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「政治と金」を浄化する時 |
☆★☆★2009年03月10日付 |
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ある大手新聞社が、本社所有の遊休不動産(土地)を国に売却、その資金で一等地の国有地を払い下げてもらい、そこに新社屋を建てるという難題に取り組むことになった時、首を縦にふらない関係官庁を動かすためには「政治力」が必要なことを痛感した本社首脳が大物政治家に「根回し」を依頼した。 この「作戦」が見事奏功し、不可能と思われたこの難事が、曲折はあっても「解決」したのは、まさに「天の声」の威力だった。登場人物が実名で書かれたこのドキュメンタリー小説を読んで、このような行為が疑獄事件に発展しない「伝統」に対して驚く一方で、政治と金の関係は永遠に断ち切れまいという不信の思いが募った。同時に新聞社が国有地の払い下げを受けるために手段を選ばないという事実(以前から類例は指摘されていたことだが)を確認させられて愕然とさせられた。この払い下げで便宜を図った大物政治家には億単位の「成功報酬」が払われたとか。 裏金問題で捜索を受けている西松建設が、工事受注のために合法、違法の両面で政治家に献金をしていた事実が次々と明るみに出ているが、この事件は氷山の一角であろう。工事受注のために、手を変え品を変えて影響力のある政治家に接近するのは業界の「常態」であり「必要悪」と化しているからだ。 西松建設が約十年前から海外の工事費を水増しして総額十億円もの裏金を捻出していたことが摘発された当時、これは現地政府関係者に対するワイロ用ではないかと当方は想像していた。途上国では依然として不正蓄財がまかり通っており、公共工事の受注にはまず「関係筋」に袖の下を使わないとモノにならないというのは、公然の秘密であり、その「原資」は工事費に上乗せする、つまり水増しするのが通例とされている。なにしろ受け取る側は自分の腹が痛むわけではないからそれを黙認する。国内では容易でない「捻出」が、こうしていとも簡単に文字通り「捻り出す」ことができるのだ。 しかし、その向け先が国内の政治家も対象だったことが、迂回献金やパーティ券購入など次々と表面化する事実によってはっきりと結像した。昨日の産経新聞では、西松建設側が政治家への違法献金について「空港工事に期待していた」と供述しているという捜査関係者の話を伝えていたが、その空港とはわが花巻空港で、受注額は六十五億円(同社単独ではなく共同企業体=JVによる)に達していたと一面トップで報じられている。これだけで献金との因果関係をただちに断定できるわけではないが「もはやこれまで」と観念した西松建設関係者が「真相」を「白状」し始めている段階の今後いかんでは、政界に大激震が走る可能性を否定はできまい。 もし民主党の言う「国策捜査」が政界全般の疑惑追及に及ばないと検察は文字通り「国策捜査」のそしりを免れまい。ここは断固として真相を審らかにし、積年のウミを出さないと、政治と金の流れの不明朗な「負の連鎖」は断ち切れない。「必要悪」が大手を振って歩けないよう徹底して政治における「旧体質」を改善してほしいと国民が望んでいることが世論調査にも表れている。 政治献金疑惑はまさに古くて新しい問題だが、冒頭のドキュメンタリー小説が物語っているように、その献金を受け取る側だけに非があるだけでなく、送る側にもそれなりの「意図」があってのことで、この縮図は人類史上連綿として続き今後も同様であろう。だが、少なくともわが日本が次の世代にも「誇れる国」となれるよう、政治家はいまこそ各国に先鞭をつけて政治資金規正のモデル、スタンダード(基準)をつくり出す時である。 以上は書生論かもしれないが、強まりこそすれ弱まることのない国民の「政治不信」をこれ以上加速させないためにも、検察の「正義」が求められ、それには「蛮勇」もやむを得まい。(英) |
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「球春」はWBCから |
☆★☆★2009年03月08日付 |
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「昨秋のシーズンオフから五カ月、待望の球春がやってきた。いいねぇ『球春』の響き。青空、白球、澄んだ打球音、元気のいい掛け声…。春を表現するものは、やはりこれが一番だな」 「野球狂の君ならでは、ってとこだな。トップを切るのがワールド・べースボール・クラシック(WBC)。十六カ国の代表が世界一を目指す戦いのうち、A組の日本、韓国、台湾、中国による第一ラウンドが始まった。日本は初戦で中国に勝ち、台湾に大勝した韓国と二回戦で顔を合わせた」 「この新聞が配られる早朝には結果が出ている。勝てば文句なく第二ラウンドヘ進出し、負ければ中国・台湾の勝者ともう一つのイスを争うが、よほどのことがない限り次に進めよう。でも韓国には勝っておきたいね」 「韓国代表とはここ数年、十試合戦って日本の3勝7敗とか。三年前のWBCでは予選ラウンドで2敗したあと、再び対戦した決勝トーナメント準決勝で雪辱し、その勢いでチャンピオンになったけど、どこかモヤモヤしたのものがあるのはそのせいなんだな」 「韓国球界にとって日本は“追いつけ、追い越せ”という対象。日本だってプロ球団ができた昭和九年以来ずっと米大リーグ(MLB)を目標にそうしたスローガンがあった。MLBに十人を超す選手を輩出している今でこそ死語になつた感があるが、日韓戦の戦績は一国を代表するチームとしてのモチベーションの度合いの違いにあるんじゃないかと、素人なりにみているんだ」 「今回は情報がないけど、これまで韓国はオリンピックやWBCで優勝すると兵役免除とか報道されていた。国防は大事だが、戦場へは行きたくないのが人情。目の色が変わる訳だと納得した覚えがある。ところで、今回のWBCはやり方が少し変わったね」 「まず、四チームずつによる第一、第二ラウンドが前回のリーグ戦から今回はダブルエリミネート方式という、敗者復活制に変わった。続けて二つ勝てば各ラウンドを突破。初戦敗退同士による試合で勝ったチームと、三回戦敗退チームが対戦し、勝てばやはり次に進める。ただし、組の一、二位を決めるための試合は行う」 「ソフトボールにぺージシステムというのがあったけど、それにちょっと似ているね。延長は十二回まで、決着しないときは十三回からタイブレーク方式とし、無死一、二塁でプレーを再開。投手には投球数の制限もあるとか。面倒だねぇ。どうしてそんなルールにしたのかなぁ」 「前回のリーグ戦は延長十四回までで、引き分けは0・5勝とし、並んだ時は当該チームの勝敗、失点率などで順位を決めたが、複雑になるので改めた。でも前回、このおかげで日本は二次リーグを突破できた。今回は決着がつくまで試合を続ける。投球制限は、大枚をはたいて契約している投手が故障し、本国での公式戦に影響したら大変との意向が働いたようだ」 「思い出した。日本と米国、メキシコが1勝2敗で並んだけど、失点率でわずかに日本が上回って準決勝に進めたんだっけ。ほかにも変わったものはあるかい」 「あとは、第二ラウンド後に行われる準決勝がクロスオーバー方式の組み合わせに変更になった。前回は同じ組の一、二位が決勝進出を争ったが、今回は組の違う一、二位で準決勝を戦う。また、審判は前回全員がMLB所属だったけど、今回は他国からも選抜され、日本からは四人がグラウンドに立つ。日米戦での誤審が指摘された、かの審判は指名されなかった。そうそう、試合前日に先発投手の予告も行うことになった」 「で、優勝の行方だが、日本は果たして二連覇できるだろうか。中国戦をテレビで見たが、メンバー全員の体調や試合勘が万全ではないように映った」 「そこはやはり国際大会。日の丸を付けることには、我々凡人が想像する以上のプレッシャーがかかるという、誰だったかのコメントを聞いたことがある。それをいかにプレーに転化できるかがポイントになるんじゃないかな。日米韓、キューバ、ドミニカなど優勝候補が目白押し。V2はできるかもしれないし、できないかも。『神のみぞ知る』といったところだね」(野) |
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木地師と気仙大工G |
☆★☆★2009年03月07日付 |
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気仙を代表する名棟梁と言えば、綾里村(大船渡市三陸町)出身の花輪喜久蔵翁が挙げられる。明治三十六年の渡道で札幌農学校建築に従事した後、「百カ寺建立」を発願。生涯かけて宿願を果たすが、その足跡は道内にとどまらない。 東北各地からの参拝者も多い定義如来堂や、中には海を渡った朝鮮半島での寺院建築も合まれ、「アジアを股にかけた翁の偉大さ」(平山憲治著『気仙大工』)は、未だに語り草となっている。 気仙大工はまた、堂宮だけを手掛けたのではない。本業は家大工であり、その場合は設計から着手し、必要とあれば用材伐り出しの木挽仕事まで指導。手先の器用さは天下一品で、家具や建具、彫刻にもその優れた腕前を発揮した。出稼ぎが盛んだったため、「気仙大工の業績は地元以外にこそ数多く残されている」と言われる。参勤交代の大名も宿泊した有壁本陣(宮城県栗原市)再建や東京・芝の増上寺、新しいものでは東京駅、国会議事堂、復元大阪城でも活躍した。 “黄金郷”の気仙とあって、日光東照宮の金牌の金は矢作産(陸前高田市)とされる。そのため、ある棟梁は東照宮の天井裏の木組みを見るのに「『俺は奥州の気仙大工だ。先輩たちの技術を見学したい』と言って、天井裏に昇ることを許された」(『気仙大工』)との話も伝わる。 木造と言わず鉄筋コンクリート造と言わず、全国の工事現場で“大黒柱”となって実績を残した気仙大工。現在はしかし、建設・建築の技術革新や家族と離ればなれの生活形態が受け入れられず、減少の一途を辿っている。 一方、用材を求めて山中を移動しながら木製食器を作り続けた木地師たちは、瀬戸物が普及する江戸後期には製品が売れず、苦境に追い込まれる。文明開化の明治を迎えると洋食器も登場。ついに木地師の姿は時代の波の中に消えていく。 平安時代の惟喬親王を祖とする木地師たちは、一体どこへ行ったのか。一部は玩具やこけしなど土産品作りの木工職人となったが、多くは他の業種に移った。用材伐り出しと粗加工は木挽につながり、それで家を建てれば大工となる。特に、その細工能力の高さや徒弟制度は気仙大工に通じる一面もある。 山中での炭焼きや、その炭を利用する鍛冶、たたら製鉄。食糧自給を迫られる中で経験した焼き畑を本業化して農業への進出など。 断定したことは言いかねるが、気仙大工は最初から特定集団を基礎に誕生したのではなく、木工を専業化する中で近江木地師、大工の技術や伝統ある舟大工の工法を取り入れ、さらには京都、大阪など先進地への修業や出稼ぎを重ねる中で、伏見大工の技能も習得。ついには、他所の大工が真似できない多彩な技を身に付けていったのではなかったか。 全国に誇るべき、その気仙大工の歴史と技能をどう継承していくべきか。後継者育成には、訓練機関はもちろん仕事がなければ始まらないだけに、地域活性化が基本となる。合わせて、伝統的な建築物を残し、活用するような施策も重要だ。 今ならまだ多くの大工経験者がいる。その人たちが健在なうちに各種調査を進めたい。木地師や木挽、左官、屋根葺など、関連する職人たちの業績にも光を当てたい。 木工道具だけでも鉋、鬼仕工鉋、鋸、前挽鋸、木葉型鋸、鑿、袋鑿、錐、手斧、墨壼、曲尺などがある。一軒仕上げるには最低七十三種類、手の込んだ仕事には百七十九種類も必要という。その全てを収集できるかどうか。 平山氏や『気仙之木地挽』を著した山田原三氏は、異口同音に「気仙大工の古里に生きる現代の我々の使命は、その足跡と技能を後世にしっかり伝えることだ」と強調している。 木地師シリーズはこれで終わります。(谷) |
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この10カ月は一体? |
☆★☆★2009年03月06日付 |
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青い表紙のノート。めくると、一ページ目にこんな記述がある。 「9・27(土)バナナ2本172 おにぎり367 ごはん100 おつゆ14 さしみ70 なす18 ひき肉60 大根80 きゅうり10 ヨーグルト62 合計953」 私がその日に食べた物とそれぞれのカロリー数だ。成人男性の一日に必要な2150`カロリーの半分にも満たなかった。 ダイエットに再チャレンジし始めたのは昨年五月のことだ。 食べたい物も食べず、食べる量も減らし、空腹時は水とお茶でしのぐ。苦行の日々を送っているのに、四カ月経っても減量効果が現れない。そんな時、某テレビ局のダイエット企画番組と出合い、感化されてしまった。 早速、番組で紹介された「バナナダイエット」に取り組み始めた。朝食にバナナを食べ、水を飲む。あとは昼食も夕食も普通に食べていい。おやつも構わない。バナナ好きの私には願ったり叶ったりの減量法。世のバナナ不足に負い目を感じながら毎朝食べた。 妻の提案と協力で「レコーディングダイエット」も併用することにした。食べた物とそのカロリー数を毎日記録するだけで効果があるという。楽をしたい私にはまさに、うってつけ。一日のカロリー数を抑えるのも楽しみだった。 長期中断していた「ウオーキング」も、今回は万歩計をつけて再開した。歩数が増えるのが嬉しくもあり、一度やめるとそれっきりになりそうで、雨の日は傘までさして歩いた。 こうして人生初の三段構え′ク量作戦が展開されていった。 さて、問題はその後である。 好きなバナナも毎日となると、変化の乏しい味に飽きが来る。結局、十月下旬の出張を機にノートから「バナナ」の文字が消えた。 ウオーキングでは頑張りすぎて膝を痛めてしまった。そこへ追い打ちをかけるように、年末に猛烈な寒さと大風の日があった。 「こんな夜に歩いて倒れられたら困るから、今晩は歩かないで!」 高血圧の私の身を心配する妻と娘の訴えに、この日は断念。恐れていたように、以来、ウオーキングも途絶えてしまった。 最後の砦がレコーディングダイエット。当初は妻が『早わかり』本をもとにカロリー数を調べてくれていた。本には食べた物と同じ物が載っているわけではない。食べた量も異なる。結局、本を参考に推測しながら計算する。これが結構、面倒くさい。自分で調べるようになった十一月初め、ノートからカロリーの数字が消えた。 今は毎日、食べた物だけを書いている。ところが、これがまた私には大変なのである。 例えば、夕食。食後、お風呂に入るなどして部屋に引き揚げ、それから食べた物をノートに書く。ご飯とみそ汁、おかずの一品ぐらいまではいい。問題はその後。食べた物を思い出せないのだ。 「さっき何々食べたっけ?」 と妻に問いかけることも度々。 朝食を書き忘れた時はもっと悲惨だ。一、二時間前のことも思い出せないのに、どうして半日前のことなど思い出せようか。ああ、歳はとりたくない。 そんな苦労をしてまで続けてきたダイエット。書くのも恥ずかしいが、昨年五月の時点と体重は変わりがない。私にとって一体、この十カ月は何だったのだろうか。 まあ成果と言えるかどうか、一つだけ気づいた法則≠ェある。夜、トイレに起きる回数が多いほど、翌朝起きて計ると体重が減っていることだ。当たり前と言えば当たり前の話か。若いころは寝てしまえば朝まで一度も起きることなどなかったのに。ああ……。 体重にしても、歳にしても、人生はやはり、思うようにはならない。それが改めて分かっただけで良しとしよう。愚痴っていても始まらない。暖かくなったら、ウオーキングを本格的に再開してみようかと思っている。(下) |
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気仙食と後味の良さ |
☆★☆★2009年03月05日付 |
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「食」に関するイベントが最近、相次いで開かれた。海、山、里の食材が、コンパクトなエリアの中ですべて揃う気仙地方は、まさに食材の宝庫である。 その豊かな食材を生かして、気仙の食文化の継承や新たな食の創造に努力や工夫を重ねる人々の姿も取材を通して見ることができた。 食育と地産地消を推進しようと、県大船渡地方振興局が今年初めて実施した朝ごはんコンテストは、高校生の男女二人を含む十人が入賞者に選ばれ、そのうちの上位五人が講師となり、入賞料理を普及するための研修会が行われた。 忙しい朝こそ作りたい簡単でおいしい朝ごはんを、ぜひ習ってみたいという市民二十数人が参加しみんなで作って試食していたが、講師たちが一人ずつ前に出て一品ずつ実演してみせた後、参加者が実際にトライし、出来たてを即、試食していくという楽しい講習スタイルで行われた。 フライパンにバターを入れる時に最初はなじませて、次に香りづけのために二回に分けて入れておいしいオムレツを作る男子高校生の丁寧な作業や、後片づけをしながら段取りよく調理し最後に水滴まできれいに拭き取る女子高校生のすがすがしい調理ぶりに目を見張った。 十代から七十代までの講師たちが仲良く額を寄せ合い、料理の知恵をベテランたちが伝える場面も見られた。 材料の切り方を変えるだけでお持てなし料理に早変わる、炊飯器にコウナゴを入れて簡単な味付けと刻みノリ、白ごまをトッピングするだけで劇的においしい炊き込みごはんになる――など、忙しい朝に少しでも豊かな朝食にしようという工夫が感じられ、それと同時に食への関心の高さがうかがえた。 県認定の「食の匠」たちが開いた「気仙食の匠レストラン」のイベントでは、早春の御膳が好評を博した。 会員十三人を有する気仙食の匠連絡会が、郷土料理の普及と安全安心の食卓作りに貢献しようと一日レストランを開いたもので、昨秋に続いて二回目。会員の一人が農家レストランを開業している古民家で会費制で開かれ、一度にたくさんの認定料理が味わえるとあって二十五席が満席となった。 食の匠がそれぞれ得意とする郷土料理や新料理に腕を振るい、御膳に盛られた十四品のメニューは、磯花寿司、どんこ汁、きび団子、やまめのすり身汁、ばっけの味噌焼きもち、イカの腑臓殻煮、ゆべし、がんづき、五葉ようかん、おやきなど。体内が清められていくような食の感動があった。 後味の良さが際だっていた。気仙の食文化の特長だと改めて気づかされた。その日たまたま帰郷した在京人の方をその場に案内したところ、郷土料理の素晴らしさを再認識されたようで、「これをもっと売り込んでいくべき」と力を込めて語っていた。 「気仙の逸品を食べてみよう会」は、全国に誇れる気仙の安全安心な産物をPRし地域産業活性化につなげようと振興局が企画し、陸前高田市のホテルを会場に会費制で開かれた。 カキ、アワビ、ホタテ、ムール貝、キクラゲ、ヤーコン、鹿肉、高級チキン、清流豚などの豊富な食材を使ってホテルの調理人たちが和、洋、中華の料理に仕上げていた。良質な食材をさらにおいしく味わってもらうための工夫を一生懸命に語っていたのが、印象的だった。 食産業に携わるこうした気仙人の実直な姿勢が、一気にはなかなか伝わらないもどかしさがあるが、発信し続けなければならないと思った。(ゆ) |
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「気仙大工」その周辺 |
☆★☆★2009年03月04日付 |
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二月二十日付2面の気仙坂「名工・五郎吉と長安寺山門」で、関係者からお叱りを受けた。まず、お詫びして訂正しなければならないことがある。 江戸期の気仙大工、五郎吉の出身地は小友村であり、「田茂山村」と書いたのは誤り。田茂山村・古沢家の出身は、五郎吉ではなく御郡棟梁(おこうり・とうりょう)だった「七五郎」(詳細は二月十二日付1面トップ)が正しい。関係者および気仙大工研究の方々に重ねてお詫びする。 歴史関係の記事は、一度誤って記述すると、それがまるで事実のごとく一人歩きし、後に引用されるケースが少なくない。物書きにとって、最も注意しなければならないことであり、猛省するとともに「誤記厳禁」を改めて深く肝に銘じたい。 さて、気仙大工についてはこれまで、民家や寺社の建築、出稼ぎ、技術などの面から、さまざまな研究・調査がなされてきた。その特徴のひとつに、江戸時代から「南行き」といって出稼ぎを中心とした大工集団をつくり、民家はもちろん建具や彫刻もこなす多能なグループといわれている。 『小友匠衆の歩み』(気仙大工等の伝承を探る会編)では、「この『南行き』とは宮城県の県北一帯を指し、農家の一戸一戸に入れ込み、律儀で名人堅気な職人として親しまれ、家族的な待遇と雰囲気の中で、同じ仙台藩の住民として気安い職人生活を続けた」と紹介している。 その発生起源や年代については定かではないが、気仙大工の名は、これまで歴史的な側面や代表的な建築物に見られる職人ワザを中心に語られてきた。それを稀有の伝統と見るならば、「現代の気仙大工にもその技術や気質は十分に受け継がれている」と、胸を張って言いたいところだが、如何せんその枠組みは広すぎる。 現実問題として、気仙地方出身の大工は、自由に気仙大工を名乗っているようだし、中には出身者でもないのに「気仙大工」の看板を掲げている首都圏の工務店もあるという。 以前、「気仙大工」を商標登録しようという動きもあったが、「気仙大工が建てた家」とか「気仙大工職人のこだわり」といった広告を見る限りは、登録の気配はなさそうだ。 いずれ、「気仙大工=いい仕事」というイメージは、現代にも生きているということだろう。 最近、気仙大工に関する興味深い研究報告書を目にした。(財)さんりく基金が発行した『三陸総合研究』(第三十三号)今年二月号である。この中で、岩手大学教育学部の佐藤眞准教授は『気仙大工の労働市場の変容と技能後継者問題』をテーマに、気仙大工の「過去」ではなく「現在」に切り込んでいる。 それによると、関係機関や大工への聞き取り調査などの結果、住宅建築分野の出稼ぎ労働力は、木造大工や土工の割合が極めて低く、ビル・マンションに従事する「型枠大工」が圧倒的となり、しかも、出稼ぎ形態はかつてのような職安経由の就労は少なく、同一事業所への長期就労が多いことが分かった。 佐藤准教授は、「出稼ぎ就労者の大半が型枠大工である現状を考えるならば、かれらの就労の特徴と就労先での雇用、労働条件の実態をより正確に把握する必要性がある」と強調。また、当面の課題とされる労働市場と技能労働力の再生産構造に焦点を当て、「地元訓練機関の教育課程に型枠大工の訓練課程を設け、建築需要の変動に対応できる、出稼ぎ大工の養成を検討する必要がある」と指摘している。 気仙大工の後継者育成についてはこれまで、技術的側面からその独自の規矩術の継承に関するいくつかの貴重な取り組みもあった。しかし、木造大工の修業を経たものの、住宅需要の低迷で型枠大工へ職種転換したという例も少なくない。 気仙大工と型枠大工は、本来、まったく別の意味合いで捉えられているが、出稼ぎという形態と労働市場の変容の中で、その役割も大きな転換期を迎えているということは間違いなさそうだ。(孝) |
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総務相の常識と世間の常識 |
☆★☆★2009年03月3日付 |
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年金のように個人のフトコロにかかわる問題には関心を持つが、自分に直接関係のない事柄には無関心かつ鷹揚というのが世間一般だ。しかしこれはぜひ黒白を明らかにしてもらわないと腹の虫が収まらないと思うのが、日本郵政による「かんぽの宿」の一括払い下げ問題である。 その払い下げについてはメディアも無関心だった。少なくともどのような経緯で払い下げされることになったのか、直近まで詳しい報道を目にすることはなかったものが、鳩山邦夫総務大臣が待ったをかけたことからがぜん注目されるようになり、疑問符だらけの実態が浮き彫りにされたのである。 世間の不動産取引というものは、いや取引全般について言えることは、売る方はできるだけ高く、買う方はできるだけ安くというのが人情であり、払い下げを受けたオリックスが世間相場をはるかに下回る安さで手に入れても、双方が納得済みの上なら、それはそれまでと理解することもできよう。 だが、全国七十九にも及ぶ施設の購入・建設に二千四百億円も費やしておりながら、不採算を理由に一括して百九億円で「叩き売る」というのは常軌を逸していると思うのが庶民感情というものである。日本郵政の簿価は七十九施設で百二十三億円、純資産額は約九十三億円で、払い下げ価格は純資産額を上回るがしかし固定資産税評価額は約八百五十七億円だというから、中をとっても幅がありすぎてそれだけでも不透明感は免れない。 しかもうち十一施設は黒字経営であり、普通の感覚ならそれらと黒字転換できそうな施設を除き、見込みのない施設だけを売るというのが常識というものである。毎年赤字が四十億円以上もあり、早くしかも一括処理した方が有利というのが日本郵政の「不良資産」処理法らしいが、そこには企業的発想というものが認められず、民営化はしたものの依然「官の論理」を引きずったままであることを物語っている。もともと簡保加入者のための保養、福祉施設という大義名分の下、全国津々浦々に整備されたのだが、その実相は旧郵政省幹部の天下り先を確保するのが目的だったといわれ、文字通り親方日の丸で採算は二の次、夢のようなハコモノを作り続けてきたのだろう。 だからこそ、赤字になれば事後責任を恐れてさっさと売り飛ばしたりする。わずか一万円で払い下げた施設がその後六千万円で転売され、千円で処理された「不良資産」が同様四千万円に化けるなど悪質な取引相手もチェックせずに見逃す。公的用地、施設の契約条件には一定期間の転売禁止が謳われるが、その最低限の約束すら守られないのは、売る側に当事者能力、当事者責任というものがないからだろう。 鳩山総務相の待ったは、まさに常識が働いただけで、郵政側は一括払い下げの理由とオリックスに決まった理由をそれらしく並べていたが、総務省の認可が下りそうもないこと、総務省の調査によって状況、形勢が不利になったことなどから払い下げを断念した。総務相の「待った」に対して一部新聞が「横やり」と批判したが、常識と乖離していたのは一体どちら側だったろうか。 かんぽの宿にしろ国民宿舎にしろ、潤沢な資金を後ろ盾に採算を度外視した豪華な施設をつくり、当然武家の商法で多くが赤字となって結局は二束三文で売り渡すという図式は、官の悪しき伝統の産物でありながら、一向に改まらない。だが、今回の問題はそうした風潮に対する一つの警鐘となった。総務相はいいところに一石を投じてくれたと爽快な気分になったのである。(英) |
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変容する男の子 |
☆★☆★2009年03月01日付 |
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小紙連載「勝手にトークアイ」でバレンタイン特集をやってみて、つくづく「女は本質的な狩人≠ネんだな…」と思った。 ほかの女性記者らと内容を打ち合わせたとき、テーマ設定が狭いにもかかわらず次々とアイデアが湧出した。しまいには「いかに好きな相手を振り向かせるか」を話題に、異常なほど会議は踊った(されど進まず)のだった。 が、これが男の子同士の場合、同じネタでもまず盛り上がることはないだろう。 七年前、『話を聞かない男、地図を読めない女』という本がベストセラーになった。その前置きには「人間が狩猟を生業にしていた時代、男が狩りに出、女が住まいを守っていたことが今日の脳に影響している」という内容が記されていたのだが、これが今や、色恋沙汰に限って言えば若い男性にはほとんど当てはまらない。 ハントの手練手管を自然と身に付け、日常的に使っているのはむしろ女ばかりだ。 ギャル向け女性誌はいつでも狩猟モード全開で、誌面を飾るのは男性を「落とす」「しとめる」などの物騒なキーワード。「愛され服」といった受動的な言葉の裏にも、「こんなにめかしたんだから私を愛してよね」という、実に能動的な欲望が見え隠れする。 多くの男性は狩り≠ノさえ出ないというのがここ十年以上の潮流であり、肉食≠ゥら遠ざかってしまった彼らを、近年「草食系男子」と分類する。 メディアで盛んに取り上げているので説明不要かもしれないが、特徴としては「恋愛に縁遠くはないのに積極的でない」「繊細で、人付き合いより趣味などにエネルギーを注ぐ」「三十五歳以下、特に十代〜二十代前半に多い」などが挙げられる。とりわけ顕著なのは女性に対する淡泊さだという。 某ファッション誌編集部に在籍する大学の後輩・Tくんも完全に草食性。ピンク色や水玉柄を好み、多趣味で、女の子ばかりの場所にいても浮かない。彼女ではない女の子と二人で遊びに行っても、誰も怪しまず恋愛にも発展しない。 だからと言ってモテないのではなく、むしろ人気はあるのだ。彼は自分から告白して女性と付き合うなんて「面倒だもん」と言って憚らず、言い寄られても大体かわしてしまう。曖昧な関係を保ち、恋愛によって生じる摩擦や軋轢を避けたいというのが本音らしい。 草食系男子は温和で付き合いやすいし私の友達にも多いが、彼らに恋する女の子は非常に苦労する。煮え切らない態度に焦れている女子は多いのだろう。雑誌でも「草食系男子の攻略法」なんて企画を頻繁に見かけるから。 「じゃあ最近の二十代男子の生態系ってどんなものかしら」と、『POPEYE』(マガジンハウス)のバックナンバーを手に取った。少しトンガったオシャレを好む青少年が読者のファッション誌で、まさに草食系男子のるつぼである。 「短パンスーツ≠ナピュアBOY完成」なる特集(文字通り短パンのスーツ。スネ毛もろ出しでピュアもボーイもないものだが)やら、やたら詳細な星占い(なんと、おまじないまで載っている)、おいしいスイーツ紹介など、女子の領分を侵す誌面構成も衝撃だったが、最も意外性を感じたのは黒人演歌歌手・ジェロのインタビューだった。 草食系と言うと女性的な人を想像するかもしれないが、むしろ外見は男性的である場合も多い。 眼光鋭く、男気溢れるルックスの彼も、女性への接し方については「自分からアプローチは絶対しないですね!失敗して拒否されるのがイヤで。ひたすら待つタイプ」「引っ張ってくれる強い女性じゃないとムリです」と、草食系を地でいく消極発言のオンパレード。ジェロ…お前もか。「失敗して恋に破れることも、芸の肥やしの一つよ」と姉御気取りで言ってやりたいものだ。 こんな男子ばかりの世の中では、女性はさらにハンターとしての力量を磨くしかないではないか…と、思わず暗澹とした気持ちになる。 ポパイにあった「バレンタインに『逆チョコ』をあげて成功するおまじない」を読みながら、「そんな回りくどいことやってる間に、とっとと告白しろ!」と盛大にツッコミを入れる私であった。(里) |
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木地師と気仙大工(7) |
☆★☆★2009年02月28日付 |
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多彩な技能を持つ気仙大工の発祥には、舟大工説や飛騨の匠・伏見大工説、平泉堂宇参加説もあるが、「今のところ最有力な説」(平山憲治著『気仙大工』)とされるものに、近江大工説がある。 近江国(滋賀県)は木地師発祥の地でもあるが、気仙大工が近江大工と結びつく根拠として平山氏は、『気仙大工出稼の地理』(伊藤満州男著)から引用。「明治初年まで気仙大工が使用していた墨差の型が、近江地方で使用されていたものとほぼ同じ型」であることを指摘する。 近江大工の技術が、近江から全国に拡大した木地師たちによって各地に伝播される中で、気仙にも伝わったのではないか、とする考えだ。近江には大工や木地師に加え、近江商人の伝統もある。その商才と積極的な商法で全国展開したことも、彼の地の技術や大工道具もまた地方に普及する一要因と考えられなくもない。 こうした近江木地師らの気仙大工発祥説に、『住田風土記』(根来功範著)では「気仙には木地師の技術や歴史も少なく、わずかに住田町内に木地山という地名を残すにすぎない」としている。 平山氏もまた、「墨差の同型のみをよりどころにした理由では不十分」とするが、一方で同氏は近江大工発祥説を補強する傍証も明らかにする。 『岩手県史(巻三)』の中に、中世の葛西氏時代、すでに県内に近江大工が入っていることを示す「大工近江河渡の内」と明記された棟札の存在を確認。加えて、根来氏からは「中世の三陸沿岸を代表する長者である吉理吉理善兵衛が近江大工を呼んで(招いて)いる」と聞いたことも紹介する。 東北地方への木地師の集団移住は戦国末期、会津地方(福島県)に移封された蒲生氏郷が招いたことが端緒とされるが、実際にはそれよりかなり早い段階から近江大工は岩手に、三陸の地にとやって来ていたことになる。 気仙はまた、古くから黄金の郷≠ニしても知られる。その産金が奥州藤原氏の平泉黄金文化を花開かせたが、豊富な金山の存在も気仙大工とは少なからず関係がある。藤原氏が文治四年(一一八八)に「領内一村一カ寺建立計画」を実施した際、黄金献上に対し陸前高田市横田町に常光寺を開山させた例もあるように、産金のますますの繁栄を願って気仙には神社仏閣が次々と造営された。それらの建立には当然、気仙大工が活躍した。 発生年代の特定までは難しいが、平安期の平泉堂宇建立への参加や、中世葛西氏時代にも気仙大工の存在が有力視されている。では、気仙大工の始まりはどこなのか。古来より陸前高田市小友町が「気仙大工の古里」と呼ばれるが、その理由について根来氏は同町華蔵寺出身の岐秀和尚を挙げる。 和尚が松島瑞巌寺の僧となり、仙台藩主・伊達政宗から同寺修復を命じられた時に、郷里の小友大工を招請。これを機に気仙大工が仙台領内で有名になると同時に、「気仙大工の古里は小友」となったのではないか、というものだ。 それはともかく、藩政時代に入ると気仙大工は「南行き」と称される仙台領内への出稼ぎが盛んになる。仙台平野には用材が少ないこともあり、材料と技術の両方を持つ気仙から、職人たちが次々と出かけていった。 厳格な封建体制時代、気仙の北隣りである南部藩は他国≠ナあり、簡単には行き来できなかった。また、仙台領内には貞享二年(一八六五)の調査で千七百七十六カ寺もの寺院があり、南部領の四百七十カ寺より四倍も多かった。気仙大工は堂宇造営や修築、さらにはそこで得た知名度を生かして一般の民家建築にもまた腕を振るっていた。(谷) |
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布団の中で見た『砂嵐』 |
☆★☆★2009年02月27日付 |
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新聞のテレビ番組欄を最近、上から下まで眺めて驚いた。 NHK教育を除き、朝から次の日の朝まで各局が番組を放送している。中には早朝に二時間ほど放送を休止する局もあるが、それでもほぼ丸一日の終夜放送だ。 テレビを見る時間が少なく、見る番組もほぼ固定されているため、これまでは番組欄をじっくり見ることがなかった。そんな私の目を番組欄に向けたもの、それは年末に見て以来ずっと心の隅に引っ掛かってきた『砂嵐』だ。 と言っても、砂嵐を見たのはサハラ砂漠でも、ゴビ砂漠でもない。我が家の布団の中だ。かと言って、夢の世界の話ではない。 布団に入り、NHK総合の番組を見ていたある晩のこと。 「環境に配慮した取り組みとしてNHK教育テレビの放送は午後九時半で休止しています」 正確に覚えていないが、そんな感じのテロップが画面に流れた。 ほんと?と思い、チャンネルを変えてみた。その瞬間、ザーという音ともに目に飛び込んできたのが、まるで白い砂が勢いよく飛び交っているような画面。送信電波を停止した時に起きる現象で、テレビで言うところの『砂嵐』だ。久しぶりで見た。 NHK教育は通常、午前五時から深夜の午前二時五十分まで放送している。その日は「地球環境を考える一日」として放送時間を午後零時半から午後九時半までの九時間とし、いつもより十二時間五十分も短縮させたとか。 「NHKもやるもんだ」 と『砂嵐』を見て、感心した。 後で知ったのだが、放送時間の短縮によって電力を一時間当たり約一万七千`h節電し、二酸化炭素の排出量を約九・四d削減できるのだという。 テレビの『砂嵐』を見ると、思い出す番組がある。三十数年前に見た深夜の長寿番組『11PM』。 お色気あり、社会問題あり、麻雀実践教室などの趣味・娯楽ありと、内容は軟派から硬派まで幅広かった。世のPTAや良識派と言われる人から「ワースト番組」「低俗番組」とさんざん叩かれた。 大学生になって岩手から上京し、一人暮らしを始めた頃。まだまだ純朴そのものだった私は、少しばかり大人になった気分でドキドキしながら番組を見たものだ。 『11PM』は午前零時半頃に放送が終了し、画面はまもなく砂嵐に変わった。思い違いかも知れないが、そんな記憶が私にはある。そんなわけで、『砂嵐』=『11PM』放送終了後の画面、という刷り込みができてしまっている。 『11PM』華やかりし一九七〇年代、日本をパニックに陥れる石油危機が二度も起きた。その折は電力節減、省エネ対策の一環として深夜放送の休止が求められ、NHKは午後十一時で放送を終了。民放各局も放送を自粛し、午前一時前に番組を終えたものだ。 あの時の危機がかすんでしまうほどの現在の経済危機。「百年に一度」「世界恐慌前夜」とまで言われる非常事態の最中にあって、全国各地でテレビの終夜放送かそれに近い放送が続いている。一体、どれだけの人が深夜から早朝の番組を見ているのだろうか、とついつい考えてしまう。 インターネットで検索していたら、『砂嵐』の音(ホワイトノイズ)を提供するサイトがあった。なんでも、その音は睡眠障害解消や集中力アップなどに効果があるとか。子どもの夜泣きにもきく、という書き込みも見つけた。 私も不眠症の一人である。それが本当なら、テレビの『砂嵐』は睡眠障害を持つ人だけでなく、子育て中の親を助け、夜更かしの人を減らし、ひいては地球環境の保護や資源の有効活用にもつながる。いいことずくめではないか。 この際、テレビの放送を早めに切り上げ、画面を『砂嵐』に切り替えてみてはいかがか。それはさておき、皆さんはテレビの終夜放送をどう思われますか?(下) |
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