早尾貴紀「佐藤優氏のイスラエル支持について」
「佐藤優氏のイスラエル支持について」
早尾貴紀(大学講師、パレスチナ情報センター、他)
佐藤優氏という元外交官の文筆家が、あちこちの雑誌・書籍で、イスラエル擁護論を展開している。
パレスチナ/イスラエル問題についてこれまで発言してきた私としては、ここで一定の立場表明をしておくべきだと思う。
金光翔さんが展開している「〈佐藤優現象〉批判」には共感するし、あるいは鈴木裕子さんがそれに類比させて〈朴裕河現象〉と呼んだ問題もある。「左右を越えて」とか「和解」とか、そういった問題設定に対して、リベラル派を自任する知識人やメディアは、ここのところとくに弱くなっているように思われる。
後者の〈朴裕河現象〉については、私自身が、『季刊軍縮地球市民』や『季刊戦争責任研究』といった雑誌で一定の論及をしてきた。どうしてあのような短絡きわまりない乱暴なナショナリズム批判(つまり、韓国のナショナリズムも日本のナショナリズムと鏡写しのように同型だとして、相対的に日本を免罪・擁護する)が、どうしてリベラルを自任する知識人らに称賛されるのか、という問題だ。
また私は、パレスチナ/イスラエル問題に関して、これまで、ピースナウや労働党が和平派であるとか、あるいはそのイデオローグたるアモス・オズやデヴィッド・グロスマンなどの作家・知識人らがイスラエル内の貴重なリベラル派だとして期待する議論に対して、批判を重ねてきた。ウェブサイトでは以下がある(拙著『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)でより詳細に展開している)。
「シオニズムはリベラルになりうるのか――ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』をめぐる勘違い」
http://palestine-heiwa.org/note2/200705230511.htm
「正戦論の倫理思想家マイケル・ウォルツァーのガザ攻撃正当化について」
http://palestine-heiwa.org/note2/200901130036.htm
もちろん問題は、オズやグロスマン(あるいはアイザイア・バーリンやヤエル・タミール)にもあるが、もう一つの問題として、日本の知識人やメディアが、オズやグロスマンを和平派として重用しつづけていることが指摘できる。オズもグロスマンも、その著書が何冊も日本語に訳されており、「イスラエルの良心の声」として消費されている。だが、彼らが、そして彼らの支持するピースナウや労働党が、西岸地区の入植地の全面撤去や、併合した東エルサレムの全面返還や、ユダヤ人国家イスラエルという差別的規定の撤廃を論じたことなどありはしない。お茶を濁したような、入植地の一部整理論と、東エルサレムへの部分的アクセス権の譲歩によって、むしろイスラエル国家のユダヤ性を保持・強化しようとしているのだ。その意味で彼らは断固としてシオニストであるのだが、日本では平和の人として褒めそやされている。
正直なところ、分析力と倫理観の欠如と言うほかはない。
この労働党の党首であり国防大臣であるエフード・バラクが、今度のガザ攻撃を指揮した。もちろん、シオニズム堅持の政策の延長線上でのことである。
そのイスラエルのガザ攻撃を佐藤優氏が全面支持している。
このことについては、やはり二層の問題を指摘しなければならないだろう。佐藤氏のイスラエル支持の議論そのものの是非についてと、そうした佐藤氏を重用するメディアについてだ。
前者の問題については、「国益」を隠れ蓑にした暴論で、歴史も人権も国際法も蹂躙して構わないというとんでもない主張だ。もしかすると、佐藤氏がかぎりなく無知であることからくる主張である可能性もあるが、情報分析のエキスパートを自任する人物に「無知」は失礼か。とするなら、これは無知からくるものではなく、彼の強い思い込み・価値観から来ているということになろう。
どんなにパレスチナ人を殺戮し、自決権を踏みにじってもいいというのが彼の価値観であるというなら、それを表明するのは勝手だ。私は、佐藤氏がそういう人物だとみなすだけである。そもそも彼の著作を面白いとも重要だとも感じたことはないので、関心もない。そういう人物がよくありがちなイスラエル擁護を無責任に展開しているというだけだ。
ただ、「国益」という点については、オスロ合意以降、日本も含めた国際社会の支援で整備したパレスチナの建造物やインフラをイスラエル軍がいくら繰り返し破壊しても、その復興・再建が日本の税金も含む国際援助金で際限なくまかなわれ、また存分にイスラエルに破壊されるということについて、それがどう「国益」なのかを説明してほしいものだ。
第二の問題として、その佐藤氏を重用する日本のメディアの問題がある。反動的で差別的な佐藤氏の価値観を共有するメディアが彼を重用するのは当然だろうが、金光翔氏が繰り返し指摘しているように、なぜに佐藤氏が左派・リベラル陣営を自任するメディア(とくに『世界』『週刊金曜日』)にも頻繁に登場するのか。この点については、強い違和感を覚える。
もちろんメディアを使い分ける佐藤氏が、そうした左派メディアで「パレスチナを占領しその人びとを殺戮するのは正しい」などとは言わないだろうが、よそで言っているだけだからといって執筆させるのは無責任ではないのか。佐藤氏の対メディアの商売戦略は、たんなる「二枚舌」なのであって、「左右の対立を越え」ているのではない。右派メディアと左派メディアに対し、それぞれ聞こえのいいことを振りまいて、執筆の幅を広げているにすぎない。
左派メディアには、今度佐藤氏が書くときには、ぜひともパレスチナ/イスラエル問題へのスタンスを問うてほしいものだし、それに対する編集部の見解も示してほしいものだ。
近年の〈佐藤優現象〉と〈朴裕河現象〉は、80年代からの日本社会の「ピースナウ好き」を彷彿とさせる。イスラエルの占領が二度のインティファーダを招き、今度のガザ虐殺を引き起こした。ピースナウなどの和平派は、占領も攻撃も支持してきた。支持どころかオスロ和平派が占領体制をつくりあげ、その破綻が虐殺だったと言える。それこそが、国際的な和平交渉の枠組みのなかにある、日本も含む国際社会による占領支援の実態であり帰結だ。
それを教訓にするなら、〈佐藤優現象〉と〈朴裕河現象〉が日本社会にどういう帰結をもたらすのかは、重大な問題だと言わざるをえない。
早尾貴紀(大学講師、パレスチナ情報センター、他)
佐藤優氏という元外交官の文筆家が、あちこちの雑誌・書籍で、イスラエル擁護論を展開している。
パレスチナ/イスラエル問題についてこれまで発言してきた私としては、ここで一定の立場表明をしておくべきだと思う。
金光翔さんが展開している「〈佐藤優現象〉批判」には共感するし、あるいは鈴木裕子さんがそれに類比させて〈朴裕河現象〉と呼んだ問題もある。「左右を越えて」とか「和解」とか、そういった問題設定に対して、リベラル派を自任する知識人やメディアは、ここのところとくに弱くなっているように思われる。
後者の〈朴裕河現象〉については、私自身が、『季刊軍縮地球市民』や『季刊戦争責任研究』といった雑誌で一定の論及をしてきた。どうしてあのような短絡きわまりない乱暴なナショナリズム批判(つまり、韓国のナショナリズムも日本のナショナリズムと鏡写しのように同型だとして、相対的に日本を免罪・擁護する)が、どうしてリベラルを自任する知識人らに称賛されるのか、という問題だ。
また私は、パレスチナ/イスラエル問題に関して、これまで、ピースナウや労働党が和平派であるとか、あるいはそのイデオローグたるアモス・オズやデヴィッド・グロスマンなどの作家・知識人らがイスラエル内の貴重なリベラル派だとして期待する議論に対して、批判を重ねてきた。ウェブサイトでは以下がある(拙著『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)でより詳細に展開している)。
「シオニズムはリベラルになりうるのか――ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』をめぐる勘違い」
http://palestine-heiwa.org/note2/200705230511.htm
「正戦論の倫理思想家マイケル・ウォルツァーのガザ攻撃正当化について」
http://palestine-heiwa.org/note2/200901130036.htm
もちろん問題は、オズやグロスマン(あるいはアイザイア・バーリンやヤエル・タミール)にもあるが、もう一つの問題として、日本の知識人やメディアが、オズやグロスマンを和平派として重用しつづけていることが指摘できる。オズもグロスマンも、その著書が何冊も日本語に訳されており、「イスラエルの良心の声」として消費されている。だが、彼らが、そして彼らの支持するピースナウや労働党が、西岸地区の入植地の全面撤去や、併合した東エルサレムの全面返還や、ユダヤ人国家イスラエルという差別的規定の撤廃を論じたことなどありはしない。お茶を濁したような、入植地の一部整理論と、東エルサレムへの部分的アクセス権の譲歩によって、むしろイスラエル国家のユダヤ性を保持・強化しようとしているのだ。その意味で彼らは断固としてシオニストであるのだが、日本では平和の人として褒めそやされている。
正直なところ、分析力と倫理観の欠如と言うほかはない。
この労働党の党首であり国防大臣であるエフード・バラクが、今度のガザ攻撃を指揮した。もちろん、シオニズム堅持の政策の延長線上でのことである。
そのイスラエルのガザ攻撃を佐藤優氏が全面支持している。
このことについては、やはり二層の問題を指摘しなければならないだろう。佐藤氏のイスラエル支持の議論そのものの是非についてと、そうした佐藤氏を重用するメディアについてだ。
前者の問題については、「国益」を隠れ蓑にした暴論で、歴史も人権も国際法も蹂躙して構わないというとんでもない主張だ。もしかすると、佐藤氏がかぎりなく無知であることからくる主張である可能性もあるが、情報分析のエキスパートを自任する人物に「無知」は失礼か。とするなら、これは無知からくるものではなく、彼の強い思い込み・価値観から来ているということになろう。
どんなにパレスチナ人を殺戮し、自決権を踏みにじってもいいというのが彼の価値観であるというなら、それを表明するのは勝手だ。私は、佐藤氏がそういう人物だとみなすだけである。そもそも彼の著作を面白いとも重要だとも感じたことはないので、関心もない。そういう人物がよくありがちなイスラエル擁護を無責任に展開しているというだけだ。
ただ、「国益」という点については、オスロ合意以降、日本も含めた国際社会の支援で整備したパレスチナの建造物やインフラをイスラエル軍がいくら繰り返し破壊しても、その復興・再建が日本の税金も含む国際援助金で際限なくまかなわれ、また存分にイスラエルに破壊されるということについて、それがどう「国益」なのかを説明してほしいものだ。
第二の問題として、その佐藤氏を重用する日本のメディアの問題がある。反動的で差別的な佐藤氏の価値観を共有するメディアが彼を重用するのは当然だろうが、金光翔氏が繰り返し指摘しているように、なぜに佐藤氏が左派・リベラル陣営を自任するメディア(とくに『世界』『週刊金曜日』)にも頻繁に登場するのか。この点については、強い違和感を覚える。
もちろんメディアを使い分ける佐藤氏が、そうした左派メディアで「パレスチナを占領しその人びとを殺戮するのは正しい」などとは言わないだろうが、よそで言っているだけだからといって執筆させるのは無責任ではないのか。佐藤氏の対メディアの商売戦略は、たんなる「二枚舌」なのであって、「左右の対立を越え」ているのではない。右派メディアと左派メディアに対し、それぞれ聞こえのいいことを振りまいて、執筆の幅を広げているにすぎない。
左派メディアには、今度佐藤氏が書くときには、ぜひともパレスチナ/イスラエル問題へのスタンスを問うてほしいものだし、それに対する編集部の見解も示してほしいものだ。
近年の〈佐藤優現象〉と〈朴裕河現象〉は、80年代からの日本社会の「ピースナウ好き」を彷彿とさせる。イスラエルの占領が二度のインティファーダを招き、今度のガザ虐殺を引き起こした。ピースナウなどの和平派は、占領も攻撃も支持してきた。支持どころかオスロ和平派が占領体制をつくりあげ、その破綻が虐殺だったと言える。それこそが、国際的な和平交渉の枠組みのなかにある、日本も含む国際社会による占領支援の実態であり帰結だ。
それを教訓にするなら、〈佐藤優現象〉と〈朴裕河現象〉が日本社会にどういう帰結をもたらすのかは、重大な問題だと言わざるをえない。
- 2009.03.01 00:00
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