水野英子・丸山昭(元「少女クラブ」編集長)対談(第4回) メッセージトップ>>
●第1世代がマンガ界に残したモノ

丸山:どうしても、腰をかがめて目の位置を低くして子どもの理解力に合わせようとして、揉み手してるみたいなマンガは、面白くないですよね。やっぱり、自分が読んで面白くないものは子どもが面白いはずないだろう、と思って、当時タブーと言われることも入れていったんです。でも、水野さんみたいに、青年男女が抱き合うなんてところまで行くとはぼくは思わなかった(笑)。原稿もらったときは、おいおいおいと思いましたよ。

水野:「銀の花びら」のときは、そこに行くまでにすでにかなりなまめかしいところがありましたよね。手塚先生の「リボンの騎士」も、いちおう王子様とお姫様の恋物語だったわけですから、あれでラブストーリーマンガは解禁されてたんですけど、あれはまだメルヘンの域を出なかったわけです。私はそれでは描けない世界、もう一段上のものを描きたかった。だいたい、映画や面白い外国文学などでは、男女のラブというのは、非常に美しく描かれてますよね。そういうものを描くとしたら絶対避けて通れなかったんですよ。私たちの時代は恋愛結婚なんてものはまずなくて、だいたいお見合い結婚でした。誰かと誰かがおつきあいなんて言ったらそこらじゅう噂になるような、そんな時代だった。でも、すごくそれはおかしいな、不自然だなと思っていました。男女共学になったくせに、男の子と女の子は別々だった。それはすごくおかしい、それを超えてしまわなければならないんじゃないかな、と思いました。みんなそう思ってるくせに超えられなかった。それを私は超えたんです。

丸山:あ、ここまで描いていいんだ、と思って、次の人たちが続いたんですね。

水野:美しいラブストーリーを本格的に描いたというのは、それが時代の要求だったと思います。私自身もちゃんと描きたかったし、そうあるべきだと思ってたし。だから描いたら、読者の人たちも、同じ気持ちを持っていたことがわかりました。

丸山:石森さんは、そういう面とまた別のところで冒険してたね。表現の上で、えーっと毎回驚かされた。特に、石森さんの才能をいちばん認めたのは手塚先生じゃなかったかな。手塚先生は脅威に思ったでしょうね。

水野:「二級天使」を(連載として)選出したのも手塚先生でしたからね。

丸山:手塚先生は、自分の代わりは石森さんしかできないだろうと思っていた節があって、自分がある雑誌での連載ができなくなったときに石森さんをピンチヒッターとして推薦したこともあるし、東映動画(現:東映アニメーション)の仕事がこなしきれなくなったとき、代わりに連れて行ったのが石森さんでした。この話はみなさん知らないだろうけど、実は、「少年マガジン」が石森さんに連載を頼んで、始まる直前に没になったことがあるんです。それは、先日亡くなったんですが、当時新人でマガジンに来た編集者に聞きました。急遽、別冊付録を付けて出すってことが決まって、本誌のページを削って別冊にまわすってことになったんです。それで、コンテまでできあがって、連載が始まるところまでいっていたのに、編集長から、「この連載は没になったから、丁重にお断りしてこい」って言われて、彼が新人として編集部に配属されてほとんど最初の仕事が、それだったんです。どうしようと思いながら行って話したら、石森さんは気持ちよく、「そうですか、わかりました」って言ってくれて、なおかつ、のちにまた新しい連載を頼みに行ったら、これも気持ちよく、何のこだわりもなく、引き受けてくれた。彼は、「いやあ、石森先生というのは大変な人だなと思った」って言っていました。昭和59年の2月末か3月の初めごろのことです。16ページの連載で、「星くずになれ!」というタイトルのSFマンガだったそうです。ぼくはやっぱり、手塚先生の跡を継げるのは石森さんしかいないと思っていました。マンガ家としてのキャパシティ、幅の広さもそうだし、マンガ家たちをまとめていくリーダーとしてもそうです。手塚先生って、あんまり人を引っ張っていくリーダーって感じじゃないけど、石森さんは向いていたでしょう。手塚先生がねたむくらいの才能だったと思いますね。

水野:なにしろ根に持たない。非常にからっと受けるし流す人でしたね。

― 水野先生のなかで、U.マイア時代のご経験というのは、どんなふうに今につながっていますか?

水野:やっぱり最高に勉強させてもらったなという感じですね。一緒になって描いてるうちに、マンガの描き方というのが芯からわかりました。一生の財産になるような時期でしたね。

― それは、手取り足取り教えていただいたというわけではないんですよね。

水野:そう、そばでお互いに描きながら、ここはこういう処理の仕方があるんだな、こうやったほうが効果的だなっていうのが目の前でわかるわけですよ。だから別に話すことは何もないです。進行していく上で身についてきた。石森さんは、マンガの面白さというのを芯からわかってた人だと思います。

丸山:それとあの努力。読んだ本のものすごさと言ったら伝説的ですよね。

水野:ハヤカワSFシリーズとか、ミステリシリーズとか出てましたでしょ。あれを古本屋さんから束になって買ってくるんです。ごっそりと。必ず夜寝る前に読むんですね。

丸山:1日1冊読み終わるって言ってましたね。

水野:本を読まなければ絶対寝ない。3時、4時くらいまではふつうでした。朝はだいたい9時くらいには起きてましたから、睡眠時間3〜4時間くらい。ずーっとそれを続けていました。

丸山:永井豪さんが言ってましたね。あの筆の速さと、睡眠時間が毎日3時間というのを見て、あんなにやんなきゃマンガ家になれないんなら俺やめようかと思ったって(笑)。だって月間560枚でしたか。手塚先生の記録がだいたい月間360枚くらいでしたから。最初の頃は、原作を付けるとかアシスタントを使うとかを嫌って、全部自分で描いてましたね。原作を付けることは特にいやがりましたね。

水野:それは手塚先生の教えです。何でも自分で描けなければマンガ家ではない。全て描くのが当たり前だったんですよ。だから私もそれを座右の銘にしています。何でも描けるようになろうって先生がおっしゃってたから、描けるようになるために私たちは一生懸命努力したわけです。石森さんもそうだったと思います。

丸山:マンガを描くのにいちばんおいしいところはストーリーを考えるところだ。だから、そのいちばんおいしいところを人にとられて、ただ絵を描くだけだったら、マンガを描く楽しみはない、と石森さんは言ってました。要するに、神様になれると言うんですよ。登場人物の運命を自分が決めて、自由に動かす、こんな面白いことはない。一度、原作付きを押しつけたことがありますけど、非常にいやがられて、ついにペンネームを変えさせてくれと言われましたね。

水野:なんであんなの持ってきたの、丸山さん(笑)。

丸山:いろいろあったんですよ。手塚先生が東映動画に行けなくなって、代わりに石森さんを東映に連れてっちゃった。石森さんはトキワ荘から東映に通うようになったんだけど、そしたら面白くてしょうがなくて、そっち行っちゃうわけですよ。それでぼくは怒ったんです。ぼくんとこの連載描かないのかって。時間がないと言うんで、だったら原作付けるよって言って、「金時さん」という作品を描いてもらいました。

水野:石森さんの柄ではないなあ、あの内容は(笑)。

丸山:「丸さん、ペンネーム変えてもいい?」って言われて、聞いたら、「南汀子」。なんだこれって言ったら、「みんなみてよ」だって(笑)。これは、石森章太郎の名前で残したくなかったんでしょう。……この全集には入ってますか?

― 入ってます(笑)。

丸山:きっとはずせって言うだろうなあ、石森さん(笑)。心外な作品だったんでしょうね。石森さんは、映画や何かで刺激されると、ぱっとひらめいて描いちゃうところがありましたね。ぼくは、「石森さん、それを2か月か3か月寝かせて発酵させてあっためて描けばすごく良くなるのに」って言ったけど。

水野:とにかく素早く描くでしょ。だからあるとき、早いねって言ったら、「俺、あんまり持ってるとそのネタがダメになるんだ」って言ってましたね。だからとにかくできるだけ早く描くんだそうです。

丸山:だから、たしかに最初は面白いんですよ(一同笑)。石森さんの今まで描いている作品には、それぞれ彼のひらめきが出ていると思うんです。「仮面ライダー」だとか「009」だとか、それはそれぞれよく描けているけど、ぼくはやっぱりそれは石森さんの一面であって、石森さんはこれが俺の代表作だよって言えるものを残す前に死んじゃったんじゃないかと思うんですよ。あの人の総合力というのをまだ出す前にね。例の「萬画宣言」で言うように、なんでも扱えるのがマンガだと、要するに、どういうものでも乗せることのできる媒体だということを一生懸命証明してきたわけです。だけども、石森章太郎のこれが全てだよってものは、まだ出ていなかった。ぼくはそういった意味では、「龍神沼」が、若い頃の石森さんが持っているものを全部ぶち込んで、あらゆる手口をやってみせたものだと思うけど、ああいうものが、今度は年をとって経験を積んで、新しいものを全部入れて、石森章太郎の決定版という形で出てくるのを待っていたんだけどね。

水野:言ってましたよ、石森さん。ずいぶんのちになってからですが、あるとき、「そろそろじっくり腰据えて描いてみたいと思ってるよ」ということをぽつんと言ったことがあります。だから、今からかなって思ったんですよ、私も。

丸山:石森さんの商品見本を試食しただけで、本物は食べてない。そういう感じがしてしょうがないんですよ。

― 石森先生が日本の少年マンガ少女マンガに与えてきた影響というのは、どういうところにあると思いますか。

水野:具体的に言えば、まずは、表現の幅をものすごく飛躍的に広げた。コマどりにしろ、進めるテンポにしろ。とにかくコマの大胆な割り方。ナナメにとったり、見開きでとったりを始めたのは石森さんです。ありとあらゆる手法を使って、細かく切って、そのあとにバーンと大きくとるとか、そういう効果的な、2次元の中でしかできないあらゆる可能性、表現の仕方を徹底して追求した人ですね。なおかつ、ハリウッド映画にも匹敵するようなドラマを描く方法。それも、考えるんじゃなくて、次から次へと出てくるんです。考えてない。そういう才能というのはものすごくありました。あとは、描写ですね。映画のようにひとつの情景をやるにしても、昔はページがあまりもらえなかったから、手塚先生みたいに小さいコマでぽんぽんと話を進めるしかなかったんですけど、石森さんは、限られた中でも、じっくりと描写していくことを始めたんです。

― 情景的なものを入れ込むなど、ストーリー運び以外の部分ということですね。

水野:効果ですね。映画のような、ドラマチックな効果をいかに描くか。私自身も、それをやりたくて始めた世代です。私たちの世代というのは、映画から受けた影響がものすごく大きくて、描写を始めた。そしてコマでどれだけの描き方ができるかを追求した世代なんです。それは石森さんが非常に有効にやりましたけど、私もそれには腐心したほうです。いかに効果を出すか。いかにドラマを広げるか。石森さんの貢献はそれがいちばん大きい。その後、もうそういう描写が当たり前になっちゃってますけど、石森さんがいなかったらそれほど大胆に進まなかったと思います。ドラマを進めていくためのリズムのようなものをコマで追っていくということですね。

― U.マイア作品でも、「星はかなしく」のラストシーンが、暗示という手法を明確にマンガに取り入れたものだとか……。

水野:これも映画の影響が大きいと思います。これは明らかに、ふたりの死を待っているハゲタカが頭上を舞っている。それで、ふたりは死ぬだろうということが暗示されてるわけです。これは見てすごいと思いましたよ。私たちも非常に共感できるところがあって、どんどんそういう描写を進めていきました。手塚先生と私たちの世代の差、その前の世代の差というのは、“描写”を始めたことです。手塚先生以下の最初の世代を私は第1世代と言ってるんですけど、私たち第1世代の貢献は“描写”を始めたことだと思っています。これは今までになかった描き方ですね。よりドラマチックなものを描くことができるようになってきたということです。

― 編集者の立場からご覧になって、石森先生のマンガ界への影響はどういうところにありますか。

丸山:手塚先生と同じようなことで言えると思うんですけど、マンガという字は、漢字で「漫画」と書く。要するに、戦前はギャグ、ユーモアが漫画だったわけです。だけど今は我々はできるだけ「マンガ」とカタカナで書くようにしている。「漫」という字は、ふざけている、面白いという意味があるから、どうしてもあれがあると、低俗な娯楽というイメージがつく。手塚先生のときまでは、ギャグやユーモアがあれば、マンガの必要かつ十分条件を満たしていた。でも、手塚先生が入ってきたときに、十分条件ではなくなって、ストーリーがあって、マンガを通じてどういうストーリーを伝えるかということになってきたので、その時点から「漫」がはずれた。手塚先生はまだ、マンガだからユーモアは必要なんだよと言っていましたが、そのあとの劇画の時代になると、もうギャグは全く必要条件でも十分条件でもなくなってしまう。マンガというのは、そういう意味で衣替えしてしまう。そういう時代を引き寄せた。そういうときに、ギャグじゃないいろいろなストーリーを表現するのに、水野さんが言ったように、どういう描写の仕方、どういう表現を使わなきゃならないかっていうのを開拓していったという意味で、ギャグは必要条件だけど十分条件ではないよと言ったのが手塚先生、そういう道を一緒に広げたのが石森さんだと思うわけです。

水野:ものすごく大胆にいろんなことを試した人でしたね。それも考えに考えたものじゃなくて、どんどん出てくるんですよ。そういう天才的なところがある人でした。

丸山:ぼくも、「龍神沼」を最初に見た時には、「こりゃ天才だな」と思いましたね。やっぱり石森さんには目を奪われてしまうところがあるんですよね。考えついたらぱっとやって、「ほら面白いだろう」って言いたいんですよね。そういうところが石森さんの身上だと思うですよね。

水野:まあ、なんにしてもやっぱり天才です。

丸山:それも努力に支えられた天才ですよね。

― それでも、なにかガリガリと努力していたという印象を受けませんね。

丸山:ないですね。それはやっぱり楽しんで描いていたっていうのがあるでしょうね。

水野:描くこと自体は大変な作業です。ひとつひとつこの絵を手書きするんですから、死にますよほんとに(笑)。

丸山:石森さんがいちばん最後に「少女クラブ」に描いてくれた、「江美子STORY」という作品があるんですけどね、あれはちょっと「ジュン」につながるようなところがありましたね。幸せって何だろうとか、なんか哲学めいた、マンガで詩を書こうとしてるところがあって。それと、最近マンガの研究者の方に言われたんですけど、ひとつの場面の中に、本人が喋ってること、本人が考えてること、それ以外の吹き出しにはないところの場面説明とか、次元の違うものを一緒に出すというのは「江美子STORY」が最初なんだよと言われて、そういえばそうか、と思いました。

― やはり手塚先生があまりに偉大だったので、手塚治虫研究はなされてますけど、石森章太郎の研究というのは、作品数の多さや幅の広さもあってか、なかなか難しいようですね。

水野:全部に目が届かないですよね。

丸山:なんと言っても最初は手塚先生というのがありますから。

― 手塚先生が作ってきたものを、トキワ荘の第1世代の方々が、石森先生が情緒的なものやアクションもの、赤塚先生がギャグ、水野先生が少女マンガ、藤子先生がユーモラスなアットホームなものというように、みなさんお得意なジャンルにそれぞれ受け継いでらっしゃるんですよね。

水野:その第1世代というのは、ものすごく幅を広げたんですね。マンガの可能性をほとんど作り出したんじゃないかと思うんです。

― マンガのいろんなバリエーションがだいたい出そろった時代と言ってもいいかもしれませんね

水野:そういう感触はありますね。ただ、石森さんのことにしても何にしても、掘り下げられていません。昭和30年代の若手の人たちは、私も含めて、名前だけは知ってるかもしれないけど、どういう仕事をしてきたか、のちのちにどういう影響を及ぼしたかということが伝えられてないんです。実はいちばん大事なところだと思うんです。だから、石森さんのことを十分伝えておいてほしいですね。……悪書追放とかで、あれだけ迫害されたのに、マンガっていうのは逆に発展してきたんですよ。つまりそれだけ面白かったということです。

丸山:だから、活字に変わって、いろんなメッセージやアイデアをマンガを通じて伝えることができるようになった。それは活字を読むよりマンガのほうが早いですよ。だからといって、じゃあ全部マンガで済むかというとそういうわけにはいかない。マンガのほうが得意な部分もあるけど不得意な部分もある。でも、マンガというのは非常に効率の良い伝達媒体ですから、これをうまく使わない手はないと思うんです。

― マンガを文化として残すためにも、マンガ研究はこれからもっと進んでいってほしいですね。最後になりますが、おふたりに、石森作品の中で愛着のある作品を上げていただけないでしょうか。

丸山:全部は読んでいないけど、ぼくにとってみればやっぱり「龍神沼」かな。初期の石森さんの集大成ですね。あと、「ジュン」とかいろいろあるけど、ほんとうは石森さんの次に描く作品でしょうね(笑)。恥ずかしいことに「龍神沼」の原稿にはぼくの汚い字で入稿指定が入れてあるんですが、それが石巻の石ノ森萬画館にそのまま展示されてるんですよ、あれは恥ずかしいから消して書き直させてほしいな(笑)。そういう意味からもすごく懐かしい作品です。

水野:私は、いちばん初期の「二級天使」とか、「まだらのひも」「幽霊少女」あたりです。インパクトがあまりにも強かったんで。とにかく強烈でしたよ、あの時。私にとってはいちばん初めに見た石森さんの実力です。ほんとに強烈で、一生忘れられない。だから、ずっと下って、いろんなものをたくさん描かれましたけど、あれほどのインパクトを受けたものはないです。どんどんうまくなってらっしゃるんですよ。だけど、初期の作品には、そのうまさを超えた迫力がありましたね。情熱みたいなものがほんとにあふれている。自分が描いていたからわかるのかもしれないんですけど、描いている人の思いがものすごく伝わってくる。ほんとうに純粋に描いていたことがわかって好きです。

水野英子・丸山昭(元「少女クラブ」編集長)動画(4)

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