茨城県地域情報紙「常陽リビング」
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[2005.11.14 up]
シリーズ:茨城発・夢ドキュメント(2)オセロ考案者 〜長谷川五郎さん〜年末恒例のシリーズ企画を、今週から計8回お届けします。今年のテーマは「茨城発・夢ドキュメント」。地元茨城を起点に全国へ、世界へと羽ばたいた注目の人を紹介します。
1945年8月、水戸はアメリカの大型爆撃機B29の大空襲で焼け野原となり、長谷川さんの家も通っていた水戸中学校(現水戸一高)も灰となった。 そんな中、囲碁と将棋が得意だった長谷川さんは、土手に黒板1つ置いて始まった青空授業の10分の休み時間に「誰でもできる簡単なゲームはないだろうか」と、碁石を使い相手の石を挟んだら取るという新しいゲーム「挟み碁」を考案。そして、取った石を白石・黒石に替えるように変化させたが、手数が進むとその取り替え作業が手間取るため、裏を返すだけで色が変わるよう表裏を白と黒に染めたボール紙を代用。その後、牛乳瓶のふたを4枚張り合わせて使うようになりオセロの原型が生まれた。 「オセロ」の名は長谷川さんの父で英文学者の四郎さんがシェークスピア劇の「オセロ」から引用。白人のデズデモーナ(白石)の夫で黒人将軍のオセロ(黒石)が、緑の平原(ゲーム盤)で勇猛果敢に闘う波瀾万丈の物語をイメージし、緑の盤を使うようになった。 オセロは水戸中学校と進学した水戸一高、茨城大学で流行し、大学時代に長谷川さんが主将を務めた囲碁部部員の人気も集め大会も開いたが、部員の卒業と同時に忘れ去られていった。「ゲームの流行と定着にはルールと道具、受け入れられる周囲の環境が必要ですが、そのころは普及への情熱がありませんでした」。 当時はまだ、長谷川さんにヒット商品を世に送り出そうという気持ちは無く「新しいゲームを楽しんでもらいたい」という思いだけで、自前のオセロを量産。牛乳瓶のふたは6人の兄弟が毎日1人1本ずつ飲んでいた牛乳で事足りていたが、やがてオセロの人気上昇と共に不足することもたびたび。製薬会社に就職後もオセロを披露していた長谷川さんは、ある日、担当する病院の医局長に「このゲームは頭と手と指を使い対話も生まれる。社会復帰を目指す患者のリハビリに最適。何よりも華がある」と太鼓判を押され手応えを感じた。 そこで、1972年、当時のツクダオリジナル(現メガハウス)の佃社長と企画担当の和久井さんに面会。通常、玩具の契約期間は1年といわれている中で破格の10年契約を結び、「一緒にオセロを育てよう」と意気投合、夢を語り合った。 翌1973年に日本オセロ連盟を設立し東京で第1回全日本オセロ選手権大会を開催。その直後、ツクダオリジナルがオセロの発売を開始し、国内のオセロ人気は年々高まりファンは2500万人を突破。ついに日本を代表するゲームに成長したが、世界ではチェスがゲームの王座を揺るぎないものにしていた。 そんな中、1976年に英国BBC放送が全英チェスチャンピオンと全日本オセロチャンピオンをオセロで競わせようと企画。日本の勝利が世界に報じられるとわずか1年でオセロは世界各国に広がり、77年には世界オセロ連盟がニューヨークに設立され世界選手権大会も開かれるようになった。 これまで29回開かれてきた世界大会は、層の厚さで日本が世界に勝り多くのチャンピオンを輩出してきたが、ここ数年は外国にその座を奪われている。来年06年には30回の節目を迎え、オセロ発祥の地・水戸で世界大会が開催される。「現在世界のレベルは上がっていますが、せっかくの水戸開催ですからぜひ日本人に世界チャンピオンを狙ってほしい」と長谷川さん。 日本オセロ連盟では、世界大会開催を前にオセロの歴史や関連資料を紹介する日本初の「オセロミュージアム」を11月27日(日)、水戸にオープンする。また、12月1日には常時オセロが打てる「オセロ・囲碁センター」を東京・上野に開設し、オープン初日には長谷川さんが新たに考案した新ゲーム「大碁(だいご)」も初披露される。 「よく言われる囲碁半年、将棋3カ月、麻雀2週間、オセロ5分という言葉は、そのゲームの面白さを理解して自力で打てるようになるまでの時間を示します。オセロの魅力は、難しいルールもなく誰でもすぐに覚えられ、単純な中にも奥の深さがあることです。そして、人との出会いこそオセロがここまで歩み続けられた結果なのです」 問い合わせ
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