――比較法の研究をする際に心がけていることはありますか。
フット parallel exposition(並べて陳列しただけの説明)に陥らないように、「三角測量」を心がけている。複数の違う調査方法(質問票、面接、文献、観察など)を使い、歴史的な視点も含め、さまざまな観点から分析します。
比較法の最も重要な目的は、自分の国の制度をよりよく理解することにあります。例えば、「日本の刑事司法は厳しい取り調べも伴うが、反省を促す役割もある」と論文で評価したことがありました。米国の厳罰主義の傾向があまりにも強くなって、加害者を改善、更生させるという精神がほとんど消えてしまった。この点では日本を見習ってほしい、というメッセージだったのです。日本の学者からは「甘すぎる」と批判もされましたが。
――いつごろから日本の司法を研究されているのですか。
フット 私がロークラーク(調査官)を務めていた米連邦最高裁のバーガー長官(当時)から日本の最高裁の寺田長官(同)に手紙を書いてもらい、最高裁の図書館に机を置かせてもらって研究を始めたのが83年でした。
ちょうど、死刑が確定した人たちが再審で無罪になる事件が相次いだころでした。職業裁判官だけに任せずに市民も裁判の審理に参加するよう求める声も学者や弁護士から高まった。
しかし、裁判所も法務省も、市民参加ではなく、内部でのチェックをさらに強化しよう、という結論でした。私も、裁判員制度が実現するとは、正直言って思っていませんでした。
――裁判員制度で日本の司法は変わるでしょうか。
フット その可能性はある。まず、調書裁判からの脱皮です。目で見て耳で聞いてわかる裁判を実現しないといけなくなる。これまでの裁判は、調書のやりとりだけで終わってしまう部分が多く、法廷は公開されていても、肝心の中身がわからなかった。裁判官は頻繁に転勤し、書面で引き継ぎをする。本来は、法廷で見て聞いたことをもとに判断するはずなのですが。
「誰が判断しても結論は同じ」という統一性、安定性も揺らぐでしょう。量刑や、事実認定の仕方についても、事件ごとの個性を重視した、柔軟なアプローチが増えるかもしれませんね。
ただ、心配な点もある。量刑判断の段階だけでなく、有罪か無罪かを判断する段階も含めて被害者が参加することです。米国なら、被告人の公正な裁判を受ける権利の観点から、まず認められません。日本で、そういう議論が出てこないことが不思議です。
――比較法学者はなかなか自分の考えを明かさない、と言われますね。
フット 自分にとって根本的な価値とは何か、を言明してもいいと私は考えています。私にとって非常に重要な価値は、この本でも強調しているように「透明性」です。私は反エリートではないけれど、エリートだから密室で判断していいとも思っていない。日本の司法は、再審無罪への対処や裁判官選任手続きなどにも見られるように「内部のチェックだけで十分」という意識が強かったのですが、外部のチェックが働かないと危険です。
国民は情報があれば、responsible(責任をもって応答し、合理的に考えて行動する)になる。そういう意味でも、裁判員制度には期待しています。
(聞き手 GLOBE副編集長 山口進)