シリーズ追跡 うどんのルーツに新説
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中世京都の禅寺で誕生?

 うどんは中国でなく、日本生まれだった?―。うどんの起源に関し、中国のワンタンがルーツとする定説を覆す新説が発表された。現在のようなうどんは、中国から伝わった麺[めん]の一種が日本で独自の進化を遂げ、鎌倉時代に京都の禅寺で誕生したという。うどんの起源といえば、香川では、空海が中国から伝え、香川から広まったと信じる人も少なくないはず。となると、空海伝承説はどうなってしまうのか。

日本生まれ

ワンタン起源説に疑問 伝承料理研究家の奥村さん

「うどんは日本生まれ」とする新説を解説する奥村さん=奈良県香芝市
「うどんは日本生まれ」とする新説を解説する奥村さん=奈良県香芝市
うどんが生まれるまで(奥村説に基づく)
うどんが生まれるまで
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 新説を発表したのは、テレビの料理番組でもおなじみの伝承料理研究家の奥村彪生さん。美作大大学院(岡山県津山市)に在籍し、「日本のめん類の歴史と文化」と題した博士論文の中で、うどんのルーツに迫った。
  「ワンタンがうどんの起源?まず形が似ても似つかない」。中国のワンタンがうどんの起源とする説に、奥村さんは料理人の立場からそんな疑問を抱いていたという。
  この説は、昭和初期の中国文学者青木正児京都大教授(故人)が発表。今ではうどんの起源として最も有力な説となっている。
  青木説は、中国でワンタンを指す「※1飩[こんとん]」にうどんの語源を求める。※1飩は「※2飩」と書くことがあり、「うんとん」とも読む。これが同じ読みの「温飩[うんとん]」となり、「饂飩[うどん]」に変わった―というものだ。
  「この説は文字に頼りすぎている。中国に詳しい青木先生は、※1飩がどんな食べ物だったかよく知っていたはずなのに…」。奥村さんは青木説をこう評する。

    ◆  ◆  ◆

 奥村さんはうどんの起源を探ろうと、三十年かけて中国各地で麺を食べ歩き、日本国内の古文書を読みあさった。結果、中国には、湯で温めた麺をつけ汁につけるうどん本来の食べ方がなく、饂飩の「饂」の字もないことが分かった。
 奥村さんが着目したのは、うどんが切り麺ということ。青木説が手のひらで生地を平たく延ばす古代のワンタンを起源とするのと最大の相違点がここで、奥村さんは切り麺の歴史をさかのぼった。
 切り麺が中国から伝わったのは鎌倉時代。中国の切り麺の歴史をひもとくと、唐代に「不※3[ぷとう]」と呼ばれる切り麺がある。これが発展したのが「切麺[ちぇめん]」で、宋代に盛んに作られるようになる。
 そして、この切麺が一二〇〇年代前半、留学僧によって伝えられ、日本で「切麦[きりむぎ]」と呼ばれた。切麦は中細麺で、今の冷麦のことだ。奥村さんは「この切麦こそがうどんの祖先」とする。
 それでは、切麦がどのようにうどんに変化したのか。
 江戸時代の記録などによると、うどんは、ゆでた麺を水で洗った後、熱湯につけ、つけ汁につけて食べていた。今でいう「湯だめ」だ。中細の麺を湯につけたのでは、どうしても麺が伸びてしまう。そこで、湯につけても伸びないよう発明された専用の太切り麺こそが、うどんというのだ。

    ◆  ◆  ◆

  うどんが初めて文書に登場するのは南北朝時代の一三五一年。法隆寺の古文書に出てくる「ウトム」がそれ。うどんの記述はその後、京都の禅寺や公家の記録に頻出する。留学僧によって切麦が伝えられたのが一二〇〇年代前半。当時、中国へ渡る留学僧は禅宗の僧が中心だった。
  こうした経緯から、奥村さんは「うどんは、一二〇〇年終わりごろ、京都の禅寺で生まれた」と結論づけた。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中していることから「発祥の地は京都とみるのが妥当」と言う。
  麺をつけ汁につける食べ方について、奥村さんは「食べ方に美しさを求め、素材そのものの味を味わう禅宗の考え方につながる。中国にはない食べ方だ」と解説する。
  起源を探るもう一つの手がかりが饂飩の文字だ。うどんが禅寺で生まれた―との前提で奥村さんが続ける。
  中国で不※3と呼ばれていた切り麺。これを湯につけるから「温※3[うんとん]」。食べ物なので、「温」のさんずいを食偏に改めて「饂」と作字し、中国の※1飩の「飩」を参考に「饂飩」と書いた―とみる。「禅宗の言葉は濁点が多い。饅頭[まんとう]を『まんじゅう』、点心[てんしん]を『てんじん』と読むように、饂飩も『うどん』と読んだのではないか」と推測する。
  「ここからは少々想像力をたくましくしてほしい」と奥村さん。「寒い冬、禅寺で切麦を打つ時、ある坊さんが試しに太切りにしてみんなで出来たてを食べ比べ、『これはうまい』となったに違いない。『この太切り麺の名前はどうするか』とも議論したはず。一休さんを生んだ禅宗。頓知のきく坊さんがいたんですよ」。

    ◆  ◆  ◆

  ところで、香川では※1飩を中国から持ち帰ったのが空海だと信じられており、空海はうどんの祖として広く知られている。ただ、奥村説のように※1飩がうどんにつながらないとなると、うどんと空海は無関係になってしまう。それでは、どうして讃岐の地で、これほど、うどんが広まったのだろうか。
  奥村さんは「注目すべきは金刀比羅宮との関連だろう」と言う。「参拝者が増えるにつれ、門前にうどん屋ができ、味を競い合ったのがさぬきうどんのルーツ」との見方だ。
  こんぴら参りが盛んになった江戸中期、石臼が農村に普及し、うどんは庶民の間にまで広まっていたと考えられる。水利の悪い香川は米作より麦作に適しており、うどん作りも盛んだったはず。金刀比羅宮の門前でうどん屋が繁盛していたことは、元禄年間の金刀比羅宮の様子を伝える「金毘羅祭礼図」に、うどん屋が描かれていることからも分かる。
  うどんは中国から伝わった切麦が進化した日本独自の食べ物と主張する奥村さんは「うどんは空海が伝え、香川がうどんの発祥の地という説はやはり俗説ととらえるべき。うどんの本場ならではのロマンやわね」と話す。「ただ、京都で生まれたうどんの文化が香川で花開いたのは間違いない。日本中の麺を食べ歩いたが、さぬきうどんが日本一」と太鼓判を押した。

※1は飩のつくりが昆
※2は飩のつくりが軍
※3は純のいとへんがてへん

  奥村 彪生(おくむら・あやお)1937年和歌山県生まれ。奥村彪生料理スタジオ「道楽亭」主宰。NHK「きょうの料理」などに出演。大阪市立大生活科学部大学院非常勤講師。4月から美作大大学院客員教授に就任予定。奈良県香芝市在住。71歳。

地元の反応

空海説の否定は拙速

真部正敏会長
真部正敏会長

 「そりゃ、われわれにとっては一大事ですよ」。県内の麺業界関係者らでつくるさぬきうどん振興協議会長で、さぬきうどん研究会長も務める真部正敏さんは、奥村説に困惑の色を隠さない。
  県内のうどん業界関係者らは、空海をうどんの祖とあがめ、善通寺などで献麺式を挙行。うどんのルーツを求め、中国の空海ゆかりの地まで訪ねている。それが「うどんは空海と無関係」となれば、「一大事」なのは当然だろう。
  「うどんは中国伝来が定説。日本生まれとする説は初めて」と真部会長。しかし、うどんが中国から伝わった時期や詳しい経緯はまだ解明されていない。
  真部会長によると、遣隋使、遣唐使が持ち帰ったという説のほか、中国側には三世紀末から五世紀ごろ、日本に帰化した人たちが持ち込んだとの説もある。そして、香川には空海伝承説が伝わる。
  この空海伝承説は一般的に俗説とされるが、真部会長は「果たして本当にそうだろうか」と疑問を投げ掛ける。
  「空海の時代、日本にうどんがなかったことは間違いないだろう。しかし、空海がうどんの祖型を持ち帰った可能性は否定できない」との考えだ。「空海は中国で進んだ麺文化に触れたはず。それを持ち帰ったと考えるのは自然な流れ」とみる。
  「その祖型が日本でうどんに変わるまでの経緯は残念ながら分からない。だが、『(空海が持ち帰った)記録がないから事実もない』と片付けるのは拙速」と空海伝承説の可能性を捨てていない。
  果たして、うどんは空海が中国から伝えたのか。はたまた日本で誕生したのか。謎は膨らむばかりだが、県観光協会の松岡勝哉専務理事は「うどんの起源は諸説あっていい。ルーツがどうあれ、香川の人がさぬきうどんに誇りを持っていることが大切。新説をきっかけにルーツを巡る議論が盛り上がれば」と、うどん起源論争の広がりに注目している。

【取材】福原健二

(2009年3月8日四国新聞掲載)

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