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沖縄戦:「鉄の暴風」死者20万人 徹底抗戦で「捨て石」に

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米兵から与えられた水を一心に飲む女児。洞穴で発見・保護された。水筒を離すまいとする細い腕が長い渇きを語る
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 ◇1945年6月23日 組織的戦闘は終わる

 45年4月1日、本島中部西海岸に上陸した米軍は、当時の沖縄県民45万人(推定)を上回る総兵力54万8000人(後方部隊を含む)。これに対し、守備軍は約12万人に過ぎなかった。米軍はほとんど抵抗を受けないまま翌2日には東海岸に達して本島を分断し、北部は2週間余りで占領した。北、中の両飛行場を奪い、制空権を完全に掌握した。

 守備軍は首里の司令部を取り囲むように丘陵地帯に布陣した。4月8日から本格的な戦闘が始まり、宜野湾(ぎのわん)の嘉数(かかず)高地や浦添(うらそえ)の前田高地などで激戦が展開される。米軍にとっても「ありったけの地獄を一つにまとめた」戦闘であった。5月4日、守備軍は総反攻に出たが、失敗して再び持久戦に戻した。日本軍の支援は散発的な「特攻」攻撃にとどまり、沖縄は孤立した。

 同22日に首里撤退が決定され、司令部は摩文仁(まぶに)に移される。それは多数の住民がガマなどに避難している本島南端部が戦場になることを意味していた。

 大本営にとって沖縄戦は、長期戦で米軍を消耗させ本土進攻を遅らせる意味があった。まさに沖縄は「捨て石」となった。徹底抗戦が継続される中、「鉄の暴風」と称される米軍の砲爆撃により、住民や動員学徒は次々に命を失っていった。結局、守備軍司令官の牛島満中将は6月23日に自決し、組織的戦闘は終わる。ただ、散発的な抵抗は続き、守備軍の降伏は日本が降伏文書に調印した5日後の9月7日だった。

 沖縄戦の死亡者は日本側18万8000人以上、米側1万2520人とされる。日本側の半数約9万4000人(推計)が住民だった。【三森輝久】

 2008年6月20日

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