大きな交差点を、人、自転車、オートバイ、トラック、路面電車などが忙しそうに行き交っています。マークを見れば分かるように、左に見えるのは地下鉄の出入り口で、和風の屋根を持つ一風変わったデザインをしています。撮影は、昭和39(1964)年4月。さて、ここはどこでしょう。
答えはAの浅草です。写真は、浅草通りの吾妻橋交差点を西向きに撮影しています。左は東京メトロ銀座線浅草駅の出入り口で、今も同じ姿であります。正面に見えるのはカクテル「電気ブラン」で有名な日本一古いバー「神谷バー」で、大正10(1921)年にできたこのビルも健在です。【乗峯滋人】
コメント
浅草は戦後のドサクサの雰囲気がのこっています。
戦災で丸焼けになりましたが、コンクリの劇場は残りました。
地下の食堂街なんか怖いくらい昭和です(笑)
自分の原点を確かめる為に時々行きますよ。
懐かしい光景です。東京に約20数年居住し青春時代を過ごしました。昭和40年からですが。中野区とか特に世田谷区は超田舎でした。その時住んでいた原宿というか表参道は閑静な街でした。竹下通りはほとんど人がいなくてお店もなかったです。山手線なんかは下が板張りの電車でした。私が勤務した東銀座というか築地の国立癌センターはお化けが出そうな建物でした。いやー懐かしいです。
学生時代にはまだ永井荷風氏がご健在で、浅草や葛飾を舞台にした短編を発表しておられました。第一次の荷風全集もすでに出ていましたから耽読して、浅草をよく歩きました。社会人になってからは「電気ブラン」が気に入って、写真の「神谷バー」に時々入りました。下町の人達と談笑しながら店で飲むと実に美味いのに、瓶を買って帰って家で飲むとあまり美味くない、これが不思議でなりませんでした。やはり地元のこの店だからこそ活きる「浅草のブランデー」なのでしょう。今もときどきお店を訪れています。
先日浅草に遊びに行き、初めて神谷バーに入りました。
隣に座った70~80代の『カップル』は週に1度個のお店でデートするとのことでした。
「私たちは20代の頃から神谷バーに通っている」とおっしゃられており、とても楽しそうに電気ブランを飲まれている2人をみてずっと変わらないものがあるこの町は本当にステキだなと感じました。
祖母の生前、三社祭と隅田川の花火大会だけは欠かさず浅草へやって来ましたが、子供の目線で体験したせいなのか以後どこのお祭り、花火大会をを観てもあの感動に匹敵することがなくなってしまいました。当時東京随一といわれた浅草の雷門から六区界隈のあの沢山の人の群れはさすがに今見ることはありませんが、でもどうして今でもちょっと珍しい風景や捨てがたい老舗の味をあちこちの街角で楽しむことが出来るのはいかにも浅草らしい魅力ですね。
まさに、この年この月に私はこの町で生まれました。
都電の線路に耳をあてて遊んでたのを思い出します。
ハチブドーの看板のある建物は「浅草電気ブラン」で有名な、神谷バーで、現存します。
この写真の右手には「浅草松屋デパート」があり子供のころ、良く屋上で遊んだのを覚えています。
自分の生まれた時は、こんなんだったんだなと思い仕事中ですが、黄昏てしまいました。