インターネット格闘記 The report of fight in internet
小松崎 松平 Matsuhei Komatsuzaki
第63回
「深夜放送」のころ
私は少年時代、深夜放送のヘビー・リスナーだった。ラジオ深夜放送が最も盛んになったのは1970年代であった。私が深夜放送を聴き始めたのは、父が病死した1966(昭和41)年で、私はまだ9歳の時だった。今週の水曜日、午前中のテレビ番組にレモンちゃんがトークコーナーに出演していた。「レモンちゃん」で解る人は、私とほぼ同世代の深夜放送オールド・ファンであろう。「レモンちゃん」とは、元文化放送アナウンサーであり、作家の落合恵子さんのことである。
落合恵子さんは、私と干支が同じであり、一回り年上。明治大学を卒業後、1967年に文化放送に入社。「レモンちゃん」は、1970(昭和45)年10月から深夜放送「セイ!ヤング」のパーソナリティとなり、若者のアイドルのような「年上の姉」的存在になった。落合恵子さんはあまりテレビに出演しない方なので、水曜日のトークコーナーで見る映像は私に懐かしさを呼び起こさせた。ただ、彼女は右腕を骨折して、片腕をギブスで固定した痛々しい姿であった。一日も早い快復を願うのみである。
私は過去に何度か落合恵子さんに会ったことがある。公開番組では一人のリスナーとして、また私がジャーナリストになってからは、取材対象として会ってきた。女性にしては低い声で、落ち着いた話し方、そしてセミ・ロング・ヘアーの「レモンちゃん」のイメージが私の脳裡に今でも残っている。彼女は現在も独身であり、相変わらず美しい女性である。彼女の夢は、子どもを産んだら、名前を「亜夢」と付ける、と語っていた。その夢は私の知る限り、まだ実現していない。
彼女は文化放送を退局後、作家となり、何度か直木賞候補に挙げられ、稼いだ本の印税などで子どもの本専門店「クレヨンハウス」という絵本屋を設け、成功した。さらに女性の本の専門店「ミズ・クレヨンハウス」も経営し、経営者としての才覚も確かなようである。
文化放送では、1969(昭和44)年の6月から、月曜〜土曜の深夜帯(午前12時半〜午前3時)で、「セイ!ヤング」という番組をスタートした。その前の時間帯では、旺文社提供の「大学受験講座」を放送していたため、受験生たちはこの講座番組を聴いた後、「セイ!ヤング」を引き続き聴くという流れになった。当時の受験生たちは、「深夜放送を聴きながら、受験勉強をする」傾向が強く、これを「〜ながら族」と呼んだものである。後に私も、高校受験のころ、この「ながら族」になった。
「セイ!ヤング」のテーマ曲は、「夜明けがくる前に」で、作詞は、なかにし礼、作曲は鈴木邦彦、歌はスクールメイツ。私は、この曲を聴くと、深夜放送を聴いていた少年時代を懐かしく想い出す。
「レモンちゃん」の他に、「セイ!ヤング」には、文化放送の男性アナウンサーも幾人もパーソナリティとして登場していた。現在はテレビの昼の番組やクイズ番組の司会を務めているみのもんた氏も、「セイ!ヤング」で売り出した人であった。
みのもんた氏の本名は、御法川法男(みのりかわ・のりお)。1944(昭和19)年、東京生まれ。立教大学を卒業後、フジサンケイグループの試験を受けて合格し、当初は産経新聞記者として配属されたが、「原稿が下手」(本人弁)で、同じグループ会社の文化放送のアナウンサーになった。文化放送時代、本名が難しいため、御法川を省略した「みの」を姓とし、さる年にちなんだ「もんた」が名付けられた。2年目で「セイ!ヤング」のディスクジョッキーに抜擢され、軽妙なトークで同局の看板アナウンサーになった。
フリーアナウンサーに転身後、「プロ野球ニュース」や「なるほど・ザ・ワールド」のリポーターを務めた。その後は日本テレビ「おもいッきりテレビ」、TBS「どうぶつ奇想天外!」など数多くのレギュラー番組の司会を務めている。文化放送では、土曜日午後1時から「ウィークエンドをつかまえろ」のパーソナリティを務めている。
みのもんた氏の「セイ!ヤング」当時の口調は、くだけた人なつっこい喋りが特徴で現在と変わっていない。当時、彼は番組の中で「一輪のすみれ」という歌を唄っていた。だが、「音痴」であった。残念ながら、レコードにはならなかった、と記憶している。
また、「セイ!ヤング」では、故・土居まさる氏も人気のパーソナリティになった。土居まさる氏の本名は、平川巌彦(ひらかわ・よしひこ)。静岡県出身で、1963(昭和38)年に文化放送に入社。彼の名前も難しいという判断で土居まさるの芸名になった。1965(昭和40)年に受験生向けに始まった番組「真夜中のリクエストコーナー」に司会として起用された彼は、「おい、お前、起きているのか」とリスナーたちに呼びかけ、当時としては型破りなアナウンサーとして話題を集めた。機関銃のような早口と軽妙な語り口で、番組を通じて、「やあ、やあ、やあ」「ビャーッ」の流行語を生み出した。その口調がたちまち受験生たちに受け、「兄貴」のような存在になった。1971(昭和46)年6月からは「セイ!ヤング」を担当し、ラジオ深夜放送ブームの一翼を担った。このほか、「ハロー・パーティー」(昭和44〜昭和50年)などのヒット番組のパーソナリティを務めた。
1970(昭和45)年にフリーアナウンサーとなり、1985(昭和60)年からはラジオを離れ、テレビのスポーツ番組や、日本テレビ「テレビジョッキー」、テレビ東京「土居まさるの元気通信」、テレビ朝日「ヒントでピント」などの司会を務めた。1998(平成10)年に、13年ぶりに文化放送「ラジオディズ」のパーソナリティとしてラジオに出演した。1999年1月18日、すい頭がんのため、58歳で死去した。
私が少年時代に眠れぬ夜を過ごしていたのは、「セイ!ヤング」の後時間の午前3時から始まる「走れ歌謡曲」であった。日野自動車がスポンサーとなり、1968(昭和43)年11月にスタートした。主に長距離ドライバー向けに番組内容が構成されていた。この番組のテーマ曲は「口笛天国」という素敵な曲であり、いまでも私の耳奥に残っている。当時は関東エリアが聴取範囲であったが、数年後には東海ラジオなども加わって、関西方面でも聴けるようになった。
この番組は現在も月曜の朝を除き、午前3時〜午前5時の時間帯で続いている。番組の女性パーソナリティは代わったが、息の長い番組である。私は今でも、時々、この番組を聴いている。いま、演歌歌手として売り出し中の氷川きよしも、デビュー当初、この番組で週1回、コーナーを貰い、話していた。多くの演歌歌手がこの番組を巣立っていった。新人同然の女性歌手が、生放送のパーソナリティとなり、週に1度、2時間の枠を喋り続けるのは貴重な経験である。
この番組のリスナーはドライバーだけでなく、熟年世代や演歌ファンの年配の方が多く、新人歌手や新人アナウンサーたちは、ここで鍛えられていく(現在はフリーアナウンサーや劇団関係者などで占められ、文化放送の局アナウンサーは担当していない。再び局アナウンサーをパーソナリティとして使ってほしい)。落合恵子さんも、この番組でパーソナリティを務めていた時期があった。
「セイ!ヤング」と同時間帯では、ニッポン放送が「オールナイト・ニッポン」、TBSラジオが「パック・イン・ミュージック」という番組を放送していた。私は主に「セイ!ヤング」を聴いていたが、中学生のころはこの3番組のどれを聴いているかで、派閥が作られるほど、人気を分けていた。
「ハイ、夜更けの音楽ファン、こんばんは。朝方近くの音楽ファン、ご機嫌いかがですか。君が踊り、僕が唄うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を。新しい時代の夜をリードするオールナイト・ニッポン。Go! Go! Go!」
「ビター・スイート・サンバ」(作曲はS・レイク、演奏はデニス・コフィ)の曲調に乗って、故・糸居五郎氏がいつものように番組をスタートする。アメリカのディスクジョッキーの口調を上手く取り入れて、テンポ良く語る糸居五郎氏は、日本のディスクジョッキーの草分け的な存在であった。
糸居五郎氏は1921(大正10)年、東京生まれ。1941(昭和16)年より外地の放送局でアナウンサーとして職を得て、戦時下の満州で自分の好きなジャズを放送するため、あえて「敵国の怠惰な音楽」として紹介したというエピソードがある。戦後、ニッポン放送に入り、「オールナイト・ニッポン」の初代ディスクジョッキーになった。約35年のDJ生活。その間、50時間マラソン・ジョッキー(昭和46年1月)などに挑む。「オールナイト・ニッポン」では、日本で最も早いビルボードの最新チャート情報を提供し、類を見ない音楽への造詣の深さ、文節単位で小刻みに話す「名調子」の話術が特徴的であった。
1959(昭和34)年10月10日、ニッポン放送が日本初のラジオオールナイト放送を開始した。日本は高度経済成長へ進んでおり、60年安保の前年であり、岸信介首相のもと、世の中は「安保反対!」で騒々しくなっていた。ちなみにキューバ革命はこの年に起きている。そのころ、日本初のラジオ深夜番組は午前2時から午前4時の時間帯で始まった。その最初のディスクジョッキーが当時38歳の糸居五郎氏であった。糸居五郎氏はまさに日本の「ミスターDJ」である。
「オールナイト・ニツポン」は、この番組を発展拡大させた番組であり、1967(昭和42)年10月にスタートした。初期のパーソナリティは糸居五郎氏の他に、今仁哲夫、斉藤安弘、高崎一郎、亀淵昭信(後にニッポン放送社長)の各氏がいた。
糸居五郎氏は「職人」に徹していた。リスナーに媚びへつらうことはなかった。専ら番組で流す曲の解説を独特な口調で語り、説得力があった。洋楽の知識は豊富だった。土居まさる氏が何でも相談できる「兄貴」であるならば、糸居五郎氏は私にとって、あるいは当時のリスナーたちにとって、洋楽の「先生」のような存在であった。
一方、「パック・イン・ミュージック」は、1967(昭和42)年8月から番組がスタートした。初期の主なパーソナリティとしては、永六輔、北山修、若山弦蔵、八木誠、野沢那智、白石冬美、ロイ・ジェームス、福田一郎の各氏がいた。この番組のテーマ曲は、「ザ・ナウ・サウンド」(作曲はフィル・ボドナー、演奏はザ・ブラスリング)と、「ドント・スリーブ・イン・ザ・サブウェイ」(作曲はT・タッチ、演奏はロニー・アルドリッチ)。
その後、ラジオ深夜放送は、当初の音楽中心からトーク中心へと構成内容が変化していった。そして、ディスクジョッキーと呼ばれていた番組進行者がいつしか「パーソナリティ」と呼ばれるようになっていった。当時、テレビには「出演拒否」していた人気ミュージシャンたち(例えば、吉田拓郎)が、ラジオ深夜放送には出演し、意外な一面を垣間見せることもあった。また、無名のタレントたちもラジオ深夜放送で人気を得て、テレビ番組に進出していった者たちも多かった。ラジオ深夜番組は、流行の先端を行くミュージシャン、タレントたちの「登竜門」となっていた。
ラジオ深夜放送は、大学進学が大衆化して、深夜に机に向かう若者の急増に伴い、テレビへ移りつつあった若者たちを再びラジオへ戻させる力となった。人気ディスクジョッキーたちと電話で友人のように話し、リスナーが葉書に書いたリクエスト曲を番組でかけて貰うことは、若者にとって魅力的であり、誇りでもあった。放送メディアが、一方向から双方向へと発展した切っ掛けとなった。リスナーが葉書を書き、ディスクジョッキーがそれを読み、さらにそれを聴いたリスナーが反応する。音楽を聴くだけでなく、人生を論じ、政治を考え、恋愛を語る。若者の一時代の文化は、ラジオ深夜放送によって築かれていった、と言っても過言ではあるまい。この熱狂は、現在の2チャンネルなどインターネット掲示板の賑わいに通じるものがある。
「セイ!ヤング」が1981(昭和56)年10月、「パック・イン・ミュージック」が1982(昭和57)年7月にそれぞれ番組を終了した。各家庭にテレビが2台以上普及する状況になると、真夜中の若者の娯楽はラジオ深夜放送からテレビ番組へと移っていった。1990年代に入り、ラジオ深夜番組の聴取率は最盛期の3分の1から5分の1にまで落ち込んでいった。
私が上京したのは1972(昭和47)年3月であった。仕事開始が午前7時45分であったため、ラジオ深夜放送を毎日、聴き続ける生活サイクルからは離れてしまった。それでも土居まさる氏や落合恵子さんの担当曜日には、蒲団に潜り込み、イヤホーンで聴いていた。私は昼に働き、夕方から学ぶ苦学生であったから、躯が疲れて、眠い夜は、好きな深夜放送を録音して休日に聴くこともあった。
当時、私より1級上の男性のルームメイトは、落合恵子さんの「セイ!ヤング」に葉書を書いて送り、番組で読まれると、跳び上がるほどの歓喜の声を張り上げたのを、私は今でも記憶している。
私は17歳の時、FM東京のラジオドラマ作品の募集に応募し、当選して、台本書きへの切っ掛けとした。私はその時から、ラジオのリスナーから作り手へと立場を変えていった。その後、新聞記者になるまでの数年間は、ラジオ番組の構成やドラマ作品を書いていた。そのベースとなったのは、ラジオ深夜放送で得た知識と情報であった。
追記 コンピューターのメンテナンスのため、今回の更新が少し遅れた。
(2002年12月7日)
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