「自分が決めたことだから、ひたすら汗を流し、辛い思いもした。やがて、こんな俺にも自信や誇りが生まれてきた」――
自著の表紙オビに書かれたこの言葉が、かつて“広島の粗大ごみ”と呼ばれた男の今を映し出している。

“トカちゃん”こと渡嘉敷勝男会長からのご紹介をいただいた今月の“戦士”は、日本人初の世界ミドル級チャンピオン・竹原慎二氏だ。
竹原氏とお話するのはこれが初めてだが、186cmの長身に、クールな表情の元ミドル級世界王者だ。「一体どんな人なんだろう・・・」163cmの身長に、あまり貫録の無い顔立ちの私は、ちょっとドキドキしながら竹原氏のジムを訪ねた。
今回も“写心家”山口裕朗氏が同行してくれた。
畑山隆則氏と共に運営する「竹原慎二&畑山孝則のボクサ・フィットネス・ジム」は、JR大久保駅から徒歩5分・新大久保駅から徒歩10分の好立地にある(財)スポーツ会館内の1階で運営されている。
我々がジムを訪れた際、竹原氏は「この人、今度オヤジファイトに出るんですよ」という練習生のスパーリング相手を務めていた。もちろん元世界ミドル級王者はディフェンス中心で、マスボクシング程度のパンチしか出さず、オヤジ練習生には思い切りパンチを打たせていた。
「次のラウンドで倒しますから」竹原氏は、冗談でそんな脅し文句を言いながら、ジム全体に楽しい雰囲気を生み出していた。
「まだまだ動けますねえ」素人相手とはいえ、36歳・・・。それでもしっかりと2ラウンドのスパーリングをこなし、その後で続けて数名のミットを持つというハッスルぶりだった。
「いつも私のスパー相手をしてくれるんですよ」と、オヤジ練習生は嬉しそうに話してくれた。

「竹原慎二&畑山孝則のボクサ・フィットネスジム」は、今年8月よりボクシング協会に加盟することになり、竹原氏は正式に会長職に就任することになった。
「まだまだ選手になれそうなのは、そんなにいないですけどね・・・」そう言って笑う竹原会長だが、胸に秘めた思いがズンズンと伝わって来た。
専属のマネージャーやトレーナーも在籍し、指導陣も充実している様子。本格的に始動すれば、優秀なプロ選手をどんどん輩出してゆくことだろう。
「シャワー浴びちゃっていいですかね?」我々の為に少し早目に上がって時間を作ってくれることになっていたので、竹原氏はオヤジ練習生を残してシャワールームへ向かった。
さっぱりとして、ジーパンとTシャツに着替えた竹原氏は、キャップを粋(いき)にかぶり、我々と共に夜の街へとジムを後にした。
「梁の家(ヤンのいえ)」という有名な焼肉屋があるんですよ。そこでいいですかね?」と竹原氏の案内で、JR新大久保駅近くへ向かった。
店の壁には有名人のサインがびっしり。やはり“知る人ぞ知る”名店なのだろう。早速竹原氏と生ビールで乾杯し、ざっくばらんにいろいろ語ってもらった。
広島県安芸郡出身の竹原氏は、プロ野球選手に憧れる少年だったが、中学1年の頃から家庭の事情もあって不良の道へと進んでしまう。2年間ほど、暴走族もやっていた。
やがて「明日のジョー」や「ロッキー」に影響を受け、広島三栄ジムへ通うようになったが、中途半端な気持ちだった為、どうしても遊びの方へ走りがちとなっていた。
その後、16歳で上京し、広島三栄ジムの紹介で東京の沖ジムへ通い始めるようになった。仕事もジムから既に紹介してもらっていたので、ひとまず路頭に迷うことはなかった。
いよいよ本格的にボクシングに取り組む姿勢になったのかと思いきや、「いやあ、所詮16歳の子供の考えるレベルですよ」と、まだまだ本気モードというわけではなかったようだ。
当時の沖ジムは、事情があって協栄ジムに間借りしていた時期だった。16歳で入門したばかりの竹原氏は、協栄ジム出身の元世界チャンピオン渡嘉敷勝男氏と初めての対面をし、「何やコラ!挨拶の声が小さいやろ!」といきなりどやされてしまったという。
しかし、今では非常に親しい先輩後輩という様子だ。
「渡嘉敷さんは本当に純粋なハートの持ち主なんですよ。ハートの面から尊敬出来る人です」と、心から慕っていることが感じられた。
ボクシングに対して、初めはなかなか本気モードになれなかった竹原選手も、日本タイトル挑戦の頃から気持ちに変化が現れるようになった。
「応援してくれる人も増えてきて、『頑張らなきゃ』と思うようになって来たんです」ロードワークも以前より真剣に取り組むようになった。「モチベーションが上がってきたんですね」ファンの声援が彼を突き動かしたようだった。
日本、東洋太平洋を制覇し、やがて世界王座への挑戦という大舞台に立つことになった。挑戦相手はアルゼンチンの名王者・ホルヘ・カストロ――。
大方のボクシングファンは、日本人がミドル級で世界を獲れるとは思っていなかった。世界戦にも拘わらず、会場は後楽園ホール。テレビも録画中継という扱いだった。
「いやあ、生放送だったら負けてたかもしれないですよ・・・」不遇な扱いが反対に功を奏し、かつて“広島の粗大ゴミ”と呼ばれた男は、第3ラウンドにアルゼンチンの名王者・ホルヘ・カストロから左ボディでダウンを奪って判定勝ちをおさめ、日本人初の世界ミドル級王者に輝いたのだった。
しかし、竹原氏は当時を振り返って、「実は世界を取った瞬間も、その後も、しばらくは実感が湧かなかったんです。プレッシャーばかりで、生活もほとんど変わらなったですし・・・」
世界を獲ったこと、日本人初の世界ミドル級王者になったことを、本当に実感したのは、引退して何年も経ってからのことだったという。
“栄光”というのは、得てしてそういうものなのかも知れない・・・。竹原氏に比べれば、ずっと小さな栄光ではあったが、私も似た思いを胸に抱いたことがあった。

現在はタレントとして活躍中の竹原氏だが、引退後も決して順風慢帆ではなかった。「1年半位は、ほとんど仕事が無く、“プー太郎”状態でしたよ」。
その後、日本人初の世界ミドル級王者は、日焼けサロンでバイトをしながら過ごすという下積み時代を送っていた。
1999年4月にイタリア料理店「Campione(カンピオーネ)」を開店。そして2000年、あの「ガチンコ・ファイトクラブ」がスタートしてブレイク。タレントとしての名声を得ることになったというわけだ。
「竹原はガチンコが当たって、美味しい思いをしたよな」という風評に、正直に白状すると、かつては私も同調していた一人だった。しかし、今回いろいろ話を聞かせてもらい、決して楽な道のりでなかったことを知り、考え方を改めた。
やはり、一歩一歩積み重ねてゆくことで、道は開けるのだ。竹原氏が歩んで来た道のりも同じだった。
今やブログのアクセスランキングがトップクラスの人気タレントとなり、サプリメント、サウナスーツ、ウォーキングシューズのTV通販や、ダイエットDVD、ダイエット食品の開発など、ビジネスマンとしても活躍している。
「いやあ、なかなか厳しいですよ・・・」と、謙遜していたが、これまでと同じように歩んでゆくことで、どんな壁も乗り越えてゆくに違いない。
「竹原慎二&畑山孝則のボクサ・フィットネス・ジム」がボクシング協会に加盟し、今後は本気で選手育成に力を注いでゆくつもりだという。
「2〜3年後には新人王、5年後くらいには日本チャンピオンを出したいですね」竹原氏は力強く語った。
日本人初の世界ミドル級王者と、楽しいひと時を過ごすことが出来た。見かけによらず、ソフトで親しみの持てる“戦士”だった。「今後も、同業者として親しくお付き合いをしていただきたい」そんな風に思った。
後日、竹原氏はオフィシャルブログ「竹原慎二はブタっ鼻」で、この日のことを書いてくれました。
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http://ameblo.jp/shinji-takehara/archive1-200807.html
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