H13.12.23日付け朝日新聞は、
「天皇陛下、W杯で交流に期待」
「韓国とのゆかり感じてます」
「桓武天皇の生母、百済王の子孫と続日本紀に」、
『天皇陛下は23日、68歳の誕生日を迎えた。これに先立って記者会見し、深刻化する経済情勢が国民生活へ与える影響を案じ、この1年の出来事を振り返った。日韓共催のサッカーワールドカップ(w杯)との関連で、人的、文化的な交流について語る中で「韓国とのゆかり感じてます」と述べた。「残念な」歴史にも触れ、両国民の交流が良い方向へ向かうよう願う気持ちを示した。
w杯の共同開催国、韓国に対する関心や思いを問われ、陛下は、同国からの移住者らによって文化や技術が伝えられたことに触れる中で
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、
韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招聘されるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことでしられております」
と語った。』とあります。
ここで、私として注意を引くのは平成天皇が『桓武天皇』『桓武天皇の生母高野新笠』『百済武寧王』『続日本紀』等に非常に詳しいことですし、あえてここでこの発言の必要性があったのかと考えていますが(たぶん宮内庁の関係者は固唾を呑んで見守ったものと想像します)充分に考慮のうえでのご発言だと考えています、この勇気あるご発言にエールをおくります。
国民としては、いきなり『続日本紀』がどうのこうのといわれても『鳩に豆鉄砲』で、何がなんだかわからないというのが本音でしょう。
関心がないのではなく、戦前より万世一系の皇統を信じさせられた国民は、この科学の時代とは裏腹に今もその域から一歩も出てないというのが正直な話でしょう。
1.
壬申の乱以前は九州王朝『倭国』が政権をとっていたこと。
2.
九州王朝が『白村江の敗戦』を契機におよそ10年後に滅亡したこと。
3.
新羅・唐に占領された日本を、新羅系の傀儡政権・奈良王朝がおよそ100年間、短命で不幸な政権を維持したこと。
4.
早良崇道天皇が長岡京に10年という短命の王朝を作ったこと。
5.
百濟からの逃亡者(今で言う避難民)がその間に力を得て、京都に百濟系・桓武王朝を築いたこと。
以上のことに、まったくといっていいほど無知なのが現在のわれわれ日本国民ではないでしょうか。
お隣の韓国民のほうが、意外と詳しいのかもしれませんね。
日本国民としては以下の系図が参考になりましょうか?
以下は『日本列島史抹殺の謎』(佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昇共著)より転載したものです
A)百済・新羅王統譜合成の天皇系図
B)新羅王(天武系)系図
C)百済王(天智系)系図
D)新羅王(蘇我)・百済王統譜相関系図
E)新羅『比曇の乱』・日本『大化の改新』の登場人物相関図
桓 武 天 皇 ご 即 位 の 謎
佐 治 奈良時代を記した正史に『続日本紀』がありますが、これは延暦16年、つまり桓武天皇のときに編纂されたものとされています。
この『続紀』は、『日本書紀』同様に疑史性の濃いものですが、この『続紀』を語るまえに、やはり修史を下命した桓武天皇自体が問題となります。ここでこの謎多き天皇についてアプローチしてみたいと思います。『続紀』によると、桓武は光仁が死んだとき「アイゴー・チョゲッタ」と言って泣いたとなっている。
鹿 島 アイゴーだけですよ。桓武と言う名は桓族の武王ということで、桓は“韓”の正字です。
佐 治 正確には『哀をあぐ』でしたか‥‥‥。さて、桓武天皇が百済系なのは、だれしも認めざるを得ない事実かと思われますが、ご本家の百済王家の実態といいましょうか、だいたいどの程度判っているものでしょうか。
吾 郷 『三国史記』や『三国異事』、それに中国の「東夷伝」関係のデータ以外に何かありますかね。やはり『桓檀古記』になりますか。
佐 治 『日本書紀』における「百済史」のウエイトはだれしも認めるわけですが、肝心の百済史そのものについて、日本史学者(国史学者)はほとんど読もうとしませんね。
鹿 島 百済史と『日本書紀』の関係は案外盲点となっています。とくに日本に渡来した百済王という一族は謎めいています。今井啓一氏は
(1)『続群書類従』系図部には「原本欠く」となっている。
(2)桓武の生母の高野新笠が、和氏でなくて百済王氏だとなっている。
(3)天皇家の後宮内の藤原氏の女について詳しく述べているのに、高野氏や百済氏の女についてはふれない。
(4)桓武時代の蝦夷征伐について、坂上田村麻呂のみが華々しく書かれていて百済王一族がその影に隠れている。
(5)百済王敬福の黄金献上についても軽く書かれている。
などを指摘しています。
百済王はご承知の通り「くだらこにきし」と読みますが、「こにきし」とは百済語で並王のことです。
持統天皇のときこの名を与えられたとなっていますが、『新選姓氏録』によると、百済王一族は百済義慈王(舒明天皇)より出ずともあり、敏達天皇(武寧王)より出ずともあります。
このことからも天皇家が百済王であることが判るわけです。ところで、この一族中の出世頭はなんといっても敬福と俊哲であった。
次に桓武までの系図ですが、百済王および新羅王であることが明らかなのを併記すると、次のようになります。(図A参照)
次に天武の系統を追ってみます。(図B参照)
百済王系図と天智系図を重ねてみると、天智天皇までは合うのですが、そのあとが合わない。真相がばれないようにいろいろと手を加えたらしい。(図C参照)
問題は井上内親王の夫が遠宝、孝忠、敬福の兄弟のうちのいずれか、または敬福の子の理伯かということです。するといずれにしろ、桓武はその子または孫にあたる。
舒明が義慈王であり、天智が豊璋であることは確定的だし、昌成の施基もほぼたしかでありますが、私は一族の出世頭の敬福が光仁のモデルで、実際には称徳の死亡当時すでに死んでいて即位せず、皇后の井上が即位した。井上には理伯以下、他戸、早良の3男子がいたが、井上のあとはそのうちの早良親王が崇道天皇として即位した。そのあと理伯の子の俊哲がいわゆる10万の征夷軍をバックに即位して、桓武になったと考えたわけです。
佐 治 だいたい判りました。以上の経過を6国史にあてはめてパラフレーズすると、次のようになるわけですね。
まず井上内親王、のちに光仁天皇の皇后となったとされているこの女性は、もともと聖武天皇の妾の県犬養広刀自の娘です。それだけに彼女は当時皇位など望めないとされていた白壁王(天智の子の施基親王の子、つまり天智の孫ということにされている)に嫁いだ。この白壁王が百済王敬福である。だが、称徳天皇死後―道鏡失脚によって、天武系でない天智系が浮上してきたわけですが、鹿島説によると本命となるべき白壁王がすでに死亡していたことから、その皇后の井上皇女が即位した。
つまり天智系=百済系の光仁天皇のダミイです。井上皇后には他部と早良の両親王がいた。そのうち兄の他戸親王が皇太子となったが、彼は生母の井上皇后とともに光仁天皇を呪詛したという名目で殺されています。となると次の早良が皇太子となるべきなのですが、生母がこの呪詛事件の主犯の1人とされた井上皇后であるからダメ。そこで百済系の美女高野新笠を母に持つ山部王がクローズアップされてくる。この山部王が桓武となり、早良内親王は皇太子になったが、早良も長岡京遷都事件のときの藤原種継暗殺事件の黒幕という容疑で殺された。だが、親王の怨霊が桓武の次の平城天皇に祟ったため、崇道天皇と追号されたとあります。
ところが、この崇道天皇は即位していた−井上皇后(光仁のダミイ)のあとに−というのが『新羅史』の著者福田芳之助の説を踏まえた鹿島先生のご意見であります。壬申の乱の大友皇子、弘文天皇と早良皇子、崇道天皇の取り扱いは、近世まで国史学者の頭痛の種でした。なかには、崇道天皇を歴代に数えた学者もいたようです。しかし『日本書紀』や『続日本紀』を読んだだけでは、この間の消息はまさに「藪の中」ですが、鹿島先生の百済王の系譜解明によってようやくはっきりしてきたように思われます。
桓武が征夷軍の名目で動員した軍隊を背景にクーデターをおこし、崇道から皇位を奪取したという仮説はきわめて魅力的ですね。
吾 郷 桓武という天皇はすごいですね。藤原百川あたりの小手先の細工で皇位についたラッキーボーイといったイメージとは程遠い怪物というしかありません。それだけ桓武天皇を主題とした研究が出てこない−文部省系の村尾氏のものしか目に付きませんが−ことも納得できるわけです。
鹿 島 直接、現在の天皇家に結びつく皇統初代にあたるわけですからね。不敬罪がなくなっても危険な領域でしょう。村尾氏についてはあとでコメントしたいと思います。
佐 治 ニアミスと同じで、管制塔がチェックするわけだ。