4/21〜7/19の期間、外来先の病院に入院してました。
措置入院になるところだったけど、措置入院になると、通院先の病院に搬送されるとは限らないので、両親が反対し、4/21の朝一番に横山先生に診ていただき、即入院になりました。
その時の様子は、自分では何もすることが出来ず、主治医の先生曰く「神経衰弱状態」だったそうですが、自分の頭も支えることが出来ず、口元からはよだれをダラダラ流し、目を開いたまま放心状態。
先生が脳波を撮ろうとしたけど、測定することが出来ず、車椅子でE−3病棟(スーパー救急病棟)の保護室まで運ばれ、そこで3ヶ月過ごすことになった。
病棟の担当の先生に主治医が変わり、木崎先生になる。
すぐに点滴が刺され、徐脈だったらしく、心電図モニターが設置された。
散々暴れたし、しばらくお風呂に入っていなかったので、髪の毛が束になって固まり、ゴワゴワになっていた。
おむつを当てられ、勝手に替えて行った。
食事も介助してもらって食べた。
4日目くらいに病室から出ることが出来るようになり、それからは色々なことが許可されていったけど、他の患者さんとの交流は難しく、常に一匹おうかみに看護師さんがプラスされてる感じ。
お風呂も介助だった。
でも病棟内のOTに参加できるようになってくると、いきいきしてきた。
でも病棟OTでも、OTRの方をかなりてこずらせていた。
「迷惑行為があったら、次の日のOTは参加できない」というきまりまで出来てしまい、私は必死だった。
OTが大好きだったから。
大声もかなり出したし、あらゆる物を食べてしまい、落ち着かなくてさ迷い歩いたり、食器を投げたことも何度もあった。
看護師さんに暴言を吐いたこともあったし、人格が変わってしまったと自分では言っていた。
でも私の楽しみは、彼に電話することと、折り紙の作品を作り上げ、ナースルームに展示していくことだった。
途中、やっぱり食べられなくなる期間、飲み込みが悪くなる期間があり、ソフト食や高カロリー飲料になった時もあったが、自分ではダイエット入院だと思い、たいして気に留めていなかった。
それより、薬の副作用で、体の隅々までガタガタ震えること、目が上に上がることのほうが辛かったので、薬を替えてもらったら、フラフラと倒れるようになり、これは退院まで続いた。
途中で、横山先生が朝から現れたかと思ったら、横山先生が7月に辞めて、クリニックを開設することを話され、自分はそのクリニックまでついていける距離ではないし、横山先生と離れてしまうことを実感し、一日中泣いていた。
木崎先生は心配してずっと見守ってくれていた。
その木崎先生が、新しい主治医となった。
たくさんの看護師さんに助けられ、愛情を注いでもらって、その分入院費はバカにならず、畑を売り、両親は不機嫌になり、私もどうしたものかと思いながら、木崎先生の入院期間3ヶ月を満期使って、徹底的に調子を戻す、という考え方は変わらず、意志の強い先生で、逆に言えば頑固者で、これから付き合っていくのにどういう手段でいけばいいのか悩むところだ。
退院する時に、入院の振り返りを看護師さんとしていて「私みたいな患者さんはいなかったでしょう?」と聞いたら「いなかったわよ!本当に大変だった。でも我々は勉強させてもらったね」と言ってくれた。
数々のエピソードを残したけど、ちゃんと病棟に留まらせてくれ、強制入院なんてことにもならず、かえって「大変だったね。無事でよかった」といつも私の見方になってくれて、とても心強かった。
絶対に一方的に責めるということはしなかった。
私は本当に手のかかる患者だったと思うけど、悪口を私に向かって言うこともなかった。
失禁とかしても「替えればいいだけ」ととても前向きなのには助かった。
ただ・・・入院費が100万は高すぎますよ・・・!!
措置入院になるところだったけど、措置入院になると、通院先の病院に搬送されるとは限らないので、両親が反対し、4/21の朝一番に横山先生に診ていただき、即入院になりました。
その時の様子は、自分では何もすることが出来ず、主治医の先生曰く「神経衰弱状態」だったそうですが、自分の頭も支えることが出来ず、口元からはよだれをダラダラ流し、目を開いたまま放心状態。
先生が脳波を撮ろうとしたけど、測定することが出来ず、車椅子でE−3病棟(スーパー救急病棟)の保護室まで運ばれ、そこで3ヶ月過ごすことになった。
病棟の担当の先生に主治医が変わり、木崎先生になる。
すぐに点滴が刺され、徐脈だったらしく、心電図モニターが設置された。
散々暴れたし、しばらくお風呂に入っていなかったので、髪の毛が束になって固まり、ゴワゴワになっていた。
おむつを当てられ、勝手に替えて行った。
食事も介助してもらって食べた。
4日目くらいに病室から出ることが出来るようになり、それからは色々なことが許可されていったけど、他の患者さんとの交流は難しく、常に一匹おうかみに看護師さんがプラスされてる感じ。
お風呂も介助だった。
でも病棟内のOTに参加できるようになってくると、いきいきしてきた。
でも病棟OTでも、OTRの方をかなりてこずらせていた。
「迷惑行為があったら、次の日のOTは参加できない」というきまりまで出来てしまい、私は必死だった。
OTが大好きだったから。
大声もかなり出したし、あらゆる物を食べてしまい、落ち着かなくてさ迷い歩いたり、食器を投げたことも何度もあった。
看護師さんに暴言を吐いたこともあったし、人格が変わってしまったと自分では言っていた。
でも私の楽しみは、彼に電話することと、折り紙の作品を作り上げ、ナースルームに展示していくことだった。
途中、やっぱり食べられなくなる期間、飲み込みが悪くなる期間があり、ソフト食や高カロリー飲料になった時もあったが、自分ではダイエット入院だと思い、たいして気に留めていなかった。
それより、薬の副作用で、体の隅々までガタガタ震えること、目が上に上がることのほうが辛かったので、薬を替えてもらったら、フラフラと倒れるようになり、これは退院まで続いた。
途中で、横山先生が朝から現れたかと思ったら、横山先生が7月に辞めて、クリニックを開設することを話され、自分はそのクリニックまでついていける距離ではないし、横山先生と離れてしまうことを実感し、一日中泣いていた。
木崎先生は心配してずっと見守ってくれていた。
その木崎先生が、新しい主治医となった。
たくさんの看護師さんに助けられ、愛情を注いでもらって、その分入院費はバカにならず、畑を売り、両親は不機嫌になり、私もどうしたものかと思いながら、木崎先生の入院期間3ヶ月を満期使って、徹底的に調子を戻す、という考え方は変わらず、意志の強い先生で、逆に言えば頑固者で、これから付き合っていくのにどういう手段でいけばいいのか悩むところだ。
退院する時に、入院の振り返りを看護師さんとしていて「私みたいな患者さんはいなかったでしょう?」と聞いたら「いなかったわよ!本当に大変だった。でも我々は勉強させてもらったね」と言ってくれた。
数々のエピソードを残したけど、ちゃんと病棟に留まらせてくれ、強制入院なんてことにもならず、かえって「大変だったね。無事でよかった」といつも私の見方になってくれて、とても心強かった。
絶対に一方的に責めるということはしなかった。
私は本当に手のかかる患者だったと思うけど、悪口を私に向かって言うこともなかった。
失禁とかしても「替えればいいだけ」ととても前向きなのには助かった。
ただ・・・入院費が100万は高すぎますよ・・・!!
3ヶ月かけて、徹底的に調子を戻すというやり方は、
とてもよかったと思います。
入院費のことが、辛いのですね、ゆこたんは優しいから。
私のいた病棟は、最長でも3ヶ月しかいられないんですよ。
でもその3ヶ月で100万は我が家には大きな出費です。
これを教訓に落ち着いてくればいいんだけど。