大友克洋 インタビュー(第3回) メッセージトップ>>
●「さるとびエッちゃん」から「童夢」へ

ー 石ノ森章太郎萬画大全集の発刊にあたりまして、読者の方々にお勧めしたいポイントがありましたら、お願いいたします。

大友:みんな、もう石ノ森さんの作品を通り過ぎてきたわけだから、今さらもう1回戻るというのは、難しいですよね。でも、こういうものはもう1度きちんと見なければいけないと思います。今見ても耐えうる、ビジュアルな作品だと思いますし、それをもう1回みんなで見て考えるべきだと思います。いろんなものを描いている人なので、ストーリーの面白さを楽しんだり、また、怪獣ものであったり、変身ものであったり、いろんなものが楽しめますけど、ぼくとしてはやっぱり、こういう「龍神沼」みたいなものがいいなあ。ぼくの原点かもしれませんね。

ー 石ノ森先生は、非常に多作で、描くジャンルも多岐にわたりますね。

大友:マンガが隆盛になっていった原動力のような人ですからね。手塚さんや石ノ森さんが、どんどん発行部数を伸ばしていった。青年誌やヤング誌というものができあがる前のマンガ雑誌には、ほとんど石ノ森さんや手塚さんがからんでいましたからね。「ビッグ(コミック)」の創刊号にも載っていたと思うし、「プレイコミック」であったり、いろんなところに石ノ森さんは描いていましたね。石ノ森さんの守備範囲が広いので、どんどん描けていくということですね。エロティックなものも時代劇も描けるので、ちょっとアダルトな、大人向けのマンガも守備範囲に入る。マンガというのは、この人たちが広げたんですよね。手塚さんもそうですけど、少年物しか描かないということじゃないですからね。この人たちの守備範囲の広さが、日本のマンガを広げていったという気がしますね。ひいてはそれが、アニメーション(の発展)にもなっていったんでしょうね。そういうことはきちんと再評価して、文章にしてもらわないといけないかもしれないですね。手塚治虫論というのはありますけど、一度きちんと、石ノ森章太郎論のようなものをやらなきゃいけないんでしょうね。

ー 石ノ森先生の作品には、かっこよさとか色気とかがあったというのも大きいんでしょうか。

大友:そうだと思います。それで、また広がったんじゃないですか。手塚さんのストーリーに加えて、石ノ森さんのビジュアルで(マンガの)世界を広げたという部分は大きい。

ー 大友さんの作品にも影響を与えているわけですか。

大友:ぼくは、小学校の時にはよくマンガを読んでいましたけど、そのあと高校になって映画をすごく見るようになって、映画を作りたいなと思っていました。そういう意味で言うと、ぼくにとって、映画の影響のほうが人間形成上大きかったんです。ちょうど、70年代のアメリカンニューシネマの時代で、「イージー・ライダー」であったり「ウッドストック」であったり、その頃の映画というのは、要するに、「書を捨てよ、町へ出よう」なんですよ。学校なんかいるんじゃないよ、とりあえず家を捨てて街へ出ろ、と言われてたんで(笑)、僕も東京へ来て、でも、映画監督なんてなかなかすぐできるもんじゃないので、しょうがないから、マンガ好きだったからマンガ描こうかなと思って描いていたんです。最初の頃は、そういう70年代のアメリカンニューシネマっぽいマンガを描いていました。ストーリーは要らないし、ただ単に汚いアパートで、僕と同じくらいの(年代の)やつが、扇風機がなくて暑いって言ってるような(笑)マンガをね、5、6年描いていて、それから、こうやって飯を食っていくのかなと考えたときに、ちゃんとしたマンガを書かなきゃダメなんじゃないの、と思ったんですよ(笑)。それで、何を描こうかなとなって、「Fire-ball」のようなSFを描こうと思いました。当時まだ80年代の頭ですから、青年誌が出ていて、「漫画アクション」などがあったんですけど、そういうところでSFを描きたいと言うと、何言ってんの、と。当時は、「子連れ狼」とか「博多っ子純情」とか、そういう(のが受けていた)時代、青年誌が元気が良くて、それがどんどん映画になったりテレビになったりしている時代だったんです。その頃に、「Fire-ball」という作品を描いて、その中に出てくるコンピュータの名前をアトムとつけました。その頃からなんとなく、自分の子どもの頃に読んだマンガに対するオマージュを作品にしていこうかと思ったんですよね。それで、最初が「Fire-ball」で、その次に「童夢」。「童夢」のときには、マジにもう石ノ森さんなんですよ。「童夢」というのは超能力の話で、エッちゃんという女の子が出てくるんですが、これはもう石ノ森さんの「さるとびエッちゃん」です。超能力物のイメージというのは、もう石ノ森さんですから。手塚さんは、超能力物はあまりやってないんですよ。

ー たしかに、石ノ森先生は超常現象に対する興味が強くあったようですね。

大友:超能力って、要するに、訳のわかんないものなんですよね(笑)。具体的な、科学的な話じゃないんですよ。「ミュータントサブ」(61年)の冒頭には、いちおう科学的な解釈がちょっとあるんだけど、別にあんなものはどうでもいいんで(笑)。石ノ森先生は、超自然的な物や、それをビジュアルにするということが好きだったんだと思うんです。ずっとそういうのばかり読んでいたから、SFと言ったときに、ふつうは、未来でロボットが出てきて、というふうに行くんですけど、僕は超能力へ行っちゃうというところはありますね。それは石ノ森さんの影響だと思います。「アキラ」という作品は、「鉄人28号」(へのオマージュ)っぽいんですけど、それでもやっぱり、話の中心になるのは、超能力ですね。そういう意味で言うと、なかなか僕は石ノ森さんの呪縛から抜けてないんじゃないでしょうか(笑)。超能力物をああいうふうにきちんとマンガにしたのは、たぶん石ノ森さんが初めてなんじゃないですか。もしかしたら、それが「アキラ」になってアメリカに行ったり、アメリカ人が見てフォースとか言って、「スター・ウォーズ」にまで繋がっているのかもしれませんね。

ー 「童夢」が発表されたときの衝撃というのは、すごいものがありました。

大友:あれも、「龍神沼」じゃないですけど、単行本1冊で映画1本分の話を作ろうとして、やったんですよ。要するに、フレームが最初から決まってるわけです。この中に入れるぞということがね。石ノ森さんは「龍神沼」で解説していますけど、それに近いことをやろうかなと思ったわけで、すごく映画的に作られている。それも「龍神沼」の影響がありますね。

ー その「童夢」が今度は、その表現において、のちの超能力物に多大な影響を与えましたね。

大友:僕は、超能力というのは目に見えないものであるというふうにして描こうと思ったんです。わりと目に見える形を工夫している作品が多いでしょ。目が光ったりとか、光が出るとか。スーパーマンでもそういうのがありますけど、超自然的な物を視覚的にしちゃうとかっこ悪いというのがあるんですね。マンガではそれでもいいんですけど、もう少しきちんと「力」というものを表現しようかなと「童夢」では思いました。でも、そういうものを、石ノ森さんはスーパーヒーロー物でやるんじゃなくて、「ミュータントサブ」という、不思議な、どこか暗い影を持ったような少年に与えて、世界を成立させている。そういうところが石ノ森さんらしいですよね。

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