葬儀は雪の舞う2月27日に東京・芝の増上寺で行われ、約500人が参列した。前日の通夜には約1000人が訪れた。「小柄で、引きしまっていて、すっきりとした体躯(たいく)と、役者顔のよろしさ」と池波正太郎が「又五郎の春秋」で愛情を込めて描写した姿は、終生変わることがなかった。
5歳で父の初代又五郎を亡くし、翌年に初舞台を踏み父の名を襲名。天才子役として母、弟妹ら一家の暮らしを支えた。「並のご苦労ではなかったと思います」と中村吉右衛門さんは話す。
師事した名優の初代吉右衛門を「第二の父」と敬慕し続けた。太平洋戦争で召集され、海軍の衛生兵として宮城県の石巻で終戦を迎えた。もう舞台に立つことはないとあきらめていたところに、初代から「芝居に出ないか」と誘いの電報が舞い込んだ。うれしかったという。
「初代は“間”にうるさい人でした。(黒衣姿の)後見の時に、背中の動きで声の出し入れを教わりましたね」。芸の神髄を体で学んだ。
名子役は名脇役に成長し、後年は老け役を得意とするようになった。「佐倉義民伝」の甚兵衛(じんべえ)、「熊谷陣屋」の弥陀六(みだろく)、「毛谷村」のお幸。「おじさんが出ると芝居のすき間が埋まる。本当のプロでした」(吉右衛門さん)
国立劇場の歌舞伎俳優養成事業で主任講師となり、広範な知識を後進のために生かした。研修生を容赦なくしかる厳しい指導ぶりは映像などでも取り上げられたが、それも「どこでも通用するように歌舞伎の基礎を1年10カ月(当時)で身につけさせたい」との親心の表れであった。
法号(戒名)は教順院椿壽日幸大居士。ツバキは故人の愛した花である。【小玉祥子】
毎日新聞 2009年3月11日 東京朝刊