ルーツを探る歴史の旅
ルーツを探る歴史の旅 02/13 19:31

「明太子」は博多の名産品として全国的に知られていますが、その起源は海外にあります。

「明太」の文字が文献に初めて登場したのは、今からおよそ350年も前のことなんだそうです。

いまや博多の顔にまで成長した「明太子」のルーツに迫ります。

私の名前は明太子。

ご飯との相性は抜群といわれます。

博多のお土産としても人気があるんです。

私の名前が、初めて文献に登場したのは今からおよそ350年前の江戸時代のころ。

朝鮮の文献「承政院日記」に記されています。

王様の賄いを担当する、お役人の報告です。

私を生んだお母さんは、朝鮮半島の東からオホーツク海、アラスカ湾にかけて分布するスケトウダラ。

当時、朝鮮半島では「ミョンテ」と呼ばれていました。

漢字では「明太」と書きます。

しかし、塩漬けするのは身の部分だけで、卵の私は捨てられることが多かったのです。

それから250年後、私に注目した日本人がいます。

樋口伊都羽さんです。

1894年に起きた、朝鮮半島をめぐる日清戦争後のことです。

当時の朝鮮半島では、日本の影響力が次第に強まっていました。

半島に渡った伊都羽さんは、ミョンテの卵:明太子が捨てられているのを見て、「日本人向けに商品化できないか」と考えたのです。

塩漬けのほか、唐辛子を刻んで漬け込んだ私は、プサンで人気者となりました。

樋口伊都羽さんの故郷は、福島県の会津若松市です。

子孫の樋口丈治さんです。

プサンにあった樋口商店の写真はありませんが、当時、伊都羽さんが弟に宛てた手紙が残っています。

手紙には、伊都羽さんが家族に明太子事業をやらないかと誘うくだりもあります。

自前の船を数隻もつほど、経営はうまくいっていたようです。

樋口商店の封筒や便せん、印鑑にある「元祖」の文字。

現存する史料からは、伊都羽さんが私を世に売り出した先駆者といえそうですね。

当時、プサンで樋口商店の明太子を食べた人を見つけました。

今西一さんです。

やがて樋口商店の明太子は、関釜連絡船で下関に伝わります。

1939年の新聞は、下関が明太子の取り扱い日本一と伝えています。

しかし、第2次世界大戦後、その中心は博多へと移っていきます。

「明太子開発史」。

かつてプサンで樋口商店の明太子を食べた今西さんは、水産大学校の元教授です。

教え子と一緒に、明太子について7年間調査し、結果をまとめて出版しました。

終戦後の昭和20年代、明太子・四天王と呼ばれた人たちがいます。

その中で、博多の川原俊夫さんは明太子に唐辛子や調味料をまぶす、従来の方法ではなく、調味液につける方法を編み出しました。

品質管理、省力化の面で効率がよく、現在の明太子産業発展の基礎を確立したと言われています。

博多には追い風も吹きました。

新幹線の開通は、あっという間に私の名を全国に知らしめました。

2007年時点で、明太子の製造業者は550社以上と言われ、その4割近くを福岡県内の業者が占めています。

博多のお土産として私は、喜ばれるようになりました。

今では、私が生まれ落ちた朝鮮半島に博多の業者が進出しています。

現地の人たちも、「よく成長して帰ってきた」と喜んでくれます。

私の名前「明太子」は、「明」るく「太」い絆となる「子」と書きます。

産みの親である朝鮮半島と、育ての親である日本との間には悲しい歴史もありましたが、親同士のもめ事は、子供の私も御免です。

終戦後、樋口商店を廃業した伊都羽さんは今、東京の墓地に眠っていますが、同じ気持ちだと思います。

私には今、たくさんの家族がいます。

いろんな味の明太子から、せんべい、そしてスイーツにいたるまで。

私の魅力を引き出してくれる人たちに囲まれて、とても幸せです。

どうぞ、これからもよろしくお願いします。

明太子は、「朝鮮半島」で種がまかれ「下関」で芽をふき「博多」で花を咲かせたとも言えそうですね。