Wed, March 04, 2009 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳所長の最近の講演内容-モンテカルロ研究の現状と課題-

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【講演要旨】米ロスアラモス国立研究所は、連続エネルギーモンテカルロ計算コードの開発に着手してから半世紀弱になり、その間にかかったあらゆる費用を合計すると、数十億円にも達しますが、それでもなお完成しておらず、MCNP version 6の公開も大幅に遅れており、これまでの公表資料から判断すれば、version 6に追加される新機能は、①50GeVまでの陽子輸送計算、②いわゆる"フロリダ大学方式"の自動分散低減計算、③それから、非公式ではあるが、私と開発リーダーの間の私信では、中性子断面積の共分散を取り入れた総合的誤差評価とされており、それぞれの歴史的意味は、①が世界のモンテカルロ計算の多種類粒子化と高エネルギー化、②が長い間の念願であった誰にでも確実に的確なウェイト下限値が設定できる遮蔽体物質深層透過計算の救世主的機能と解釈できますが、②と③が実用化されれば、世界において、まだ、どこも成功していない、本当の意味でのモンテカルロ計算の普及を決定的なものにする"ロスアラモス革命"が達成されることになりますが、②も③も単純ではなく、version 6でどこまで解決され、version 7に何が残されているのか、大変興味ある問題ですが、日本では、原子力施設の許認可において、モンテカルロ安全評価法の採用は、臨界安全解析では、トラック競技にたとえれば、すでに、第四コーナーに達しており、遮蔽安全解析では、大幅に遅れ、原子力機構-加速器機構共同建設の陽子加速器研究複合施設J-PARCにおいて初めて採用されたに過ぎず、トラック競技にたとえれば、まだまだ、第一コーナーにおり、これからといった状況にあり、私は、数年以内に第四コーナーまで持って行きたいと考え、まず、申請側と審査側が審査の共通認識を持てるような標準的なハンドブック(『モンテカルロ計算ハンドブック』、日本原子力学会、2006)の作成や申請側と審査側に携える専門家の養成(各種モンテカルロセミナー開催、なお、日本のモンテカルロ教育の現状については、『炉物理の研究』、日本原子力学会、No.61,(March, 2008)参照)を行っており、モンテカルロ安全評価法が原子力施設の標準的手法に位置づけられるためには、まだまだ、先が長く、もっと、努力しなければならないと痛感しており、日本原子力学会「最適モンテカルロ計算法」研究専門委員会の委員各位には、がんばっていただきたいと期待しています。

Wed, March 04, 2009 stanford2008の投稿

桜井淳所長から親しい友人のX先生へのメール-礎に神学を設けた場合のこれまでの学問の形式的体系化-

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X先生


禁酒(年数回のお祭り・冠婚葬祭・会食等の社会的お付合いは範囲外です)してから、訪問先や買い物の内容が一変してしまいました。飲酒は、確かに、ストレス解消によく、時には、人付き合いや会話の潤滑油となり、大きなメリットがありますが、その反面、体への負担もあり、特に、私のように還暦を過ぎると、長生きのために、体をいたわらなければならないという現実に直面しています。いまは、1日のうち、たびたび、日本茶を飲み、時には、スイーツを口にし、至福のひと時を楽しんでいます。

信者ではなく、ただ、教養として、高校1年生の頃から新約聖書の一部からなる『聖書』を読み続けていましたが、ユダヤ教とキリスト教(旧約聖書まで含む)、それから、儒教、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教を意識的に勉強するようになったのは、先月15日に東大大学院人文社会系研究科のH先生に会って以降でした。

研究対象としての神学に対し、H先生と質疑応答する過程で確認した神学研究の体系は、つぎのようなピラミッド構造になると認識しています。

----------専攻する神学(ユダヤ教やキリスト教)----
---------神学哲学・神学倫理学-----------------

--------比較宗教学のための儒教---------------
--------比較宗教学のための仏教---------------
-------比較宗教学のためのヒンドゥー教-----------
------比較宗教学のためのイスラーム教-----------
----基礎となる学問は旧約聖書(46冊)・新約聖書(27冊)
(ヘブライ語やギリシャ語で記載された一次資料の解読

による聖書解釈学と史的実証学)-------------------

よって、私の技術論と安全論を中心に、形式的に体系化すれば(暫定的に精神構造や専門的整合性を二の次とした機械的分類)、つぎのようなピラミッド構造になります(検討継続中)。

--------------安全論----------------------
--------------技術論-----------------------
----------専攻する神学(ユダヤ教やキリスト教)--
---------神学哲学・神学倫理学---------------

--------比較宗教学のための儒教---------------
--------比較宗教学のための仏教-------------
-------比較宗教学のためのヒンドゥー教---------
------比較宗教学のためのイスラーム教---------
----基礎となる学問は旧約聖書(46冊)・新約聖書(27冊)
(ヘブライ語やギリシャ語で記載された一次資料の解読

による聖書解釈学と史的実証学)-------------------
-世界と日本の歴史、哲学(プラトン、ヘーゲル、マルクス

等)、これまで蓄積した専門知識(物理学、炉物理、原子力

安全、社会科学)--------------------------------

これまで、大学に正式に在籍した期間は、10年になり(国立6年、私立4年)、東大での非公式期間3年間も含めれば、13年間になります。長くなり過ぎました(授業料・諸費用等も多額になり、教育費用効果の経済性は、成立していませんが、心豊かになり、癒されています)。6年前には、東大大学院総合文化研究科での社会科学の研究が最後になると思っていましたが、予定外の成り行きから、さらに、東大大学院人文社会系研究科(専攻は、①基礎文化研究専攻、②日本文化研究専攻、③アジア文化研究専攻、④欧米文化研究専攻、⑤社会文化研究専攻、⑥文化資源研究専攻、⑦韓国朝鮮文化研究専攻の七つですが、私は、①基礎文化研究専攻の中の研究室にお世話になります)で、しばらく、神学の学習と研究をすることになりました。これまで、関係文献を読み(「旧約聖書」「新約聖書」「新約聖書物語」「ナザレのイエス」「ユダヤ教の精神構造」「梅原猛著作集第9巻」「チベットのモーツアルト」(以上については本欄バックナンバー参照)、ただし、「新約聖書」については、教養として、高校1年生の頃から熟読吟味していました)、意外と良く理解できることに気づき、気をよくしています。そのため、単なる学習に留めず、何年必要かまだ分かりませんが、プロとして、原著論文や解説論文や専門的な哲学の講演ができるようなレベルに到達できるような修行をしたいと考えています(まだまだ不確実性の中での試行錯誤ですが、博士論文のまとめも夢ではないと考えています)。すでに、米東部超一流大トップ3校の大学院神学研究科の概要と研究内容も把握しており、将来的には、新たな関係が生じることを期待し、努力して行きたいと考えています。


ところで、人間は、どうして、競争したり、優越感を持ったり、怒ったり、するのでしょうか。私は、最近、悟りを拓き、結論は、他人の価値基準に依存し過ぎるためです。必要なのは、自身の価値基準のように思えます。生きるということはいかに自身の価値基準を作り上げるかではないでしょうか。そう考えると、不思議と、怒り等がすべて消えてしまうものです。これは仏教の悟りにつながるものです。



桜井淳

Wed, March 04, 2009 stanford2008の投稿

【事務所報告】桜井淳所長の最近の講演内容-敦賀1号機は即刻閉鎖せよ-

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【講演要旨】現在、世界で運転中の軽水炉で、最も古いグループに分類されるものは、あと2ヵ月から1年半で、設計寿命の40年を迎える米オイスタークリーク(BWR, 電気出力65.0万kW, 臨界日1969.5.3), 米ナインマイル1号機(BWR, 電気出力63.5万kW, 臨界日1969.9.5), 敦賀1号機(BWR, 電気出力35.7万kW, 臨界日1969.10.3), 美浜1号機(PWR, 電気出力34.0万kW, 臨界日1970.7.29)、福島第一1号機(BWR, 電気出力46.0万kW, 臨界日1970.10.10)であって、それらは、世界的には、"先行炉"(分かり易い表現をすると試験炉)と位置付けられていますが、米国では、"先行炉"については、あと20年間の寿命延長をしない方針になっており、日本では、最近まで、明確な方針は示されていませんでしたが、日本原電は、2月下旬に、「敦賀3号機と4号機の設置作業が遅れているため、当初の予定を変更して、敦賀1号機をもう少し運転継続する」と発表しましたが、この運転継続は、寿命延長を意味しており、もし、実施されるのであれば、設計寿命40年を基準にすれば、世界で最初の"寿命延長炉"となり、その動向が注目されますが、私は、敦賀1号機については、即刻閉鎖すべきと考えており、その理由は、(1)初期の軽水炉については、設計寿命が40年間と明記されているわけではなく、大きな不確実性の中にあること、(2)耐震設計に大きな不確実性があること、(3)電気出力が低くて経済的メリットがないこと等で、日本原電の主張するような単なる新設作業の遅れという単純な理由では、運転継続すべきではありません。

Wed, March 04, 2009 stanford2008の投稿

桜井淳所長の村上春樹『ノルウェイの森』(講談社文庫)の書評-470万部歴史的ベストセラーの秘密-

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村上春樹『ノルウェイの森』が発売された当時、関心がなく、読みませんでした(表題はビートルズの曲名)。しかし、470万部の歴史的ベストセラーの記録を達成したことから、何がそれほどまでに受け入れられたのか知りたくて、2003年に発売された講談社文庫版を一気に読んでみました。この作品は、村上氏が40歳頃にまとめたもので、内容は、大学生の"性"と"生"("生"は建設的に生きるという意味)が克明に、しかも、みずみずしく、描かれています。そこで描かれている"性"と"生"の両者とも、本当は、非常に深刻な側面があるにもかかわらず、さりげなく、本当に、さりげなく、淡々と展開されています。"性"の描写が多く、その内容が、その頃の年齢の大学生の男女の標準的な例なのか、読者へのサービス精神なのか、判断しかねますが、村上氏が、一番言いたかったことは、"性"よりもむしろ"生"にあり、前者を廃退的に描き、すなわち、登場する男女大学生(元大学生含む)の約半数が、原因は異なるものの、みな、何らかの心の病を患い、自殺してしまうというストーリーにより、"性"よりもむしろ"生"の大切さを訴えているように受け止めました。読者の多くは女性でしょう。それらの女性は、"性"の描写に関心があったのではなく、この世の中、"生"の難しさに病み、克服の道しるべを見出そうとしたように思えました。深刻な内容をこれほどさりげなく、そして、最後の数行で、将来の可能性を示唆する当たり、思わず、さすがと唸ってしまいました。なかなか面白い作品です。

Wed, March 04, 2009 stanford2008の投稿

桜井淳所長の『数学史入門』(ちくま学芸文庫)と『デカルトの数学思想』(東大出版会)に対する書評

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早いもので駒場キャンパスに通ってまる5年になります。いろいろな勉強してきましたが、これから、ひとつひとつ、整理して、気持ちを切り替えて行かなければなりません。まず、佐々木力『数学史入門』(ちくま学芸文庫、2005)ですが、古代ギリシャの数学からニュートンとライプニッツによる微積分まで、見事な論理化です。原稿を2週間で仕上げたというのは、東大理学部数学科と東大大学院数理科学研究科での10年間の講義ノート(「あとがき」、p.214)があって初めてできることです。記載内容の特徴をいくつか挙げれば、(1)数箇所に著者の建設的な歴史認識が記されていること、(2)数箇所でクーンやマホーニィの業績を引用し、高く評価し、特に、関係箇所で、クーンの構造以来の一番重要なキーワード「通約不可能」(incommensurable)を分かりやすく示していること、(3)歴史的一次資料に当たって、それを引用しつつ、論理展開していること、(4)文献の孫引きを決してせず、自ら、必ず、一次資料に当たり、熟読吟味し、内容を確認しており、時には、注として、他の引用者の誤りまで示して正していることで、特に、(3)(4)は、当たり前のように思われがちですが、誰しもなかなか100パーセント実行できず、改めて、肝に銘じねばならないと自身に言い聞かせました。一般論からすれば、よい著書か否かは、(3)(4)に着目すれば判断できます。その意味では『数学史入門』は大変優れた内容です。つぎに、佐々木力『デカルトの数学思想』(東大出版会、2003)(9年間かけてまとめたプリンストン大学歴史学博士論文(600p.に及ぶ例のない分量)の日本語版。当時、プリンストン大学歴史講座には、世界でもその分野のトップクラスの研究者であるクーン、ギリスピー、マホーニィが在籍)を読み始めて5年になります。いつまでもこだわっているわけにも行かず(この問題が、長い間、喉に、小骨のように引っかかり、気になっていました)、問題を整理するために、いま、暫定的に、感想を述べておきます。最初に、全8章を熟読吟味し、2回目は、特に、オリジナリティの高いと教わった「第一章デカルトとイエズス会の数学教育」、「第四章『精神指導の規則』の数学的背景」、「第五章1637年の『幾何学』」、「第六章アリストテレスにおける「普遍学」」、「第八章17世紀の「普遍数学」」を特に注意深く読み、数回繰り返し熟読吟味してみました。文章が軟らかく、分かりやすいため、たとえ、分量が多くても、苦になることはありませんでしたが、私には、数学研究の経験がないため、さらに、その分野の多くの一次資料に当たった苦しみの経験がないため、オリジナリティの高いとされる章の絶対的価値が分かりませんでした。ただし、「とりわけ、彼(引用者注 ルネ・デカルト)が近代の代数解析的数学の創始者であるフランソワ・ディエトの著作を読んだかどうかを確かめることは、私の長年の念願であった」(「序文」、viii)に記されているとおり、歴史的な問題に挑んだことは、よく分かりました。記載内容と引用文献から判断して、歴史的成果であることは、よく理解できましたが、細部に渡って理解できたかというとそうではなく、全体の三分の一くらいしか本当の意味が分からなかったのではないかと反省しています。やはり専門外のことであるため、微妙な問題の解決のための作業内容と難易度が分からないために、価値判断ができませんでした。それから、あえて言えば、「結論」のまとめ方にやや違和感を覚えました。と言うのは、普通、「結論」には、それまでの議論でオリジナリティの高い箇所を強調するための総まとめと解釈されていますが、この本では、必ずしもそうなっておらず、新たな文献を引用し、さらなる考察を続けていますが、そのような形式には、初めて出会いました。この点に違和感を持ちました。この本で示された研究の方法と表現法は、特に論証の必要十分性について、自身の学位論文をまとめる上で大変に参考になりました。その意味では感謝しています。その分量と内容をまとめられる忍耐強さが何によって養われたのか、認識してみたいとも思いました。私が『資本論』(向坂逸郎訳、岩波文庫版、1969)を十数回読み返したのはそのためでした。私なりに忍耐の根源が理解できたように思えます。察するに、仮に、佐々木先生が、この本の認識と基準のレベルで、東大大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系(いわゆる科史・科哲)で学位審査をされたならば、おそらく、みな、不合格になることでしょう。

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