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経済

大丸神戸店、苦難乗り越え100年 

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1908年に開業した「大丸呉服店神戸出張所」

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1930(昭和5)年ごろの元町。街のシンボル、すずらん灯もある

 大丸神戸店が神戸・元町に店を構えてから、今年で百年。災害や戦争、不況の波を乗り越え、老舗ののれんを守り続けている。現在、同店で開催中の記念写真展は、同店や元町周辺の時代の変化を映し出す。同店の歴史を振り返った。(西井由比子)

 大丸神戸店は一九〇八(明治四十一)年六月十五日、「大丸呉服店神戸出張所」として神戸市中央区元町通四丁目にオープンした。敷地三百平方メートルで、木骨コンクリート二階建てのミニ百貨店。食料品はなく、着物姿の従業員が呉服や雑貨を売った。ガラスのショーウインドーにランプも付いて洋風だが、入店は履物を脱いでからだったという。

 当時の神戸の中心地は、神戸港の開港と鉄道網の発達で、兵庫港から元町へと移っていた。写真では着物姿の人や人力車でにぎわう。高島屋も三越も十合(そごう)も元町にあった。

 現在の明石町に移ったのは、二七(昭和二)年四月五日。世界的な金融恐慌のさなかにあり、その日、神戸の大商店・鈴木商店が倒産。暗いムードの中での開店だったが、初日には二万五千人が押し寄せたという。

 同店の記録には「七階のベランダには大型の万国旗を掲揚し、塔屋には港内停泊の外国船に対し『ボン ボヤージュ(よい航海を)』の信号旗を掲げて話題を呼んだ」とあり、国際港都にふさわしい店として生まれ変わったことが分かる。街も、洋服姿の人や横文字のカフェに変わっている。

 その後は波乱の連続だった。三八(昭和十三)年七月には阪神大水害に見舞われ、街は濁流にのまれた。同店は無事だったが、街は大量の流木や家屋の残骸(ざんがい)に埋もれた。

 その年の十一月には、ドイツのナチス青年組織が街を訪れ、子どもたちが旗を振って迎えるなど、第二次世界大戦の暗い影が忍び寄る。四三年、学徒動員の学生の長い列が元町通を神戸駅に向かい、その二年後には空襲で焼け野原となった。このときも同店は無事だったが、進駐軍に宿舎として接収された。

     ◇

 戦後、好・不況の波もくぐり抜け、神戸で確固たる地盤を築いたが、九五年の阪神・淡路大震災で店舗が全壊。二年後には全館の営業を再開した。売上高は一千億円を超え、神戸・三宮のそごう神戸店を抜き神戸の百貨店で首位になった。

 近年の発展の基礎になったのは、八八年に始めた旧居留地の古い建物に出店する手法だ。最近新たに出した海外高級ブランド店三店を含め旧居留地の店舗は計七十店に増え、今や名実ともに「神戸の顔」になった。

 神戸の歴史と伝統を生かしながら、流行の先端を取り込んできた大丸神戸店。百貨店業界は今、消費不振と統合・再編のの渦中にあるが、同店は「これからも地域とともに、神戸らしさを大切にしていきたい」としている。

(10/26 09:22)


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