梶浦がアニメ主題歌のカリスマになったのは、自身の日本化されていない音楽的バックグラウンドと、若い世代が活躍するアニメ業界が“化学反応”した結果といえるだろう。

 彼女の音楽的バックグラウンドを形成する上で大きいのは、小・中学生時代をドイツ、デュッセルドルフで過ごしたこと。日本の黄金の70年代歌謡曲がまったく背景にない。「当時の日本人学校では、人の入れ代わりが激しかったので転校生が必ずヒーローになる(笑)。日本で流行っているキャンディーズの振りマネなんかを教えてくれるから。でも基本的に日本の音楽には興味がなかったですね」。

 オペラフリークの父親の薫陶(くんとう)で「娘が生まれたらピアノ伴奏をやらせる」の望み通り、幼少期からピアノを習い、ドイツ歌曲が子守歌替わりだったそうだ。小学生3年のころ、兄がビートルズを聞き出したために、その影響を受けイギリスのポップスチャートに夢中になった(クイーンやアバなどがチャートを賑わせていた時代)。「今思えば、70年代ロックは歌メロのある、いいチャートでした」。ブリティッシュロックを堪能するかたわら、父に連れられ月に1回はオペラを鑑賞した。ただネット上などの風説にある教会音楽とは無縁だったようだ。

 そして1978年帰国。このとき梶浦家では兄の受験を理由に父が下した「テレビを買うのはやめよう」という方針が貫かれた。彼女自身も翌年、都立国立高校を受験、そして3年後には津田塾大を受験。そのうち、だれもテレビが欲しいとは思わなくなった。「80年代のJ-POPにまったく染まっていない」ことも梶浦のオリジナリティーを研ぎ澄まさせる結果となった。

 彼女の音楽体験は小、中、高と合唱部一筋。合唱曲を作曲して披露していた。大学に入って同じ高校出身の女子バンドに一人欠員ができたため、キーボードとして誘われる。元々はTOTOから松田聖子までのコピーバンドだったが、梶浦の参入で彼女のオリジナル楽曲中心のバンドに変化した。合唱団でもバンドでも自曲をフィーチャーして統率する、彼女のリーダーシップの非凡さが垣間見える。

 卒業後は有名企業に就職。4年間SE(システム・エンジニア)を続けるが並行して活動を続けていたバンドが事務所のスペースクラフトに認められ、遅いデビューとなった。「それまで安定してきた人生を送ってきたので、もしここで迷ったら70、80歳になったとき絶対後悔すると思った」。事務所は「経歴がおもしろい。曲がすごくいい。サウンド感がみずみずしい」という評価。実際、OL出身のバンドとして当時、業界内評価はかなり高かった。本当は(会社勤めしながら音楽活動もする)シャインズや小椋佳になりたかったらしいが。

Kalafina「oblivious」(SME Records)
第一章 俯瞰風景エンディングテーマ「oblivious」に加えて、第二章 殺人考察(前)エンディングテーマ「君が光に変えて行く」、第三章 痛覚残留エンディングテーマ「傷跡」を収録(画像クリックで拡大)