竹宮惠子 インタビュー(第1回) メッセージトップ>>
●修学旅行の途中で先生に会いに行きました
― 今回は、少女マンガ界でも一、二を争う石ノ森章太郎ファンと自他ともに認めていらっしゃる、竹宮惠子さんにお話をうかがいます。

竹宮:はい、そうですね(笑)。新人の時からずっと勝手に(笑)言い続けています。

― 竹宮さんの石ノ森ファン歴を、最初の頃からお聞かせいただけますか。

竹宮:ファン歴と言っても、そんなに早くから読めていないんですよ。田舎にいたから、東京にいた人とは読む機会が全然違っていて、ほんとにちょこちょこと、少年誌に描いていらした先生の作品を貸本屋さんで借りて読んでいたくらいです。「黒い風」とかはそうやって読みましたね。

― 少女マンガ誌に載っていた作品は、リアルタイムではあまり読んでいなかったんですか。

竹宮:運が良ければ当たるという感じで、初期から読んでいたわけではないです。でも、絵が好きで、ずっと覚えていたんですね。その人が「マンガ家入門」を出すという話を聞いて、もう、出る前から「早く欲しい早く欲しい」と思っていたんです。そこで初めて、石ノ森先生の作品をきれいにちゃんと読みました。

― 「マンガ家入門」をお読みになったときは、どんな印象を受けましたか。

竹宮:マンガというものがとても構造的なもので、考えないといけないことがいっぱいあって、ただすっと描けるものじゃないということ。それから、「龍神沼」にやられちゃったんですね。東北の自然というものを湿り気とともに感じられる、初めてのマンガでした。日本人の心に響くところがあったんじゃないでしょうか、自然物がすごくよかったので、それに感動しました。田舎に住んでいたからかもしれませんね。東北とは違うけれども、そういうものを知っているでしょ。そういう細かいものが、ほんとにこうだなという感じで描いてある、日本的な原風景みたいなものを実感しました。マンガなのに現実のものと違わない感じが、いちばん印象に残りましたね。

― いわゆるマンガマンガしたものではなかったということですか。

竹宮:そうですね。子どものマンガの中では、基本的には明るくてハッピーなものしか扱われないのが普通でしょ。「龍神沼」のような、ちょっと裏の部分というか、影の部分を描いたものというのは、探さないとない時代でしたので、そういう意味ではショッキングでしたね。神というか、龍神の精というものが、人を殺すということがある、ということにすごく納得がいったんですよ。神が人間にとって恐ろしいものだという、そこにはほんとに実感できた。そのへんがほかのマンガとは違ったんじゃないでしょうか。

― 単純なハッピーエンドにはとどまらないということですね。

竹宮:そういうことを私に植え付けたのは、石ノ森先生だと思います(笑)。私もそうなんですけど、オモテからだけじゃダメで、ウラ側から見たいという思いがありますね。

― 「マンガ家入門」で「龍神沼」を読んだことの影響は、竹宮さんの中でも大きかったんでしょうか。

竹宮:それはもちろんあると思います。最初のそのショックというのはすごく大きくて、今も変わらず、自然物を描くことにすごく一生懸命になりますし、屋根から落ちる露の一粒がとても大事に思えます。

― 「マンガ家入門」以降は、もっと石ノ森先生の作品を読みたい、とお思いになったんですか。

竹宮:はい。もうそれからは追いかけるように読んでいますね。「ミュータントサブ」とか、ちょうど単行本がサンコミックス(朝日ソノラマ刊)で出た頃ですね。片っ端から注文して取り寄せていました。

― 竹宮さんは、修学旅行で上京されて、そのときに石ノ森先生のお宅を訪問されたそうですが、それまでの経緯を教えていただけますか。

竹宮:「マンガ家入門」の次に「続・マンガ家入門」という本が出たんですが、それは、「マンガ家入門」を読んで、全国のマンガを描いている人たちから質問が寄せられて、それに石ノ森先生が答えるというまとめ方だったんです。たくさんの人が手紙を寄せているわけですが、石ノ森先生がされてこられたようにグループを作って一緒にマンガを描いている人たちが多かったんですけど、私には仲間がいませんでした。(近くに)描いている人がほんとに見つからなかったので、石ノ森先生に、「私には仲間がいません。できたらそういう仲間になれるような人が欲しいです」という手紙を出したんです。そうしたら、こんなのが来てるよって渡してくださったらしく、石ノ森先生の周辺でグループを作っている人たちから手紙が来たんです。それが石ノ森先生とそっくりな字を書く女性で、ほんとにびっくりしました(笑)。ほんとに好きになると字までそっくりになっちゃうんだ、と思いました。それで、そこの仲間に入れてもらったんですが、当然石ノ森先生に自分の作品を見せてきた人たちなんですね。だから真剣でした。仲間と一緒に描くということ以上に、もしかしたら先生に見てもらえるかもしれないと思いましたから。

― 上京されたときに、まず石ノ森先生のところに行こうと思ったのは、どうしてだったんでしょうか。

竹宮:その頃マンガは私の中心でしたから、マンガに関することならばなんでもしていました。手紙をその仲間に出すでしょ。すると返事が来るのが待ち遠しくて、一日千秋の思いで恋人を待つように仲間の手紙を待っていました。そういう状態だったので、修学旅行で東京近辺に行くとなったら、なんとかして会いに行けないかなと思いました。その頃は、石ノ森先生の家に全国からファンが押しかけて、アシスタントにしてくださいという人が一晩座り込んだとかいう話を聞いていました。実際に座り込んだ経験のある人と後にお仕事もしています。「地球へ…」でご一緒した、ひおあきらさんがそうなんですけど(笑)。まあ、そんなときで、もう、石ノ森参りを済まさないことには話にならないみたいなところがあってね(笑)、ぜひ行きたいと言ったんです。手紙で仲間に連絡したら、桜台の駅まで来てくれれば迎えに行くから、と言われて。仲間に会うのもそのときが初めてでした。

(注:ひおあきら氏は、竹宮氏の代表作「地球へ…」に制作協力として参加している)

― そのお仲間と一緒に石ノ森先生を訪ねたんですね。

竹宮:しょっちゅう石ノ森先生の家に出入りしているマンガ家予備軍の人たちだったので、簡単に引き入れてもらえましたね。その「宝島」という同人誌に原稿を寄せる人たちが全国にたくさんいたんですが、その中でいちばん原稿量が多かったのが私だったんですよ(笑)。一冊竹宮惠子になってしまった、みたいなこともあったというくらい(笑)。誰ともマンガの話ができないので、(ほかの人が)マンガの話をしている暇に描いていた感じですね。描くことで有無を言わさずその仲間にしてもらうようなところがあって、石ノ森先生にも、「いちばんマンガを描く人です」と紹介していただきました。

― 石ノ森先生にお会いになられたときの印象はどうでしたか。

竹宮:それが、いちばん最初にお会いしたときには、先生は最初からはおられませんでした。石ノ森先生はお昼頃は寝ていらっしゃって、夕方になると起きてこられるんです。たしか私はお昼過ぎくらいに着いたんだと思うんですけど、なんとか駅に着いたら、たまたまその日が縁日で、駅を出たとたんに細い路地がずっと縁日で埋まってたんですよ。そこで迎えに来てくれた小山田つとむさんという、後に永井(豪)先生のところにいらっしゃる方が、綿菓子を買っていかないかって言うんですよ。何か買ってこいってアシスタントの人に言われたということで。それで買って、ぷらぷらさせながら行ったんですけど、石ノ森先生はまだ起きてこられなくて、永井豪先生がその時アシスタントのチーフでしたが、いきなりその綿菓子を食べ始めたというのがすごく印象に残っています(笑)。石ノ森先生はその後来られたんですけど、すごくソフトであったかい感じでしたね。私にとっては田舎にいる頃から、親が教えてくれないことを教えてくれる人でしたから、人生の先生に会いました、みたいな感じでした(笑)。

― 竹宮さんは、石ノ森先生について「唯一信頼できる大人だった」という表現もされたことがありますね。

竹宮:はい。でも、すごく生意気なことを言った覚えがあるんです(笑)。

― そうなんですか?

竹宮:往復ハガキで「サインをください」と送ってくる人に、私の同人誌仲間が(先生の)代わりにサインを書いたりするんですよ。今から考えるとそのぐらいじゃないととても処理できないほどの量だったと思うんですけど(笑)、そのとき私は、それはひどいと思う、みたいなことを言ったんです。

― (笑)。永井豪先生も、アシスタント時代に色紙に009を描いてファンに渡していたというお話をなさっていましたよ。

竹宮:今から考えたら、マンガだって、ほとんどそっくりに描ける人がいて、先生がご病気になったときは描くということがよくあって、今ではそういうことも普通にみんな納得していますが、当時はそういうことを知らなかったので、それはイヤ、みたいなことを言った覚えがあるんですよね(笑)。そんな、往復ハガキに書いて送ってもらえるなんてことは、ほとんどないですよね、量がすごいですからね。

― その当時から、石ノ森先生は、若いマンガ家の方々を育てるというか、面倒をみるということを積極的にやっていらしたんですね。

竹宮:はい。私みたいな者を泊めてくれたりとか。全然信用できないじゃないですか(笑)、よそからいきなりやってきて、別に血縁でもなんでもないし、コネがあるわけでもないのに、信用してもらえて、奥様にもとてもよくしていただきました。私が泊めていただいたのは2回目にお邪魔したときなんですけど、その間、お手伝いさんにお食事もお世話していただきましたし。最後に帰るときに、とても変わったベルトをいただいたんですよ。それをずいぶん長い間持っていて、壊れてしまって諦めたんですけど、長いこと大事にしていました。龍のうろこのような模様のついた青いベルトだったんです。そのときには珍しいものだったんじゃないでしょうか。

― 石ノ森先生のお仕事ぶりというのは、実際には拝見されましたか。

竹宮:「千の目先生」を描いているときにお邪魔していたんですよ。夜は出版社回りがなくて暇なので、お風呂に入って出てきてから、覗いていいですかと言って、しーんと仕事をしているところに入っていきました。邪魔にならないようにまわりの本を見たりしていたんですけど、その気配を見ていて、「手伝ってみる?」とか言われて、朝顔を描いたことがありました。朝顔の垣根のはずだったんですけど、私が植木鉢にしちゃったんです。でも、いいよそれで、と言われて、そういうことってアリなんだ、と驚きました。だから私も、アシスタントが勘違いして全然違うものを描いたときは、いかにごまかすか考えます(笑)。

― その頃、先生のもとには女性のマンガ家志望者もけっこう集まっていたんでしょうか。

竹宮:どうなんでしょう。やっぱりファンには女性がすごく多かったですよね。少女マンガを描いていたということもあるんでしょうけど、感性が女性にピンとくるというところがあって、女性の入れ込んだファンがとても多かったと思います。今のマンガ家仲間でも、ささやななえこさんとかとは、同じように石ノ森派ですよねという話になるんです(笑)。

― 石ノ森先生の持っている、どういうところに魅かれたのでしょう。

竹宮:石ノ森先生というと、どうしても対極に手塚(治虫)先生が出てきますね。手塚先生が陽性でいて、石ノ森先生のほうが少し湿気があって、みたいな感じですね。ちょっと翳りみたいなものを感じるんですけど、手塚先生が大阪(出身)で、石ノ森先生が宮城県ですよね。やっぱり、そのへんの違いがあるのかな、とは思いましたね。

― 「龍神沼」に表れているような、独特の味わいがありますね。

竹宮:そうですね。とても高い木の暗い林の中というイメージ。でも、そういうところって一見暗いようだけど、すごく落ち着くじゃないですか。そういうところが石ノ森先生にはあるし、作品の中にもあるという気がします。なんか抱かれる感じ。読んで何かに感動するというより、その世界に慰められるという感じですね。

― 石ノ森先生の作品で特にお好きなものは、何でしょうか。

竹宮:「ミュータントサブ」とか、最初に読んだものの印象が強いですね。そのあと、構成に感動したのが、「佐武と市(捕物控)」の青年版のほうですね。それはもう、私が大人になってからですけど、すごい構成だなと思いました。子どものときだと、やっぱり「ミュータントサブ」です。「ミュータントサブ」の中だったと思いますが、「マンガ界のトランキライザーになりたい」という言葉があって、それで私のプロダクションの名前は「トランキライザープロダクト」なんですね。

― ああ、そうだったんですか!

竹宮:いま、トランキライザーという言葉は巷にいっぱい使われているので、なんでトランキライザーなんだとか、お薬屋さんですか、とか聞かれるんですけど(笑)。精神安定剤と言うと、なんとなくニュアンスが精神的な病のほうにどうしても寄るんですけど、当時はすごくいい意味で使われていたんですね。父親に、大変だからプロダクションを作りなさいと言われて、じゃあ名前を何にするとなったときに、すっと出てきました。実は、中学のときにそれを読んで、もし自分も石ノ森先生みたいにプロダクションを持って、仲間と一緒に仕事をするようなことがあったら、それにしようってもう思っていたんです。プロダクションを持って仕事をするということにも憧れを持っていましたし。

― 永井豪先生も、石ノ森先生の「ダイナミック3」という作品が大好きで、ご自分のプロダクションを「ダイナミックプロ」と名付けられたそうです。

竹宮:同じですね(笑)。あのときは、ほんとに石ノ森先生を追っていましたね、仕事の仕方まで。手塚先生のほうはほんとに「神様」だったので、見えないところが多くて、そういうところまで覗けなかったんです。手塚先生は、アニメーションのほうにも行っていたし、いろんなところに逃げて行かれたりして、見えないじゃないですか(笑)。石ノ森先生のほうが、そういう、作る場所がよく見えたという感じですね。

― 石ノ森先生は、若手の漫画家の方々やファンの方々をとても大事にされていたそうですね。まあ、若手マンガ家とファンの境界線は曖昧だと思うんですけど。

竹宮:それ(境界)がないということを、石ノ森先生がいちばんよくご存じだったんじゃないかなと思います。マンガの世界は近いと感じさせてくださった方ですね。やっぱり入り口がすごく大事で、そこでつっかかったらやめてしまうと思うんですよ、だってけっこう苦労が多いですから。

― 石ノ森先生は「マンガ家入門」で、たくさんの漫画家志望者を作ったわけですからね。

竹宮:そうそう。寺山修司さんが、「書を捨てよ町へ出よう」を書いて、家出少年をたくさん作ってしまった。だから、すごくそれに対して責任を感じていて、やっぱり「天井桟敷」(注:寺山主宰の劇団)を作るしかない、という気持ちになったんだということをおっしゃっていましたね。

― あとのフォローをしないと、と思ったわけですね。

竹宮:そうですね。焚き付けてしまったから、みたいな(笑)。

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