鈴木伸一 インタビュー(第2回) メッセージトップ>>
●アニメを作りたい!― スタジオ・ゼロの時代(前編)
― その(アニメーション製作会社の)スタジオ・ゼロのお話もうかがいたいのですが、当時は石ノ森先生もトキワ荘を出られて、言ってみれば、トキワ荘の方々がまた集結したという形になっています。できた経緯というのをおうかがいできますか。

鈴木:僕がおとぎプロを辞めて、何か新しい仕事を始めようと思っていたときに、トキワ荘の新漫画党の連中も、アニメにすごく興味を持っていたんですね。手塚先生の「鉄腕アトム」がテレビでヒットしていた時代ですから、自分たちもやってみたいと思っていたんです。それで石森氏、藤子不二雄氏(F=藤本氏、=安孫子氏)つのだじろう氏と相談してアニメ会社を始めたんですが、すぐには仕事があるわけないんです。そのうちに石森氏が当時のNET(今のテレビ朝日)の教育番組のタイトルとか、ちょっとしたアニメを頼まれたので、それを二人でやりました。石森氏の部屋で……ほかにスタッフもいないし、セルもないので、紙にハチが飛んでいるところを描いて、それを引っぱれば飛んでいるように見えるだろうとか(笑)、「これが新しいんだ」とか言いながらやっていましたよ、まあ簡単なものでしたがね。(注:スタジオゼロは石ノ森章太郎、藤子・F・不二雄、藤子不二雄、つのだじろう、赤塚不二夫氏らと創立したアニメの制作会社)

― 手作り感覚だったわけですね。

鈴木:手作りもいいところですね。その後、中野区中央5丁目の八百屋さんの倉庫にくっついていた、元ボクシングジムだった跡を借りたんです。

― そこがずっとスタジオとして使っていたビルですか?

鈴木:それはこの後に引っ越した新宿・十二社にあった市川ビルのことですが、これはその前に見つけて入った所で、バラックというか、あばら家で、トイレは独立した離れになっていて、もちろん水洗ではない。オシッコするにも靴を履いて外に出ていかなければならないので、雨や雪の日はやっかいでした。2階建ですが、1階が元ボクシングジムに使っていたらしく、ベニヤ板の壁にサンドバッグの擦れた跡がついていました。狭くて急な階段をギシギシならしながら2階へ上ると、隙間から階下の様子が見えそうな感じの床板で、みんなで乗ると床が抜けるんじゃないかと、ちょっと怖い気がしましたが、そのうちに慣れてそこでみんな仕事をしていました。石森氏も、藤子氏、つのだ氏なんかと、東宝から頼まれた「怪獣島」という企画なんか作ったりしていました。これは当時、特撮で使わなかった映像や、編集の端尺とかを利用して何かできないか、という依頼だったと思います。そこで宇宙の彼方から何かの卵が飛んできて、その卵から怪獣が出てきて……といった話を作ったんですがボツになりました(笑)。後々考えると、「ウルトラQ」などはそれに近いのかも知れませんがね。それから東映動画から企画を依頼されて「レインボー戦隊ロビン」(1966年放映)の企画もみんなで考えました。

― 「レインボー戦隊ロビン」は、スタジオ・ゼロの企画・原案という形ですね。

鈴木:企画をやってシナリオに近いようなシノプシスを書いて渡していました。東映動画のスタッフがそれを絵コンテにして作画していたわけですね。

― 実際のアニメの制作にはタッチしていなかったのですか。

鈴木:その頃にはスタジオゼロでも若いアニメーターを数人訓練していましたから、逆に東映動画から作画の下請けをいただいて何本かやりましたね。

― スタジオ・ゼロとして「レインボー戦隊」を描かれていますね。

鈴木:それはマンガの方ですね。

― キャラクターごとに描きわけるような形だったんですね。「レインボー戦隊」は、ペンネームが風田朗になっていますが。

鈴木:風田朗というのは僕の投稿時代のペンネームなんです。みんなの合作なのでどうしようか、ということになって空いていた僕のペンネームでいこうという事になったんです。

― スタジオ・ゼロの作品だと、ほかにアニメでは「佐武と市捕物控」(68年放映)がありますね。

鈴木:石ノ森章太郎作品としては「佐武と市捕物控」の他に、「となりのタマゲタくん」や「星の子チョビン」もあります。「佐武と市」の仕事は面白かったんですが、次の仕事がなかなか決まらなくて、もうテレビアニメ制作もちょっとシンドイな、というところがあって、取締役の気持ちの中にももうここらで終わりにしてもいいかな、と……。

― スタジオ・ゼロは、1963年に結成されていますが、活動期間は10年弱くらいでしょうか。

鈴木:そうですね。8年か9年くらいですね。2年ごと社長が替わることになっていたんですが(笑)。最初が僕で、次が藤本氏(藤子・F)、石森氏、つのだ氏……安孫子(藤子)氏か社長に就任する前に解散しちゃった(笑)。まあ、あみだ籤で決めた社長ですからあまり権威はない。どうって事ない社長ですよ。解散しようか、と相談した時点で、まだフジテレビのバラエティ番組「祭だワッショイ!」の中の“歌謡アニメ”という仕事が残っていたんです。それを放り出すわけにはいかない。結局、僕がスタジオゼロを引き継いでその仕事を続けることにしたんです。

― スタジオ・ゼロはやはり、いわゆるテレビアニメ創成期に、大きな足跡を残していますし、作品数もありました。一時期はかなりいろいろな活動をなさっていたんじゃないですか?

鈴木:でもアニメとしてはどうなんでしょう。いつも半分なんですよ。「佐武と市」は、はじめ虫プロと半分だったけれど、あとで東映動画も入ってきて3社でやることになったし。シリーズものとしては「おそ松くん」が最初なんですが、これもチルドレンズ・コーナーというところと半分半分でした。その次は「パーマン」で、そのあと「怪物くん」「ウメボシでんか」などやりますが、東京ムービーと半分ずつでした。その理由はスタジオゼロが入っていた新宿の市川ビルのキャパシティの問題でスタッフの拡張ができない、といったことだったのです。

― キャパシティの問題ですね。

鈴木:まあ、その辺りがいいところだったんでしょうね。最初からみんなの作品をアニメーションにしようという考えだったので、次期作品が決まらないからといって、他のマンガ家の作品をとってきてやるという考えはなかったですね。僕がスタジオゼロを引き受けた後、「となりのタマゲタくん」を制作しますが、これは放映が決まっていないし、短いものでしたからボチボチ作りました。「星の子チョビン」は放映も予定されていたし、30分ものだったので、別の場所にマンションを借りてメインスタッフが集るスタジオにして、作画の外注もいろいろ使って作りましたね。チーフディレクターは、りんたろう氏。全部制作が終了して計算してもらったらプラスマイナス0。まあ赤字にならなくてよかったと思いましたが、マーチャンダイジング関係がなければアニメ制作は危険だ、ということがよく判りましたね。

鈴木伸一 インタビュー動画(2)

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