まず目に飛び込んでくるのが、歩道にまで陳列された新鮮そうな野菜。白菜、かぶ、トマトなどが所狭しと並べられています。「姉さん被り」にエプロン姿で買い物をする女性の姿も印象的です。撮影は昭和37年(1962年)で、売っているものや建物などはすっかり変わってしまっていますが、道沿いに商店が立ち並ぶ様子はほとんど変わっていません。こののどかな風景は、いったいどこでしょう?ヒントです。近くに消防署があります。
答えは、渋谷です。「ファイヤー通り」の東側歩道に立ち、渋谷駅方面を見ています。通りの名前はここにある渋谷消防署にちなんで名付けられたもので、庁舎は真新しいものの今も変わらず消防署があります。昭和の写真の正面には以前の渋谷区役所が見えています。現在、通り沿いにはおしゃれな服飾や雑貨などを扱うショップが並び、野菜はもちろん売っていません。【乗峯滋人】
コメント
子供の時に歩いた場所なのですぐに分かりました。今度は、プラネタリウムのあった東急の前あたりを写真で紹介してください。それから、トロリーバスや都電の写真も。
エプロン姿で買い物する女性の被り物ですが、これは「あねさん被り」と称するのが一般的です。「頬っ被り」とは異なります。双方共もはや瀕死語ですかねぇ。
67歳です。余りの懐かしさに涙がでそうになりました。
私の記憶では当時買い物の際は、買い物籠と呼ばれる籐製?の容器を持っていっていたように思います。履いているもゴム長のようですので、手前のお二人は店の方ではないでしょうか。
私は昭和45年生まれで この頃はまだ生まれてないんですけど この昭和の写真を見るとなぜだろう・・・気持ちが落ち着くんです。時間がゆっくり流れてるような そんな感じですね
この頃レトロブームですが やっぱり古き懐かしいゆるやかな時間の昭和が大好きです。
昭和30年生まれ
決して豊な時代ではなかったと思うのですが、
心は豊かでした。
やんちゃをすれば近所のおじさんおばさんも
叱ってくれた。
叱られたことは恥ずかしくて、親にも言えなかった。学校から帰宅すると、遊ぶのはいつも近所にはガキ大将と。大きい子は小さい子の面倒も見ながら
下駄隠しやかくれんぼしました。
毎朝お豆腐屋さんへお豆腐と納豆を買いに行くのは私の役目でした。
夕方はお豆腐屋さんが「とふ~ぅ」とラッパを吹きながら売り歩いていました。
懐かしいです。
考えれば、いつも新鮮なものを食していたんですね
昭和37年撮影といえば私の生まれた時。その東京の姿を不思議な感覚で見ています。当時、私の両親は貧乏のどん底で、私は産婆さんも間に合わず畳の上に生まれたそうです。アパートも追い出される寸前でしたが、子供が生まれたばかりで追い出すわけにもいかず、周りの人に色々助けてもらったと、何度も父から聞きました。現在は北海道で暮らしていますが、月にいっぺん東京や横浜に出張に行くたび、思い出します。あのころの日本人の苦労を思えば、今の苦労などなんでもないと思うのですが。
Around40の主婦です。
こんな風に私が生まれる前の
日本ですが、とても懐かしく感じます。
特に家電製品やおもちゃなどは
どこへいったのだろう・・と思います。
今の子供たち2000年以降生まれの子供たちは
現在の日本の風景を見て
大人になったら懐かしいんでしょうね。
家電や雑貨たちを見て。。。
いっぱいデジカメデータを残してあげようと
思います。。
今の媒体は半永久的に見れるはずですよね。
隣町の恵比寿の出身です。もちろん、この当時はまだ生まれておらず、数年後に生まれたんですが、まだ昭和40年代くらいまでは渋谷界隈も近代化されていなかったんです。人々の暮らしの匂いがそこかしこにありました。
しかし、開発の嵐で昭和50年代に一気に町が変わってしまいました。地価が高騰し、人口が減少して小中学校も廃校になりました。住みにくい町となりました。
ぜひ、隣町の恵比寿や代官山の風景も掲載していただけると有難いです。宜しくお願いします。
昭和27年生まれです。
この写真に写っているのはちょうど私の親の年代でしょうか?
姉さん被りに割烹着や買い物篭など、当時の主婦のユニフォームみたいなものでした。
当時の母は、おやつの前に洗ってきた子供の手を拭くのも、泣いた時に涙をぬぐってくれたのも、白い割烹着だったような気がします。
昭和37年(1962年)と現在の写真で、木の高さがほとんど変わりないのが不思議です。どうして46年たっても木が大きくなっていないのでしょうか。(木の種類も変わっているようですが)私は、街路樹の背の高さは、そこに住む人々の文化の成熟度の度合いと似ているように思っているので、少し悲しいです。
昭和20年生まれの母は、終戦と同時に疎開先から東京へ戻り、それからずっと23区内で育ちました。その子供である渋カジ世代の私は、10代の頃、思い切りお洒落をして渋谷通いをしていました(1980年代)。そんな私を見て、母は「渋谷なんて昔は市場みたいなトコだったのに」と笑いました。この写真を見て納得です。戦後は大きな闇市があって、かなり危ない雰囲気だったとか。亡くなって7年になる母との会話を懐かしく思い出しました。ありがとう。
私が上原小学校に転校して来た時、吉永さおりさんは、上原中学一年生で、会うことができませんでした、代々木上原に住んでいたとき、前の家が、外国人さんでした。その時、ワシントンハイスクールで映画に誘われて、その外国人さんと子供さんと私で、クラッシックカーみたいな、ばがでかい車に乗って代々木八幡の横をとおり芝生の丘から、入って行ったのを覚えています。渋谷がこんなに近いとは思いませんでした。
1962年生まれの私と同学年で、1961年生まれのだんな様がまさに淀橋第何小学校とか中学校とか。昔はな~んにも無いとこだったとか、ヨドバシカメラの名前の由来であるとか、新宿で最初に出来たホテルは京王プラザであるとか、そんな昔話を主人やお姑さんから聞くたびに、東京とは言いつつも東のはずれで育った私にとっては「へぇ~!」の連続でございました。たまたまですがいい写真を拝見することができました。ありがとうございます。
「昭和老人」様ご指摘のとおり、女性の被りものは「頬っ被り」ではなく「姉さん被り」でした。大変申し訳ありません。文章を修正させていただきました。今後とも、昭和毎日をよろしくお願いします。
この2年後、私が小学校へ入学すると同時に突然4歳年上のY子ちゃんが我が家にやってきました。何でも町内のある大きな酒屋さんの娘さんが結婚し最初に出来たお嬢さんだったそうですが、結局旦那と別れ生活が困窮しているらしいので暫くウチで預かることになったのだそうです。当時我が家はたまたま少しばかり裕福な方でしたが、一切の経済的な負担は我が家の方で行っていたようです。結局彼女は2年間我が家にいました。
後に母にそのことを尋ねたら「私とお祖母さんだって戦争中は疎開先で色々と世話になったし、お祖父さんが亡くなってお祖母さんと二人で途方に暮れていた時も誰彼となく皆が助けてくれたのよ。だからY子ちゃんのことはあなたもつらかったろうけれども出来るだけのことをしてあげたかったのよ」と言ってました。
そう言われてみれば、同級生のM子ちゃんとかK一君も片親で生活は大変そうだったけど、結構親戚や親御さんの兄弟みたいな人が彼らの家に良く来ていたし父兄参観にも来てたりしてました。
彼らも今はもう50歳。どうしているのかなあ。両親の愛情をたっぷりと貰えなかった分きっと素晴らしいママとパパ(ジジとババかもね)になっていることでしょう。
東京でさえつい最近までたった一人で家の中で餓死していたなんてニュースは殆ど聞いた覚えがありませんでしたよ。
ウチの母もお祖母さんもそしてご近所さんんもよく鍋を片手に持ってあっちの家、こっちの家と余分を作ってはお裾分けをしたりされたり。
みんな隣近所で体を壊したり何か困ってないかいつも互いに気配り助け合ってた気がするんですよ。
買い物に行く時の買い物カゴは自前が当たり前、豆腐や味噌なんかは鍋持って買いに行ってました。
良い意味の戦後の名残りだったのでしょうか。でもそれも東京では昭和50年、1975年頃までの今はあり得ない「美しい日本と日本人」の話になっちゃった。あとはもう、ねえ…。