITベンチャーを立ち上げ、役員に。ここで会社経営の基礎を叩き込まれた。
 99年に、大学時代の同級生と結婚。夫は現在、国立大学の教員だ。
「夫は、家事も育児も、家庭のことは私よりも得意です」
 と大里さん。家事・掃除・洗濯は、週に1〜2回ハウスキーパーを頼んでいるが、家事の大半は夫の助けを借りている。
 予定日前に入院して、2度にわたり陣痛促進剤を投与。最後は鉗子分娩になった。陣痛からまる3日の難産だった。
 生まれてきたのは3774グラムの男の子。格くんと名づけた。
 産後は肥立ちが悪く、ベッドから起き上がれない状態が続いた。都内に住む母親に応援を頼み、1カ月半ほど、自宅でほとんど寝たきりの状態で過ごした。
 思うようにならない体で何とか保育園を探して、08年6月、出産2カ月後に職場に戻った。
 ところが、4日目には、格くんが風邪をこじらせて高熱を出した。家と会社とを往復する日々。翌週、格くんは肺炎になった。しばらく高熱が続き、入院する事態に。ママとしては、ハアハア息をする子どもに寄り添ってあげたかったが、自分も体調を崩してしまった。結局、格くんの看病は母親に頼み、自宅で倒れこむように静養していた。1週間後、退院してきた格くんは、「うちの子?」と思うくらい成長していて、この時期の生育の早さに驚かされた。

■社長不在で社員が奮起

 仕事復帰の滑り出しに「失敗」したことが、社員の結束を固める原動力になったと、佐々木さんは分析している。
「2カ月間の育児休業の間は、『スキー休暇の延長』ぐらいの感覚で、社員一同、緊張感で乗り切ったという感じでした。ところが戻ってきたのが、以前の大里じゃなかった。武勇伝に事欠かない彼女が、低空飛行して、不時着しながらも走っているような頼りなさ。支えなければという気持ちが生まれたのです」
 例えば、経営管理部門で経理と法務を担当する30代の男性社員は、社長が不在の間、キャッシュフローをひとりで全部見ることになった。大里さんが復帰してからも、
「あ、それ、僕やります」
 と積極的に発言する。
 大里さんは、3連休に夫に子どもを預けてスキー合宿に参加するほど体力を回復した。
 結局、社長が抜けるという非常事態にあっても、08年9月期の売り上げは前年比2割増。増収増益だった。05年に生み落とした「もう一つの子ども」も、着実に成長している。

■夫婦で全盲を乗り越え育児と仕事に打ち込む
立道聡子さん
シンガー・ソングライター

 2歳8カ月の金子勇斗くんは、玄関を出る時、目の見えない両親に、
「ぼうぼう(白杖)持った?」
 と確かめる。外に出れば、
「あぶない、車、車!」
 おもちゃで遊ぶ時も、
「ここに電車があるでしょ?」
 と話しかけながら、母親の手をおもちゃに触れさせる。
 2歳児にして、この気遣い。 勇斗くんにはまだ、「目が見えない」という概念がない。特別に教えたわけでなく、自然に身につけたコミュニケーションの方法だ。両親だけでなく、保育園の先生にも、一つひとつ解説しながら会話をする。
「息子は、まるで心配症のお父さんみたいなんですよ」
 と母親の立道聡子さん(26、本名・金子聡子)は照れ笑いする。
 夫の金子直樹さん(28)も聡子さんも、全盲視覚障害を持つ。勇斗くんは、手をベタベタにしておやつを食べたり、水をこぼしたり、転んで鼻の頭をすりむいたり、まさにやんちゃ盛り。
「もう病気や怪我はしょうがない。『死ななければいい』というぐらいに考えてます」
 聡子さんは、おおらかに受け止めている。
 勇斗くんの成長ぶりは、全身で感じてきた。初めて寝返りを打った時は、うつ伏せ寝の姿勢でもらす「ウ〜、ウ〜」という声で、体が返っていることに気がついた。おんぶをしていても、キョロキョロと外を見回す様子は背中越しにわかった。

■今春メジャーデビュー

 2歳になる少し前、勇斗くんは、急に「ジブンゴ」を話すようになった。昨年の夏ごろには、
「ア、ルッコー、ワタチ、ゲンキー♪」
 と、手をつないで保育園へ向かう道々、アニメ「となりのトトロ」の歌を口ずさんだ。舌足らずながら楽しそうな歌声。音楽で知り合った夫婦だけに、もっともうれしい瞬間だった。
 いまは、2日おきに新しいことばを覚えてくる。乗り物にはまっていて、週末に直樹さんと「電車ツアー」に出かけると、
「ドア、シマル、ゴチュウイクラサイ」
 とアナウンスをまねる。踏切が遠くまで見渡せる「極秘ポイント」もある。
 保育園や駅の改札など道のわかるところへは、勇斗くんが手を引き、目的地へ導く。
 3歳からピアノを始め、14歳で作曲を始めた聡子さん。筑波大学付属盲学校高等部(当時)の音楽科在学中に、スタジオミュージシャンとして活動していた1年先輩の直樹さんと知り合った。04年に結婚し、翌年、聡子さんが障害者のための音楽コンクールに出場したのがきっかけで、CDデビューのチャンスをつかんだ。勇斗くんが生まれた翌年の07年に、デビュー曲「たからもの」が発売。そして今年春、大手レコード会社からメジャーデビューと、音楽家としての人生は順風満帆なようにみえる。

■アンパンマン描けない

 だがプライベートでは、さまざまな葛藤を乗り越えてきた。
 まず、子を持つべきか否か。夫婦で、時間をかけてじっくり話し合った。障害の遺伝の問題、経済的に支えられるか、そもそも目の見えない夫婦が育てあげられるか。不安は尽きないが、最終的に「産もう」と決めた。
 ところが病院や両親からは、反対された。
「両親が全盲で育てられるか」
「おろしなさい」
 そんな言葉を浴びると、怒りと悲しみに沈んだ。
 夫婦で必死に理解ある病院を探し、互いの両親とも和解した。
 06年5月に勇斗くんが誕生。産声を聞いた瞬間、「あっ、これがうちの子だ」と実感が湧いた。高音域で女の子のような特徴のある声だった。
 出来る限り普通に育てたいというのが、二人の願いだ。歯みがき、トイレ、箸の使い方など日常の動作は、集団生活のなかで教えてもらおうと考え、1歳の誕生日を迎える前から保育園に通わせた。
 聡子さんは指先の感覚だけで着替えさせてあげる。保育園に持参する洋服に名前を書いたり、針仕事をしたりするのは、週2回お願いしているヘルパーさんに頼んでいる。
 最近は、
「ママ、アンパンマン描いて」
 などと言われるようになった。
「お母さん、アンパンマンは描けないんだよ」
 と伝えると、
「ふうん」
 と、ちょっと不服そう。それでも、夫婦で決めているのは、「ごめんね」という一言で片付けないようにすること。聡子さんは言う。
「謝るんじゃなくて、必ず言葉で納得のいく説明をすることで、見えないとはどんなことなのか、自分たちは見えないけれども何ができるのか、理解させていきたいと。なかなか理想どおりにはいかないでしょうけどね」

■ワンセグで子をあやす

 視覚障害者用に音声ナビがついた携帯電話で、ワンセグ機能をフル活用。テレビ番組を録画しておき、勇斗くんがぐずった時などに、さっと見せる。
「ワンセグは音声があってストーリーについてお話ができる。私にとっては絵本代わりです」
 パソコンも得意で、子どもが病気をしたら、病気の症状などを「ググッて(グーグルで検索して)」即座に調べる。
「目が見えないから○○ができなかったということを、極力少なくしたいと思っています。この子には、『生まれてきてよかった』と言える人生を送ってほしい」
 自宅で焼きたてパンが食べられる「ホームベーカリー」は必需品。朝5時30分に焼き上がるようにセットしておく。
「いい香りだね〜」
 とパンの香りで目覚める、そんな普通の朝を家族3人で楽しんでいる。

■日米を行き来しながら介護との両立に奔走
山崎大地さん
元国際宇宙ステーション管制官

 3、2、1……。一瞬の静寂ののち、ものすごい閃光と白煙とともに、スペースシャトルが空に突き上がった。2005年7月に打ち上げられたディスカバリー号。日本人宇宙飛行士、野口聡一さんも乗っていた。
 山崎大地さん(36)とともに、アメリカのケネディ宇宙センターを訪れていた、娘の優希ちゃん(6)も、見学席から空を見上げていた。当時は3歳の誕生日直前だった。
「ママもいつか行くんだよ。ユウキも宇宙へ行きたい?」
 と大地さんが聞くと、
「ママとパパとユウキと一緒に行きたいな」
 と話し、いつまでも青い空を見つめていた。
 母親の山崎直子さんが宇宙飛行士の候補に選ばれたのが1999年。それから10年、日米欧を舞台に訓練と業務を続けてきた。昨年、シャトルへの搭乗が2010年2月に決まった。長い道のりだった。

■初めて男性が育児休業

 一方で、夫の大地さんも、一分一秒を争う日々を送ってきた。仕事と子育てと親の介護と。日本を離れることが多い直子さんに代わって、「ほぼ毎日父子家庭」という時期も多かった。
 二人の出会いは宇宙開発事業団(現宇宙航空研究開発機構=JAXA)の筑波宇宙センター。ロケットや人工衛星の制御ソフトなどを作る企業に勤める大地さんも、出入りしていた。ヒューストンにある米航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターで運用訓練に従事していた際に、直子さんと急接近。いつか直子さんが国際宇宙ステーションで働き、大地さんが地上で管制官を務めたいとの夢を抱き、00年に結婚した。01年、直子さんが宇宙飛行士として正式に認定され、その翌年の02年8月、優希ちゃんが誕生した。
 直子さんは、出産前日まで働き、産後2カ月で仕事に復帰。引き継ぐ形で、大地さんが育児休業を取った。男性が育休を取るのは職場で初めてだった。
 大地さんは、男性が家事や育児をすることには抵抗がない。母親は体が弱く、会社勤めの父親が早起きして朝ごはんをつくったり、お弁当をつくったりしていたのを、子ども時代に見てきたからだ。
 試練は03〜04年に訪れた。
 03年2月のコロンビア号の事故などを受け、直子さんは、ロシアのソユーズとアメリカのシャトルの両方の搭乗資格を取る必要性が出てきた。取得までにそれぞれ1〜2年はかかる。
 7月、直子さんはロシアへ渡った。妻にとっては長い単身赴任生活、夫にとっては「育児・介護戦争」の始まりだった。その初日、大地さんは直子さんにこんなメールを送っている。
〈優希も、今はベッドですやすや寝ています。夕方から咳き込むようになって、ベッドで寝ながらまた噴水のように吐いてしまいました。優希はきょとんとしていました。(中略)父子家庭第1日目は何とかなりました。不安が増すかと思ったら、これなら何とかなりそうと気合がさらに入ってきました〉
 この頃、認知症を患っていた大地さんの父親(04年2月死去)の容体が悪化。物忘れや徘徊などがあり、さらに緑内障で目も見えず、ご飯もひとりでは食べられなくなった。加えて母親(76)も、精神障害が重くなった。平日に顔を出してくれる実姉も、同時期に子育てが始まり、頼りきるわけにはいかない。大地さんは週末ごとに、神奈川県内の別々の老人ホームで暮らす両親のもとへ通った。

■土曜は終日両親の介護

 毎週土曜日の早朝に、つくばの自宅を出発して、片道3時間。娘が泣き出せば、車を止めてミルクを飲ませた。まずは母親を施設に迎えに行き、いっしょに父親の施設へ。3世代そろって昼ごはんを食べた。夕方に母親を施設に送り、鎌倉の実家を掃除してからつくばに戻ると、たいてい夜中の1時を過ぎていた。
 ちょうどその頃、仕事の納期も近づいていて、平日の保育園のお迎えは、いつも延長いっぱいの夜7時半。娘が寝静まった後、持ち帰った仕事を片付けた。
 子どもは頻繁に風邪をひき、その看病で会社を休む。子どもの風邪がうつって自分が体調を崩したり、平日に介護施設から急に呼び出されたり。前年の繰り越し分も含め、四十数日あった有給休暇はほぼ使い切った。
「あの頃は、職場と保育園と自宅、両親の介護先を往復するだけの毎日でした。父親の死期が近づいていることもあり、ほとんどパニック状態でした」
 父親が亡くなる直前、優希ちゃんが何度も水をこぼしたとき、
「いい加減にしてくれ!」
 と手を叩いた。お尻や背中も叩き、子どもがギャンギャン泣く声で我に返った。
「このままではいけない」
 少なくとも親のどちらかが、子どもを最優先してあげられる環境をつくろう。そう考えて、仕事を辞める決断をした。
 直子さんは、04年5月末にロシアから帰国すると、10日後にはアメリカへ渡った。大地さんは退職して合流。家族3人にとり、ヒューストンが新しい生活の場になった。
 取材で大地さんと優希ちゃんに会ったのは、08年11月末。大地さんの母親が体調を崩し、介護のために2カ月間帰国しているときだった。その間に、優希ちゃんは日本の国立小学校を受験し、見事合格した。

■海をまたいで心配ごと

「日本にいれば、優希がママと離れたままになる。アメリカに戻れば、今度は私の母のことが気がかり。海をまたいで心配がある状態は、正直しんどい」
 そう大地さんは語った。
 大地さんの母親をアメリカに呼び寄せて同居するか、逆に優希ちゃんを連れて帰国し、日本の小学校に通わせるか――。
 直子さんが宇宙へ飛び立つまでの1年間をどう過ごすか、決断を迫られている。
編集部 古川雅子
(1月19日号)
  • 最終更新:1月13日(火) 12時58分
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