上野アメ横の歴史
現在のアメ横の原型は、終戦直後、現在のJR山手線上野駅〜御徒町駅間に多数のバラック店舗が軒をつらねた簡易マーケットが建設されたところにさかのぼります。
芋アメのアメとアメリカ物資のアメが重なり『アメ横』というネーミングの由来となりました。
昭和30年代後半になると、米軍の放出品などをあつかっていた業者が直接海外買い付け、輸入しはじめ様々な輸入商品が並び始めました。
昭和後半になると上野駅前京成百貨店跡に丸井が出店しました。この頃になると、アメ横も2代目へと代替わりが始まり本物志向(価値あるものを安く)が多くなり、若者向けファッションやスポーツ、ゴルフの街として人気を博しました。大手ドラッグストア(コクミン、マツモトキヨシ)などの出店で薬の街としても存在を高めています。
昭和23年頃のアメ横 | 昭和24年の露店の頃のアメ横 | 昭和27年頃のアメ横 | なんでも売っている上野アメ横 | 外国商品がずらりのアメ横 |
ノガミの闇市
ハードな生活を送る人々。焼け跡の中から調達した材料でバラックを建てた。 |
この商店街がアメ横と呼ばれるようになったのは、昭和22年の秋頃からで、終戦直後はノガミ(上野の逆読み)の闇市と呼ばれていた。
戦前は「しょうべん横町」と呼ばれる下町的な住宅密集地帯であった。戦争末期、しょうべん横町の近くにあった国鉄ガード下の変電所を空襲から守ろうと住人を強制疎開させて、しょうべん横町は空地になった。さらに、上野駅と御徒町駅の間は、国電が大きくカーブしていて、駅からも交番からも見通しがきかない盲点だった。
終戦直後、ここに目をつけたヤクザや復員兵が集めって物々交換をしたり、品物を売ったりしたのが、ノガミの闇市の起こりである。
闇市風景・青空市場 | 新橋闇市の松田組事務所付近の賑わい | 米兵も混じる銀座の闇市 | にわか露店商人の復員軍人 |
この青空市場は、食べ物はもちろん、鍋や茶碗などの食器、軍靴など、なんでも売られ、なんでも売れたという。
上野駅を起点とする東北、高崎、常磐各線をはじめ、上越、信越からの上京客、総武、成田線を利用する千葉県の商売人たちが入り混じって青空市場は活況を呈した。また、新橋の青空市場に一番電車で出かけ手当たり次第に物を買って、上野で勝手放題な値段をつけて売りまくっていた引揚者や復員兵もいたという。
食べ物は、落花生、スルメ、ふかし芋、うどん、そば、さつま揚げなど。また、ネギのぶつ切りにしょう油をたらしたスープ「ネギ汁」や、水に紅色を混ぜて甘味をつけた「甘水」など、かなりいかがわしいものもあった。なかでも一番人気があったのが「残飯シチュー」であった。進駐軍の炊事場から残飯を持ち帰り、大鍋に放り出して煮込みなおし、どんぶり1杯を10円ほどで売っていた。コンビーフの匂いが食欲をそそり、大鍋の前には長い行列ができた。時間が経って酸っぱい味になるのは当たり前で、ときには煙草の包装紙やひどいときはコンドームなどもまぎれこんでいたが、喜んで食べたという。
闇市とは食べる所である | お好み焼き2枚5円 | 夜更けの食事に舌鼓する水商売の女 | いわしのバター焼き一皿5円 | 代用うどん一杯5円 |
それほど食料品が欠乏しており、東京では約1ヶ月も主食の配給が遅配していた時代である。
当時はすべて統制で、靴下一足買うにも衣料切符が必要だったが、どこにいっても切符では売ってくれない。買うには闇市しかなかった。定められた公定値段の10倍以上の金を出してやっと買える。それが闇市であった。
こうして青空市場が大きくなっていくと、ヤクザや愚連隊がしょば代を要求するようになったり、縄張り争いが起こったりと、白昼からピストルの音が聞こえるようになった。
上野の青空市場で物を売った主力は、大阪や神戸など関西から男たちであった。当時、上野は飯島一家、西尾組、破れ傘一家など、新宿は尾津組、銀座は上田組、池袋は関口組が勢力を張り、連日のようにトラブルが絶えなかった。そして、尾津、芝山、関口、上田の四親分が、在京華僑連合会及び朝鮮人連合会を訪問して、互いに闇市の自粛を申し合わせたが、ついには機関銃を持ち込む騒ぎにまで発展したという。
進駐軍のGIに群がる子供達。 |
警察が取り締まっても、闇商品は後を絶たず、警察と闇商人がだまし合い、加えて地回りのヤクザが入り込み、闇市を複雑にして争いが絶えなかった。また、GHQからの指令で、警察は外国人に手も足も出せず、それをいいことに彼らも目に余る闇取引を行っていた。そんな上野の青空市場に、近所で自動車修理工場を営んでいた近藤広吉氏がマーケットを建設した。仕掛け人は沖塩台東区長と池田上野警察署長であった。1コマを1坪半程度の広さに区切って、バラックの簡易マーケットを80コマ建てた。これが通称、三角地帯と呼ばれたアメ横の中枢部、近藤産業マーケットであった。マーケット建設のいきさつは、日本の警察が拳銃を携帯できるようになったのは昭和25年からで、それまではMPとともにパトロールするのが精一杯で、闇市で旧陸軍拳銃なでで発砲事件が発生しても所轄署は手が出せなかった。そこで、近藤氏にマーケットを建ててもらい、青空市場からヤクザや他のグループを締め出し、経済違反の摘発に乗り出すというものであった。近藤氏は簡易マーケットに入店舗を決める段階で、ヤクザ集団などの悪質なグループをチェックして出店を断った。この合法的な締め出し作戦が当たり、闇市浄化のきっかけになったという。それに加えて、GHQのスポークスマンから、「連合国の将兵、およびこれに協力する民間人は軍律に服さなければならないが、それ以外の日本に居住する外国人には日本の法律が適用されるべきだ」という声明が発表された。ここを締め出されたグループは、上野駅前に「国際親善マーケット」を建てて、在日朝鮮人商業連盟上野支部として再出発、53店舗が加盟、支部員は300人にのぼった。そして、昭和22年夏、下谷神社で、アジアの親善という名目の会合が開かれ、新宿の尾津組長の立ち合いのもと、池田組、西尾組の幹部、上野朝鮮人露店組長・李五達氏、華僑宏済会のリーダー・蔡金樹氏、さらに椎名下谷区長、池田署長も出席。上野は円満にいっていることを確認して、杯を交し合った。
ノガミ駅の風景
辺り一面焼け野原という、混乱と不安にさらされながら、明日はどうして生きていこうかと苦しんだ時代だった。無条件降伏した1945年8月15日までの約9ヶ月間、東京は102回の空襲に見舞われ、特に1945年3月9日から10日朝にかけての下町を中心にした大空襲と4月13日、5月24日の夜間空襲は甚大な被害をだし、戦前138万戸あった住宅は61万戸しか残らなかった。男はカーキ色の国民服か、ヨレヨレの軍服、星のマークを剥いだ戦闘帽にゲートルを巻き、軍靴をはいてリュックサックを背負った、いかにも敗残兵といった服装。女は年齢に関係なくほとんどがモンペ姿。なかには落下傘の生地で作ったスカートをはいている者もいた。割れた窓ガラスにベニヤ板を当てただけの電車、車内は破れ放題の座席でノミの巣窟。指定席はあれども人並みに押し返されて立ち往生し、自由席は窓から飛び込んでのすし詰め乗車。デッキにも人があふれ、列車の屋根から機関車のボディにまでぶらさがっている若者たちもいた。浮浪児や戦災孤児が街にあふれ、食うために街娼に身を落とした人妻。飢えた野良犬の群れが食堂のウエートレスを食い殺すという惨事も起こった。上野の地下道は、浮浪者と戦災孤児たちのねぐらだった。大人たちの約6割は引揚者で、帰る故郷もなく、この地下道に住みつくようになり、犯罪や乞食などで毎日を生きのびていた。
現在の昭和通りから臨んだ上野駅。見事に焼け野原である。 |
地下道に住んでいた引揚者の大半は、その引揚証明書を売って、食事に変えてしまっていた。そして、生きていく事に疲れ、何日も水ばかり飲む生活に押しつぶされて餓死する者が続出した。地下道、上野公園、池之端など上野の山では、1日6人の餓死者が発見された日もあったという。当時の新聞各紙は、このまま食糧危機が半年続くと10万人の餓死者が出るだろうと報じ、大きな社会問題化していた。そんな列車待ちの行列でごった返す上野駅を根城として生活を支えていたグループがいた。引揚者たちは、このグループを地下道の仲間たち呼んでいた。まずはダフ屋と称する集団で、仲間は40人前後。リーダーは国鉄職員上がりの小柄な中年男であった。彼らは仲間と手分けして列車ごとに行列の順番をとり、座席指定券を得ては、それをヤミ売りして生活費を稼いでいた。駅側も見て見ぬふりをして、難くせをつける乗客がいると、彼らに連絡をとり騒ぎを静めてもらうなど、持ちつ持たれつの腐れ縁の関係であった。
チョコレートを貰って喜ぶ孤児達 | 収容所で雑炊を食べる戦災孤児達 | 上野地下道の浮浪者達 | 夜になると地下道に集まる浮浪者群 |
また、駅員らの目をかすめて、ラ・ラ物資(アジア救済委員会)の横流しや、進駐軍から放出されたチョコレートやチューインガム、外国煙草などを売り歩く戦災孤児の一群。エロ雑誌やエロ写真を売る中年女性たち。銀シャリのおにぎりやゆで卵などを風呂敷に包んで、密かに売り歩く年配女性。発射時刻のどさくさにまぎれて乗客を狙うチャリンコ(スリ)の一団など、列車待ちの行列に寄生して生活していた集団であった。そんな上野の地下道にはたびたび救護(手入れ)があった。だが、収容所に救われたものの浮浪者たちは地下道に舞い戻り、新に加わる者も増え、地下道人口は千数百人にのぼった。そして、昭和22年1月、大救護により、身も凍る寒さに耐えかねて地下道に集まった浮浪者たち全員は収容所に引き渡され、地下道は閉鎖された。警察官監視のもと、しばらくは浮浪者は著しく減少し、上野駅の犯罪も激減したが、収容所の粗末な食事に耐えかねた浮浪者たちが食糧豊な農村地帯に逃亡をはじめた。列車の増発と並行して乗車券が自由販売となり、贋プーバイ(乗車券闇売)やショバ売(行列の場所権売)の手先だった者は立ち行かなくなり、農村の収穫期に田舎回りが増加したのだった。同時に野荒しを強行する悪質な者も現れ、駅の検挙数も増加していった。農家も大人たちには冷淡であり収入も少なく、農家の留守中に米など食糧や、洗濯物を盗んできては地下道に戻ってきては売人に売り払って、わずかな日収を得るようになる。一方、浮浪児は同情を得やすく、千葉や埼玉の農家を回っては蒸かし芋や握り飯などをふんだんに抱えて帰京し、地下道で売りさばく闇屋に早変わりした。
ノガミの浮浪児達。昭和22年1月に大救護された。 |
闇売り稼業
こうした闇屋の新職業の発展は、石炭の不足による列車の減発に起因していた混雑であった。そして、切符の闇売り(ダフ屋)、優先乗車場所売(ショバヤ)などは、その形態を変化させつつ現在も残っている。終戦時、引揚などの人の移動、ダイヤの混乱、食糧不足による買い出し、闇行為の激増により、駅はもの凄い混乱の様相を呈した。切符を求めて駅の屋外待合所に2〜3泊してやっと買い入れた切符で列車に乗ると殺人的な混雑だった。客たちは駅内外だけにはとどまらず公園にまではみだし、乗車券の発売制限はますます激しくなる。これらの客たちを狙ったスリや置き引き、かっぱらいなど、食事を目当てに全国から集まった戦災孤児たちの犯罪の温床となった。
煙草闇売り
煙草の配給減配とインフレの昂進により勤労者の入手が困難になり、吸殻煙草の再製販売が増えた。当初は不具の浮浪者の仕事であったが、一般人からの転職も多く、上野駅地下道付近において、ピース缶につめて通行人に販売していた。その収入も一般労働者をはるかに凌ぐ状況だったという。
外食券闇売り
一般配給食糧の遅配と都内転入抑制により、浮浪者、出稼ぎ人、旅行者を対象に外食券の闇売りが行われていた。販売者はいわゆる三国人で多くのは関西から上京し、露天商に失業して転職する者が多かった。それを浮浪児に託して販売させていた。入手経路は偽造外食券と盗品であった。
故売(立売)
統制強化により禁制品の闇売りが行われたのに端を発し、街頭、駅、地下道を徘徊して物品の立ち売りを秘密裡に行うようになった。彼らは売人と呼ばれ、衣類や時計、鞄、靴など500円クラスを扱う者から、ライター、万年筆、シャツ、靴下、財布など100円前後の品物を動かす者までいた。その大部分の品物はかっぱらい、スリ、置き引きなどの盗品であった。
愚連隊
警察の防犯対象に真っ先にあげられたのが、愚連隊と呼ばれる集団であった。上野周辺も下町気質な愚連隊の温床となり、露店の復活、商店街の活況などで助長に拍車をかけ、昭和21年の最盛期には、街の顔役の手足をなって横行した。その最大の集団が血桜団と呼ばれるもので、朝鮮人連盟と結託して傘下60名以上に及んだ。隊員は無職、とび職、人夫、駅員、的屋などの下層階級によって組織されていた。彼らの稼業は賭博(競馬場、伝助、鉄火場)、かっぱらい、置き引き、恐喝(タカリ)、主食(パン、おむすび、海苔巻)の闇売、女衒、または闇商や街娼のショバ代などであった。
闇煙草巻きの老婆 | 上野駅構内で闇パンを売る女 | 闇米列車一斉取締り、 窓から闇米を搬出 |
列車の車体に穴を 開けて隠された闇米 |
上野闇市から押収された禁制品 |
飴屋の横丁
当時、全国のどこにでもあったように、台東区にも引揚者団体が結成され、配給物資から資産の処理問題、給付金(一時金)支給に関する証明書発行などの手続き、さらに就職の斡旋など様々な問題の処理に当たっていた。当初、台東区が浅草区と下谷区に分かれていた関係で、浅草引揚会と下谷引揚会のふたつの団体が結成され、その後、台東区が発足したのを機に下谷地区引揚者更生会と名称を改めひとつの団体となった。昭和22年の夏頃には、台東区に定着した引揚者は4千世帯に及んだという。
まず、引揚者が起こした事業は、列車待ちの乗客にキャンディを売るというものであった。
その頃の上野駅周辺は、ほとんどがバラック建てで、駅から東に車坂、稲荷町通り、南に秋葉原、広小路通りには、戦禍をのがれて焼け残った商店がわずかにあるだけ。上野駅南口に出ると、京成聚楽と下谷郵便局の残骸があり、広小路通りに立って神田方面を見渡しても松坂屋百貨店の焼け跡だけがぽっかり浮かび、神田昌平橋の先まで見通せるという、まさに焼け野原の瓦礫の街であった。さらに、上野駅構内から地階へ踏み入れると、地下鉄駅を中心として四方にのびている長い地下道は浮浪者の溜まり場となって2、3千人が住みつき、犯罪の温床になっている。そこは俗に特殊地帯と呼ばれ、一般人は寄りつこうとしない場所であった。そして、国鉄ガード下に沿った東側の路地裏は、闇物資交換所があり、近郷からやってきた担ぎ屋の溜まり場になっていて暗く不気味な賑わいをみせていた。
闇列車急襲上野駅を 包囲する警官隊 |
担ぎ屋大量検挙、警視庁 送り、上野駅前 |
列車から押収した闇物資の山 | 終戦直後の新橋西口の闇市風景 |
こうした状況で、民衆の人気を博していたのが、割り箸に甘水を凍らせたアイスキャンディで、上野駅周辺だけでも20軒近いキャンディ屋があり、子どもはもとより、甘味が欠乏していた大人たちにも人気で相当な利益をあげていた。そして、引揚者会はこの人気に目をつけたのである。当初は、製造から販売までを目論んでいたが、資金繰りがどうしてもつかず、売ることのみに作戦を切り替え、近所のキャンディ屋と交渉する。当時の甘味料は、砂糖が不足していたので、ズルチンやサッカリンが主流だったが、それも統制品だったので一般人が入手する事は困難であった。ヤミ市では英国製のモンサントと呼ぶサッカリンが1s入り1缶8万円以上という法外な闇値で取引されていた。だが、上海市場ではそれが約500円で出回っていて、誰でも自由に買えたので、上海からの引揚者は荷物の中に1、2缶のサッカリンをしのばせていた。引揚船を待つ日本人の間では、これが数万円で売れるという話が広まっていたからである。そして、博多港には買人が待ち伏せして、引揚者の行李を中身を見ずに1個6万円で買い取っていた。当時、6万円は1年以上の生活費に匹敵する生活費であった。
それほど、人々は甘いものに飢えていて、サッカリンは大変な魅力であった。引揚者会は、このサッカリンを公定値で払い下げてもらうよう政府に働きかけたのだ。そして、陳情は予想以上の成功をみせ、サッカリンの払い下げばかりか、それに要する資金についても引揚者更生資金ということで貸与が決定。一銭も要することなくサッカリンの払い下げに成功したのである。サッカリンを安価で支給することで、キャンディ屋から格安で商品を卸すことにも成功し、警察署からも、引揚者という警視庁の角印のついた腕章をつけた売り子に限りという条件つきで街頭販売の認可も得た。特に蒸し暑い夏の夜などは、冷たいキャンディ、と一声かけるだけで、徹夜の行列客が売り子を取り囲み、瞬く間に売切れてしまう。急いで製造屋に戻り箱一杯に仕入れても、またもや一瞬のうちに売り切れるという繰り返しの大盛況ぶりであった。だが、キャンディも夏の間はいいが、冬の対策を練らねばならない。そこで御徒町寄りのガード下に露店を出そうということになった。
GHQ命令で取り壊し作業中の三角帯 |
そこで再び警察署に陳情。候補予定地を実地調査した結果、取締り上問題はないが、地主である国鉄本社の承認が必要であるということになった。
色々と難儀な問題にぶつかるも、引揚者に満鉄(南満州鉄道株式会社)など鉄道関係者も多く、ガード下両側の道路使用を許可する上に、5つあった倉庫のうち、ふたつを貸し出してくれることになったのだ。そして、昔ながらの露店方式にならい、一間ずつに区切って30数個のコマ割りにし、5つのコマを地元露天商組合に5つを地回り組に配分。残りを引揚者会員に割振り、1店舗3、4人の共同経営するように分配した。
では、露店で何を売ろうかとなり、近藤マーケット(三角地帯)内の店舗で飴菓子類を売っているのをヒントにネタ(商品)は飴にしようということになった。さらに資金のない引揚者たちは、露店を闇の飴業者に歩合制の賃貸(売り上げの2分)で契約を結んだ。そして、これがまた当たりに当たった。飴屋はもとより、近藤マーケットや近くの商店主など、周りを取りまく店舗はいっせいに飴菓子を売り出し、飴一色の商店街になった。この300軒近い商店街はたちまち大評判になった。新潟、酒田、新津、遠くは北海道や青森まで、旅客の口コミで宣伝されて日を追うごとに飴の買出し客が集まり、まとめ買いする団体職員や商店会員なども現れた。東海道沿線からも買出し客が殺到して、連日ごった返すほどの賑わいをみせ、売れる日には300近い店舗の売り上げが1億円を越すこともあったという。なつかしいバターボール、あんこ飴、ドロップ、金太郎飴、ぶっきり飴、ねじり棒、五色飴、棒つきだるま飴、ニッキ飴、黒玉、茶玉、甘納豆、蜜柑飴ゼリー、おこし、せんべい、かりんとなどに混じって、進駐軍から放出された洋菓子、チョコレート、ガムなどが山を積まれて売りまくられ、いつとはなしに、誰からともなく、この商店街はアメ屋横丁と呼ばれるようになったのである。
参照文献 アメ横三十五年の激史(東京稿房出版)
舞台は関西ですが戦後の闇市で勝新太郎が扮する朝吉が『びっくり雑炊』を売って生計を立てる『新・悪名』(1962年:大映)という映画をご覧いただければ幸いです。
■新・悪名
朝吉が復員すると、日本は戦後の混乱真っ只中だった。女房のお絹がすでに再婚していたことを知り、朝吉は自分の身代わりに死んだ貞の老母を引き取る。ある夜、朝吉の歓迎会が行われた村で、戦死した幼なじみの妹・月枝が進駐軍に乱暴され、消息を絶つ。月枝を探し大阪に渡った朝吉は、進駐軍相手の売春婦になっていた月枝を救うべく、元締めの男に会いに行くが、清次というその男は死んだ貞の実弟であった…。
日本映画界の大スター・勝新太郎と田宮二郎がタッグを組んだ、任侠映画の原点といわれる「悪名」シリーズ。今東光の同名小説を原作に、大映製作持ち前の派手さで、昭和の"ダンディズム"を色男の2人が色気たっぷりに魅せてくれる超娯楽大作、第3弾だ。この作品が「悪名」シリーズのスタートと言える作品で、田宮二郎が前作で死んだ貞の弟に扮して再登場している。