今,あなたを,愛する
13世紀,ドイツのエックハルトという神学者は,仲間達から3つの質問を受けたそうです。
(1)1日の中で一番大切な時間はいつですか?
(2)人生の中で一番大切な人は誰ですか?
(3)人生の中で一番大切なことは何ですか?
どう答えたと思われますか。
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13世紀,ドイツのエックハルトという神学者は,仲間達から3つの質問を受けたそうです。
(1)1日の中で一番大切な時間はいつですか?
(2)人生の中で一番大切な人は誰ですか?
(3)人生の中で一番大切なことは何ですか?
どう答えたと思われますか。
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僕の勤務している学校では週6日制(週休2日じゃないということ)で,生徒朝礼は半分の週3回が教室朝礼で,残りの週3回は,学年をまたいでの外朝礼となる。
この外朝礼が曲者で,毎回校長先生の話なら,僕たち普通の(?)教員には気が楽なのだが,ローテイションで全教員に講話が割り振られる。
僕の場合,ほとんど,その日の朝に出勤してから,自分が当番であることを担当の同僚教員から告げられ,「え~っ,ホントですか~。知りませんでした~」と言いながら,しょうがないから,思いついたことを,目一杯生徒に話す。
「戦争はしちゃあいけないよ」
「僕より先に死んではいけないよ」
「沈黙してごらん。何が聞こえる?」
なんて,思い立ったままのことを話す。
さて,ところで,最近,この外朝礼で,同僚が生徒に話したことで,心に沁みたのがタイトルの言葉。
劇作家・山田太一氏の座右の銘として,その同僚は生徒に紹介したのだが,僕は妙に共感してしまった。
そう,近道はただそれだけのことさ!
しかし,だからと言って,「遠回りしたからと言って,必ずしも何かが見つかるとも限らないのですが」と言うあたりが,K先生(その話をされた同僚)らしいなあと思った。
僕たちは自分が道を選ぶのではなく,用意された道をめいっぱい歩むだけなのではないだろうか。
だからこそ,僕は君の歩を応援しているし,僕も君の助けを必要としている。
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M君
毛布が必要か,必要でないか。本人の意思を聴き尊重することが大切だと思う。
(そうだよな。僕なんかついつい自分の価値観で考えてしまうよ。これって相手を大事にしていないってことだよね)
F君
「ありがとう」と言われて嬉しかった。ここにいるかいないか(野宿者となるかならないか)は,自分のせいとかではなく,運・不運ということだと思う。でも,やっぱり,この状況はおかしいと思う。
(そうそう,「ありがとう」って言われると,「ああ,俺なんかでも人の役に立てるんだ」って思えるよな。あと,「おかしい」と思える感覚は大事だよ。その感性を大切にして)
S1君
人としてのレベルはここにいる人の方が他の人より上だと思う。あと,(ガソリンを浴びせて火を点けるなど)少年の集団での襲撃はあまりにひどいことだと思う。
(人としてのレベルか~。ここにいる人たちは上品に生きているってことかな)
T君
線路の向こうは通天閣とかある新世界。あまりにも境界がハッキリしすぎている。
(うん。明らかにここは行政によって作られた街だな)
S2君
交番の前にひどい怪我をした人が転がっていたのに放って置かれていた。ここでは警察は弱い者の味方ではなかった。
(確かにここの警察官は,おっちゃん達が人からもらった自転車に乗っているだけでしつこく「お前のか」って聞くのに,博打や売春に対しては熱心じゃあなかったなあ。みんなが悪い警官とは思いたくないけど・・・)
A君
ここにいる人たちは,政治的に過激だなあと思った。
(自分たちがこんな目にあっているんだもの。政治に恨みを持つよなあ)
H君
夜回りをするということは,寝ている人を起こすということなのだけれど,そんな悪い環境の中でも,おっちゃん達は笑顔を見せてくれる。
(笑顔は相手を元気にするよね。やっぱりここでは僕たちの方が元気をもらっている)
O君
正直者がホームレスになるのかなあ。
(確かに,ここのおっちゃん達は,クソ真面目だよね。一緒に炊き出しとかしていると,皿の洗い方ひとつ取ったって,きっちりと流儀が決まっていて妥協しない。悪くいえば融通が利かないねぇ。だから,たまに仕事にありつけると極限まで働いちゃうらしいよ。使う側にとっては重宝だね。でも,要らなくなったら捨てられてしまう)
K君
世間一般に伝わっていることは真実ではない。
(その通りだね。「言わない嘘」って言葉があるよね。日比谷公園の派遣テント村には300人が集まったそう。でも,ここの場合,大阪南港の臨泊に1300人。そこにも行かない人が,こうやって野宿生活している。派遣村ではコンロが不足しているって報道されていたけれど,ここでは,コンロはあり得ないね。僕たちが参加した炊き出しだって,燃料は廃材だったものなあ)
Y君
自分は愚かでした。無知でした。なめてました。これからは本気で取り組まなければ。これが研修なんかでいいのかなあ。迷惑なんじゃないかなあ。自分の中では変化したが,自分が変わったところで,世の中が変わってくれる訳じゃあないから,どうすればいいのかわからない。
(君の気づきや変化こそが明日の世界を変えると僕は思う)
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ちょっとわかりづらいタイトルを付けてしまいました。
たとえば,会社や学校などの集団に属する場合,
居心地は悪いより良いにこしたことはないですよね。
この”集団の居心地の良さ”を研究した先生に依れば,
1.良い人間関係があるか
2.意味のある仕事(役割)ができているか
3.楽しい・おもしろいと感じるか
の3つがキーだという。
あなたの属する集団はどうですか?
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健康が,WHOが定義するように「病気,あるいは虚弱でないというだけでなく,心理的にも,身体的にも社会的にも完全に良好な状態である」とするならば,この世に,常に健康な人はいないだろう。なぜなら,完全な状態は,まず来ないだろうし,万が一,来たとしても,長くは続かないと思うからだ。
しかし,なぜか私たちは健康を求めてしまう。
私たちは,健康を,目的ととらえてはいないだろうか。
本当は,健康は,何かをするための手段に過ぎない。
健康で,社会的地位があっても,他の人の痛みに鈍感だったならば・・・,
あなたはそういう健康を手に入れたいだろうか?
健康でない私たちのできていること,していること,やろうとしていることを,
健康な人なら,皆ができているだろうか。
「健康は乗り物みたいなもの。それがなくても他の乗り物がある。
電車がダメなら,バス。バスもダメなら歩けばいい」
と教わったことがある。
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「がんばるな!」
今日,テレビのコマーシャルから聞こえてきた台詞です。
それまで,見るともなく見ていたテレビでしたが,ハッとして,続きを見ました。
「冷たい!」と言いながら,朝の洗顔をする若い母親に,
子どもが言った台詞です。
http://www.chofu.co.jp/about/cm.html
にテレビCMのファイルがアップされています。
CMでは,その子どもは,続けて
「人間がんばりすぎると続かないものですよ。」
と母親に言います。
こういうCMがもっと流れるといいなあと思います。
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勤務校の研究室で,ため息とか,「怠い」,「ヨッコラショ」,「しんどいね~」といった独り言を聞く度に,もしも10円貯金をしていたら,多分,1週間で1000円は軽く貯まるだろう(笑)
もっとも私より若い人は黙々と仕事をしている。すごい人だなあと思う。若いって,いいなぁと思う,もちろん彼は若いだけではなくて,大変優秀な人で,私もいつも助けてもらっている。
さて,私を含め,若くない人はというと,私を除けば,やはり大変優秀な人たちである。
それは,仕事の面でも優秀だが,激務の中で,上手にため息をつき,小出しに「怠い」,「しんどい」を口にする。この点が絶妙だと思う。
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♪春に枯れ葉は舞い踊らず
秋に緑の芽は吹かない
夏に裸の梢を知らず
冬に花びら咲くこともない♪
(岡林信康『嘆きの縁にある時にも』)
カトリック教会では,今日は年間第25主日(A年)。読まれた福音箇所『私の気前のよさをねたむのか』については先日も書きましたし,3年前にも触れています。
ところで,旧約聖書の朗読箇所である『イザヤの預言』55.6~9についてですが,こちらの方についても,すでに何度か触れています。
それにしても,
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ55:8)
という聖句はなんと救いに満ちた響きを持った言葉でしょう。
この聖句の主語「わたし」は神様で,「あなた」は私たち人間一人ひとりを指します。
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私は一週間の半分くらいはマイカー通勤で、残りの半分は江ノ電バスか、JRと徒歩で通勤している。
帰りは、下りホームはほぼ無人駅に近い北鎌倉駅で降りて、山の上の我が家に向かう。
明月院の横の坂を頂上まで登ると、家と同じ標高に達する。
さて、この帰り道、特に明月院(俗にいう紫陽花寺)の横を通るときは、
今は、秋の虫が大合唱だ。
この秋の虫の大合唱を聞くと、必ず思い出す歌がある。
岡林信康さんの『風詩』という歌。
♪秋の終わりに 鳴く虫の音は
そばにお前が 居るのに淋し♪
という歌い出しを、つい小声で口ずさんでしまう。
因みにいつも一人で歩くので、そばに「お前」は居ないのだが。
全部歌詞を載せたいところだが、著作権の問題があるので、
抜粋して紹介したい。
♪あの世この世を 幾度も往くは
もっと愛して 惚れるがためよ♪
この辺りって、絵本の『100万回生きたねこ』(佐野洋子、講談社、1977年)を思い出します。
それまで、どの飼い主も好きになれなかったねこは、
死んでも死んでも、また別の飼い主のねことなって、生き返ります。しかし、最後に、たった一人(一匹)の白いねこを好きになったあとで、死んだら、もうその主人公のねこは2度と生き返ることはなかったというお話です。
僕たちがなかなかあの世に入れないのは、まだまだ愛したり、惚れたりすることが足りないから?
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昨日の話なのですが、仕事があまりにも溜まりすぎていたので、日曜日だけれども勤務校に行きました。
学校に向かう途中、昼食を買うためにコンビニに寄りました。
そこで、高校生のA君にばったり。
私 :おはよう!
A君:おはようございます。
私 :今日は部活かね?
A君:はい。試合です。公式戦です!
私 :おお、そうか!じゃあ、観に行くよ!ところで、君はなに部?
A君:サッカー部です。
私 :わかった!
A君のことは中1の頃から知っているが、彼の所属部活までは覚えていませんでした。
さて、私が出勤した目的は採点をしたり、提出された夏休みの宿題ノートを見ることでした。そこで、結構静かな校舎内でチマチマと仕事を始めました。まあまあのペースで仕事は捗りました。(しかし、まだまだ残っていますが・・・。)
しばらくして、さっきコンビニで会ったA君のことを思い出したので、慌ててサッカー場に試 合を観に行きました。幸い、試合は終わっておらず、生徒たちの活躍ぶりを見ることができました。勝負も4-0で勝ちました。
終了のホイッスルがなって、選手たちがベンチに引き上げてくる中、僕はサッカー場をあとにしようとしていました。すると、偶然、僕が歩いている右真横側の10mくらい向こうから、先ほどのA君が引き上げてきました。サッカー場は広くて、僕はあまり目が良くないので、A君が試合に出ていることをわからずにいましたが、A君は試合に出ていたわけです。A君も僕に気づき、ちょこっと頭を下げました。ほんの一瞬の動作だったのですが、私は本当に嬉しかったです!A君の表情と動作から、私はA君が、私にお礼の気持ちを伝えようとしていることがわかったからです。(お礼をいわれるようなことはしていないのに・・・)
私が嬉しかったのは、(お礼をいわれるようなことはしていないにも関わらず)「A君に受け入れられている」という感じがしたからだと思います。
私もA君に感謝の気持ちを込めて、軽く会釈をしてサッカー場をあとにしました。
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『戦争する脳---破局への病理』(平凡社新書)という本を,数ヶ月前に読みました。
著者の計見一雄氏は精神科救急医療(これ自体,まだまだ発展途上の医療分野ですが)の第一人者です。
内容を一言で言えば,脳科学的にみると日常と戦争は地繋がりであり,現在の日常と戦争は接近している,というようなことが書いてある本です。
この本の全体像はさておき,次の記述にとても興味を持ちました。
「ヒトの脳は宇宙で一番良くできた思考機械であるが,重大な弱点が三つある。一つは,一日七~八時間の睡眠を取らないとちゃんと働かないこと。四八時間完全に断眠した脳は全く当てにならない。二番目の欠点というか,取説上の注意点とでもいうべき特徴は,連続して単独運転させるなという点である。(中略)最後の三番目は、脳だけじゃ考えることも、感じることもできないという、当たり前の真実。」
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私についてきなさい。
無理なら私がついてゆきます。
冒頭の句は,~祈りを深めるために~というホームページに書いてあります。
イエズス会司祭(私に洗礼を授けてくださった神父様)が協力者として名を連ねています。
一行目の,「私についてきなさい」というニュアンスのことを,イエス様は,熱心に弟子や人々に語っていたことを聖書は伝えています。たとえば,マタイ福音書16章24節などです。
しかし,「無理なら私がついてゆきます」に該当するような記述はないような気がします。近いものとしては,同じマタイ福音書の28章20節後半の「わたしは世の終わりまで,いつもあなたがたと共にいる」という記述でしょうか。
それにもかかわらず,私は,この2行目の「無理なら私がついてゆきます」にとても惹かれるし,私にとっての神はこんな方です。
なぜなら,私が神についてゆこうと思っても,いつも遠くにかすんでしまい,いつでも見えなくなってしまうからです。
しかし,そんなときに,「無理なら私がついてゆきます」と仰有る神が後ろにいるという。
また,ときには抱きかかえて歩いてくださるという。
これも聖書のどこを探しても書いてはない。
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生きにくい時代になってきた。
強者による不正が日常化し,不信感が漂う社会を見て育つ子供や若者は,自己効力感を持てず,将来に希望を見つけにくい。学校を出てからずっと,身を粉にして働いてきた中高年世代も,思わぬ倒産やリストラにあう。働き盛りの人たちも辛い。職場の最前線で働く彼(彼女)たちは忙しすぎて休みも取れない。いつしかドクターストップがかかり,長期休養や入院が必要になる場合もある。うつ病患者の数は増加の一途だという。うつの他にパニック障害やさまざまな神経症に悩む人々が増えている。これらの人々は,性格的にきちんとした人が多い。悩みや仕事を一人で抱え込んでしまい,人にまかせたり相談したりすることが苦手。このような真面目な人ほど落ち込みやすい。情報にも敏感に反応してしまう。
しかし,この時代の情報量の多さは,本当に必要なものを見えなくする。
「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ福音書10章42節)
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生徒たちに、友だちから言われてホッとする言葉と、友だちに言われるとイヤな気持ちになる言葉を聞いてみると、ホッとする言葉としては、「ありがとう」、「すごいね」、「おはよう」などがあがってきます。イヤな気持ちになる言葉の方は「うざい」、「きもい」、「むかつく」などが上位にきます。
ところで、「がんばれ」という言葉は、ホッとする言葉、イヤな気持ちになる言葉の両方に出てきます。上級生になればなるほどホッとする言葉より、イヤな気持ちになる言葉としてあげる生徒が増えます。
本当に苦しんでいる人は「がんばれ」という言葉をかけられてもどうにもならない。もし「がんばれ」という言葉が力を持つとすれば、それは自分と同じようにがんばらなければならない状況にある人に言われたときだけだろうという気がします。
しかし、現実には、「がんばれ」という言葉は、がんばらずに済む状態にある人が、未来に喘ぐ人に対して掛けていることが多いように思えてなりません。
「がんばれば報われる」、「がんばれば悔いは残らない」。そう言われたところで、これ以上がんばれない状況にある人には何の足しにもなりません。
「がんばれ!」
この言葉は、むしろ生きることで精一杯な人には負担を増やす言葉です。
一億総うつ時代といわれている現在の日本で、「がんばれ」はそう簡単に使える言葉ではなくなりました。
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「わたしの気前のよさをねたむのか」
新約聖書マタイ福音書20章15節の聖句です。
朝から働いた者にも、夕方から少しだけ働いた者にも、同じ賃金を与える主人(=神)に対して、朝から長時間働いた者が不平を言う。それに対して主人が発した言葉です。有名な「ぶどう園の労働者」の譬え話からの一節です。
一見非現実的な論理ですが、これは教育の現場では普通に行われていることだと思います。
私は数学教師をしています。生徒に問題を解かせるとき、早くできた生徒にも、時間がかかってやっとできた生徒にも同じようにマルを付けます。そしてむしろ時間がかかって最後にやっとできた生徒にマルを付けるときの方が嬉しいものです。自分は神の真似をしているなどということを書いているのではありません。能力主義、成果主義を原理とした競争社会では受け容れられない、このような「気前のよさ」がまだ教育現場では残っているということを書きたいのです。
神は多く働けた者に、神ご自身のよさに気づくよう警告しています。神ご自身のよさとはすべての人ひとり一人を大切にするということだと思います。一時間しか働かなかった者は、実は一時間しか働けなかった者かもしれません。そうした者こそ神の助けを必要としているから、この譬え話でも、「最後に来た者」の方に先に賃金が渡されるのだと思います。
昨日、この国の首相は唐突に辞任してしまいましたが,前々政権以降あまりにも気前よく教育関連法案の成立が続きました。しかし、本当に大切な「気前のよさ」を教育の現場では大切に守っていきたいと思います。
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勤務校では,高1対象に「ゼミ」という授業が時間割の中にあります。
今は,文部科学省学習指導要領の『総合的学習の時間』の単位にカウントされていますが,
勤務校では,文部科学省が『総合的学習の時間』なんて言い出す前から,実施しています。
私は数学教師ですが,『自分とつきあう』という,なんだか怪しげ(?)なゼミを担当しています。
それはさておき,
それらのゼミの中に『社会のしくみを考える』という,またまた怪しげ(=面白そう!?)な講座があります。
このゼミの一大特徴は,1年間,毎回講師が変わるということです。
講師は卒業生が務めるのですが,原則として,41歳年上のOBが講師としてやってきます。
でもって,今日はたまたま数学の先生がやってきました。
実は私も数学教師なのですが,今日の数学の先生はすごかったです。
何がすごいって数学へののめり込み具合がすごいのです。
なんでそんなことを知っている(同じ時間帯の裏番組授業なのに)のかというと,
この『社会のしくみを考える』という講座だけは,
放課後に,ほぼ同一内容で,中一から高三まで自由参加のオプションコースがあるのです。
通称『OBゼミ』といいます。
私は今日,それに出てきたのです。
さて,そこで講師の先生がこんなことを言っていました。
「正しいとわかっていることを学ぶのはつまらない。
寧ろ,正しいかどうかわからないことを考えるのが面白い。
つまり,正しいことが証明できるのか,
それとも,正しくないことを立証する例(反例といいます)があるのかを探ることが面白い」
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実はとても疲れています。
この三連休,1日はネイチャーゲームの研修会で,
横浜市金沢区の海の公園に行きました。
冬だというのに寒すぎず,砂浜でリラックスしてきました。
あとの2日はだいたい家に居ました。
ゴロゴロしたり,壊れているPCと格闘したり・・・。
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私が勤務している学校には,
「愛の運動委員会」という組織と,それを支援するお母様方の「愛の運動たんぽぽの会」という組織があります。
これらの組織は,いわゆる奉仕活動をする会です。
主に学校近隣の施設への支援活動に協力させてもらっていますが,
昔(私が勤務し始める以前)から,上智短大内に本部のある「フィリピン・アフリカを助ける会」への物資(文房具)支援も行っています。
その会から年に2回送られてくるニュースレターの中で,
ここ数年,「R.D.コンゴ」という文字が毎回載るようになりました。
現地からのシスターのレポートによるとかなり飢饉がひどいらしいのです。冒頭の写真は最新のニュースレターからスキャンしました。
ところで,この「R.D.」の意味なのですが・・・。
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不便なところに住んでいるので,家族を最寄り駅まで迎えに行くことが多い。
大抵,電車の到着時刻に合わせて私がちょっと先に着き,
少しすると,妻とか娘とかがが車に乗ってくる。
その数分から10分待ち時間の暇つぶしのために,
車には,一冊の本が置いてある。
スーザン・ヘイワード『聖なる知恵の言葉』(PHP研究所 1995)だ。
実はこの本,昨年,「ブックオフ」に古本を売った際にもらったサービス券で買った。
多分,100円か200円だったと思う。
今日,こんな言葉を見つけた。
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毎週金曜日は,中3生と一緒に聖書研究会をやっています。
一昨日は,マルコ福音書5章35節~43節を読みました。
42節の途中まで引用します。日本聖書協会の新共同訳からです。
イエスがまだ話しておられるときに,会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう,先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて,「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして,ペトロ,ヤコブ,またヤコブの兄弟ヨハネのほかは,だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て,家の中に入り,人々に言われた。「なぜ,泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし,イエスは皆を外に出し,子供の両親と三人の弟子だけを連れて,子供のいる所へ入って行かれた。そして,子供の手を取って,「タリタ,クム」と言われた。これは、「少女よ,わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって,歩きだした。
毎回,私が音読したあと,各自が黙読し,さらに黙想の時間のあと,分かち合いのときを持つというスタイルで,この聖書研究会はやっているのですが,今回は,なかなか言葉による分かち合いが出てきませんでした。奇跡物語ですから・・・。
そこで,私は,「では,この場面を,みんなで劇で再現してみよう」と提案しました。
台詞を思える必要はありません。みんな聖書を持ったままで構わないと言って始めました。
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ゼミ『自分とつきあう』も余すところあと6~7回となってきた。
年間約25回。受講生3人のゼミ(指導要領では「総合的な学習の時間」)も
メンバー相互の親密度が高くなってきたかなと思った。
そこで,自分自身が,昨年,愛知教育大学のS先生のワークで体験した『肯定的陰口』というワークを実施してみた。
このワークは3人一組で行う。
1人(Aさんとしよう)対2人(Bさん,Cさんとしよう)に別れて,
Aさんの背後に,Aさんからは見えないようにBさんとCさんが座る。
Aさんからは,BさんとCさんは背中の後にいるので見えない。
この状態で,Bさん,Cさんの2人組には,思いっきりAさんの陰口を言ってもらう。
陰口を言われているAさんは,耳をダンボゥにして2人の会話を聴く。
しかし,一つだけ条件がある。
言って良い陰口は,「ほめ言葉」だけである。
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阪神淡路大震災から12年。
勤務校で私が担当している学年では,
週一回のホームルームを,
今週から3回続けて,阪神淡路大震災をテーマに学年で取り組んでいます。
今週(昨日)は,
当日(1995年1月17日)の午後11時以降のNHK総合テレビのニュースを録画し続けた先輩教員からビデオをお借りし,それを視た。
地震報道が一段落したあとのNHK特集や一昨年の10周年を契機に放送された番組のアーカイブにはことかかなかったのだが,
あえて,当日夜のニュースをそのまま視せた。
番組中では,まだ(名付けられていなかったので)「阪神淡路大震災」とは言っていない。
「兵庫県南部地震」と伝えている。
夜11時から翌未明2時前までの約3時間わたるNHKの報道画面を,
重複部分を早送りしながら視た。
同僚教員が,災害そのものの恐怖や対策について話した後,次に私が
生徒たちに,こう問いかけた。
「約12年前の報道番組を視たわけだけれど,
今と決定的に違う点があるのだけれど,なんだかわかる?」
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いつも読んでいただいてありがとうございます。
このブログは,niftyのココログを使用しています。
本日1月16日(火)15:00から,明日1月17日(水)15:00の24時間の予定で,
プロバイダーサイドのメンテナンスが行われます。
メンテナンス中は,記事の更新・削除,皆さんからのトラックバックおよびコメントは受付られません。詳細は,
http://info.cocolog-nifty.com/info/2007/01/116__58e0.html
をご覧下さい。
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私は長年数学の教師をしています。
若い生徒たちは大変に優秀です。
中高生ですから,脳細胞の量も質も私よりずっといいわけです。
しかし,潜在能力は持っているのでしょうが,結局開花できずに,卒業を迎える生徒も見かけます。
私の勤務校は,入学時の(いわゆる)成績でいえば非常に高い生徒が揃っています。
しかし,入学後の数学(他科目もそうなのでしょうが)の力には開きが出てきます。
それは,勤勉さや努力の度合いにも非常に関係しますが,
もう一つ,取り組み姿勢にも関連性があると思います。
現在の勤務校にはほとんどいないのですが,
「で,先生,結局,答はどうなるの?」という姿勢で取り組んで来る生徒の数学の力は,まずつきません。
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ここ2~3日,あるSNS内のコミュニティのトピック(SNS内の掲示板です)で,トラブルに巻き込まれています。
というよりも渦中の一人であると言った方が良いかもしれません。
とにかく,書き込む人々の一部の方は,怒りをそのまま書き込んでいます。
私自身も,怒りを感じたので,一旦コメントを休止しました。
「怒りの表出は悲しみに蓋をするために,その人は行っている」
と聞いたことがあります。
コメントを休止してしまった私は,悲しみに蓋もできずに藻掻いていたりします。
まあ,たまにはこんなことも,ありか!
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タイトルは,私がコミュニケーションの基本においているものです。
なぜならば,人はそれぞれ価値観が異なり,互いに理解しあうことには限界があるからです。
たとえば,私には,私が大切にしている宗教観に関して,私とは180度見解を異にする友人が結構います。
しかし,彼等とは,人によってはもう何十年の付き合いが続いています。
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大学生の頃,教わっていた先生から,
「こんな芝居を観ました。
一人の無言劇(パントマイム)です。
最初だけ,その人は素顔なのですが,
次から次へと仮面を付け替えていきます。
一度きりしか付けない仮面もありますが,
頻繁に付ける仮面もあります。
彼は,とにかく始終,仮面を付け替えます。
しかし,あるとき,疲れてしまった彼は,仮面を外そうとします。
一生懸命両手で外そうとします。
ところが,どうしても,どうしても,仮面が取れなくなります。
仮面を外そう外そうとして藻掻いているところで,幕が降りました」
こんな内容の話を聞きました。
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私のブログのカテゴリーに「サイコドラマ」というのを今年から追加しました。
サイコドラマ(PSYCHODRAMA)は,モレノ(1889-7974)という精神科医が創始した,集団の力を利用したアクション系のセラピー(非言語集団療法)の一つです。
この歳になっても新しく知りたいこと,やりたいことが多すぎて,ちょっと困ってしまいます。
実際,昨日も今日もアフター・ファイブに,それぞれ結構大事な予定が入っていたのですが,どちらも前日にスケジュールを変え,昨日は,サイコドラマのオープングループに参加し,今日は,プレイバックシアターの夜間ミニ講座の参加してきました。前者は私の方から「ディレクター」にアポを取り,後者は,当日の「コンダクター」から直接お誘いを受けたので行ってきました。
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未来に怯えるとき
人は誰もその怯えが現在のものであることに気づかない。
いま怯えている人
実はその怯えは過去の体験を追体験していることに気づかない。
前を向いても怯えてしまう?
わかるな~,その気持ち。
でも,君を怯えさせているのは,
実はバックミラーに写ってるものだよ。
バックミラーが見えるのは,君が前を向いている証拠。
それがあれば振り向く必要はない。
前を向いたまま,来た道を見られるもの。
それがバックミラー。
だからバックミラーはあっていいものだし,必要だよね。
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