戦争は終わると思っていた


 日本軍と中国軍との衝突のはじめは昭和6年の満州事変である。それまで日本人居留民保護のために満州に駐在していた関東軍が日本政府の意向とは別に軍事行動を起こして満州全土を占領、既成事実を突きつけられた政府は事後承認の形をとった。そして昭和7年の満州国建国につながる。同年には上海の日本人居留民保護を目的とした上海事変で日本軍が上海に進撃し占領するが、停戦協定によりすぐに撤退している。昭和12年には支那事変(戦後に日中戦争と改称)が起こり、同年には中国国民党政府の首都南京が日本軍に占領され、日本側は先の上海事変の時のようにここで停戦になるのではないかと淡い期待を抱いたが、蒋介石側が徹底抗戦を取ったために中国全土を舞台にした終わりの見えない戦争になし崩しに突入する。日本が中国で軍事行動をしていたのは、戦前では昭和6年9/18の柳条溝(正確には柳条湖だが昭和50年代頃までは柳条溝で日本国内では通っていた)事件から昭和8年5/31の塘沽協定までの期間と、昭和12年7/7の盧溝橋事件から昭和20年8/15の対米英戦での日本敗戦までの期間となる。ちょっとくどい書き方をすれば、戦前20年間の半分の10年間は日本軍と中国軍は交戦状態ではなかったという事になる。
 
 昭和12年12月、日本軍は中国政府の首都南京へと着々とその歩みを進めていた。敵の首都が陥落した時点で長い長い大陸での戦争は終結と日本国民誰もが信じていた。同年7月の盧溝橋事件に端を発した日中全面戦争はあっという間に日本軍破竹の進撃で、南京はすでに風前の灯、首都陥落で蒋介石は降伏か講和を日本に申し入れ、既に成立していた満州国よろしく遂に中国本土にも日本の息のかかった現地傀儡政権が樹立されて、日本は中国利権すべてを我が手におさめて国内経済は大活性、中国の犠牲の上に国民生活は飛躍的に豊かになって「東洋の盟主」として永遠の繁栄を築く筈であった。イギリスもフランスも、西洋列強は植民地経済で本国が繁栄していたのは世界の常識でもあり、日本もそのひそみに倣おうとしたのである。
 
 12/7、日本軍入城を目前にした南京では、撤退する中国軍が街に火を放ち掠奪を行い惨憺たる有様だった。この時点で南京市民の3/4近くが南京から逃亡したともされる。中国軍は一旦、敗色が濃くなると掠奪者に化けるのはいつもの事で、とても国民軍と呼べない状態であった。昔ながらの軍閥意識が抜けていないのである。AP通信の南京電も中国軍の放火、掠奪による南京の大混乱を伝えている。12/8には南京の新村地区が中国軍によって射程視界を明瞭にするため焼き払われ、火薬庫、貯油タンク、飛行機格納庫、工場なども中国軍は自ら破壊、蒋介石は前日に夫人と共に飛行機で逃走した。ニューヨークタイムスも中国軍の放火により逃げ惑う南京住民の姿をレポートしている。中国軍の破壊は日本軍の過去の空襲の10倍以上にも見え、理解し難い行為であると難じている。
 
 12/9正午、日本軍の南京入りを目前にして、松井石根最高指揮官は中国軍の南京防衛司令官に投降勧告を行う。12/10正午に回答期限を区切っての勧告であった。既に南京の周囲は日本軍によって固められていた。蒋介石逃走後の南京の中国軍司令官であった唐生智はこの投降勧告に砲火で応え、回答期限まで何の反応も示さなかった。南京城内には中国軍が最後の決戦の準備を進めていた。日本軍は遂に南京城内に突入する。12/10午後5時20分、南京城光華門を日本軍は占領、一番乗りは脇坂部隊とされた。
 
 南京陥落のニュースに日本国内は狂ったように沸き返る。7月に開戦してわずか5ヶ月の思いもかけない「勝利」、首都南京さえ陥ちれば大陸での戦争は一区切りがつくと思っていたからである。銀座では号外に人々が殺到し、カフェーでは中国の地図を前に女給たちが万歳をして、街中に溢れた人々で市電はストップ、学生らは握手を交わし、あちこちの劇場などで芝居の最後に出演者と客席が一緒に万歳するなど大騒ぎであった。写真は東京朝日新聞社の電光ニュース。
 
 日本国内で中国革命運動への支援をしていた有志で、孫文と親しかった梅屋庄吉の未亡人は「あの人(蒋介石)は本心は日本が好きだった筈です。私に言わせれば蒋をこんなにしたのは宋美齢の罪が多いでしょう。宋美齢の姉達2人は私の家にもよく来て知っていますが美齢はアメリカで教育を受けただけに日本を馬鹿にしている」などと語り、蒋介石に同情して宋美齢を非難している。
 
 12/11、南京陥落で政府各所には祝電が殺到、7日前に祝電を打って寄越した大谷光瑞はじめ全国各地から祝賀メッセージが寄せられた。銀座では祝賀セールが行われ、涙顔の蒋介石の大提灯が登場、神楽坂では天ぷらを爆弾に見立てた南京陥落蕎麦を売り出し、夜には芸者衆などが提灯行列を行った。浅草六区でも映画館や芝居小屋は場内アナウンスに合わせて客席で万歳の渦、仲見世ではバナナ売りが「南京は陥ちてもさあどうだ、このバナナは誰かの手に落ちねえか」と新しい啖呵を切る。両国橋には大きな南京城の模型が登場した。
 
 南京は12/13夕に完全占領されたと、午後11時20分に大本営陸軍部が発表、12/17には入城式が行われた。12/29午後6時、日本の上海軍は敵の遺棄死体は8万4000人だったと発表している。この間、12/14午前11時には北京で中華民国臨時政府が成立、これは行政委員長に王克敏、議政委員長に湯爾和、司法委員長に董康を戴く、現地有力政治家による親日傀儡政府であった。
 
 12/18、南京警備司令だった唐生智(49)が国民政府の軍事裁判にかけられ、12/19に銃殺されたと、12/20の東京朝日新聞は報じた。これは12/12夕方、南京陥落前に小型蒸気船で揚子江から脱出したのを、南京放棄とされたものであった。唐は実際は奮戦したとの日本側の評価もあった位だが、敵前逃亡のような汚名で処刑されたという話には、国民政府内部では幹部同士の足の引っ張り合いがあり、それに唐が巻き込まれたと当時は思われた。唐は熱心な仏教徒で、日本軍の降伏勧告に応じる意向だったが、白崇禧らの反対に押し切られ抗戦した経緯があったという。これが事実なら、唐の意見が通っていれば、南京は無血開城していたという事になる。唐は清の建威将軍の唐木有の孫で、民国15年(大正15年)に武漢政府の実権を握り、南京政府の蒋介石と衝突、民国16年(昭和2年)11/11に下野して、日本に亡命した過去があった。なお昭和23年11月、唐は突如として南京に出現し、生存していた事が明らかになり、その後は共産党の中国に協力している。およそ11年もの間、消息を絶って下野していたという事になる。
 
 蒋介石の南京政府は先に上海陥落を受け、南京から重慶に臨時首都を移す事を昭和12年11/16に決定していた。ただ重慶にすべての政府機関を移すのではなく、外交関係の各国大使館、公使館などは漢口へ、交通部門は長沙へ、そして軍事部門は南京に残す事にしていた。南京の陥落により、蒋介石は日本側との和議には応じずに、重慶政権を本格的に発足させ、広大な中国の国土を武器に日本軍を泥沼の戦線拡大に引きずり込み、消耗戦に持ち込む構えを見せて日本国内の戦争終結の夢ははかなく消えた。南京陥落時には日中間に国交は存在していたが、昭和13年1/16に近衛首相は蒋介石の重慶政権との外交交渉途絶を決定、国交は断絶し、以降、日本は蒋介石以外の現地有力政治家を抱きこんだ政権を、先の北京に続き、南京にも発足させ、そちらを正統な中国を代表する政府として扱うようになる。しかし実際に力を持っており、国際的にも認知されていたのは蒋介石の側だったので、近衛声明は明らかな拙速に過ぎた外交上の失敗であった。
 
 この日本軍の南京入城の混乱の中、虐殺事件があったと戦後の東京裁判で突如、資料提出がなされ、その当時は日本国内でも余り騒がれなかったものの、昭和46年に朝日新聞に連載された本多勝一の「中国の旅」で中国共産党政府の主張そのままに南京大虐殺という言葉が有名になり、日本軍が南京入城に際して虐殺事件を起こしたという話が既定事実のようになった。実態は闇の中、といっても児島襄や秦郁彦らの言っている話がリアリティがあり、中国軍の敗兵が民間人を装った便衣隊(ゲリラ)を日本軍が掃討する際に、純粋な民間人であった中国人が巻き添えになったというあたりが真相に近いだろう。余り特定の政治的な思惑に近い主張は、却って物事を見る目を曇らせるという事がある。
 
 なお昭和12年12月の日本軍の南京攻略戦の際に国際問題となり世界的に知名度が高かったのは、パネー号事件であった。日本軍が南京突入時に市民を「虐殺」したという話は、この頃は全く話題にすらなっていない。12/10、南京上流2マイル(3.2キロ)のアメリカ商船3隻を保護して航行していたアメリカ河用砲艦パネー号は12/12、南京上流26マイル(41.8キロ)まで移動する際に、午後2時25分から午後5時30分まで6回にわたり、日本の海軍機2機から6機に爆撃されたのである。これは全くの誤爆で、パネー号ともう2隻が沈没し、午後5時30分になってようやく日本軍の航空部隊の指揮官にアメリカ船舶航行についての通達が届いたのだった
 
 パネー号沈没後、12/13午前9時にアメリカ東洋艦隊司令長官より日本に連絡が入り国際問題化、この日の夕刊では日本国内でもこの事件は報道された。12/14にアメリカは日本に抗議、12/24午後2時30分に、大本営海軍部は誤爆を認め、アメリカに誤爆の詳細について正式回答を行い、これにアメリカのハル国務長官が満足の意を示して、事件は幕引きとなった。この誤爆でパネー号に乗船していたイタリアの新聞記者などが死亡している。
 
 また12/12午前には蕪湖の揚子江上流に停泊していた4隻の船のうち、1隻が黒煙を上げた事から、濃霧の中、日本軍の支隊が誤認砲撃する事件があり、当該の船がイギリスのレディバード号だった事から、これも国際問題化した。砲撃後、イギリス船とわかったために砲撃は停止したものの、イギリスの抗議から、日本は12/28にイギリスに正式な事情説明を行っている。

参考
児島襄「日中戦争」(文春文庫版) 1988
東京朝日新聞各記事など 1937
秦郁彦「昭和史の謎を追う」(文春文庫版) 1999


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