|
終わった後になっての総括ですが、
あの実力闘争をあそこまでやってよかったんだろうか?という疑問が生まれてたんじゃなかったっけ?
70年代は一方では労働運動が上から抑えられていく時代でもあったわけで、
青年運動の急進化が実現したのは74年頃までだったでしょう?
スト権ストの敗北とかあって、それ以後の反動化を阻止できなかった。
三里塚闘争はその状況を突破するものとして期待された戦術でもあったと思うんだけど
やってみたら、逆に孤立してしまうわけですよ。
管制塔占拠にびっくりした全議会政党が反動的な成田新法に賛成し
「過激派」キャンペーンによる弾圧に手を貸していくという、ひどい状況になった。
だから、あれ以後、より正確には5月の出直し開港阻止闘争以後、第四インターは戦術転換した。
ようするに三里塚などの「拠点」における戦術的闘争によって
全国政治の急進化を牽引しようという路線の敗北に踏まえた転換だったんじゃないかな。
ところが、それじゃ中核派のほうは収まらないわけで。
奪われてしまったイニシアティブの奪回のために、あの頃からゲリラ闘争が再開されていった。
中核派が再び急進化を始めたのは管制塔占拠闘争のあとだったと思う。
だからあのころの状況は、三里塚闘争を契機として全国政治においても
急進闘争の限界を見た第四インターと、更なる急進化によって劣勢挽回を図った中核派
……という構図を僕は見るんですが、こういう見方はどうですか?
|
|