鈴木伸一 インタビュー(第3回) メッセージトップ>>
●アニメを作りたい!― スタジオ・ゼロの時代(後編)
― スタジオ・ゼロでアニメやマンガを作る場合、それぞれの担当というのはあったんですか?

鈴木:そういうものはなかったと思いますが、ゼロの初期には会社の運転資金をマンガ連載で得ようと、マンガ家連中が協力し合って描いていたことはあります。少年サンデーだったかな、オバケの話が好きだった藤本(藤子・F)氏に連載の依頼があったので「オバケのQ太郎」を描くことになるんですが、その作品に安孫子(藤子)氏はもちろんですが、石森氏も主役以外のキャラクターを描いて参加していました。だから初期のオバQの執筆者名は[藤子不二雄とスタジオゼロ]というようになっていました。そのあと「少年マガジン」に「レインボー戦隊ロビン」を連載するんですが、これは主役のロビンや看護ロボットのリリーなどは石森氏が描いて、ウルフとか侵略者のパルタ星人たちは安孫子氏が描いていました。そのうちにマンガ家の人たちはマンガの仕事が忙しくなって自分の仕事で精一杯になったので、アニメはゼロマネージメントをやっていたつのだ氏のお兄さんと僕の二人で担当していました。

― スタジオ・ゼロ時代は、石ノ森先生は、アニメのほうにはあまり関わっていなかったんですか?

鈴木:虫プロ時代の「鉄腕アトム」(63年放映)の「ミドロが沼の巻」という作品があるんですが、彼が実際にアニメーションの作画をやったのはその1本だけですね。その作品は取締役以外にスタッフがいないので、マンガ家全員で作画したんですが、それぞれの個性が出てしまって、出来上がった作品をみた手塚先生が絶句したという悪名高き作品です(笑)。

― 石ノ森先生のアトムや、つのだ先生のアトムなど、いろんなタッチのアトムが見られるというエピソードですね。

鈴木:あれは、虫プロがめちゃめちゃ忙しい時期で、1本外注に出せば一週間分の余裕ができるだろうという考えだったと思いますが、スタジオゼロを作った当初でしたから、手塚先生が1本仕事を下さったんだと思います。石森氏と僕が手塚邸に参上して、手塚先生から「ミドロが沼の巻」のゲラ刷りをもらいましたが、虫プロではその時点で、その仕事をいくらで出すかということが決まっていなかったらしくて、手塚先生とスタッフの人が後ろのほうでコソコソと、いくらにしようかと相談しているんですよ(笑)。まだ外注というシステムが確立していない時代でしたからね。これぐらいでどうでしょうか?と言われても、石森氏も僕も値段にはうといので、結構ですとか言って引き受けてきたんですが、当時は「鉄腕アトム」も製作費が安かったらしくて、作画料も安かったと思います。

― 当時は毎週30分ものアニメを作るということ自体が大変だったわけですよね。

鈴木:ゼロでは原画と動画しかできなくて、セル仕上げとか背景、撮影などは全部虫プロでやることになっていたので、そのわりには値段は良かったのかもしれませんが、作画は大変でしたね。マンガ家連中は、みんな自分の作品を描きながらの作業ですから、夜中に出てきてアニメを描いたりしていました。僕も当時は鎌倉に住んでいましたから、そこから中野まで通ってきて動画を描いていました。毎日しっちゃかめっちゃかで、面白い思い出ですが、作品はひどいものだったと思いますよ(笑)。

― スタジオ・ゼロとしても、アニメの作り方にまだ慣れてなかった頃でしょうね。

鈴木:そうですね。まだアシスタントもいなかったし、いるのは取締役のマンガ家たちばかりなので、結局取締役が総がかりでアニメを描くしかなかったんですよ(笑)。いま思うとヘンな会社でしたね。絵コンテは石森氏と僕が半分ずつ描きました。

― でも、アニメの歴史を通してみても、それだけ第一線のマンガ家が集まって同時にアニメーターとして作っていたというのは大変貴重な例ではないでしょうか。

鈴木:いま考えるとありえない風景ですよね(笑)。マンガ家はもともと個性の強い人たちだし、アニメの経験は全くなく、自分たちのマンガの合い間にアニメをやるという状態でしたから相当きつかったのでしょうね。また、いまのように作画監督という制度がなかったので、キャラクターを揃えるということがなかった。動画を描いて渡すと、それがそのままセルにトレスされる時代でしたから、個性的な絵がそのまま画面に出たんですね。そのあと、みんなアニメの辛さにこりごりして二度と作画に手を出さなかったので、「ミドロが沼の巻」は怪作ですが、それはそれで貴重なものかもしれませんね。僕らとしてはあの「ミドロが沼の巻」は幻の作品として封印してもらって、あまり見て欲しくないですね(笑)。

― 「佐武と市捕物控」は、石ノ森先生のマンガも斬新なものでしたけど、アニメとしてもいろいろと実験的な部分がありましたね。

鈴木:そうですね。初めのパイロットフイルムはスタジオゼロで作ったんですが、そのときから何か違うものを作りたいという気持ちがありました。パイロットフイルムに力を貸してくださった某テレビ局のディレクターも「忍者武芸帳」が頭にあったかもしれませんが、石森氏のマンガそのものを撮影して構成したり、釣針が水面に投げ込まれるシーンは実写にしたりして、一種の実験映画のようで面白かったですよ。そのあと、大阪電通がプロデュースすることになって、とてもうちだけではできないので、虫プロと一緒にやることになりました。虫プロはアクションものに強かったので、どうしてもあちらがリーダーシップをとるような形になりましたね。スタジオゼロはずーっと藤子マンガを作っていましたから、藤子タイプには強かったんですが…。(注:大島渚監督の映画「忍者武芸帳」は、白土三平の原作の絵をそのまま使用する手法が当時話題を呼んだ)

― 「佐武と市」のアニメ化では、石ノ森先生はどう関わっていたんですか?

鈴木:どちらかというとストーリーですね。ラッシュ試写を見て表現などについては意見を言っていました。石森氏も何か新しい事をやりたいという気持ちが強かったと思います。時代劇の大御所である松田定次監督が監修についてくださって、ここはこのようにしたら、といった演出上のセオリーについてのアドバイスはいただきました。この「佐武と市」の作品からずーと後になりますが、「SARUTOBiくん動画秘帖の巻」という作品でまた一緒に仕事をすることになるんですよ。

― それはどんな作品なんですか?

鈴木:いまから10年位前、長野県上田市にマルチメディア情報センターというものができたんですが、そこだけで上映される作品です。そのセンターの名誉館長だった石森氏がマルチメディアというものをアニメーションで表そうということで、最初シナリオを書いてくれと頼まれたんです。僕はシナリオだけを書いたことはなかったので、シナリオライターとして頼まれたという事で嬉しかったですね(笑)。彼が考えていたのは、このセンターのマスコットキャラクターであるSARUTOBiくんという忍者を狂言回しにして、アニメのできるまでを紹介するといったものだったのですが、僕としてはストーリー仕立てにして、その中にアニメーションの歴史と、いろいろな種類のアニメーションやテクニックというものも入れて盛り沢山にしようということでシナリオを書き、そのシナリオを石森氏も気に入ってくれました。そのあと作品の製作をやっていた会社から演出までやってほしいといわれてやることにしました。マンガ家の村野守美さんがシナリオを絵コンテにしてくれたので、それを僕が演出(監督)という形でやりました。

― スタジオ・ゼロ以来、何十年ぶりかにご一緒したお仕事ですね。

鈴木:そうですね。15分くらいの作品でしたが、いろいろなものを盛り込んだストーリーにしたので作っていて面白かったですね。本編が15分なのに、15分くらいのメイキングがついているんですよ(笑)。それから、もう一つの楽しみはこの作品に石森氏が出演していることですね。白い髭をつけて神様の格好をしてケムリと共に出現してきます。そしてマルチメディアについてひとくさりしゃべって、またケムリにと共に消えてしまうんです。いまとなってはこれも貴重な映像かもしれませんね。

鈴木伸一 インタビュー動画(3)

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