永野護 インタビュー(第2回) メッセージトップ>>
●荒野を開拓した偉大な先人
― 紆余曲折あってアニメ業界に入ってきたというお話ですが、永野さんご自身は、昔からマンガ家という職業を意識なさっていた部分はあるのでしょうか?

永野:全くないですね。僕は(自分を)マンガ家と呼ぶなというのは、マンガ家に対する畏敬の部分があるからです。誰かのアシスタントになって修行してマンガ家になる努力をして、マンガ家としての自分の意志もある人たちがマンガ家であって、僕なんか一言「描け」ですからね。それでその人たちと一緒にされると、その人たちに失礼だろうという気持ちがあるんですよ。ただ、僕の描いたマンガはそこそこ売れているから、マンガ家と呼ばれても仕方ないんだけど、動機というか、持っているスピリッツが全然違うんです。やっぱり描かされているというところもあるし(笑)、ちょっとマンガ家の人たちとは違うなあと思いますね。ただ、これだけは言えるんですけど、石森章太郎さんとか、手塚治虫さん、赤塚不二夫さん、藤子不二雄さん、この黎明期のマンガ家さんたちは、みんな同時並行してアニメも経験している、半分ぐらいアニメの業界の人ですから、僕にとってみれば、先生ではなく先輩という言い方もできる貴重な人たちですね。例えば手塚治虫さんの弟子に富野(由悠季)さんがいて、富野さんの弟子に僕がいるから、手塚さんというのはおじいさんに値する存在なんです。石森章太郎さんにしても、「レインボー戦隊ロビン」とか、アニメにきちんと関わってきた人たちのひとりで、やっぱりマンガ家としてではなくて、同じアニメ業界としての先輩という見方はしていますね。これが、それ以降に出てきた永井豪さんとか本宮ひろしさんとか、いわゆるマンガ家と言われている人たちになると、アニメの先輩ではないし、マンガ家としての先輩でもない、業界が違う人だという感覚ですね。

― 石ノ森作品で、お好きなものはありますか。

永野:やっぱり「レインボー戦隊ロビン」かな(笑)。「サイボーグ009」って、最初の話はすごくわかりやすいじゃないですか。001から、次々と集められてサイボーグになってというところまではよかったんですけど、でも、幼稚園の僕には、そのあとどういうお話だったかわからなかったんです。当時「少年キング」で連載していたのをたまに読んでもわからなくて、実は読んでいませんでした。「仮面ライダー」とかは知らないけど、「(人造人間)キカイダー」は「少年サンデー」に連載していたので、全部読んでいました。やっぱり、当時の僕らの生活スタイルというのが出てきますね。例えば、「キカイダー」を連載していた頃に「リュウの道」というのも連載していたと思うんですけど、子どもには2誌同時に買えないので、「キカイダー」しか知りません、という単純な理論なんですね。

― 石ノ森作品から受けた印象とはどういうものでしょうか。

永野:いまから思うと、ヒーローものがたくさんあった中で、石ノ森さんは、単発ではなく、マスの作品を多く作っている人だという印象を受けますね。「(秘密戦隊)ゴレンジャー」や「サイボーグ009」のように集団で行動するヒーロー、それで成功している人という気がします。そういうことを考えると、やっぱり単にマンガ家としてはとらえられない人ですね。東映でもサンライズでも「サイボーグ009」を作るなど、アニメにもかなり影響を与えましたし、戦隊ものがあって、なおかつ「仮面ライダー」がある。マンガだけでなく、アニメや実写など、テレビというメディアを使っていろいろな表現を試みた方ですね。……石森さんを中心に、ファミリーツリーみたいなものを作ったらどうだろうと思ったことがあるんですよ。B全サイズのポスターにぎっしり書くくらいの。いちばん上に手塚治虫さんがいて、その下に石森さん、藤子さん、赤塚さんがいて、石森さんの下に永井豪さんがいて。石森さんから横に棒が伸びて、東映とか、サンライズがあって、その下のほうに永野がいるとか。そんな感じのツリーが作れると面白いし、そういうことができる人ですよね。3分の1くらいアニメ業界と、東映などの実写特撮とで、すごいツリーができるんじゃないかな。普通は師匠・弟子のつながりくらいですけど、けっこういろいろなつながりができますよね。大変なことになるんじゃないかという気もしますが(笑)。

― 石ノ森先生は、ヒーローキャラクターをたくさん生み出しましたが、キャラクターデザイナーとしての石ノ森先生をどうご覧になりますか。

永野:トキワ荘時代の人たちは、みんな化けものという感じがしますね(笑)。要するに何もない荒野で、あれだけの人たちががーっと耕していたわけじゃないですか。たぶん石森章太郎さんって、その中でもかなりの量を耕したと思います。後からどっと来た人たちは、すっかり耕された畑を見て、どうすりゃいいんだろう(笑)という感じですよね。いちばん肥えた北アメリカ大陸とかの広大な土地はほぼすべて耕されていて、その隙間をやるか、まだ荒れ地を探すか、南米で木を倒すかとか、氷河を削ってなんか作るかとか、そういう感じになりますよね(笑)。キャラクターデザインであるとか、特撮ものとかのキャラクター作品の分野に関しては、後続者は新天地を見つけなきゃいけない。いちばんおいしいところは全部とられちゃったから。ただ、50年ぐらい経って1周しちゃうと、石森さんたちが耕したところもだいぶ荒れているはずなので、そこを再度耕す人が出てくると思います。でも、この人たちは昭和30年代とかの黎明期に、いちばんいい場所をいちばんいい状態で耕してくれた。で、彼らが別に独占したわけではなくて、耕したところは後年ちゃんと供給されていますからね。

― トキワ荘の方の中でも、石ノ森先生は、特にたくさんの作品を残しました。

永野:石森章太郎という人は、いちばん進歩的な考え方をしていた人だと思います。いろんな手法や表現の可能性を模索した人ですよね。手塚治虫さんやそれに続く人たちは、映画の模倣に終わっている感があるんですが、石森さんだけは、そこからさらに二歩三歩と進めた表現をしようとしていました。

永野護 インタビュー動画(2)

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