道幅の狭い道路の脇を列車が通り抜けています。線路脇には小さな川も見えます。右手の高い土手は高いフェンスで囲まれ、外部からの侵入を拒んでいます。撮影は昭和37年(1962年)。さて、ここはどこでしょう。ちなみに、46年後の今も左手奥に見える跨(こ)線橋の姿はほとんど変わっていません。
正解は代々木です。左手奥にあるのは小田急線参宮橋駅で、線路脇を流れるのは河骨川です。国文学者の高野辰之がこの近くに住んでおり、そののどかな情景を基に有名な「春の小川」を作詞したということです。川は暗渠(きょ)化されて、その面影はありませんが、跨(こ)線橋や土手の傾斜などは当時とほぼ同じです。土手の上には米軍兵士・家族用住居「ワシントンハイツ」がありましたが、今は国立オリンピック記念青少年総合センターになっています。【乗峯滋人】
コメント
昭和29年生まれです。いろいろな写真や情報で昭和を懐かしく思い出しました。昔は夜遅くカブトムシを取りにいく林や都心でも近くにかくれんぼやボール遊びのできる空き地があり毎日暗くなるまで遊んだ事が懐かしくおもいだされました。
昔はどこでも空が開けてたなぁ・・・・・・。
わたくしは昭和58年生まれでございます。
それはいつまでも深く愛しい大事な記憶にございます。
昭和の時代。あの町のあの家で生まれましたからね。
家の花壇には紫陽花が咲いておりました。
幼稚園の、可愛がって下さったあの先生。先生の卒園式のあのお姿は今でも記憶に刻まれております。記憶に刻まれる季節は夏でございました。
学校の後、毎日のように公園でお友達と遊び門限に遅くなり家に泣いて入れてもらったことが。
弟もあの家で生まれましたもの。
同居する前のもう亡き祖父と今も生きております祖母の家にお泊りに出かけて、お姉さんなどお友達と遊び、祖母とお買い物に。すぐ近くのお蕎麦屋さんに出かけたり、縁日に出かけましたり。
去年にスカパーで木下恵介アワーにお目にかかり、自動販売機の復刻堂の飲み物に、昭和タイムズを購読しております。
私は昭和48年生まれで北海道でしか暮らしたことがありませんがこの写真2枚を見ていると変わりゆく物と変わらない物の両方があるって言うのがよくわかりますね。
終戦の1ヶ月前、戦争に負けると北海道開拓(拓北農兵隊)に応募した父に連れられて一家で北海道に来ました。国民学校5年でした。
当時住んでおりましたのは東横線 教育大学前、線路をはさんで碑文谷公園がありました。
空襲が激しくなって、昭和20年3月の空襲で通っていた鷹番国民学校も、隣にあった、北里研究所も焼けてしまいました。
最近の地図を見ても北里研究所が無いのでさびしく思っておりましたところ、昭和毎日、ここは何処を発見!ありました、ありました!
うれしくて、消えそうな記憶をたどりながら、あちこち旅をしています。ありがとうございました。
小田急線車輛の旧塗装ですぐに答えは分かりました。
沿線に住み続けている僕には簡単な問題でした★彡
(ただ、代々木というイメージは正直無いです。)
そんな僕は昭和50年生まれなので、
見慣れているのは下のカラーの方です。
写真〔A〕が参宮橋駅なら線路脇の細道をオンボロ路線バスの車掌付きで運転してました。新宿駅西口から成子坂、西参道、代々木八幡、今の東急デパート本店経由、渋谷まででした。ご覧のあの坂をバスで下り、くねくねの細道の連続、反対車線のバスと交差が難しく閉口しました。土手末端の高い木あたりがオリンピック調理人の宿舎になりました。其の右、白い家屋のはずれあたりから広い新道が出来、今のNHKの方まで伸びたんです。83歳の老人。
30年ほど前から代々木八幡近くに住んでいます。
すでに今のように感じでしたね30年前は。
代々木八幡ですが、このあたりは代々木というよりは富ヶ谷でしょうか。
参宮橋はの奥は代々木という住所になりますが。
春の小川の由来は越してきてから、ずっとお住まいの方に聞いていますが、八幡の駅が弧を描いているのは、そのなごりだと聞いています。
戦前戦中の子供の頃は写真右手の高台が広大な代々木練兵場で、小田急線の車窓から兵隊さんが行軍の演習を行っているのがよく見えました。低地を走る線路の両側は昭和20年代末まで水田と畑で、それが代々木八幡駅や現NHK放送センターの方まで続いていました。戦後は練兵場が米軍に接収され、解除後は東京オリンピックの選手村や青少年センター、代々木公園などに変身しました。小田急線の両側も人家の密集地帯に変わっていますね。