米兵が撮った1945年の東京
焼け跡にたたずむ母子、幼い弟をおぶるおかっぱ頭の少女。敗戦直後の1945年秋、東京で撮影された写真43枚が62年ぶりに米国から日本に里帰りした。米シカゴ生まれで太平洋戦争中、米空軍写真偵察隊所属だったクリフォード・マッカーシーさん(03年7月、82歳で病死)が写した。戦後、米オハイオ大で32年間、美術教授を勤めたことから同大と学術交流協定を結ぶ中部大学(愛知県春日井市)に贈られた。【高尾具成】
マッカーシーさんは従軍した南太平洋地域のビアク島からの帰途、東京に立ち寄り、帰国船を待つまで約6週間滞在した。43枚のモノクロ写真はその際に撮影された。
単語帳を広げ子供たちに尋ねる米兵、連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官が使う高級車の横を牛を引いていく男、混雑する新宿駅……。
軍に借りたスピード・グラフィック・カメラで、米軍施設のあった調布の街角や田畑、東京駅周辺、明治神宮など焼け跡となった戦後の情景や、そこに生きる人々にレンズを向けた。「顔と顔を突き合わせて人とかかわることは、戦争という顔が見えない抽象的なものとは違う。撮影しているうちに友情が芽生えた」。生前、友人にこう告げたという。
写真は約半世紀余、ネガのままだったが、知人が歴史的重要性に気づき、98年、43枚をプリントした。この間、関係者以外の目に触れる機会はほとんどなかった。
妻のアーリーンさん(84)は「写真記録が多くの若者が学ぶ糧になれば喜ばしい」とメッセージを寄せ、写真に映る人々の情報や関係者との交流も望んでいる。
戦後の混乱期、若い米兵が向けたレンズに「日本の人々は憎しみでなく、親切と暖かさもって迎え入れてくれた」。マッカーシーさんは当時の記憶を話していたという。
コメント
ほんとうに感慨深く拝見しました。
私は昭和20年の敗戦の年に生まれました。
渋谷という、戦後の日本の姿を象徴する街で6年間を送りました。
幼少であったにもかかわらず、もの心ついてからの思い出は鮮烈であり、その後の生き方に大きな影響を受けました。
連合軍将校の住宅のそばに住んでいましたので、その子供達とも遊びました。
まだ見渡すほどに大きかった空にかかる夕焼けに、今では想像もできないほど沢山の鳥の群れが、うねりながら飛び去る景色は、子供心に切なく眺めたのを、いつも思い出します。
それは希望でもあり、無常観でもあったと大人になって思うことでした。
語らずとも、この写真のとおりです。
その中にある、人々の生活は濃密なものでした。
ありがとうございました。
矢野
マッカーシーさん有難う御座いました。
写真を一枚一枚丁寧に見らして貰いました、
当時の日本人が過酷な戦争が終わり、人々が
ほっとしている表情が克明に写されています
そして、日本人の逞しさ、子供たちの無邪気さ
写真の説明文から読み取れる、マッカーシー
さんの心優しいお気持ちは、涙なくして見られ
ません日本はアメリカに負けて、本当に良かった
もし、当時のソ連とか中国に負けていたら、現在 の民主日本は絶対にありえないですから。
マッカーシーさん有難う御座いました。
写真を一枚一枚丁寧に見らして貰いました、
当時の日本人が過酷な戦争が終わり、人々が
ほっとしている表情が克明に写されています
そして、日本人の逞しさ、子供たちの無邪気さ
写真の説明文から読み取れる、マッカーシー
さんの心優しいお気持ちは、涙なくして見られ
ません日本はアメリカに負けて、本当に良かった
もし、当時のソ連とか中国に負けていたら、現在 の民主日本は絶対にありえないですから。
投稿:中田 勝雄 2008年7月16日 (水) 13:09
★同感です。
昨晩は「中田 勝男様」の投稿を全く其の通りだと実感し利用させていただき、ありがとう御座いました中田様。今も写真やコメント(写真の含めて)を見たくて就寝を待ったところです。当記事を友人3人に下記コメントを付けて送信しました。
少女が炊き出し?食べ物をくれた。
ラッキーストライク半箱を上げ、、、振り向けなかった。
栄養失調少女、威厳ある表情をして、、、。
印象に深く残り観ました。
今、我われは大変に恵まれた中を、ややもすると私的不平不満が小言を発し、対する人に不快な思いをさせぬ様に心掛けねばいけませんね。
45年、私の生れ年で大分昔だけど4X5はレンズ&フィルム大きくて空気(距離)感やボケ味佳いですね、伸び伸び感あります。
クリフォード・マッカーシー様、素晴らしいお写真と説明文をありがとうございました。
中田 勝雄様のおっしゃるように、マッカーシーさんの日本人に対する心あるお気持ちが斟酌できる、お写真であり、説明文です。
何年か前に、エノラ・ゲイ号の生き残りのパイロットが、今も尚、心身共に苦しんでいらっしゃる広島の原爆の被災者の方々に向かって、「あんたたちは、生き残ったんだから、いいじゃないか!」と言い放ったのとは、なんという違いでしょうか。
長谷川町子さんが「サザエさんうちあけ話」で、戦後の進駐軍のことを描いておられる箇所があります。「鬼畜米英。男は殺され、女は陵辱される。」と信じていた日本人は、米軍の乱暴を恐れて過ごしていたところ、米兵の思いがけぬやさしさに触れて・・・というエピソードが紹介されています。
母(昭和11年生まれ)は、戦争中、群馬県松井田という所に疎開しました。「名物はなんですか?」と尋ねると、「雷だね。」と返事が来るほど、蕎麦しか取れない、貧しい土地でした。そこで、母は栄養失調に陥り、”飢え”と”親と離れた寂しさ”と”おでき”と”シラミ”に苦しんだ話は、幼少の頃より、耳にタコができるほど聞かされて育ちました。そのため、昭和40年生まれの戦争を知らない世代ではありますが、戦争のことは、他人事ではない思いで生きて参りました。
(祖父は、戦争中、三菱銀行横浜支店の支店長でしたので、横浜大空襲の後、ゲタ履きで徒歩で帰宅した話などもよく聞いたものでした)
マッカーシーさんの写真を拝見して、真っ先に思い出したのは、母校の先輩・井上ひさしさんの「東京セブンローズ」です。
あの地獄のような戦争が終わって、人々が明るい顔をして生活している様子が、初めて、視覚的に理解できました。(母から、戦後の方が、食糧が無くて苦労したと聞いたもので)
これは、是非、私の所属する聖イグナチオ教会で、マッカーシーさんのお写真をお借りして、写真展を開催できないものかと思いました。
先ほど、「沖縄戦:『鉄の暴風』死者20万人 徹底抗戦で『捨て石』に」の写真を全て印刷させていただき、今日、主任司祭に見ていただこうと用意したところでした。
沖縄戦の写真は、ひと言で言って、悲惨なものですから、暗澹たる気持ちにさせられます。しかし、マッカーシーさんのお写真からは、『希望』を感じました。
子どもたちは、マッカーシーさんのお写真を、より喜ぶのではないかと想像します。
私は、聖イグナチオ教会の一信徒で、関係者ではありませんが、ロスとNYに合計4年半暮らしました。
マッカーシーさんの奥さまがご希望とあらば、通訳くらいはさせていただけるのではないかと存じます。交流を望んでいらっしゃるということでしたら、お元気なうちに連絡を取らせていただけたらと考えます。
二反田 弘信様 のおっしゃるように「私的不平不満が小言を発し、対する人に不快な思いをさせ」ている場合ではないですよね。私たちの幸福は、人々の犠牲の上に立っているのですから。
マッカーシーさんの人間味溢れる言葉や行動には感激を覚えます、お互いに戦争をした国民同士が、今こうやって昔を語り合える事は、大変良いことと思いますし又二度と戦争をしてはいけないと言うことを深く考えさせて頂きました、同じ地球に住んでいる人達が争うことは意味があるのかと考えさせられます、一枚一枚の写真を撮るときの彼の心が伝わります、ありがとうございました
投稿:マリア 長島訓子様、最後まで読ませて頂きました。私のコメントを引用してくださり、目頭が潤んでしまいました。ありがとう御座いました。
二反田 弘信様
長いコメントを最後まで読んでいただきまして、
ありがとうございました。
二反田様も中田勝男様のコメントを引用なさって
いらしたので、真似させていただきました。
カトリック東京教区では、今日から15日まで、
平和旬間に入りました。「平和を祈る10日間」
と題しまして、今日は最初のイベントである
「千鳥が淵平和祈願ミサ」が18時から、
千鳥が淵戦没者墓苑にてございます。
聖イグナチオ教会の主任司祭が司式をいたします。
これからの10日間は毎日、平和を求める祈りで
日々を過ごして参ります。
さて、今日は広島 原爆の日。
このサイトでみつけました、Mixiの「空を見る人」というコミュニティで、8時15分に「せーの!」で、空の写真を撮り、アップします。
そろそろ、その準備に入ります。
二反田様、ありがとうございました。
絵画では表現できないリアルさとその一瞬、文字では理解しづらい状況でも写真ならではの判りやすさ、すばらしいです。
戦後生まれで、東海地方の山間で育ったのですが、もんぺ姿の大人、手錠を掛けられサイドカーに乗せられた人、弁当の無い同級生、つぎはぎの衣類、サツマイモの入ったご飯、など誰もが貧しい時代でした。時にはサイクリングでやって来た米兵、町に出た時に聞いた「炎のキス」等が思い出されます。
当時の東京には、日本の貧しさ、戦後の安堵感と明日への希望、生きるたくましさ、などの縮図が有ったのですね。
短い滞在期間にこれだけの撮影枚数、行動エリアはスピグラとは言え大変な作業だったことでしょう。撮影技術、写真の内容、そしてもっとも大切なことは当時の状況を残そうとした目的、意義そして行動には敬服いたします。
時代は、くりかえされてしまうんでしょうか?
戦後の敗戦の日本の写真を見るたびに思うのですが
きっと誰もが、もう戦争はコリゴリだと思ったんじゃなかったのですか?祖父は戦争で無くなり祖母は私にいつも「戦争なんてやってな~にもいい事なんかありゃせん」って言って記憶があります。
今も世界のどこかで戦争がおこり、憎しみと悲しみを生んでいる・・・・人間は 本当に成長しない生き物なんでしょうか?核を持つことが平和を生み核の均衡が世界を平和にしているなんて・・・何か本質的なところで間違っていると思うんですが。世界の貧困や飢餓なんて世界の軍事に費やすお金を回せば解決できるんじゃないんでしょうか?理想と現実とは違うとわかっていても宇宙旅行も夢じゃなくなってきたこの時代においても もうすこし人間賢く生きてもいいんじゃないですか?この地球でみんなが幸せに生きる事ってそんなに目指す価値の無い事なんでしょうか?
戦争を知らない世代として 戦後の写真を見せられるたびに・・・・・・今は無くなりし祖母の言葉を思い出します
43枚の写真有難く私のパソコンに保存させて戴きました。有難うございます。マッカーシーさんの暖かい人柄が伝わって参ります。江戸時代の開国を促したぺりー提督、太平洋戦争のマッカーサー元帥も
日本人を見て、何れこの国はアメリカと同等の国に変化するであろうと予言。敗者に対して寛大なアメリカという国に我々は感謝しなければならないと言えます。豊かな国アメリカに占領されて幸運を掴んだ日本国。反対に日本が勝ってアメリカを占領した時、果たして日本軍はこのような態度でアメリカ人に接したであろうか。我々は世界の中枢国へと今進みつつあるが、米国軍のありようをしっかり見つめ世界の人々から尊敬に値する国になるべきである。そのようになりつつあるのであるが・・・。
マッカーシー様の写された写真を拝見致しました。43枚の写真を上から右横順に見ていきますと風景写真では一段目の3枚目の舟、4段目の26枚目の鉄骨は、場所が特定できません。3枚の小型潜水艦の写真は、特攻兵器人間魚雷「回天」と思われます。この写真を見ました時には、全身鳥肌が立ちました。駅名不詳の写真内、4段目の24枚目、6段目の39枚目の2枚は新宿駅と推定されます。4段目の28枚目の写真は、東京駅の内側の写真でしょう。5段目の31枚目は明治神宮。同33枚目は警視庁前よりお堀越えに写したGHQ(現在の第一生命本社)です。それ以外の地名不詳の市街地は、ほぼ新宿と見て間違いないと思います。田園風景写真は、マッカーシー様のご説明からの推定になりますが、概ね、現在の調布市近郊と思われます。人物写真は、私の脳裏に鮮明な記憶として残っております。
当時のマッカーシー様の日本人に対するご慈愛に満ちましたご回想、及び、投稿者各位のコメントを拝読致しました。拝読中、そしてその終了後に至るまでの間、涙、滂沱して止まず、感涙に咽んでおります。
願わくば、日本人全国民が、見、且つ、読まれんことを念じるのみです。
たいへん貴重な写真を見れたことはうれしい限りです。
この当時はこんなだったんだと思いを馳せながら見ました。
皆さんがいたから今、平和な時代を私達は過ごしているんだと実感できます。
また、戦争が終わったばかりなのに、敵国だった人たちに親切に接した女性などいろいろ思いはあるかもしれないが、人間は誰もがこうあるべきじゃないのかなといろいろと思うところも多々ありました。
見せて頂きありがとうございました。
あの国力の差著しいアメリカとの戦争には、ゲリラ戦か奇襲を、何度も、成功させるしかなかった。
ちょうど、ベトナムやキューバ革命にやった戦法だ。ベトナムは、共産国の援助もあった。それも、なんども成功しつずけないと、勝てないのが、日本の場合だった。援助国もなく。つまり、難しいか、無謀だった。力も知恵も、米軍と戦うには、不足とみえる。負ける公算が、多いなら、外交解決のほうがいい。
終戦記念日にあたり、素晴らしい写真を見せていただきました。
マッカーシーさん、友情をもって多くの写真を撮ってくださってありがとうございます。
当時の私の親が、祖父母が、写っているのと同じことです。
この子供たちが大人になり、そして私たちが生まれたのだとはじめて実感することができました。
こちらのURLを両親にも送りたいと思います。
昭和30年,戦後生まれの私なのに、どうして涙が止まらないのでしょう。
写真は,戦争の為に、人と人との間に出来た憎悪や不信に振り切れていた心の針が,少しづつ信頼と希望という方向に戻って来ていることが、示されています。
多くの戦争の記録写真からは、なかなか窺えない、人間が本来持っている生きる力,そしてそれを共感しようとする心、そして尊敬が,クリフォード・マッカーシーさんの写真から読み取れます。子供達の笑顔であり、貧しい中で,焼けたサツマイモを撮影者である米兵に与えようとする婦人の美しい気持ちが,直に伝わって来ます。
アフガニスタンに,農業指導に出かけて行った日本の青年が亡くなりました。その遺体を現地の人々が運ぶ写真にも同じ種類の気持ちを感じます。悲惨や悲劇を越えて、まだまだ人の信頼を示そうとすること。この世は捨てたものではないと,信じたいものです。第2第3の伊藤さんが、クリフォードさんが出てくること、そしてささやかながら、自分もそれに続きたいと思います。
私は現在37歳の主婦です。曽祖父は陸軍大佐で終戦の二日前に戦死。同じく陸軍の軍人だった祖父と祖母は戦後、肺結核で共に病死。他の家族も皆、若くして戦争によって亡くなっております。幼くして両親を亡くした母を育ててくれた、現在の私の祖父母がいるのですが、その祖父も旧海軍出身で、乗艦していた空母の沈没から奇跡的に生還した人です。つい先日も「戦争は本当に馬鹿馬鹿しい体験だった。」と話していました。
私は、実の祖父母の亡くなった年齢を超え、健康に平和に幸せに生活しております。今の生活が送れているのは、あのような時代に昔の方々が、日本の未来のために戦い、がんばっていただいたからだと感謝しています