CREDIDIMUS CARITATI

聖伝のカトリック信仰を守り抜いた、聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の生涯紹介。聖母の汚れ無き御心にブログを奉献。

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.14.『信教の自由』の公布

2008年09月13日 | 第12章 第二バチカン公会議
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

『信教の自由』の公布

 その日、各公会議教父たちは普段の通りに出席カードに署名した。次に、教皇が荘厳に入場した。最後に、事務総長は教父たちが投票する四つの文書を読んだ。

 信教の自由に関する最後の投票は、教会の宣教活動に関する教令 (Ad Gentes)、司祭の職務と生活に関する教令 (Presbyterorum Ordinis) 及び現代世界の中の教会に関する司牧憲章 (Gaudium et Spes) に関する最後の投票の後で引き継いでなされた。この最終文献(『現代世界憲章』)は、反対が 75票だったが、ルフェーブル大司教の反対票もあった。

 各公会議文献に対して、教父たちは機械で読める特殊マグネチック筆記具を使う個別投票用紙を満たして署名した。投票は秘密投票で本人が直接しなければならなかった。公会議教父たちは留守の教父を代表していたとしても、その留守の教父の代わりをして投票することはできなかった。フェリチ大司教が思い起したように、教会法によってそうしなければならなかった。但し、一度、公文書が公布されれば、教父の代理人も不在教父の代わりに署名することができた。

 ミサの終わりに、ペリクレ・フェリチ大司教は教皇の方に進んで来て、四種類の投票の結果を知らせた。教皇は四つの文献を承認すると、それらを口頭で公布し、大きく力強い拍手喝採を受けた。

 その次に公布された四種の文献の題目がついている大きな紙が教父たちを巡って回った。この用紙に、教父たちは、自分の名前を署名する前に‘エゴ(Ego)’私、という用語とともに各自の名前を署名するように招かれていた。これは、公会議団の首長である教皇による公布の行為に各教父たちがそれぞれ一致するということを意味するため ‘私’を意味する単語が添加されていたのだ。

 教父の代理人は “Ego procurator... 私,...の代理人”と記録することで、自分がその代理を務めている教父が同意するということを意味させることができた。

 それでその大きな用紙の中の一つには、全く同じ手の筆跡で次のような署名が登場する。【この用紙は公会議記録保管所に保存されている】

“Ego + Marcellus Lefebvre arch. Tit. Synnada in Phrygie,”
“Ego procurator pro epis. Augustinus Grimault, epis. tit.”

 そして他の紙にはこのようになっている。“Ego Antonius de Castro Mayer, ep. Camposinus. Brasilia.”

 これらの明白な事実が見せてくれることは、最後の最後まで信教の自由に反対する投票をしたルフェーブル大司教が、結局、デ・カストロ・マイエル司教のように、『信教の自由に関する宣言』(人間の尊厳性 Dignitatis Humanae) という宣言文の公布に署名したとことになる。

 これは意見を撤回したかのように思えるかも知れないが、少しも驚きべきではない。

 概要(Schema 草案)が一応教皇によって公布されると、それはこれ以上、概要ではなくて本性が変わって教導権の行為となる。ルフェーブル大司教自身は 1976年 9月 15日の講話で教皇の承認の重さを強調したが、あの時彼は「教皇から来る道徳的圧力を受けて」幾多の公会議文書に署名したことを自ら認めた。何故ならば「私は教皇から離れることができなかった、教皇が署名するのなら、私は道徳的に署名する義務がある」から、とルフェーブル大司教は言っていた。

 ヴィルトゲンはこう書いている。

「根本的に、これはすべての公会議教父たちに共通の態度だった。(...)各自は、与えられた論題に関する自分の立場が正しいと確信していたにもかかわらず、(...)教会法を良く知っていたこれらの教父たちは、自分たちの頭である教皇の判断がより優勢であるとする」義務があると考えていた。この服従においては、不誠実さも不恒常さもなかった、と。


 結局、『信教の自由に関する宣言』の「真の宗教」に関する事柄、あるいは信教の自由の「適正範囲」についての文句は、究極の厳密さをもって言うなら、たとえそれが、この文書のその他全てから出てくるこの文書の明らかな意味ではなかったとしても、『信教の自由に関する宣言』のうち固有の意味での宣言文の十一行(2番)を、カトリックの意味に解釈しようとすることは出来なくはなかった。

 いずれにせよ、マルセル・ルフェーブル大司教とアントニオ・デ・カストロ・マイエルの賛成が公式的に公会議の議事録(Acta)に記録された。

 後日、ルフェーブル大司教が何度も、信教の自由に関する宣言 -- ちょうど『現代世界憲章』と同じように -- に署名しなかったと言ったら、それは彼が公布以前と以後にこれに反対した論理と一致する主張であり、記憶の間違い、或いは間違いの結果だった。

 彼は『現代世界憲章』Gaudium et Spes 及び 『信教の自由に関する宣言』Dignitatis Humanae反対する最終投票を署名拒否と混同してしまったようだ。そのような混同は、大司教が 1976年と 1990年に【署名を】否認したことで現われる。

 このことは、一方で、この二つを除いたすべての公会議概要に最終的に賛成 (placet) の投票をしたが、他方で、彼がたとえすべての公会議文献に署名したりしても (公会議議事録 (Acta Synodalia) に現われるように)、公会議文献を教皇と共に公布するという意味で署名したのではないということを意味するだろう。

 いずれにせよ、信教の自由に関する投票者の数 (2,386) と、公布に署名した出席教父たちの数 (2,364) を比べると、賛成投票あるいは反対投票したが、少なくとも 22人の教父たちが公布文書に署名しなかったことが分かる。ルフェーブル大司教は彼らの一人ではなかった。

 それにもかかわらず、私たちがまだ手にすることが出来なかった情報、或いはまた、事実のよりもっともらしい別の解釈が出てくるなら、私たちはそれを受け入れる準備が出来ている。しかし、私たちの意見では、大司教が『信教の自由に関する宣言』 Dignitatis Humanae に署名したと言って、彼が信教の自由に対抗して争った闘いの価値が減ったことではない。

 私たちにはまだ彼が信教の自由及び公会議の他の二つの主要主題、すなわち私たちがすでに取り上げた司教団体主義とエキュメニズムに対抗する闘いに関与したことをもっと綿密に研究しなければならない課題が残っている。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)
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