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塾生ノート:兵頭二十八・私塾「読書余論」 第14回07-8-25 [その他]

この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は武道通信まで→http://www.budotusin.net
鉄人センセの講演があるそうです→ポスター:http://www15.ocn.ne.jp/~gungaku/hyoudou-poster.pdf  題:顕在化する日本の危機 主催:古書・軍学堂(軍事戦争関連書籍の専門店) 開催日:3月7日(土) 当日券2000円
僕はいけなさそうだけそうだけども、面白いと思いますよ、鉄人センセとは面識もないし実際見たこともなく適当発言感が漂ってますけど。私塾の今までの31回講義を回想すると、まっ要するにこの鉄人センセはかなり面白いのだ、センスがいいのだ、ということなのだね。まっそういうこったね。
鉄人センセに最も学んだのが比較優位とマネジメントの重要性だったな。こういうことは実際普通に生きていれば普通に気がつくし分かるけども、こうもなるほど~と、改めて気がつかせてくれるってのはなかなか凄いのであるのだよ~、たぶん。

▼山崎百治『これが支那だ』S16-2
証人いわく、大13~14の軍閥同士の上海争奪戦で、「放置されてある老若女の被殺者を詳細に見ると、必ず何等かの悪戯がしてあつた」と。
シナ人が官途を欲するのは金儲けのため。そして並な役人などになるよりは、軍閥を率いた方が儲かるのである。シナ最大の金儲け立身出世が、じつは軍閥だ。
匪団や秘密結社も、ありていは、小軍閥の変形にすぎないのだ。

シナ児童が「戦争ゴッコ」をして居るのを、見たことがない(p.126)。
スポーツは尊重されない(p.137)。
S2末、広州で李福林の部下将兵が共産党を大虐殺し、死者6000以上。目撃した日本人学者いわく、少なくとも3000は死んでいた感じと。写真が数十枚、撮影されている。

陸水で鵜飼をしているが、なんと、紐は無い。声だけで完全にコントロールしている。恐るべし。
マージャンが欧米を風靡したことがあったが、今は下火だ(p.201)。

▼文明協会ライブラリed.『航空の現状と将来』S3-11所収、武者金吾「潜水艦の救難設備」

ベルタ砲は発射するとき台車から円盤陣地に据え直さねばならぬ。これに2週間かかる。
14インチ列車砲は、23000ヤードまでは線路上から撃てる。地上据付も20hでOK。
補助車両72両をともなう。
薬量484ポンド、弾重1400ポンド。
列車は6マイル/hで進む。
当時、仏の老人は木沓を履いていた。

▼黒川久隆『雪國の悲惨を語る』S6-2

角兵衛獅子は、じつは富山の薬売りと同じで、出稼ぎなのだ。

雪国人が堅忍不抜ならもっと人物を出している。ぐにゃぐにゃのこんにゃくだ(pp.74-5)。
山形、新潟、秋田は、藩政時代には争議などなかった。今は自滅覚悟で頻発。「争議屋」という代理屋がたきつけて歩き、どちらからもカネをとり、長引かせる。

毒消し売りは新潟の未婚の女。全国一周してきてから嫁入りする。

S3末の芸娼妓の輩出県を警視庁で調べたら東京出身が914で一位だが、輸出県は秋田が636人、山形696、茨城432。千葉、群馬、栃木、北海道、宮城が300人台。新潟133、長野53。ひとり1000円で売られるという。檀那様、ほんとに不束な奴ですが、どうか出させてやって下さい――と人鬼に拝む父。

「ドル箱」という言葉、すでにあり(p.121)。

▼ルソー著、石川戯庵tr.『懺悔録』大1初版、1916に増補改訂、大7の11版。

父はジュネーブの時計職人。生まれると同時に母死亡。兄一人あり。父は再婚したが死ぬときは前妻の名を呼んだ。

ホモ関係の記述が検閲で空白になっている(p.88)。ホモへの嫌悪から女好きになった。

悔恨は得意の間は熟睡し、失意の時に至って蹶起する(p.114)。
卑しい行為を悔いるのは其の時直ぐでなくて、遥か後にそれを回想する時の事だ。罪悪の記憶は決して消えない(p.182)。

一時の熱心はすぐ醒める。すると人は其処に目を着ける。だから、最初に与えられた仕事をシャカリキに勤めてはならぬ。だんだんに仕事を増やすようにせよ。その逆をすると社会的にマイナスの評価を受けるから(p.125)。

現に見ている物は理解できない。しかし回想の段になって、十分に理解できる(p.155)。
不特定多数の人々に向かって滔々と話せる人はおかしいのではないか。なぜなら、一人一人の反応が違うはずなのに、それに合わせる気遣いを持たないのだから。

パリの女郎屋を「プチ・メゾン」という。
ローザンヌの田舎の宿屋で銭が足りず、チョッキを置いていこうとしたら、あるとき払いで良いといわれた。

ジュネーブ生まれのパリ人という自覚があった。
イタリア語も少しできた。エルサレムのギリシャ正教の高僧が聖墓再建の勧進帳をもってまわっているのに同行。
ションベエル将軍はひどい近眼であった。築城術を知っていたルソーは、軍人になってもよいと夢想した。当時の将軍たちは双眼鏡をもっていた。

トリノにひきかえ、パリの第一印象は、貧民窟を見てしまったために最悪だった。この印象がずっと残った。
ヴェルサイユも、初めて海をみたときも、予想以下で、がっかりした。
スイス人と比べ、フランス人は、他人に同情するらしく見せる一種のフリがある。これが言葉よりも余計に人をあざむく。お世辞が淡白なので、逆に人を釣り込むのだ。
浮気で軽はずみであり、当事者と対面しているときの真摯な同情が、その当事者が目の前からいなくなるやいなや、忘れられてしまう。

ある田舎道で宿屋がないので農家でパンを買おうとしたら、最初はごく粗末な大麦パンしか出そうとしない。それは、徴税吏がときどき農家の懐具合を探るために変装して探偵しているせいだと分かった。これ以来、圧制者を憎悪するようになった。

リヨンでまたホモの餌食にならんとす。欧州でいちばん、風俗が悪い(pp.231-2)。※ここでもホモの記述に検閲空白あり。

ルソーの想像力は、周囲の境遇が快くないときにかきたてられる。快適なところでは、出てこない。もしバスチイユに禁錮されたら、そのときこそ自由の姿を描き出しただろう(pp.237-8)。

欧州の国境では、輸送される荷物の検閲があり、そこに宗教関係の原稿や印刷物が混じっていると、内容によってはすべてが没収されてしまう。

1737にルソーはジュネエヴで見た。父と子が同じ家から武装して、一人は市庁へ、一人は自分の兵営に行き、2時間後には戦線でまみえて刺し違えて死に兼ねない覚悟だった。けっして自分は内乱には関与すまいと思った。

真の幸福は述べられるものではない。唯感ぜられる、そして延べ得られないだけそれだけ善く感ぜられる。これは真の幸福といふものが、多くの事実の結果では無くて、一定不変の状態に他ならないからである(p.329)。

フランスの朝食は、各人の部屋で一人で喫食する。英国やスイスでは、多勢が集まってする。

「成功の上に必要な、威圧する性格の力」がルソーにはなかった。

いかに欲などなさそうな女が、何気ない風をみせていても、男が彼女に満足を与えないことを、女は許さない。これには例外がない(pp.326-7)。※サマセット・モームが同じようなことを言っている。
裁判所長マブリイ氏の子供たちの教育を引き受けて、大失敗。ルソーは辛抱が足りないと自覚。

本を読みながら物を食うのが道楽。1ページ読んでは、1きれ口に入れる。

どうしても、楽譜を初見で歌えない。その原因は自分よりむしろ記譜法にあると考え、数字で楽譜を書く方法を案出した。それをパリにもっていったが誰も評価せず。30歳で途方にくれた1742年。

不幸はすぐに忘れてしまうけれど、過失はなかなか忘れられない。
淫売のために金をつかったのは一度だけ。そのさい、性病を非常に恐れた。
ニキアスがシュラクサイでの敗戦のあと、捕虜のアテネ人たちはホメロスを誦することで生命をつないだ。

すでに着剣小銃あり。ジェノバでは擲弾兵が着け剣で伝染病の隔離舎を護衛していた。
ヴェネチア人は堅く条約を守ると保証しながら、公然オーストリーの軍隊に弾薬を供給したり、脱営の名目で新募の兵を輸送していた。
ヴェネチア貴族は、外国で借りた金は、帰国後、決して返さない

当時は、大使の従者も帯剣し、奴僕は杖を持つのが常例だが、パリでは従者も奴僕も無武装のことがある(p.430)。
ルソーはクラヴサンを演奏する。

ヴェネチアでは複数の金持ちの男子が共同で一人の女を囲い者にしていることあり。

マガザン=小規模の芝居小屋。つまりオフ・オフ・ブロードウェイ。
1747に、修道僧のように身体が肥ってきた。
第二子以降を育児院に送るときには、もう母親(テレエズ)の同意も求めなかった。

当時は名誉毀損で敗訴すると監獄に拘禁されてしまう。

第一論文の成功後、帯剣を解き、時計を売り飛ばした(p.513)。
極上のシャツは、麻製だった。ルソーはそれを42枚もっていたが、テレエズの兄に盗まれた。※木綿以前の世界。

他人の事には正義を争う……イタリアの諺。
自分がディドロやグリムから妬まれたのは、オペラをヒットさせたからである。どんな文人にもこの名誉はなかったから。

1753にヂジォンのアカデミーから、人類間の不均等の起因、という題が出た。これに応ずるため、サンジェルマンに旅行し、森のなかを歩きながら、原始時代の面影を探った。文明人の「完全」の中に人間の不幸の真因があるのだ。
罪を自然に嫁することを罷めて、一切の悪は汝自身から来ると知れ。
ヨーロッパ中のほとんど誰にとっても、この論文は奇襲だった。
ジュネーブに行ったら共和熱にとらえられた。そこでもとの宗派に戻った。
スイスでは市民になりたければ新教でなければならなかった。
ジュネーブの「守備兵」は市民や中民だけで組織されていた。

「何物も根底に於いて政治と交渉を持たないものはない」(p.578)。※断言する。クラウゼヴィッツはルソーのここを読んでいた。
一国民はその政体が限定するより以外の者であることが出来ない。
ジュネーブでは、検稿官が、出版物を事前検閲する。
「エミイル」は「新エロイズ」の大胆な思想をふくらませたものである。※人を見る目がほとんど無いがゆえにイデアに近づいた男。

ばあさんの稼業として、塩の小売店と煙草屋がスタンダードだった。
罪を造化に帰しなければならないやうな不幸といふものは一つも無い、不幸の源は悉く人間自己の能力の濫用に在つて、自然に在るのではない(p.616)。
1757には、男子の服装で騎乗してくる伯爵夫人があった。
外出先では髭剃り師に倍の賃金を払わねばならない。

世間に自分の捏造された悪評が流布している。とすれば、赤裸々な告白の自叙伝を書くことは、少しも自分のマイナスにはならず、差し引きで、自分の評判を改善するだろう。
社交の場で女子の相手をするのは疲れる。とにかく無事に堪えられない連中で、何か気に障ることでも言った方が良いのだ。
1761に「永久平和策」の批判ができた。原書は1743没のサンピエール師。ルイ14世の下でユトレヒト和議に列したが、その後、欧州諸国の大連邦によって外交駆け引きを全廃することを説いた。

当時の貴族は狩猟のために動物を保護した。ゲームが畑を食い荒らしても、農民は文句を言えなかった。害獣駆除は農民には許されず、徹夜で鍋を鳴らしているしかなかった。これにルソーは激怒した。

国事犯罪人はバスチイユに入る。その囚人には、議会も手出しができない。
フランスの官憲は、パリでよりもジュネエヴで、かえって権柄が強かった。

ルソーはイギリスもイギリス人も嫌いだったが、けっきょくイギリスに避難した。

1962に50歳でアルメニア服を着て暮らすようになり、いらい、そればっか。街ではやたら目立ったが。カテーテルの操作に都合が良かった。

スイスの村人に隠れ家を投石された。
ビアンヌ市のアパート。内庭にはカモシカの皮が並べてあって臭気が甚だしい。亭主は界隈のもてあまし者だった(p.957)。

▽以下は訳者の補遺る
1765時点で夜船でカレーからドーバーまで12時間がかり。
1769にテレエズから離別を求められる。
よりをもどす条件に1770パリ移住。著作およびアルメニア服は市から禁じられる。

1778にはテレエズは惚けてきた。また、60歳なのに馬丁と逢引した。ルソーの死後23年目に没している。

ルソーの自己革命。世上の歓楽を断つ。虚栄のための筆を捨てる。独立の代償としての貧困を甘受する。パンを得るために楽譜謄写の賃仕事。糞田舎に引っ込んで社交にわずらわされない。上流階級やインテリ世界の面倒なつきあいをしないで、唯我の道に突進。

元来女子は韻文を好まず、また解しない。散文の詩か詩的散文でなければ溺愛しない。ルソーはその需要に応えた。
ルソーに新教を放棄させたのはワレンス男爵夫人。

ラテン語が苦手といっているが、セネカやタキトゥスを立派に訳している。
訳者による『不均等論』のまとめ。文明とは堕落した社会状態。財産は没収の結果で、富はすべて罪悪である。政府即暴虐、法即背理。

1774にルイ15世が没し、16世が位を嗣いだとき、チュルゴーとならんで、Malesherbesが大臣に挙げられた。
18世紀のフランス大官中、正義廉直と評される唯一の人物。会計検査院長として税の無駄遣いを防いだ。出版局長としては、思想書に寛大だった。しかし誹謗中傷されたので大臣を辞職した。このときルイ16世が、「卿は職を解いて去ることが出来て可羨しい、余は職を解いて去ることが出来ない」と。※のちに明治天皇が伊藤博文に同じような苦情を言う。

18世紀のフランスでは40歳でも女は若いということになっていた。
ショワズールは仏海軍を拡張し、そのため米独立戦争のときに英国海軍が悩むことになった。また国内の4000人のエスイタ僧を、社会を混乱させているとして断固追放した。ポンパドール夫人の眷遇で出世したので、夫人没後に失脚した。

原始契約を仮定するのは、ホッブズ、ロック、ルソーともに共通だが、ホッブズは社会の安全のために強い権力を行使する主権を待望するのに、ロックは公共の幸福のための政体変更を是認する。ルソーはさらに極端で、主権は全然社会人民の手に在るべきだとした。ルソーによれば立法府も行政府も、社会という主権に使用される道具にすぎない。その主客を転倒させるから、政府の横暴になるのだと。

エミイルにいわく、文明人は犬、馬、奴隷などいっさいを変造し、手足を切断し、怪物にして愛する。奴隷でない児童をも、そうしようとする。社会的に訓練して怪物にしてしまうと。
当時の辞典派は無神論だったが、ルソーは国家社会には唯一神の信仰が必要だと主張。また女子の教育は制限すべきであり、社交界になどでしゃばらずに、男の仕事の邪魔さえしなければよいと言う。※カントの「人を手段とせず目的とせよ」という結論、そして独身主義は、テレーズに同情したからだ。ただし懺悔録を読んだからではない。ルソー生前からその妻の存在は評判だったのだ。

当時の「逮捕状」は、著作者を国外に逃亡させるのが目的。逃亡すれば捕縛しない。しかしルソーの思想では、フランスを出れば却って危険の度が大きかった。
エミイルにいわく、父親は子供を社会人および国家の公民として育てる義務があり、ただ養っているだけでは犯罪だと。貧乏や多忙はその言い訳にならないと。

島崎藤村の跋。藤村は英訳の『懺悔』を呼んで、近代人の考え方を理解したと。他の青年はゲーテやハイネを愛読していたが、藤村はルソーに導かれたと。フロベールとモーパッサンは、ルソーの煩悶を受け継いでいるから面白いのだ。ゾラはだめだ。
ルソーは文学、哲学、教育のいずれについても、専門家を名乗らなかった。一個人で通した。その煩悶が、文学、哲学、教育に革命をもたらした。自由に考える人の父だった。トルストイの道もルソーが拓いた。
※本書以降、リアルな自伝の本など書こうとした者は、幸せでつまらん人生を送った者に決まっている。不幸でおもしろい人生を送った者ならば、まず書く気にはなるまい。なぜならばその最善にして最悪の模範が、最初に呈示されてしまっているのであるから。ディケンズは自伝風のフィクションを書いて読者を面白がらせた。彼は不幸でおもしろい人生を知っているのだろう。

▼市川修『體験に基づく 狐の飼ひ方』S11-7
大6に函館に本社があった日魯漁業株式会社が7偶の銀黒狐の種狐をカナダから輸入した。
しかし北海道で急に盛んになったのは、ここ3年くらい。※つまりS9~11の景気のほどが知られる。

日本人はなんでも洋書をあり方がる。養狐に関しては、ドイツは日本より後進国であるのに、ナチスの狐の本をありがたがっている。

馬匹を屠殺してその肉を与えるのだが、内臓は捨ててしまう。

内地から樺太まで、郵便は15日かかった。

市街地の近くでは、養狐場は悪臭源となる。狐の尿の臭気はきついのに、飼育者は慣れてしまっている。風向き次第で、相当遠くに迷惑をかける。士幌ですら、立ち退きを迫られそうになった(p.48)。

米国では一時は五人に一人が自動車を所有していた。

養狐場は同じ場所に集中させてはならない。伝染病で全滅するから。
多数の人に柵内に出入りさせてはいけない。

狐が孔を掘って脱走したという経験はない。柱でも金網でも、そのきわを掘る習性があるが。

狐は飽くことを知っているから、生後6週以後は、ほしがるだけ給餌せよ。1頭づつ必要量を計って与えたりすると、狐同士の奪い合いになり、強い個体は過食となり、消化も悪く、肥らない。生後1ヶ月以後は縦横に運動させよ。
過食のときは軟便となる。小さく堅く、縦に皺のあるのは餌不足。糞に血液があれば十二指腸虫を疑う。

子育て中の母狐が余った餌を土に埋めるのは防がねばならない。そこで寄生虫がつくから。金網から、少しづつ与えるようにする。

20年の養狐中、給餌のときに手を噛まれたことは一度もない(p.110)。

島の狐は縄張り争いに敗れると島の海岸に追い詰められる。その海岸で自給自足できないときは、そこから対岸まで泳いでいき、餌をとってくる。これは北海道帝国大学の植物園長、市川三平が、中部千島で越年観測した実見。狐は水濡れを極く嫌うのだが、必要に迫られれば海を渡るのだ。

前年12月には巣箱を掃除、消毒し、産函を取り付けておく。そして妊娠したら絶対に巣箱には手を触れない。
ささいなおせっかいが母狐を心配にさせ、仔狐を他所に咥え出す行動につながる。このとき仔狐が全頭、死亡することも稀ではない。

狐は1年1産。1腹の仔は2~8頭。普通は3~4頭。
日数の割に体が小さく、頭ばかり大きく見えるのは、寄生虫を疑う。
駆虫薬で下した虫は必ず焼き捨てる。卵の方がおそろしいから。

毛皮の耐久力は、ラッコ皮を100とした場合、カワウソが100、熊が94、ビーバーが90、あざらし・オットセイが80、豹が75、イタチ・ミンクが70、狐が40、リスが20、山羊が15、兎が5である。昭和2年の調べ。※犬猫は、キツネと栗鼠の中間か。
余市で長年、養狐業をいとなんでいる長尾氏によると、たまに種狐として一組の狐が売れるが、その代金は、ほとんど1年の事業支出に匹敵するという。

▼横須賀海軍工廠造兵部『新式皮革技術ニ関スル一資料』S8-7
M4に陸奥伯爵はドイツ人技師4名を招聘し、和歌山に皮革伝習所をおこし、陸軍用皮革を製造した。

革用牛は、丹波、丹後がいちばん良い。いわゆる神戸牛の正体はコレ。

なぜドイツだったか。30年前に、MINERAL-TANNING法を開発したから。
このおかげでジュトランドの砲戦に勝ったのだ。

▼岡田英弘『倭国』1977中公新書
西暦720年という新しい年代に書かれた『日本書紀』に、わが国の古代史研究は拘束されすぎている。
663の白村江の敗戦をうけ、天智・天武の兄弟が統合国家をつくろうと奮闘中の時代だ。史実の忠実な再現であるはずがあろうか。

考古学は歴史の代用にはならない。なぜなら、歴史の本質は政治史だから。土器や人骨の破片から政治史は復元できぬ。

「まだ成立もしていない朝鮮文化が日本文化の源流だと言い、帰化人(渡来人)が朝鮮=韓国人であるかのように言うのは、アナクロニズム以外の何物でもない」(pp.v~vi)。

シナは文字の国であり、文字と現実が食い違っても、文字の上だけでつじつまを合わせる。「名は実の賓」、つまり言葉は現実にとってお客さんに過ぎない。

「朝鮮」原住民は、半島北部にあったが、とっくにシナ化して消滅した。7世紀の新羅王国は朝鮮人とは関係ない。ところがその「朝鮮」が1393に半島の国号になったのは変だ。西暦44年に登場する「韓」の方が、半島呼称としてむしろふさわしい。1897~1910の「大韓帝国」は、それを採った。

日本書紀によれば、推古天皇の治世(592~628)。摂政は聖徳太子。しかし隋書は、裴が、ヤマトでは男王のアマタラシヒコ・オホキミと面会したと書いている。直近の過去について、日本書紀は嘘を書いているわけ。

竜と江は、古くは同じ発音で、長江より南では、江はあらゆる河川の名前で、しかもモン・クメール語で河川をあらわすkranと同じ。竜は東南アジア系の水神なのだ。それを崇拝した夏人も東南アジア系だった。

越人も、竜を崇拝して体に入れ墨をし、コメと魚を常食する海洋民族だった。かれらが山東半島まで北上して貿易拠点を築いた。黄海をわたればすぐに半島であり日本である。越は前333にほろぶがその知識は残る。それで前219に斉人の徐市が山東から日本をめざしたのである。燕人の半島進出はそのあと。最初に日本に来たのも、燕人よりは越人が早かっただろう。

洛陽は、中支から北支へ黄河を渡河できる、唯一の渡し場だった。
洛陽よりも上流だと、河岸が170mもの断崖で、渡河しようがない。
洛陽よりも下流だと、氾濫域のため、泥海。山東半島の泰山か、太行山脈の麓を除いたら、治水工事ができるまでは、人は住めなかった。

夏と賣と価は、同音。すべて、商売を意味する。その取り引きの言葉が夏言=雅言。
夏の王国を、北方高原の狄が倒して、殷を建てた。
鳥の形の神がおとした卵を呑んで妊娠するという殷の祖先伝説は、満州の諸民族と共通。

黄河北岸のモンゴル高原南部=山西高原は、大昔は一面、森林地帯だった。西暦1世紀から遊牧民が南下してきて森林が消滅し始め、14世紀の元代で消滅し、それにともなって、狩猟民族はシナでは遼河より東でしか生存できなくなった。

満州の狩猟民族は豚も飼う。トルコ語で豚をトングズといい、これがツングースの語源。
狩猟したものを食べて生きていたのではなく、交易の商品として狩猟をしていたのである。すなわち毛皮と、薬草。塩湖の天然塩。
狄にも、その発音の中に、じつは交易・商売の意味が隠されている。殷を「商」ともいうのはふさわしい。
いまの北京は北支平原の最北端で、交易センターだから、B.C.12世紀にはもう、重要な殷人の都市だった。殷を西方の周王朝が倒すと、周は北京に燕族を入植させた。
殷人の後裔は周人に反感をもっていたから、伯夷叔斉のような伝説ができた。

『史記』「宋微子世家」には、周の武王が殷をほろぼしたあとでじぶんの親戚の箕子を朝鮮に封じ、臣下としてはあつかわなかった、と。
この意味は、朝鮮に最初に進出したシナ人が、殷人であり、それが、あとから燕国の支配下に入ったのであろう。

B.C.4~3世紀には、半島南端まで、シナ人が勢力を張っていた。倭人がこれに影響されぬはずがない。
『史記』「始皇本紀」にも、B.C.221に斉がほろぼされると、秦の領土は東は海および朝鮮に至った、とする。

「県」は秦代から始まるが、首都に直結するという意味で、人工的に設けられた軍事都市を言う。

前195に、半島に、シナ人と原住民の連合王国ができた。満という男が、大同江地域のボスであり、漢帝国はその権力を承認した。都が平壌にあったのは、すぐ近くの遼東郡境に接し、商品関税を徴収しやすかったからである。

半島原住民のうち、平地の農耕民が「朝鮮」である。山地の狩猟農耕民は「穢貊」である。そこに北京から遼東を経てやってきたシナ人は「燕」人である。山東半島から黄海を渡ってやってきたのは「斉」人である。

越人にとって、山東半島の青島市あたり以上に北上するのは、寒すぎた。青島あたりが、亜熱帯性の北限だからである。そこから越人は、半島に渡海し、半島の南端に住みつき、日本列島に渡り、低地を占領して、倭人になった。もちろん列島には旧石器時代いらいの先住民がいたが、かれらは山地民で、焼畑耕作をしていた。

B.C.4世紀に越の本国が楚にほろぼされ、倭人とシナ本土の連絡は絶えた。
B.C.3世紀に、燕人が半島を南下して、南部の真番族に出会った。真番族は、越人の後裔であり、のちの三韓であり、低地倭人の同族である(p.43)。
前108に漢が半島を征服すると、15ものあたらしい城郭都市が建設され、数万人のシナ人が真番の地に送り込まれた。そのコロニーを維持するためには、いやでも日本と貿易をしなければならない。

日本の海岸の船着場では、山から下りてきた先住民が、貿易商人のために食糧を提供するようになる。聚落と、囲いのある交易市が常設され、それを官吏する世襲の酋長があらわれ、ヒンターランドが農園として開発され、内陸の物産と交易するための通路が整備され、酋長はシナ商人を保護し、内陸交易を独占せんとす。これがB.C.1世紀の倭人の諸国の姿だ。

前82に漢帝国が真番郡を廃止すると、こんどは倭諸国の方から楽浪郡まで船でやってきた交易した。それが『漢書』「地理志」の倭人だ。
シナ帝王への表敬訪問を「朝見」という。そのとき手土産を持参することを「貢献」という。あわせて「朝貢」である。朝貢者は「臣」と自称するが、これは近代の外交官がYour humble servant と書くのと同じで、奴隷の意味ではない。友好国というだけである。ただし、朝貢国の間に等級格差が設けられ、上下の席次がある。

倭人の社会がビッグになったから国王の肩書きをもらったのではない。シナ本土で人口が激減したため、経費のやりくりのため、原住民の酋長を名誉総領事に任命したのだ。国王と呼ばれたが、王国はまだなかった。ただしシナ商人はこの国王を通さずに密貿易はできなくなった。

シナ独特の朝貢という制度は、シナ人の徹底した人間不信にその理由がある。シナ人はいつも孤独で、団結精神はまったくない。すべては利害の打算で決まる。器量が大きければ、それが遠い先の利害を見越した長期の打算となるだけ。
「本音を吐くようでは政治の世界で生存できないばかりか、一個の中国人としても失格である」(p.54)。
「できるだけ多くの機会をとらえ、できるだけ多くの論客を動員して、政敵を罵倒し愚弄して、第三者を巻きこみ、口先だけでも同調させる」(p.55)。

中共中央委主席のしごとは、外国の賓客を接見し、その写真を『人民日報』の一面に載せ、北京テレビがニュースで流し、「中立の立場の外国人が自分を中国の代表として認めてくれているぞ、と国内向けに宣伝する」こと。
シナ人の王は、こうやって絶えず外国人からの支持をひけらかして念を押していなければならない。さもなくばいつなんどき野心家が大多数の中立派の黙認か消極的支持を得て皇帝の地位を乗っ取るか知れない。
これが「朝貢」の機能であった。
倭人の側に動機はなく、代々のシナ王朝が、自己の支配権の正当化のため、それを切望し続けた。
※天安門のあとに天皇を訪支させた外務省の行為はまさにこの朝貢。

2世紀前半の後漢の人口は4900万人台で安定。150年をすぎるころ、また急上昇し、157年に5600万人。余剰人口は都市の貧民層に。
シナの秘密結社は、高度成長経済にとりのこされそうになる都市民の互助組織が革命団体化するもの。道教も仏教も、下層シナ人の出身地を超えた地下組織団結の指導原理として普及した。

すなわち、いまの不公平な世は、来る大戦争で消滅する。その後に正義の信者の理想が実現する――と思い、その日に備えて、軍事訓練に励み、規律を保つ。辺境では流行らず、中央の大都市でこそ流行る。

つまり、なんと黄巾の乱でシナの人口は1/10に激減したのだ。これは事実上、シナ人種の絶滅であった。その真空状態を、北アジアの騎馬民族が満たした。

著者いわく、この平和は、華僑の特色である。すなわちシナ人が新しい不慣れな土地にくると、まず故郷の神をまつる廟を建てる。その神前で、互いに助け合い、裏切らないことを約束する。B.C.108いらいの日本国内の華僑のネットワークは、原始的な道教の教団組織だった。道教にもシャマニズムがあり、それが「鬼道」。2世紀のシナで巫女を頂点にした道教運動が「五斗米道」だ。『三国志』の「魏書」と「蜀書」には「鬼道」が三回も出てくる。卑弥呼が倭人でもかまわない。しかしそのために楼観という高層神殿を建設したのは、華僑しかありえない。

クシャン国は紀元90年、7万の大軍をパミールを越えて東トルキスタンに送り込み、後漢軍と戦って敗れた。
2世紀なかば、カニシュカ王があらわれ、大帝国を築き、ペグラムを夏の都、ペシャワルを冬の都とした。
229にこの大月国から魏に使者が表敬訪問。魏は大喜びし、大国から認められたと内外に宣伝。

「親魏倭王」は、かつての「親魏大月氏王」と同じノリだが、倭国はクシャン帝国とは比較にもならぬ小国だったから、この呼称は無理があったのだ。

興味深いことに、『三国志』には「西域伝」がない。なぜかというと、西域の手柄は、司馬懿のライバルの父が挙げたものだったから、正史でスルーしたのだ。

陳寿らは、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里とかいうのは嘘と知りつつ書いている。もちろん邪馬台国の万二千余里も嘘である。とにかく「親魏大月氏王」との張り合いで、239の「親魏倭王」を強調する必要があった。よって、卑弥呼の倭国も、クシャン帝国と同様の遠方の大国であるとしなければ格好はつかなかったのだ。それだけ。

台湾より遠い、布が特産物の国とは、沖縄ではなくルソン島だろう。

東夷伝によると、山地の穢貊はすでにシナ化していた。その証拠に、同姓では結婚しない。同姓不婚はシナ文化の特徴だ。
馬韓では集落の外に「ソト」というエリアを設け、大木を立て、鈴や太鼓を掛けて鬼神を祭る。逃亡者がここに逃げ込めばもう引渡さないので好んで泥棒をする。

東夷伝で市場の監督が倭人だと断っているのは、出店者は倭人ではなく華僑であることを物語る。

古代の日本語では馬をマといい、シナ語と同じ。これに対し、朝鮮語ではマル、モンゴル語ではモリンと、どちらもr音があった。日本に馬の文化を持ち込んだのはシナ人であったことの証拠。

百済の蓋鹵王の472年の手紙には、高句麗の王は梟斬したとする。1145の『三国史記』では、高句麗王は流れ矢に当たって死んだとする。※つまり戦争で首をかかれるのは不名誉なので流れ矢とするのか。すると平将門の戦死の真相も疑われる。

『日本書紀』「神功皇后紀」は事実とは思われない。いくら道に迷っても百済の使者が新羅に至るわけがない。貢物のすり換えとは露骨すぎるフィクション。

倭国によって百済の王になった東城王は502年に廃位された。この頃、仁徳天皇いらいの河内王朝が断絶。顕宗天皇が播磨王朝を立てたようだ。播磨王朝は531年に断絶し、継体天皇の越前王朝が出現する。

『梁書』によれば、600年頃の百済の言語は、シナ語の要素が濃かった。帽のことを冠といい、襦のことを複衫といい、袴を褌というのは高句麗と同じ。
これにたいして新羅では冠を遺子礼、襦を尉解、袴を柯半、靴を洗といい、通訳なしではシナ人にはさっぱり通じなかった。

609年の筑紫の東にあった秦王国の住民は、辰韓と弁辰、つまり新羅・任那人の移民だったのだろう。しかし562に新羅が任那を併合してから、新羅と倭国は疎遠になり、代わって百済系の文化が入るようになった。7世紀に日本語が発達をはじめたとき、ベースになったのは高句麗・百済系のシナ語だった。だから朝鮮語と日本語は、語法が似ていても、語彙はほとんど共通しない(p.145)。

列島そのものの危機が迫った。中大兄皇子は大津に遷都して守りを固め、668に即位(天智天皇)。最初の成文法典「近江令」を制定し、670には初の戸籍「庚午年籍」をつくった。近江令のなかで「日本」という国号が採用された。

『日本書紀』に自主国号制定という重大事件が記載されていないのは、その編纂は天智天皇の息子(大友皇子)を壬申の内戦で倒して天皇位を奪った天武天皇(大海皇子)の命令でなされているから。よって天智の手柄はサラリとスルー。

日本書記は、軽皇子=文武天皇で終わっている。そこからあとの8世紀はじめの歴史は、何が何でも自分の腹を痛めた草壁皇子の直系に天皇位を世襲させようという、持統天皇の意志の過程。

日本書紀は、神武天皇の呼び名のなかに「日本[やまと]」の字を入れて、日本列島は最初から単一の政治単位だったと主張する。このためにもまた、天智天皇の国号制定の事実は省かれねばならなかった。

仁徳は、生前に自分の陵をつくったことが語られる唯一の天皇。※排水運河工事で動員した大集団を遊ばせておきたくなかったのか。

吉備には、倭王の継承に介入できる実力があった。

允恭天皇の長男を日本書紀は軽皇子として近親相姦と滅亡を書いた。わざと、孝徳の本名と同じにし、孝徳天皇を貶めたのである。そんな作り話をさせたのは、天武天皇と持統天皇。

百済本紀が531に死んだと伝える倭王は、継体ではなく、武烈天皇だろう。播磨王朝の血統がそのときに途絶えた。

越前には弁辰系の華僑のコロニーがあった。それは垂仁天皇紀の中に、祟神天皇の時代の話として見える。

応神天皇は、笥飯大神の人格化で、越前出身の継体天皇の祖先神。
書紀には、応神天皇がどこに葬られたかの記載がない。人間でなかった証拠。
越前王朝は、日本書紀編纂とうじの皇室の本当の祖先。
570年頃、越前には独立のボスがおり、王朝の発祥地であるにもかかわらず、完全に倭国の支配下にはなかった。

広開土王碑の「歩騎五万」は嘘で、事実はその1/10だろう。シナでは戦勝報告は「露布」といって、実数の十倍を書くのが故実。

旧楽浪郡の高句麗と、旧帯方郡の百済の抗争が、河内王朝を成長させた。今も昔も日本列島の人口は半島の三倍。半島にはシナ式都市があったが兵隊が足りなかった。だから百済は倭軍をリクルートした。駐屯地では混血がすすんで韓子(からこ)が発生。やがて、人間とともに大陸の軍事技術が日本に逆流したのが「帰化人」。その排水工事のおかげで河口に近い平野部が農業に利用されるようになった。それまでは山間の焼畑しかなかった。
河内と大和の主要な集落は、すべて漢人系統の移民がつくった。
倭王という実態はいたが、倭国という実態はなく、多種の民族がバラバラに集落をつくっていたのを総称しただけ。統一国家はなかったが、それでも半島で唐軍と戦争したのである。
3世紀末にいったん十分の一に人口が激減したシナが、人口5000万の巨大帝国として復活し、たちまち全半島を征服し、次は日本に来襲するという危機だった。
天智天皇は北九州の大本営で統一日本国家をデザインする必要に迫られた。

しかし日本書紀は近江令すら無視。天智の業績は、すべて645年の大化の改新の話として繰り上げてしまっている。
じっさいの大化の改新は、蘇我氏が宮廷クーデターで没落しただけで、政治システムが変わったわけではない。
孝徳天皇紀の改新の詔勅は、文体や用語からして後代の捏造。そんな改革はなかった。

天智の天皇としての偉大すぎる業績を極力、スルーするために、「大化の改新」がでっちあげられたのだ。
さりとて持統天皇や元明天皇は、いずれも天智天皇の娘だから、まったく黙殺することもできなかった。

日本書紀のコンセプトは、日本のなりたちには外国は関係ないんだ、との自己主張。
白村江以後、唐が九州に侵攻しそうになったので、皇室と隼人を同祖とする物語を創作する必要があった。
神武天皇は、壬申の乱の最中に、はじめて人間界に出現。それ以前には名前すら知られていなかった。
仲哀と神功は、白村江の敗戦がつくりだした神々。
失敗におわった百済復興のくわだてを裏返しにしたのが、神功皇后の新羅征服の物語。
現王朝の始祖である応神天皇を、河内王朝の初代の仁徳天皇の父にもってきて、河内-播磨-越前の三王朝を一系とした。その上にさらに仲哀・神功夫妻をとりつけた。そして大和朝廷そのものをも、創作した。
なぜ大和を選んだか。孝徳は難波、天智は大津に都していた。天武は飛鳥京を本拠にしている。そこにオーソリティがあるとしたかった。だから初期の天皇の宮はすべて大和にあったことにしたのだ。

記紀の歌謡、万葉集、古今和歌集、源氏物語には、漢語の借用語が出てこない。これは不自然すぎる。
7世紀の日本語は、相互に通じないくらいにバラバラだったはず。それを無理やりに国粋で統一したのだ。
ちょうど、ナポレオン戦争後に、ドイツが統一して、都市教養階級が使っていたフランス語とラテン語を排してゲルマン系の語彙を賞用してゲーテやシラーが登場したように。単語はフランス語を言い換え、統辞法はラテン語をなぞったのだが。

アタチュルクも同じことをした。アラビア語とペルシャ語の借用語を追放し、古代トルコ語から新語をつくり、足りない部分はフランス語で埋めた。
戦後の韓国も同じ。韓国語に足りない部分を日本語の直訳でおぎなったので、戦前よりもいっそう、日本語に似てしまった。

インドネシアではいまでもエリートが物を考える言語はオランダ語。マレーシアでは英語。そのおかげで、もとは一つだったインドネシア語とマレーシア語が、しだいにかけ離れた言語になりつつある。
シンガポールは、割り切って、英語オンリーにしてしまった。マレーシアやインドネシアと違う言語にしておくことによって、併合されることを防ぐため。

日本語には、半島に定住したシナ人が使っていたシナ語式の単語が、もとはおびただしくあったのだが、それを天智が、倭人の土語ですべて人為的に置き換えさせて、日本書紀や万葉集のテキストを定めて、国粋として定着させたのだ。国防のために。

舒明天皇以降、多くの歌人が輩出するが、その多くは帰化人。これら帰化歌人は、列島の独立自衛の国策を推進する階層に属しており、あえて外来語を捨てて、日本語を純化させる運動にその才能を投入したのである。
こうして倭国の時代がいまから1300年前に終わり、日本の時代がはじまった。

▼藤岡明義『敗残の記』
筆者はサイパン陥落後に比島に送られた。兵長。銃はやはり38式。

米軍が来る前にモロ族が分哨を相次いで狙撃した。
アメすら数十年経って宣撫をあきらめた。※重要なのは、彼らはカトリックの比島の中のイスラムであること。

モロ族は、親戚同士でも信用しておらず、すれちがったあとで、必ず後をふりむいていた。
交渉するときは、モロ族を地面に座らせろ。蕃刀で抜き打ちしてくるから。

日本兵はシダ類の葉で誰もがケツを拭いていた。そのあたりは一面が臭く、歩くと足に汚れが付着するのだ。

米軍は上陸したのに引き揚げてしまい、そにモロが再び襲ってきた。
大阪兵だから苦境に陥るとバラバラ。病人を誰も助けず、靴、地下足袋、飯盒を奪う。
モロは、死者から肝臓をひきぬく。

Co長いわく、こうなれば部隊長も命令もあるものか、我々の銃は敵にばかり向くとは限らぬぞ。
本部が「早く撃たぬか」と怒鳴る。中隊の曹長が、撃っている間に逃げるつもりだろう、上に向かって撃つぞ、と怒鳴り返した。

「民家あり、注意」と逓伝。民家を捜索して食い物が何もないと、気力が尽き、次々に手榴弾で自決する者が……。
集団が個人世帯化し、ひとりづつバラバラになる。すると、一日の病気は、すなわち、餓死を意味する。
投降すると、黒人兵がチェスターフィールドの煙草をくれた。

▼筑紫二郎『航空要塞』S20-3
カンボジア人は安南人よりも体格は小だが、覇気がある。
モロ族に対しては、食料を投げて与えてはならない。
モロ族は、他のフィリピン人と違って、髪を短くしている。
歯はヤスリで列を整えている。※縄文人かよ。
金細工がうまく、わざと金歯をする。
ベテル葉を噛むので、おはぐろのように真っ黒。※というか日本のおはぐろの風習は南洋渡りだったのかも。
モロにもいろいろあるが、気性の相違は直ちに容貌に現われる。

10トンローラーで数十回転圧しないと重爆のタイヤがめりこむ。
生地ではだめで、表土40センチ以上を砂礫に替える。
自動車が走れる土地なら、飛行機も降りられる。

米軍はニューギニアであっというまにアスファルト舗装道をジャングルに急造した。日本兵はノコギリと円匙だけ。

▼兵器行政本部・造兵課『S19.5 兵器勤務連絡会議書類』

97式車載重機関銃は、小倉製と名古屋製があり、その断隔螺部が寸法が違うため、互換性なし。

まず超瞬発信管付の30kg~50kgの爆弾で、ジャングルの遮蔽を剥がす。だいたい1発で30平方メートルが裸になる。
次に、中爆が、エレクトロン焼夷弾を、10平方mにつき1発の密度で落とす。
次に、戦闘機がMG掃射して、わが消火作業を妨害する。これのおかげで誰も壕からは出られない。
軍需品の消火作業は純然たる作戦行動。不惜身命の概を以って之に従事せしめよ。

需品は、洞窟格納以外は、全部ダメである。露天の半地下式もいけない。
厚く積むな。焼夷弾が物資の中心で燃えると、全部類焼する。積み重が薄ければ、焼夷弾は土中に入ってくれる。

S19-5の報告。米軍は「バズーカ」と称するロケット式対戦車穿甲榴弾砲を有し、過般、ビルマ戦線でも使用した。英軍の「ピアット」は、まだ見たことがない。

3月、ニューアイルランド島への艦砲射撃のとき、敵弾内のアルミニウム缶から白煙が出てきた。その臭気を吸入した将兵は10時間以上も頭痛がした。毒ガスかと疑ったが、弾着表示用らしい。

タラワ、マキン両島の最終段階において敵はガスを使ったのではないか。※あまりにも捕虜が少なく、文字通り全滅したために東京ではこのように疑った。しかし事実は、海兵隊員が、日本兵の投降を認めず、負傷者には銃剣でトドメを刺したのである。

敵の落下傘爆弾は、8kg×3の集束だが、不発がきわめて多い。
英軍は落下傘兵用にステンを装備しはじめた。

▼川瀬一貫『戦力ゴム』S20-1
著者はゴム統制会理事長、元・横浜ゴム役員。
耐油ホース、耐油パッキング、無線機の防振クッションなど、新鋭航空機には300~400個のゴム製品を使う。

日本のゴム工業はS9までに自給を達成した。
ゴム工業は機械化を必要とせず、零細が参入していきなり輸出できた。

満州事変後の輸出は、為替安と低賃金に依存した。
自動車用タイヤはS10に出超に転じた。

ゴム工の全国平均賃金は、S4に16銭/時間、S8には13銭/時間だった。

▼雑誌『改造』1937-10月号

南京政府の財政部の孔祥煕は、英仏チェコから巨額のクレディット(借款)を得た。
シュナイダー・クルゾーと、同社が買収して子会社化したスコダ、ここからチェコ軽機が上海経由で輸入されているのだ。

昔はクルップが李鴻章を買収していてダントツのシェア。ところが米レミントン社が晩年の李を抱き込んだ。
張作霖父子は、レミントンが性能の割りに高いというので敬遠。そこへ、シュナイダー・クルゾーが入ってきたのだ。ビッカースはシュナイダーの勢いにおくれをとっている。
西安事件をおこさせたのは、ブリュッヘルだ、とのウワサがある。
この時点で米国製飛行機を最も買っているのがシナ、次がオランダ、次がソ連。

▼劉大鈞著、倉持博tr.『支那工業論』S13-10
1862の軍需工業立ち上げのとき、そのエンジニアの師となる人材を西洋に派した。そして李鴻章は天津に水師学営を設けた。
1895の下関講和で外国がシナの港に工場を建ててよいことになった。

1925-5-30の上海事件で全国民が覚醒したから、1928に国民政府は全国統一できたのである。北伐開始は1926。
李は太平天国の乱を近代武器で鎮圧して、その力を体得した。
江南ドックは、英国の工場を買収し、それに李が作って外人に運転させていた機械工場を併せてできたもの。
江南製造総局。

1902、上海の大降鉄工廠でディーゼル機関をつくった。
上海の人力車は1925に2万台。1934に3万台以上。
オートバイは1930から出現?
自転車は1925において9817台、1934において32916台。
※どうも武器製造関係は、調査ができていても、軍が公表をさせない方針でもあるのではないか?

▼齊藤俊彦『轍の文化史――人力車から自動車への道』1992

著者いわく、椅子型の発想は日本独自では無理。舶来の乗用馬車がヒントだったに違いないと。

人力車の台数ピークはM29で、20万台をオーバーした。大4には10万台となり、S1には5万台に減った。S
12以降は自動車等がほぼ人力車を駆逐。※とすれば四街道を八手駕籠で通ったはずがない。

明治10年以前は江戸時代の延長なので、外人が多い横浜周辺では車夫の裸体は禁じられたが、横浜を離れると、昔の駕籠かきのように全裸に近い車夫がみかけられた。
料理屋は夜12時で三味線禁止。そこで客は妓楼に河岸を替えた。その移動に人力車が使われた。
由良守応は欧米で馬車を研究してきて皇宮馬車係になったが、皇后の馬車が転覆し、辞職。

M13前後、馬車の馬の虐待を非難する投書がたびたび新聞に。野蛮国と思われると条約改正にさしつかえるので、警視庁が取り締まり規則を制定する。

猿谷要が若いとき米国でバス旅行した。座席は、一日ごとに一つづつ前の席に移り、最前列の者は翌日は最後尾列に移る。これは、かつて幌馬車隊が後ろになるほど土埃をかぶるため、隊列の順番を毎日変えていた名残だという。

東京市役所の巡回が人力車から自転車に切り替わったのはM33のこと。
もともと米国からの輸入が多かったが、そこに英国がダンピングで参入してきたので、一挙に普及した。なぜか、東京大阪ではなく、愛知と岡山で普及先行。

M36時点で東京のスラムの職業No.2が人力車だった。「蛙取り」という職業もあった。流しの賃貸車曳きを「朦朧車夫」といい、俥がみすぼらしいのでヨナシ、つまり夜専門だった。ボロい俥を昼間、呼び止める客はいなかったのだ。昼間流す車夫はヒルテンという。平均日収は50銭。所帯持ちであればどんなに節約しても1日40銭は消える。※まもなく石油パニックが来る。人力車が復活する。プータローのアルバイト先を政府が世話する必要はない。

品川には終戦時まで俥宿があった。挽き子の若い衆は、冬は紺、夏は白の股引。これは竹の皮をかかとにあてがって滑らせないとはけないくらい足にぴったりしている。暑くても毛脛を客に見せては失礼なので、長い股引である。また、一日に2回入浴し、下帯や足袋も何度か替える。

日清戦争で50円で買い上げられた軍馬が戦後に10円で払い下げられ、馬車馬になっていた。
M31の新聞投書。毎日、客いっぱいの馬車が、未舗装の九段坂を昇っている。痩せ衰えて幽霊のような馬に雨あられと鞭が打たれている。これが文明国の昼間の見世物かと。
馬車馬の体一面、血と膿とかさぶただらけ。鞭を通じて皮膚病が他の馬にも伝染していた。※「馬車馬のように」という形容の意味が、現代人には分からないだろう。

車大工の最も好況だったのは、支那事変以後のガソリン統制で運送屋がいっせいに自動車から荷馬車(「馬力」と称した)に切り換えたとき。月に50台も受注して、応じ切れないほど。戦争末期には自動車の代わりに大八車
や馬力を持っていったらしく、軍からも注文が来た。
S26には注文は減った。リヤカーとオート三輪が普及したからだ。
スチュードベーカーやGMの創業者は、がんらい馬車製造業者である。
英国で舗装がすすんだのは、1745のエジンバラでのジャコバイト叛乱を600キロ南のロンドンから鎮圧に向かうのに、悪路のため行軍が1ヶ月半もかかったため。
1750年代後半からターンパイク有料道が整備されはじめ、19世紀にマカダム砕石舗装工法が完成する。

▼植木知司『かながわの峠』1999
「あづまはや」の叫びは、海が見える箱根峠だったのではないか。
湖尻峠は、もとは「うみじり」と読んだ。芦ノ湖は神奈川県にあるが、水利権は静岡県にある。江戸時代の民間事業で、芦ノ湖と西麓の深良の両方から1.3キロのトンネルを掘り進め、誤差は1m内だった。箱根用水。

由比正雪の残党は、物見峠を越えて煤ケ谷までたどりついたが、村人に捕らえられた。煤ケ谷は、盗伐の監視路の基点だった。清川村は、県内でただ一つの村。

永禄12に三増合戦があり、北条氏康は武田信玄に破れ、北条方の3269人が死んだ。志田峠の近くに首塚と胴塚ができた。
丹沢湖に流れ込む世附川。昔はブナやケヤキの大木がトロッコで運び出されていた。「命がいらなければ乗っていけ」といわれ、便乗可能だった。

西丹沢の~丸という地名は、朝鮮語に由来し、やさしい山を意味する。
富士関役所には、鉄砲30、弓30の兵が警護していた。それが冗費だというので、東麓の小仏関所に機能移転。
岩戸山の山頂は、上小渕、下小渕、関野の三集落が、疫病で亡くなった人の共同火葬場にしていた(p.182)。

綱子天神峠の北の峰山は、かつての博打場(p.194)。

▼傅田功『豪農』1978

武士と町人は、下級ランクからも産業上の指導者を輩出している。が、農業に関しては、上層農民だけが、知識階層だった。
柳田いわく、豪農という言葉の裏には郷士の記憶があり、単なる大地主を意味しなかったと。

山川均いわく、明治初年の倉敷では町ごとにランクがあり、風儀が悪い町、人気が悪い町というのが、はっきり分かれていた。生活習慣も言葉も違うので、社会の中層と下層のあいだの隔たりは、はるかに大きく、固定されていた。

豪農層から名望家が出る。武士的な気構えがあり、しぜんに武術を嗜んだ。関東地方は幕府領と諸藩領が交錯し、庶民階級に対する行政の支配が比較的に弱かったので、武士と対峙するような気分の郷士が撃剣を学んだ。

明治9年に米価が大下落した。翌年の西南戦争で米価は暴騰した。その後、地租の金納化と税率低下で、地主層の生活に余裕が生じた。しかし松方デフレで米価も土地も暴落した。
奈良県の土倉庄三郎は、林業長者の豪農だが、地方にあって中央の自由民権運動のパトロンとなった。

山川いわく、ただ田地をもつだけでは成り上がりであるから、門構えと玄関のついた屋敷に住む。これが村役人になる資格であった。
関東平野の豪農は、大地主であると同時に、大百姓だった。屋敷の周りには構え堀という池溝があった。いまも関東各地にある鬱蒼とした杉の森は、こうした地主たちの屋敷林だった。徳川幕府が瓦解した直後の秩序空白期に、これら関東の豪農は暴徒から自衛ができず、略奪、焼き討ちされて没落した。

福沢とともに渡米した士族の津田仙は米国の農業の富に感銘し、維新後は新政府と距離を置き、外国人のための蔬菜生産をはじめた。さらに欧州で農学の情報をあつめ、M8に『農業雑誌』を創刊。

M20から都市工業が労働力を集めるようになり、豪農が労働力を安価に集めにくくなって、ついに大地積経営は不可能になった。
農産物価格が賃金以上に高騰するか、機械化が実現しないかぎり、大面積農業は日本では不可能だったのだ。

▼鈴木貞一・有末精三・額田坦、他著『秘録 土肥原賢二』S47-11
特務機関は、青木宣純→坂西利八郎→土肥原と継承された。
M17-12に、清国公使の袁世凱が2000の兵で日本大使館を包囲し、公使館附武官の他、日本人居留民四十余名を殺した。甲申の乱。

朝鮮の東学等とは新興宗教だった。

1899の義和団=拳匪は山東省に発祥。外人宣教師を排撃。
ロシアはその鎮定名目で北京だけでなく満州にも兵を出してきた。クロパトキンは沿海州の部隊だけでなく欧露から16万人を移動させて、数週間で東三省を占領。
他方で北京に派遣したロシア軍を他国より早く撤退させて恩を着せた。

ボーア戦争中でイギリス軍はインド兵も回せない。
日本は12個師団の陸軍を擁していた。
その日本と、世界最強海軍国のイギリスが同盟を組んで、日本がロシアに強硬に要求したので、ロシアは満洲から撤兵することを約束した。日英同盟後、わずから2ヵ月後。

1903-6、ロシアは陸相クロパトキン将軍を日本に派遣して、桂首相、小村外相と会談。日本の上下は猛反発。
※ロシア帝国が軍人を陸軍大臣にしていたので、日本でもその方式が疑問にされなかった。

交渉が続けられたが、ロシアは避戦派のウィッテ蔵相を罷免。あらたに極東総督府を設けて、アレキシエーフ大将を総督に任じ、極東での陸海軍と外交の最高権力を与えた。※これは「満州国」で関東軍司令官が持った権限と同じであることに注意を要する。日本陸軍の理想とするスタイルは、これであったろう。

小村はローゼンとの商議で、最後通牒とも見られる修正案を4回提示したが、ロシアは韓国の中立を保証しようとしなかった。
1904-1-12の日本の最後的修正案に、2週間しても回答がなかったので、2-10に日本は宣戦布告。※この経緯は米国務省に徹底研究されていたと思われる。その結果、日本はハルの最後の修正案に回答せずに戦争を開始したという外見になった。

佐藤垢石『青木宣純』(S18)によると、青木は宮崎県(佐土原藩)うまれ。藩校で学び、三国志を愛読した。
M7に上京して川上操六大将の書生になる。私塾で仏語を学ぶ。M8に幼年学校に。M10に陸士に進む。柴五郎と同期。M12卒、砲兵少尉。M17中尉、参本附となり、シナ問題を研究し、広州に赴任。当時は一人の日本人も居なかった。
北京官話が通じないので、広東語を学び直した。
M20に北京に派遣され、柴中尉とともに、北京付近の地図を作る。

山東省の軍司令官格であった袁世凱は、新編部隊を指導してくれる共感として青木を望んだ。
義和団事件で米国はフィリピンから6000名を送った。
各国の要求で日本は1コD(第五師団)を動員して送った。
8-4の攻撃では、ドイツ兵は1人も参加しなかった。シナ軍側の直隷総督は敗北の責任をとって自殺した。

北京の囲みを破った多国籍軍のうち、ロシア軍は略奪と婦女暴行をはたらいた。※とS18の本には書いてあるのだろうが、じっさいはドイツ軍もロシア軍と同じことをして、その本性をさらけだしたのである。
袁世凱は、部下の呉佩孚をリエゾンとして青木にさしだした。

青木の最初の任務は、北京と欧露のあいだの電話線を切断すること。浅井平吉大尉の工作班が、八達嶺でこれを実施。※盗聴をしないところが、通信後進国である。
ハルビンで銃殺された横川省三も青木の命令で動いていた。

坂西利八郎は1935年の『その後の日本と支那』で回顧し、明治35年は臥薪嘗胆の十年目であるために、1935の今と同様、「いわゆる危機と思われた時」だった、と。※これは日本陸軍の「五ヵ年計画」体質を正直に告白したものだ。もっとありていに表現すれば、明治35年にロシアに対して奇襲開戦するつもりで諸準備をがんばろうじゃないかといういちおうの暗黙の目標設定を、ながらく陸軍の将校は共有していたのである。

直隷総督&北洋大臣の袁世凱の北洋軍には、顧問や教官として日本の将校が19人もいた。下士も若干。
ただしシナはロシアに対して、そのようなことはしないと約束していた。だから日本人教官たちは、長髪にし、シナ服を着た。

坂西の斡旋により、シナは遼河以西を中立地帯として日露両軍にそこでは兵を用いさせぬという宣言が発せられた。これは日本軍としては、好意的中立であって、大いに助かった。
第二軍の糧食の準備が足りなかったので、袁世凱が北京・天津で糧食を集めてくれた。また天津の靴屋を動員して日本の防寒靴を製造させ、それを戦線に送るのも、黙認してくれた。
ロシアは外蒙古の沙漠をラクダで毛皮や銃砲弾を運んできたが、毛皮はともかく銃砲弾が混ざっているものはシナ側がすべて没収してしまった。

日本海軍が中立シナの主権を無視してレステリーヌ号を拿捕してしまった事件では、さすがの袁も坂西に怒ってみせた。

青木はM37に少将になり、大2に中将になり、大4に松井石根中佐をともなって上海に渡り、孫文のアンチ袁活動をたすけようとした。大総統となった袁世凱が反日化したので打倒しようというのは、大隈内閣の正式の方針だった。大5に袁が死亡したので、青木がすることはなかった。

防研にM38-8末の青木の報告がある。戦争がおわっているのに、まだ北満のチチハルで騎馬隊をつかって偵察しているのである。7-25に蒙古のチヤスト王が、アメリカ製の13連発の有烟火薬を使う騎銃を1000梃買った、等。

北京の坂西機関を訊ねた民間人として、井上日召、諸橋轍次など。

S2-4に帰朝し、予備に。帰国しても東京の街を辮髪で歩いたという。終戦まで、シナ通の貴族院議員。

坂西いわく、辛亥革命後の混乱は、孫文の露骨なアカ傾斜にある。地主や資本家が避けてしまう。
南北対立をみて外国が乗じようとすれば、シナはすぐに団結する。
シナ人は集団戦力として弱すぎるから、それをおぎなうため、個人の智力がすぐれている。日本人は智力ではシナ人に勝てないので、ぜったいにごまかしをしないことだ。
シナでは、民衆の人気が赴くところに勢力が伴う。

S9の発言。満州事変で政府は「地上の楽園、王道国家の建設」と言った。これがシナ人を反発させている。余計なお世話をしないでくれ、と。※日本の役人が得意とする題目ではなく、現前せしめよということ。

袁世凱の末期は、顔や手足が水腫で青膨れしていて、ひとめみて、もうダメだとわかった。
河南の田舎にうまれて、2、3カ月のあいだとはいえ、シナの帝王にまでなった男。
袁世凱は酒を飲まず、そのかわりに饅頭を食う。
背は低く、横太り。酒も阿片もやらなかった。いわゆる大官タイプではない(p.69)。
妾はいつも5、6人いたが、それは世間的な体裁から。
なぜ皇帝になったか。これは縁故者や側近が栄爵にありつけるので、まわりが夢中になるのである。

露支のカシニー密約で、シナ軍隊の教官に外国武官を招聘するときはロシア人に限ることになっていた。
S5の発言。袁が坂西に、シナ人の名前をつけた。後漢の光武帝のときに西域に使いした班超、この二文字に志を加えて班志超と。坂も班も「パン」で音が同じだから。号は康侯と。

神戸から太沽まで船で5日かかる。5・4運動のときは、日本人の荷物は陸上げもしてくれない。
蘇州運河には当時から人糞が浮いていた。便器を運河で掃除するのである。シナ人が水泳をしないのは当然だった。

シナの煙草屋は、1本だけは見本としてタダでくれる。
すぐに殴るのが日本人で、シナ人は相手に落ち度があってもすぐには殴らない。
土肥原いわく、段祺瑞も親独熱におかされた一人。

税関をまともにしてやったのはロバート・ハート。警察を改善してやったのは、川島浪速。有賀長雄は法律顧問になった。

坂西は第二次奉直戦争で呉佩孚を援助して張作霖を駆逐しようとしたと非難されている。坂西の夫人は信州上田の人で、藩閥のうしろだてはゼロ。

S2の東京では「居酒屋」というと人に笑われる。「バー」というのが流行りであった。

営口で渤海湾にそそいでいる遼河の西岸は中立とし、東岸でのみ戦争した。
ニーチェウオのロシア人と没有法子の満州人は気が合う。日本人はきびきびと急ぎすぎ、細かい注文が多く、しかもケチでシナ人を儲けさせない。
ハリマンの満鉄参加は拒否されたが、アメリカは錦愛鉄道をシナにもちかけ、錦州からチチハルを経て愛琿まで、満鉄に並行する線路を建設しようと運動した。

袁世凱の後任が黎元洪、次が馮国璋、次が徐世昌、次が黎、次が曹●、次が段祺瑞、次が張作霖。
北洋通商大臣は、天津にあり、北京と密に関係するので、北京の外交を一手に引き受けた。ついに大臣が北洋の陸軍をつくるまでになった。

袁の死後のシナ政界はドングリの背比べ。
最初うまくいかなかった北伐が急にうまくいきだすのは、コミンテルンと国民党が結託してから。
孫文は何度も北伐を試みたが、広東から出発して、すぐ頓挫する。カネも兵器も足りない。そこでロシアを利用しようと思うようになった。
民国13年=大正13年1月にロシアの第三インターナショナルのヨッフェが孫文と談合。広東にロシアの援助で軍官学校をつくった。
15年の北伐ははじめて湖南に入ったばかりか、湖北の漢口、つまり武漢まで達した。これ、まったくアカの力であった。
ところが揚子江を下って南京事件を起こした。漢口と江西省・九江の英国租界を占領。漢口の日本租界も攻撃した。
古いシナの道徳破壊を鼓舞したので、民衆が赤のテロルにそっぽを向いた。
赤い国民革命軍が上海に迫ると、イギリスは2万の兵を用意し、日米仏も出兵し、シナの資本家も赤を叩き出す決心を固めた。
S1-4に、赤に反対する一派が、武漢から分離して南京に政府をこしらえた。これが蒋介石の国民政権。
しかし武漢から顧問のボロジンを追い出し、さらにガレン将軍を追い出しても、南方には共産草味が去らぬ。
広東では、3日天下ではあったが、ソヴィエト政権ができた。

兵隊の給料は6元。そこからコメ代を差し引くので1ヶ月に1元になる。それすら払われないことあり。兵隊はこの給料を「売命銭」と呼ぶ。もらった現金にふさわしい戦闘しかしない。上からの命令はまじめに出されるが、兵隊がそれを表面的にしか実行しない。
商品を奥地まで鉄道で運ぶには、鉄道を守備しているシナ軍の各師団に税金という名の賄賂を使わなければ列車は何日でも停車させられたまま動かない。それで奥地では商品はべらぼうな金額になる。

地方軍憲は農民から4年先の税金まで搾り取っている。諸物価が上がったので小作人の人件費が高騰し、大規模耕作は割に合わない。商品の圏外輸出も鉄道の関係で不可能。というわけで、本百姓が自家消費分しか耕作をしなくなった。
北支では仏教は盛んではない。お経を上げて商売しているだけ。たまにまじめに仏教を研究している者は「居士」と呼ばれる。これは学者である。近年(S2)の流行は、居士と僧侶が共同でするオカルト霊魂学である。

赤の反対はシナでは緑。緑林=馬賊である(p.123)。

ロシアはじつに簡単に外蒙古を手に入れた。シナ本土よりも広いくらい。
モンゴル国境にはモンゴル兵にまじってロシアの監視人が混じっている。
外蒙の赤化のあと、トロツキーとスターリンの対立があって、支那工作は中断した。

北京政府は、支那共和国の政府の印をもっている。つまりシナを代表する外交の調印は、北京政府でなければできない。南京、漢口にはそのステイタスがない。

国際条約ではシナは輸入品に5分の関税しかかけられないが、今日では、それに2分5厘を付加している。それを払わなければ商品は陸揚げできず、奥地にも輸送されない。
塩税は借款の担保にとられていて、各地方の政府が使い果たす。ゆいいつ、海関税だけが、イギリス人の監督のおかげで、中央政府の収入。

明治37年頃は、シナ政府が顧問に払う給料は馬蹄銀であった。やがて不換紙幣になり、ついには2年半分も遅配に。これは軍人だけでなく、他の官吏も同じ。
ただし1年にたいてい3度は、すくなくとも1ヶ月分、払ってくれるならわし。すなわち旧暦5月の節句、8-15と年末である。※8-15には特別な意味があるわけ。
その他、臨時に、月給の1~2割が支払われることもある。これは、月給の少ない官吏が優先で、高級取りには支払われない。

S2の北京政府は、鉄道の収入がメインで、他に、郵便、電信、入市税、牛馬羊の税をかき集めている。月に100万円あれば、北京政府は維持できる。
政府に一度に多額の収入があると聞きつけると、軍人家族が一家をひきつれて役所の玄関へ弁当持参で寝泊りして月給をくれない間は帰らない。これを「索薪団」という。支那語で月給のことを薪水というので。

英国は、シナが2億5000万両の対日賠償金を支払えないのにつけこんで金を貸し付け、代わりに海関の管理権を握った。
S2時点で英国は上海に6~7000の兵をとどめている。
急がない=不要緊。
北京には、アメリカ=シナ、イギリス=シナ、ドイツ=シナの社交倶楽部があるが、日支のはない。日本人は辛抱が足らないので、作ってもすぐ壊れる。

ロシアが外蒙をM44-11に独立させたのに対して、民国国会はさいしょ、否認したが、大2-11には屈服し、外蒙古の自治を認めた露支宣言。

袁世凱はWWIに関しては8-6に早くも局外中立を宣言し、いまやシナの運命は日米だけが左右すると正確に見切り、日本には親日を装い、米国に対しては、膠州湾租借地をちょくせつシナに還付せしめる運動を展開。

大4には南北両軍を交戦団体と承認した。そして民間有志が南部の孫文を援助することを許可した。つまりは、袁世凱打倒方針を政府が決めた。
久原房之助は孫文に、大倉喜八郎は粛親王に貸し込んだ。後者には、小磯國昭少佐も現地で噛んでおり、その謀略の指図は田中義一参謀次長から出されていた(p.145)。

大8-1~6月、ベルサイユ平和会議。山東が戻ってこないとわかり、5-4に北京で大暴動。
大6春のロシア2月革命を背景とし、同年夏以降、不安になったフランスは、日本に欧州派兵を求めたが、日本は断然拒否してしまった。10月革命で、日本陸海軍はシベリア出兵をやる気満々。ランシングと石井は、とりあえず限定共同出兵と決めた。しかし陸軍は増強についで増強をもってし、72000名にも膨張。これで、米国政府が反日的になってきた。

ワシントン海軍軍縮では、英国が潜水艦廃止論を提案したが、日仏伊米が反対。※つまり最強海軍に対抗するには潜水艦は不可欠だと、米国も日本も認めたのだ。
この時点では、前進根拠地なくして、当時の艦隊を主体とする決戦は生起し得なかった。だから、ワシントン条約により、日米艦隊決戦は、あり得なくなった。
またこの会議の結果、漢口の中支那派遣隊と青島守備軍は消滅。支那駐屯軍だけが残された。

大5に袁世凱が死ぬと、革命派内部では孫文が軍人に追放された。また北京政府内では、後継の段祺瑞(安徽派)が馮国璋(直隷派)を追放した。
大9=1920-7に、安直戦。直隷派の呉佩孚が勝利。直隷派には、奉天軍閥の張作霖も味方し、関内に7万人を派兵。

日本は安徽派に肩入れしていた。大7=1918に、泰平組合は、2242万円相当の武器で「辺防軍/参戦軍」3個師団を装備してやり、WWIに参戦するための支度金として借款2000万円もくれてやっていた。その訓練は坂西利八郎少将が部下をひきつれて担任していた。
この辺防軍が段祺瑞のために動いている以上、張作霖が関内に南下して隠然と反対圧力をかけているのにも、日本は公然と反対できる道理がなくなった。
なんと張作霖の背後には関東軍がいた。
ついに、日本国内でも、段祺瑞から張作霖に乗り換えようじゃないかという空気に……。

赤塚奉天総領事は1922に、張がシナを統一するよう援助すべきだと。陸軍の出先も、坂西中将の他は、張援助を主張。しかし政府と外務省は内政不干渉を貫く。
しかし5月、第一次奉直戦争で、張作霖は、呉佩孚直卒の直隷軍に大敗し、関外の巣に帰って、東三省の自治独立を宣言した。
復讐戦のために兵工廠を設け、航空処を設置。
直隷派も分裂。
張、孫、段祺瑞は打倒直隷で同盟。

1924-9の第二次奉直戦争では、張作霖が船津総領事、吉田茂天津総領事を取り込もうとし、松井、儀我などが肩入れした。
作戦は停頓。10月、馮玉祥がクーデター。呉佩孚は天津からチーフーに逃亡、武漢におちついた。馮の背後には土肥原賢二中佐がいた。
安徽派の段祺瑞が権力を増す。
宇垣陸相、上原元帥もこれを知っており、かつ、ひそかに指導した。つまり、出先の独走ではない。
1925-3、孫文死し、蒋介石が継承。
1925-10、岡村寧次中佐が顧問をしていた孫傳芳が反奉戦争に蹶起。これに呉佩孚が加わる。
三面が敵となった窮地に、根拠地の奉天で、新兵術の教育を受けている張学良や楊宇霆に対する旧式武将の反乱。
関東軍は満鉄の正常維持、ソ連からの工作防遏のためには張側を断固、守るつもりだった。張作霖は蘇生した。
佐々木到一によると、白川軍司令官は、在郷軍人の砲兵をすぐって、反張反乱軍を砲力でも圧倒する準備をした。これは予備少尉の荒木五郎のこと。
※特務機関はすべて予備に限っておくと、好都合だったろう。

幣原主義で不干渉を貫いていたら、満鉄は守れなかった。
蒋介石はM43-12に高田の山砲兵第19連隊に入り、翌年、陸軍士官学校に入校したが、M44秋の第一革命=辛亥革命で、帰国して革命派に投ず。そのご、一時は民間に下って産をなし、軍官学校長となってから、頭角をあらわした。

もちなおした張作霖は、湖北の呉佩孚と強調して、「赤賊」(共産匪)討伐を策し、馮玉祥の西北国民軍を綏遠に駆逐。馮は下野して1月にソ連に。
1927-1に国民党の占領下にあった漢口と九江で民衆の暴動から英国陸戦隊と衝突。英租界が回収された。
3月、国民革命軍の南京入城にともなう、南京汚辱事件。列国中、日本海軍だけが、蒋介石軍に対する砲撃を自粛。これ、幣原外相の大方針。幣原は英大使からの攻撃要請をはねつけた。
4月、漢口事件。しかしここでは海軍陸戦隊が暴徒に発砲し、日本租界を防衛。
4月、蒋介石が上海でクーデター。共産派と袂をわかつ。その数日後、若槻内閣が倒れて、外相幣原は追放された。

10月、張作霖と山本は密約に達した。満蒙に新たに5
路線を建設する。資金は借款と。張は計画図を見てなじった。「これは日本がロシアと戦争するための鉄道ではないか」(pp.173-4)。
この密約には日本外務省も反発し、またシナ人も反発し、まったく進展しなかった。
12-11、広東コンミューン蜂起。国府と英砲艦の砲撃で壊滅さす。15日、国府はソヴィエトに国交断絶通告。

S3-4、蒋介石が北伐再開。また済南が物騒になった。日本政府は4-19閣議で第二次山東出兵を決定。翌日の声明発表に朝日新聞がかみついた。蒋介石も激怒。※なぜなら張作霖を駆逐する勢いが止められてしまう。
有田八郎いわく、この出兵は、まったく、政友会の党利党略の出兵だったと。

5月、田中義一は、満州への蒋介石軍の進出は絶対に阻止し、日本軍に刃向かう支那軍隊は武装解除するし、北京に立て籠もり中の張作霖を擁護するという自分の決意を、列国大使と、閣僚に断言した。
これは蒋介石から見れば宣戦布告と同じであった。
他方で田中政府は張作霖には関外に帰れと要求。張はしぶしぶ、この勧告に従った。
張の特別列車は、奉天到着を目前にして、大爆破された。

土肥原は爆殺計画を事前に知っていた。
菅原憲亮の証言。直後に、張と同車していた儀我少佐が特務機関に顔を出したが、顔面に少々、血痕があったのみ。

爆殺事件は日本の陰謀だと奉天警察署が領事館に伝えた。これに土肥原は強硬に抗議。奉天側は、十数日後、張が死んだと発表。排日は熾烈になった。※ここで確認したいのは、シナ事変前夜と違い、満州事変前夜には、在満日本人に対する殺人テロなどなかったということ。小学生の通学が邪魔され、商人が商売あがったりになった程度である。

このとき土肥原のアドバイス。暴徒に囲まれたら、瓦屋根の上に登り、ゆっくりと一枚づつ瓦をはがして、烏合の衆の頭の上に投げよ、と。

すでに土肥原はヒーローであり且つエリートであり、札幌では「はきだめに鶴がおりる」という感じで待っていたと。
土肥原は、300円で馬を買おうとした。自馬をもとうとする軍人は異例であった。

鈴木貞一いわく、土肥原はまったく対支工作要員で、ときたま内地に戻っても、参本附で、その実まったく無役で、ブラブラと待機していたのだと。

石井=ランシング協定は、WWIでアメリカはシナに構えないから、シナのことは日本に任すという協定だったが、やりすぎの21箇条要求で、アメリカが怒った。アメリカは欧州勢とともに講和後の1919から猛然とシナに食い込んできた。

土肥原はシナ砲艦を臨検して、石炭消費日誌をみつけ、砲撃のあったときに消費量が多いことを確認した。シナ側は謝罪することになった。

アメリカはシナの南北を和平させようと野心を燃やしていた。日本政府は北方の段祺瑞に勝たせるつもりで坂西機関を活動させていた。※のちのS13年に汪兆銘と呉佩孚が会談すら拒否したように、シナ人のライバル政治家同士の合作を外国人が斡旋するのは、容易ではない。そこへいくと、西安事件の直後に発揮されたソ共の工作力は、ただ凄いの一言なのである。

日本が育成した「参戦軍」の曲同豊は、第一次奉直戦争で捉えられ、一本一本そのひげを抜かれた(p.191)。
呉佩孚は勝ってもすぐに北京に入らず、洛陽にひきあげたので、貞一はこれは偉いやつだと考えた。
しかし実際に呉にあってみると、ずいぶんなホラ吹きだと思った(p.192)。※これは鈴木の方が、冗談の通じない小器なのである。

直隷派のなかで海軍は日本を頼っていた。文治派は米国とつるんだ。日本は、雙橋に、シナ海軍と協力して無電台を建てつつあった。が、交通部は、米国に対して、真茹の無電台建設を約束した。

奉天市の歳入は、商店の利益税。
歳入がないので土肥原は個人で100万円を借金し、ついに返済できなかった。

溥儀いわく、冀東傀儡政権と冀察特殊政権も土肥原の策動。
土肥原が失敗した唯一の例は、馬占山に、ふたたび抗日に走られたことだ。
溥儀にいわせると、48歳当時の土肥原の支那語はたいしたことはなかった。常に、吉田忠太郎を通訳に立てていた。

蒋介石は英米とわたりをつけるために宋美齢と結婚し、糟糠の妻を離縁した。
溥儀にいわせると、皇帝になったのはまったく土肥原の働きのおかげ。また土肥原は「北京臭」芬々だったと。
北京に長くいる支那通は皆、非能動的となり、自分から計画など考えず、誰かが立てた計画のために、その補佐官をするタイプになるという。
溥儀のとりまきは、高官になる夢に熱狂した。鉄道、鉱山、商務などは日本にやってもいい。ただ、人事と行政権は溥儀の手になければならない、と。総理になるための賄賂攻勢。
無位無官を白衣という(p.232)。
甘粕は板垣の子分だった。

溥儀情報では、張作霖は数時間後に死んだ。儀我は、何も知らず、奇跡的に助かった。爆薬は30kgだった。※たった30キロのわけがない。ということは、他の伝聞も、あてにはなるまい。この爆殺事件には非常な謎がある。なぜ爆殺が確実な方法だと関東軍では思ったのか。相手は進行中の装甲列車だ。それを上からの爆圧で押しつぶそうというのだ。これほど失敗の確率が高い方法はなかったはずだ。現に儀我はカスリ傷だった。爆薬は橋桁の下面だけでなく、客車の天井にも仕掛けられたのではなかったか? つまり、殺しの手口がまだ解明されてはいないと兵頭は疑う。何かが隠されてしまっている。

1932に山海関で張学良軍と日本の守備隊(北清事変に関する1901議定書に基づく)が衝突。このときすでに、シナ軍の戦法は、多数の手榴弾を投擲するものであった(p.241)。

関東軍は6Dと8Dで1932末から長城線へ進撃。これに対して1933-1に、シナ軍5個D、50000人が北上してきた。
長城線は確保できたが、2万対5万ではいたるところ隙だらけで、シナ軍の満州への干渉は防止できない。
そこで、1933-4にさらに関内まで突出して掃討した。
他方、蒋介石は、武漢三鎮のソビエト区すら掃滅できないでいた。

1932-2に板垣少将(奉天特務機関長)は段祺瑞、呉佩孚らをけしかけ、反蒋クーデターに、陸軍省機密費から大金を散じた。蒋介石はこれに対して暗殺部隊を放ち、クーデターの芽を摘んだ。※こんな暗闘をした以上、東京裁判で板垣が助命される確率はゼロだった。
鈴木貞一いわく。熱河の治安をするのに、なぜ謀略をさせるのか。リットンに対して、長城までは満州だと言ってある。だったら堂々と熱河で軍隊を動かすべきで、謀略などすべきでないと。
けっきょく、国際連盟総会の前に自粛してくれという外務省の要求に、永田(参本第二部長)が配慮して、板垣に好きなようにやらせてしまった。
鈴木いわく、永田が存命で2.26事件を始末していれば、支那浪人が跋扈することもなかったろう。支那浪人が、日本の方針を跛行させ、支那事変を招いたと。

満州国を承認しないシナとどうやって郵便を行き来させるか。満州国の切手に、満州国という字を表示しないことにした(p.256)。
外務省は正式に南京政府と外交関係を結んでいるので、北支でイニシアチブをとれない。常に軍が、塘沽協定、梅津何応欽協定などをつくり、それを外務省が事後に認めることになった。

外務省は大使や公氏を2、3年でローテさせてしまうが、陸軍は土肥原、板垣、岡村などを前後二十年も支那にはりつけているから、既成事実づくりでは太刀打ちできない。
唯一、外務省が音頭をとったのが、公使の大使格上げで、これが支那を増長させた。、1935-5のこと。これは親支の広田内閣の、強硬な天羽声明が、外務省内の無統制であることを暴露した1934-4の次の年。英米伊仏がこれに追随した。陸軍は反対だった。※外務省のポスト増やし戦略が自殺を招いた。

大使交換の翌月の1936-6以降、北支で両国間の衝突が起こり、親善工作が翳った。
天津軍はたった2コ大隊弱だったが、しだいに注目のプレイヤーとなり、藍衣社のテロで親日シナ人が暗殺されるようになると、参謀長の酒井隆大佐は、関東軍をバックに居丈高になり、北支のボスであった何応欽に内政干渉的な要求を飲ませた。
熱河作戦で関東軍の実力がシナ軍によく認識されていた。関東軍がその気になれば、北平・天津は占領されてしまうのだ。

梅津=何協定を仕切った高橋担・北平武官は戦後シナ法廷で無期懲役。
これで河北省から国民党軍がいなくなった。蒋の代官である何は、南に帰った。
続いて6-28に、その西隣のチャハル省からも国民党を追い出す土肥原-秦徳純協定。宋哲元軍閥を旧支配地のチャハルから北支に移封し、傀儡化せんとし、他方で関東軍の勢力をチャハルまで拡げたもの。内モンゴルへの布石。
宋哲元は、もともと蒋介石の味方でも日本の味方でもない北支の軍閥。塘沽協定のあと、しだいに反日的になっていた。日本軍は、その宋を罷免に追い込んで、部下の泰徳純を後任に据えたのだ。
泰との協定で、宋哲元軍は長城以南に撤収し、二十九軍は北平方面に集結した。
これにより、北平周囲はほぼ真空になったので、土肥原は12月に冀東自治政権(殷汝耕)を樹立させた。ついで、南京中央政権の命により、宋哲元の冀察政権も。土肥原の得意の絶頂。

支那人は土肥原を土匪元ツーフェーイアンと呼び、白人は東洋のローレンスと呼んでいた(p.267)。
そのやり方は、馬賊や密偵に一騒ぎ起こさせ、それをシナ軍が鎮圧せんとするときに、在留日本人が危うくなるから、それを口実に日本軍が出動する。※土肥原は東京裁判のA級では無罪がふさわしいのだが、シナ法廷ではスパイ罪で死刑にされてもしかたがない。
土肥原は特務機関専任でありながら日本の民間の利権屋の出入りはさせなかった。※それゆえにこそ高位まで出世できた。閣僚級軍人としての身体検査が済んでいなければ、いくらなんでも教育総監にはなれぬ。
S10-1~5月に、北支で、蒋介石の指図による反日満事件が大小50件。張学良の手下の于学忠と、中央直系の藍衣社による。

塘沽協定の非武装地帯がじつはすこしも廓清されておらず、ゲリラが跳梁したので、S10-5末に関東軍が混成旅団を派遣して討伐している。

1935-11-4、英人顧問リースロスは、国民政府の幣制改革。現銀の行使すら禁じ、蒋介石の紙幣を英ポンドにリンクさせた。
北支の山西には閻錫山、河北には宋哲元ら。いずれも蒋介石とは一体ではない。そこで満州を安定させるために北支分離が考えられた。天津駐屯軍司令官の多田俊少将が北支軍閥の四将領に根回しを開始。他方、関東軍司令官の南は、土肥原奉天特務機関長(二度目)をして、北支に出張させた。
多田が地方軍や雑軍の傀儡化工作(新政権樹立)をゆっくりとしか進めなかったので、いらいらした土肥原は、イニシアチブをとる。この二人は対立関係に入った。

北京・天津を南北に結ぶ線と、万里の長城との間のエリアが、冀東。冀=河北省。面積は九州に等しい。そこには関東軍が派兵を自粛していたので、張学良軍がこれ幸いと居座り、対満州攻撃の拠点にしていた。冀東の中に、通州と唐山があった。

そこでS8初夏に関東軍は一斉に長城を越え、通州、塘沽を覆滅し、北京を臨むところまで南下した。
7月初旬、この圧力の下で、塘沽協定。以後、冀東にはシナ正規軍は入れず、保安隊(警察軍)だけが許される。保安隊の指導は、天津軍ではなく、関東軍の特務機関(山海関、通州、唐山などにあったが、すべて土肥原が統括)が行なった。これでは多田はやりにくくてしょうがない。土肥原は多田より先任なので。
またぞろシナ側の工作で治安が悪化してきたので、S10年春に、梅津・何協定。この協定では、蒋介石直系の「中央軍」は北支から退去することに決めた。そのかわり、直系でない地方軍や雑軍は居てもよい。この地方軍や雑軍を日本の傀儡化すれば、北支を分離できるわけである。

土肥原が二度目の奉天特務機関長だったときに北支中立化(つまり支那軍立ち入り禁止)のエリアが広がった。
多田は、四人の軍閥将領に個別に打診した。土肥原は、それではダメだと知っていた。なぜなら、シナ人は、一対一では、お調子を言うのだ。一堂にあつめて会盟させなければ信用できない。案の定、同格のライバルの前では、シナ人の将領は、決して、言質を与えず、あいまいな返事しかしなかった。

殷汝耕は軍人ではない。早稲田に留学し、日本人を妻にもつ。土肥原は、軍閥将領ではなく、この行政官僚に目をつけた。
四軍閥の同意協力をとりまとめることなど不可能と分かっていたから、土肥原は、そのうち一人だけを味方にすることに決めた。すなわちそれが宋哲元。

満州事変に対抗して、蒋介石は、大阪商人が大連にもってくる商品に高い関税をかけた。北京、天津、上海で、高値の商品がはけ場を失ってしまった。
蒋介石は、必要不可欠な戦略物資には、日本からの輸入であっても、通商条約の規定どおりの関税しかかけなかった。それ以外の日本商品は、禁止的な高関税を、条約無視でかけさせた。
この大阪商人が、シナの主権外にある冀東地区に目をつけ、密輸を欲した。大連と営口から小型船で渤海湾を通り、泰皇島一帯(冀東)に運んだ。
殷汝耕は、この密輸商品に低い率の関税をかけた。内陸は品不足なので、大いに売れた。殷も懐が潤った。

殷は日本が期待した以上に明確に、反蒋の姿勢を打ち出してくれた。すなわち「冀東防共自治政府」。蒋介石は殷の逮捕令を出した。

宋哲元は、殷などのあとについて合作しては、部下や民衆の信望を失い、蒋と敵対する不利だけが増すので、態度を保留した。
宋は蒋介石からの使者には仮病を使っておいて、いきなり北京に「冀察政務委員会」という新政権を勝手に樹立して、その委員長に就任したと、土肥原に知らせた。これは明瞭な「親日・反蒋」ではなく、「中立・独立」色の政権だが、「反日」を打ち出さないだけ、マシであった。これが12月のこと。
これで土肥原の役目は終わり、翌S11春には、「冀東」「冀察」の指導は、多田に移管された。

盧溝橋事件のあと、宋哲元の軍隊は、ほとんど戦闘せずに北京を撤退している。宋はその後で蒋介石から地位を剥奪され、部下に軍閥を譲って引退した。
殷汝耕の部下が、盧溝橋の直後、通州事件を起こした。殷は立場がなくなり、引退。
日本軍が北支を占領したので、冀東政府も意義を失った。

坂西の女婿である一良大佐は、豪傑で、在郷軍人会で在郷将軍連を批判して、停職処分となり、陸軍省を出された。
宇都宮歩兵第59連隊は、三千数百名であった。7-7の盧溝橋に対し、同連隊の動員完結は、7月下旬。
8月上旬に宇都宮市民の熱狂的な見送りをうけて土肥原兵団(宇都宮師団)は出発。大阪港から天津沖に。8-20塘沽港に上陸。(p.316には「太沽に上陸」と。)
鉄道で北京に。しばらく西直門外の宋哲元の旧兵舎に。京漢線を南下し、永定河の渡河で初めてシナ軍と交戦。
保定を攻略。黄河への渡河点へ進軍。S13-5に渡河。開封は黄河の南。

二十九軍も、中央軍も、日本軍とは正面から衝突することを避け、たくみに内部に誘導して、補給線がのびきったところで、その最も弱い部分を大兵力で叩こうとした。

この初期作戦の間、坂西連隊では次のようにしていた。徴発のさいは必ず部隊責任者の名で文書を残せ。駐留する場合は婦女子を一定の場所にまず収容してかくまえ。部落に火をつけてはならない(pp.310-11)。

土肥原・第14師団長はいつも二宮尊徳の本を読んでいたと。
行軍中、シナ人の百姓に背嚢を背負わせている兵をみつけると土肥原は叱責した。日当を払ったと兵が弁解すると、それは幾らか、その契約をシナ語で再現しろと。
のち中将になった矢崎勘十いわく、北支で作戦中、「日本兵が中国の婦人にイタズラをしたことがあった。〔土肥原〕師団長は全師団の宿営に就くのを禁じて下手人を調査させた」(p.315)。

土肥原が息子の岳父、小畑敬造に獄中から送った手紙に「南無妙法蓮華経の声高らかに唱えつつ悠久久遠の通を活歩[ママ]しましょう」とある、と(p.315)。※すると土肥原も板垣と同様の法華だったのか???
土肥原兵団は、黄河南北地区を掃討にかかり、武漢三鎮を北から包囲する態勢。そこでシナ軍は黄河を決壊させた。土肥原兵団は、朧海線の線路堤などに1ヶ月も孤立した。そこをシナ空軍が爆撃した。
洪水から救出された土肥原は、S13-6に内地に帰還。
この堤防決壊を日本の仕業とする自虐プロパガンダがS47-2の日経の「私の履歴書」に出ている。出版界の大御所某氏。

S13-6に、陸海軍と外務省は、占領地に統一政権をつくろうと相談した。外務省では、宇垣外相が坂西利八郎中将を顧問として出席させた。というのは陸軍は土肥原中将、海軍は津田静枝中将を出してきたので。
土肥原の提案で、唐紹儀に働きかけたところ、唐は骨董屋に扮した藍衣社のテロ工作員に暗殺された。
そこで次に、北京に隠棲中の呉佩孚に働きかけた。土肥原の手下として、和知鷹二大佐なども協力。隠棲といっても旧部下多数が、囲繞しているのだ。S13-10頃。
老人の呉は時代錯誤的軍閥で、とうていシナ民衆の心を把握することはできない。そこで土肥原もあきらめた。
S14-3に帰日。12月に呉佩孚は歯科治療中に敗血症で死亡。重慶の手による毒殺説も。

青木、坂西が到達できなかった大将にS16年4月、親補さる。
土肥原もついに自宅を建てず、借家。私財をためていなかったのは事実。弁護士費用に苦しんだ。
中将・土肥原は昭和14年5月に新設された満洲北東方面の第五軍司令官に。つまり対ソ戦要員。このときの作戦幕僚に、瀬島大尉もいた。
ノモンハンには出ず。

シンガポールは最も通信と交通の便がよい。しかし大本営は、インド向けだった南方軍を、対米戦向きにするため、寺内元帥に、そこから出て、不便な比島に移れと命令した。比島の第14軍はそれまで大本営直轄だったが、これを南方軍の下に入れる。南方軍が厭々ながらにシンガポールから出て行ったあとを、新設の第七方面軍(土肥原司令官)が埋めた。マレーからボルネオまで担当。S19-4-15に統帥発動。
南方軍は、航空総軍の色彩が濃かった。第七方面軍は、その総兵站基地。

S19-10レイテ決戦に失敗すると、南方軍総司令部は、いまさらシンガポールには戻れないので、11月中旬に不便なサイゴンに退がった。
S19-4のシンガポールに電波探信儀があり、80kmから敵機の来襲を探知できた。
海軍が、ジョホール州のスルタンの競馬場とセレター軍港を見下ろせる屋敷を接収したいと言ってきたが、土侯には体面というものがあるから、統治上できないと土肥原は拒絶した。
S19-10のパレンバンでは、タンカーがないため、航空揮発油をとったあとの原油はすべて燃やされていた。その煙が天に沖していた。
ジャワにはスカルノやハッタがいたが、スマトラには大人物がいなかった。
S19末には、敵はマレー半島の頚部にくると予期した。ビルマで敗けてくると、頚部ではなくもっとシンガポール近くにくると判断した。土肥原は、よそに移って指揮することもできるが、シンガポール死守と決めた。
が、S20-4に教育総監に。

鈴木内閣総辞職のとき、次の内閣で土肥原を陸相にと、三長官は同意していた。しかし東久邇宮は同期の下村定大将を所望した。※つまり対支の感情を配慮したのだ。
S20-8-24に東部軍の田中静壱が自決。その後任に土肥原。三長官から東部軍司令官というのは、格落ちなので、梅津は気にしていた

額田坦によると、9月12日、杉山元が自決し、第一総軍の軍司令官に、先任順で土肥原が補せられた。このニュースに驚いた某国[それはシナしかあるまい]がその夜、マッカーサーに土肥原の逮捕を強く要請してきたという。
マッカーサーは翌日直ちに逮捕令を発し、横浜刑務所に拘置された。
額田いわく、戦犯候補第一号になったと。

大西郷は「理」も「勢」もどっちも必要なんだ、と言った。その言葉にS16頃の土肥原は感心していた。
坂西の補佐官を二回勤めているのは、土肥原と多田駿だけ。いかに気に入られたか。
石川達三の叔父は石川漣平・中将であった。
漣平の兄が、シナ浪人の石川伍一である。伍一は密偵として働き、天津でとらえられてM27に29歳で銃殺された。伍一は軍籍になかったが、遺族の切願によって靖国神社にM28冬に合祀された。

「軍馬、軍犬、鳩、嘱託」と称され、地方人である嘱託は、兵器である動物以下だった。
田中隆吉が第一軍参謀長時代に山西に産業コンツェルンをつくりたいというので内地から一流の経営者が招聘された。はじめは中将待遇と言っていたのに、すぐに席次や待遇が低下した。
戦争中、佐官級の軍人が現職のまま、軍需会社に指導のために入り込んだ。

1925-5-30に上海の日本の紡績工場でシナ人が虐殺され、抗議した学生デモに共同租界の英国警官が発砲し、12名死んだ。11月、馮玉祥が天津の港の大沽の要塞を占領して港を封鎖したので、日本海軍が軍艦から砲撃。

林語堂いわく、8インチの長さの刃が連なった全長7フィートの「鉄鞭」という武器がシナにあり、1925頃の段祺瑞の親衛隊員が持っていた。大男が風車のように振り廻す。
北京で法文といえば、それはフランス語のこと。

坂西は陸大軍刀恩賜なのになぜ師団長にならなかったか。陸軍省はちょっと師団長をさせてやるくらいなんでもなかった。要は、石光真清中将と同じで、長閥が、非長閥の大将昇進を好まなかったということなのだ。そのかわり、S2に予備役になると、すぐ貴族院議員にされた。
土肥原は岡山出身だが、長州閥に加わった。これは同郷先輩の宇垣も同じ。それで、陸軍部内からは、人気がない。宇垣内閣が阻止された真因は、そこ。

満州事変に協力した民間人の小山貞知は、敗戦後潜伏して内地に帰還しようとしたところ21年5月、天津でつかまり、死刑を宣告されて南京の監獄に放り込まれたが、小山の世話になったシナ人がいて助命し、巣鴨に送られ、昭和29年に出獄したと。

鈴木孝雄大将は陸大出ではない。貫太郎の弟。
元第16師団長の山口勝の長男が、山口一太郎。静岡出身。大10に少尉。士官学校開校いらいの優秀な成績だったので、東京帝大理学部に委託学生に。軍人でありながら理学士に。2.26のとき近歩1の第七中隊長で週番司令。
つまり行動にくわわってはいないが、叛乱者を利したとされ、無期禁錮。
山口は、蹶起が失敗したら、第二次行動の指揮者となる予定だった。
一太郎の嫁の父が本庄繁。本庄は驚愕し、侍従武官長を引責辞任。
一太郎はS10に技術本部附だった。そのとき石原莞爾に命じられ、1年がかりで、満蒙開発五ヵ年計画を書き上げた。※勝は砲兵の専門家で、おそらく数学が大得意だった。その息子だから理系脳。

島田俊彦の『関東軍』によると、関東軍司令部附の佐久間亮三大尉が、1年専任してこれをまとめたとされる。山口はその後に命じられた。
2.26首謀者の一人、野中四郎の拳銃が「当時軍隊内で使用していたものでなく、村田式であったことがわかり、それは山口が技術本部時代、そこから持ち出したと判断された」(p.423)。※26年式でなく、南部大型だったということか。

S16春に山口は釈放され、萱野[ママ]製作所の技術部長になった。航空機のオレオ緩衝器は萱場の担当であった(p.423)。
林房雄は満州新聞に小説『青年』を連載した。これは転向以前の傑作とされ、高杉、伊藤、久坂の長州男子の活動を描いた。

シナでトラブルに応接した下士官の憲兵は、有力シナ人の財産を没収して機密費にする仕事があり、それは憲兵個人の蓄財にあてられた。

花山信勝はドイツに留学した日本仏教専攻。東大印度哲学科。
また日米戦が始まるまではアメリカの大学に講座をもっていた。その縁故だろうと。
じつにしらじらしい講演をして、聴衆を「お約束」で泣かせていた。
S24の『平和の発見』で、はじめて、花山がみずから進んで教誨師を志願したことがあきらかにされた。
土肥原がS23-12-22に死刑執行を通告されたあとの辞世:「踏み出せば狭きも広くかわるなり二河白道もかくやあらなん」。二河白道とは、シナの善導大師の話で、火と水の大河に細い橋がかかっているが、信心があれば、恐ろしくなく歩いていけるのだと。そして、南無阿弥陀仏を唱えてゆくと、阿弥陀如来がこの白い道を大きな道にかえてくれるのだと。※これは花山が23日になって記者団に報告した土肥原の最期の様子。S23-12-20の私信にも、阿弥陀うんぬんは出るが法華経は出てこない。おそらく浄土宗の花山に合わせたのだろう。

死刑7人のうち、東條と松井は数珠を花山にあずけた。ガラス玉と房は、自殺に使われるというので、米兵がもぎ切っていた。
「花谷参謀長などはまさに狂人で、その言動の粗暴倣岸さはすでに人間として失格」(p.435)。
犬養は、人間がポストをつくるんじゃない。ポストが人間をつくるんだ。と言っていた。蒋介石も売り出した頃は軽視されていたではないか。

土肥原は口述書を提供しなかった。出すと不利になるから出さぬことにきめた、と太田弁護人。
しかし家族に獄中からあてた70通の手紙が残っている。「全身全霊を仏に捧げて真実一路を辿ってきた」などと。

宋哲元の軍隊を北平・天津にもってくるのは関東軍は反対だったが、それを北支軍の大佐・酒井参謀長が押し切った。梅津・何協定は酒井の独走で、梅津は事後承認。

1936の豊台事件で駐屯軍は1個大隊に増加された。そのころ松井大将が北平に来た。北支に大アジア協会支部をつくるため。欧米勢力の排除を叫んでいた。

検事「土肥原は彼の要求が十一月二十日正午までに受け入れられなければ、日本軍隊を北支に送り、そして溥儀氏を長春から北京に移すと脅迫したのではないか」

第七軍の管轄地域で、栄養不足とそれによる病死率は、捕虜にだけあてはまり、日本軍将兵にはなかった。これが捕虜虐待の証拠である。

九カ国条約で領土と行政の保全が約されているシナの都市の行政を、日本軍現役将校が引き受けた。
隆吉証言。北支駐屯軍は五省を担当し、関東軍は内蒙古を担当した。
土肥原未亡人はS47-5-10没。

磯谷もシナ通だが、特務機関長を務めていない。
S18-12-27に土肥原は、東部軍司令部で、大野宣明少将の取材に応じた。談話筆記あり。
満州事変を花谷が企画していることは前から知っていた。花谷らが24榴×2門を奉天にもってきて、上を板で囲ってお宮のようにして隠した。土肥原が直前に内地に呼ばれたのは、陰謀について叱られるためだった。
幣原外相は外国と連盟を憚り、もし溥儀が動いたら打ち殺しても構わないという訓令を出していた。溥儀脱出のあと、関東軍に呼び出され、南大将に叱られた。

松井はハルピン特務機関にもいたがそれは本来の対ソ用ではなく初めての対支用。
関東軍としては、石油資源取得の必要から、玉門膚施の油田、新疆の未開発地帯を調査し、なし得れば入手したかった。これが対内蒙工作の基調(p.543)。

隆吉少佐は徳王と旧知だったので自分から売り込んでその工作専任となった。
冬の満州では、大砲の撃茎発条と撃茎を温めておかないといけない。架尾が凍った地面に食い込まないので野砲は1発ごとに1mくらいさがる。

長城線に沿って、キリスト教団の宗教租界が断続している。荘園であり、火砲で自衛している。匪賊は手が出せず、共産軍も西北軍も手ひどく反撃された。自家発電でたがいに無線連絡していた(p.558)。
シナではオンドルの中に手榴弾が仕掛けられていることがある。だから火の気を起こせない。

シナでは南に下ると馬草が高い。そのかわり人の食い物が安い。
特務機関の濫觴は、M5に西郷隆盛が営口に某少佐を潜入させた。またシベリア出兵に2年先立つ大5-8から、現地に人を派遣している。

田中耕太郎・海軍少将がコルチャックと交わりがあった。その田中に、米内少佐をつけてオムスクに派遣し、陸軍に協力させた。
露語でウォエンナヤ・ミッシィヤ(ミリタリー・ミッション)という、どこの国でももっていた工作部隊のことを、苦労して和訳し、「特務機関」とした。
特務機関員には参謀飾緒の佩用が認められた。

▼立 作太郎『支那事変国際法論』S13-5
※進行中の対支戦略爆撃が国際法違反だという蒋介石の宣伝に対抗し、田岡とならぶ戦時国際法の国内の第一人者が素早く解説をしたもの。宣戦布告問題について近衛内閣から相談を受けたに違いないことも推理できる。
田岡との論争本にもなっているので、興味のある人は都立中央図書館などでじっくり読む価値があろう。

1929の露支紛争も宣戦布告なし。
1933ペルーvsコロンビアもない。
1923イタリーvsギリシャ もなし。
1925ギリシャvsブルガリア もなし。

宣戦戦争が行なわれた最初の例は、1932のボリビアvsパラグァイ。

1899のハーグ第1回平和会議で宣言があり、軽気球などからProjectiles や爆発物を5年間落としてはならぬ、と定められ、それは日露戦争中に失効した。

1907の第2回平和会議で、空中爆撃の一般的禁止がよびかけられたが、強国中で批准したのは英と米のみ。
第1回のとき決められた陸戦條規の付属書中では、「防守せざる都市、村落、住宅又は建物への攻撃又は砲撃」を禁止していた。(陸戦の法規慣例に関する規則 第25条)

これが第2回(1907)のとき修正を加えられ、「如何なる手段に依るも」攻撃又は砲撃を行ふことを得ざる旨を定めた。この趣意は、空中爆撃の禁止にあり。
ただし修正前でも、解釈上は、空爆も含まれていたのだったが……。
ハーグ第2回平和会議では、「戦時海軍力を以てする砲撃に関する条約」も成った。

防守せられざる港、都市、村落、住宅又は建物は、海軍力を以て之を砲撃することを禁ず(第1条第1項)。
ただし、普通の都市内の軍事目標を攻撃するのはOKと認められた。これが陸戦の方にも準用されることに。
その「軍事的目標」とは、(1)軍事上の工作物、(2)陸海軍建設物、(3)兵器又は軍用材料の貯蔵所、(4)敵の艦隊又は軍隊の用に供さるるべき工場及び設備、(5)港内に在る軍艦。

そして1922に戦時法規改正委員会は空戦法規を議定し、都市内でも攻撃してよい軍事的目標は「其の破壊又は毀損が明瞭なる軍事的利益を交戦者に与ふる如き目標」と定義された。
無差別砲爆撃= indiscriminate attack or bombardment.
日英仏独は、港の前に「自助觸発海底水雷」が敷設されていたら、その都市全体を艦砲射撃してもよい、との解釈の留保をつけた。

ヘーグの第2回の空中爆撃の一般的禁止を批准した英米も、それを批准してない国との戦争では、この適用はされなくなる。
※これは戦時国際法の常識で、たとえば対人地雷禁止条約を批准していないシナ軍が沖縄に攻め込んできた場合は、自衛隊は米軍から対人地雷を買って埋設しても良い。

艦砲射撃に関するヘーグ条約第2項で、軍事的目標を狙って撃った弾で民間被害が出ても海軍指揮官は何等責任を負わぬ旨が、規定された。

1925-6-17に、毒ガス及び「バクテリヤ」の戦時使用禁止に関する議定書が、ジュネーブで署名された。S3-2-8より効力発生。
※この本が論争相手としている田岡氏は、今の朝日新聞の軍事解説者の田岡氏の尊属で、毒ガス使用の法律問題に非常に詳しかった。戦間期には、次の大戦は毒ガスが必ず空襲で使われると見られていたのだ。田岡を陸軍が買い、作を海軍が買っていたという分業があったのかどうかは知らない。だが子孫の田岡氏が東大法学部に進むことができなかったのは無念だろう。それを拾って米国に留学させた朝日新聞もさすがである。今の田岡氏はそんな恩顧に応えている。

▼山本石樹『間諜兵学』S18-2
M44-11-6批准のハーグ第2回万国平和会議の陸戦法規。
スパイは現行犯で捕らえても裁判を経ずに処罰できない。

現行犯でつかまらず、その後、元の軍人に戻ったあと、敗戦したという場合。その者は、スパイ罪には問われず、只の捕虜とされるのみ。

いちばん古い出典。史記の李牧伝。「謹烽火。多間諜」と。
日本では、日本書紀の推古9年。「九月辛己朔戊子。新羅之間諜者迦摩多到対馬。則捕以貢之流于上野」。

▼三橋淳『世界の食用昆虫』S59
旧約レビ記 ch.11に、エホバがモーゼとアロンに、昆虫は食べちゃいかんが、イナゴとバッタは良い、と教えている。
中東では宗派に関係なく大昔からバッタを食べる。

シナイ半島の沙漠の岩の表面に、6月下旬から7月上旬、豆粒ほどの甘い物質がみられる。これが出エジプト記ch.16のマンナではないかという。
正体は、アブラムシ、ヨコバイ、キジラミ、カイガラムシの分泌物。ヒトの糖尿に相当。ハニーデュー。
昼もできるのだが、すぐアリが持ち去るので、ヒトは夜、集めることになる。
モーゼも、朝までマンナを残しておいてはいけない、と注意した。

大8の農商務省の報告。沖縄をのぞくと、長野県が全国で一番、多種の虫を食べていた。ザザムシ(トビケラ、カワゲラ、ヘビトンボの幼虫、ナベブタムシなど)も、長野県(たとえば天竜川)特産。カンヅメあり。ザザは川音から。
コガネムシ系は寄生虫あり。ノミも寄生虫あり。

▼大村清友『食用蛙』大15-10
農林省が大6-4に米国の「ブルフロッグ」を試験養殖させた。ニューオルリンズのラナ・キャテスビアナを24対輸入。これが逃逸。日本の牛蛙のはじまり。※つまり明治以前にウシガエルはいない。
初輸入者は、渡瀬庄三郎。東京帝大の理博。
これを大9に農商務省が「食用蛙」と命名。
これより大きいのは、ラナ・ゴリアスといって2尺あまりあり。
当初、脱出カエルの鳴き声は、都会地では大騒動をおこした。
蛙は動く餌しか食べない。糸の先に肉団子を刺し、ゆりうごかすと良い。

▼中井武雄『パルプ及紙統制』S14-12
ステープル・ファイバー=「スフ」
すでに支那事変前から輸入パルプだのみだった。世界的に資源逼迫し、もし事変がなくとも、内製だのみにシフトするしかなかった。
戦時には綿袋、麻袋が紙化するから、紙需要はむしろ激増する。
英はWWIで、ポスター、ビラの製造を制限。官報と新聞雑誌の版型を縮小させた。

▼江碕達雄『新聞印刷工場論』S7-7
著者はM30生まれ、朝日の技術部長。東工大→三菱長崎造船所→大12にアサヒ。三菱は昔から輪転機メーカーだった。

数年前から漢字制限が各新聞社で実行されているが、またもとに戻りつつある。
震災で古い機械が焼失したので、一挙に新型化した。選考のヒマなくほとんど輸入、各社まちまちのタイプを。
むしろ一歩遅れた小新聞社の方が、よりよいものを選んだ。大新聞社はヘンなモノをつかまされた。

国産では、東京機械製作所(三菱重工)と池貝鉄工所が双璧。
輸入品では、独が2社、米が1社だが、性能は米製の方が高い。朝日と東京機械の共同開発が、この米国製を目標として、進んでいる。
この時点で輪転機は、12~15万枚/hである。

▼北支那方面軍鳩育成所『昭和十七年四月 鳩育成所月報』極秘
軍鳩の生産育成、調査研究、軍鳩器材補充、軍鳩取扱基幹要員下士官兵の教育。
中旬から将校21名の教育も始めた。
月末現在、5306羽を保管。
種鳩候補をえらび、蕃殖環。月間1388羽生産。1番仔111羽、2番仔1277羽。

クレーム:今の飼料はよくない。仔鳩の発育不良なり。牡蠣末はどうした、圓滑によこせ。

「昼夜鳩速成訓練法」を研究中。
換羽の時機や脱換順序は訓練計画に影響するので調査中。
本月に於ける軍鳩衛生成績。
新患32羽(成鳩17、仔鳩15)。
旧患17、後遺18

主な病名「ヂフテリー」「鵞口瘡」「消化器病」
蕃殖期なるも病鳩率0.49%の成績を維持しあり。
鳩舎の定期薬液消毒。
巣立鳩に対し「ルゴール」氏液の口腔、食堂、そ嚢に薬塗布。
鳩パラチフスの伝染源たる野鼠の薬殺。
ヂフテリーに対しては、軍馬防疫廠より「家禽ヂフテリー血清」を受領、研究的に接種。
「雙光」「青色」「瑞七」などの種類あり。
民間から日本人の「鳩手」も雇っている。
軍鳩通信班長あり。

S17-3の実蹟(直轄、第1軍、第12軍、駐蒙軍)
通信所数 508
通信数  4608
鳩の失踪 554
鳩の死亡 47
要補充  850

「夜鳩」「往復鳩」もあり。
昼夜鳩速成訓練は、夜間40kmで実施。主任は中尉、助手は民間人、プラス鳩手。
薄暮に馴致の運動飛翔をさせ、ついで昼間に放鳩。仕上げは夜間。
馴致放鳩は30mからはじめて700mに延ばしていく。
放鳩は1kmからはじめて、最後は100kmに。

親和網内馴致もする。棲息鳩舎と食餌鳩舎がある。
網馴=トラップ。
装備として、「輸送籠 小」「徒歩籠 大」「乗馬籠」「塩土箱」「信書管」「信書嚢」「乙脚環」「替足」などあり。
放鳩成績表あり。休業鳩率あり。
消化器病として、腸加答児、急性腸炎。眼病として、結膜炎、全眼球炎。運動器病として、翼病、脚病。皮膚
病として、湿疹。外傷及び不慮として、裂傷。腫瘍として、腹腔、脂肪腫。

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塾生ノート:兵頭二十八・私塾「読書余論」 第13回07-7-25 [その他]

この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は武道通信まで→http://www.budotusin.net

▼R・Dawkins著、日高・他tr.『生物=生存機械論』1980、原1976

意識とは、生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致。
ローレンツは要するに「種にとっての善」主義者。
待った方が得だから、リスクを冒して闘わないのである。
進化論者のいう「戦略」とは、「あらかじめプログラムされている行動方針」。メイナード・スミスいわく、戦略とは盲目的かつ無意識的な行動プログラム。

▼久米桂一郎、他ed.『久米博士九十年回顧録』上下、S9
じいさんの邦郷は、藩の山方、目安方、大坂蔵屋敷方、長崎聞役、などを歴任。常々儒者を罵倒し、楠公が自害するとき「七生滅賊」などといったはずはないし世に伝えた人がいるわけもないと。

邦武は、算数をおさめ、開平・開立もきわめ、算数を基礎として感情を排し、地理と経済の論点を重視。
晩年に飛行機を見て、「汽車も、自動車も、恐らくは汽船も、西洋の文明は窮極行き詰るべし」と。原始的な鉄砲がついにWWIを起こしたのをみて、西洋文明は自爆すると考えた。

史料と史論を区別し、持論を詔勅で飾ることもしなかった。歴史上の人物に贔屓を禁じた。

学問は語学から入るのがあたりまえであり、英語、独語を学ぶべきである。朱子は古文を古意で解いていないからダメだ。

アリアンでは子が結婚すれば家を分離するので老人を敬せず、夫婦最も親しみ、歴史がないのがデモクラシーだと(下pp.294-5)。

▼木村明生『クレムリン 権力のドラマ』1985
レーニンは5000冊を所蔵し、500冊に書き込んでいる。9ヶ国語に通じ、独・英・仏については会話可能、ポ・伊については翻訳できた。学校ではラテン語とギリシャ語を学んでいる。

オガルコフが脱核、反核嗜好なのに対し、ウスチノフは、国力の劣るソ連には核が不可欠の要素であると信じた。※戦術派と兵站派の対立。ウスチノフはタマと燃料を節用させ、核だけ増やした。オガルコフの理想を追求すると、ソ連は破産する。

モスクワの参本や戦略ロケット軍総司令部では、みな丸腰。手兵もなし。

▼宮本林治『日獨露仏 四国戦闘原則対照』大3

日本では、ドイツやフランスにもない次のような一節が。「指揮官の決心は須く堅確ならざるべからず。決心動揺すれば指揮おのずから錯乱し部下従いて遅疑す」(第4)

▼学習院ed.『軍制学(一)』M26
緒言「仮令ひ中立国と雖ども一方の交戦国の為めに其領土を侵さるゝを黙許し若くは他事に依て中立の義務に背のときは其故意に出ると微弱に因るとを問わず被害国は戦を宣することなくして直ちに此中立国を敵国視し處分するを得るが故に戦争は時あってか遂に避くる能はざる者となれり」

▼外務省臨時調査部『米国ヨリ観タル石油問題』大10
1920の今、飛行機や自動車、石油焚き船が増えて、石油は石炭や鉄とともに各国の将来の産業上の優劣を決める一大要素となった、とただしく判断し、英は世界中の油田に排外的権益を獲得しているのに、米はあと18年で国内石油を消費し尽くす、と危機感を表明。
あと18年枯渇説は、デヴィッド・ホワイト。
英国人タルサも、このままでは米は英国支配油田に依存するようになろう、と。
※WWI中~後の英仏は、メソポタミアやバクーの油田探査や占領を積極推進していたのに、日本は北樺太ではなくシベリアに殺到していた。

英国は、同帝国海軍給炭給油所に於いて英にとっての協商国に給油していたが、最近(1920)それを自国商船およびすべての外国船に対して停止した。自国軍需が莫大となったため。この頃、石油をめぐって米英間は最も険悪だった(p.89)。

▼大山梓ed.『山縣有朋意見書』S41
明治4年の文章。プロシアが仏に勝ったのは「予備の力多きに居る」。その他、欧州小国の例(p.44)。※奇襲開戦&短期戦争を国是とする西洋の中進国は、周辺に先進国や大国しかない、ドイツだけだった。だから日本は全力でドイツのまねをした。

戦艦は、移動砲台だからこそ、陸上砲台より安上がりであり、対露防衛のために造らねばならない。次に、ロシア兵が本土に上陸してきたときの人民の避難所を決めておかなければならない。

M12頃は、国内にもう電信があるので、2~3コDで大軍を邀撃できると判断。

M40建議では、我が出血により得た満州権益は、シナ人がいくら反発するからといって、手放せぬ、と。※欧州式の予備役動員のしくみをつくるのはいいが、ドイツと日本は農業の労働集約度が決定的に違う。粗放畑作で、休閑地が地力回復を意味するだけの大陸ヨーロッパ先進国のように簡単に動員すれば、日本の農村の土壌と水路には複数年のダメージが蓄積されてしまう。高温多湿の日本の耕地は、雑草をはびこらすと、土壌が逆に悪くなってしまうのだ。この国内農村の戦争による損失を取り戻し、農民たちの大不満をなだめるためには、いちど獲得した占領地をあっさり手放すことはなんとしてもできない。対外戦争に動員されたことは、日本国家にとってトータルで損ではなかったという満足感を農村銃後に与えねばならなかった。

▼原奎一郎ed.『原敬日記』4~5巻、1981

大10-1-6「我石油業者にてジャワに於ける和蘭会社の鉱区買入に付、其資金の融通方……相談し、……。……又石油に付ては、我海軍は海外の輸入のみに依る事甚だ危険なるに因り、其政策に注意すべく夫れには北樺太に於て政府当局自ら探検すへき必要ある事高橋〔蔵相〕も同感なり。」

▼『斎藤七五郎伝』S3
大7頃。八八艦隊の計画ができた以上、水陸設備はあとまわしにしろと参謀長に建策する者があったが、斎藤は呉のドックを拡大し、さらに東洋一のドライドックを造らせるなどした。それは約3年でできたが、ワシントン条約でムダになったと見られた(p.199)。

▼『外交時報』第34巻(1921年下半)
大10-12-1に半沢玉城が書いた。陸軍の使命はシナ防衛にある。対米防衛は閑却。
「日本は平時に在ってすら対支経済関係を離れて其の国民生活を継続し難し、況や戦時に於てをや。《中略》故に日本の生存権を維持せんが為には国運を賭しても闘わざるべからず、……そは支那を抱擁して物資の自給自足を計るを先決要件とし、此の先決要件を取堅むるが為めにこそ日本国民は多大の保険金を投じて帝国陸軍を支持するなれ。」
※支那を兵站策源として英米の海上封鎖に本土およびシナ辺縁で対抗しようという構想がうかがわれる。この時点で陸軍はシナの領土には関心がなく、資源にのみ関心がある。

▼『郭沫若自伝4 北伐の途上で』小野・丸山tr. 平凡社東洋文庫S46、原1936、一部は1927

日本勢力支配下の大冶の製鉄所のために、田舎の鍛冶屋は廃業になっていた(p.12)。

屋内から蚊を追い出すためには、土間で蚊遣りの火を燃やす。さすがに暑く、石段の上でないと眠れない。
服を降ると南京虫が雨のように落ちる。焼くと、強烈な異臭がする。

退却した呉佩孚軍の旅団長が裸体で木に縛られて銃殺されていた。みぞおちに親指大の弾痕。呉佩孚じしんが督戦したのだ(p.31)。

公平なお役人さまのことを「青天大老爺」と昔の民衆は呼んだ。

当時の革命軍はまだ規律があり、また空約束の宣伝を連発していたので、農民から期待されていた。
北軍の発射した砲弾に不発が多い。メイドインジャパンだと笑う(p.65)。
シナ留学生は日本の近代化を「変法維新」と呼ぶ。またシナでは日清戦争は「中東の戦」である。1894からこの1926まで日本に留学したシナ人は40万人くらいだろう。

しかし日本人が初期に愛用した『英文熟語辞典』はシナでつくられたものなのだ。

広東を出発してから武昌城下につくまで、いちども正式の俸給なし。

正式の既定では政治部には人を逮捕したり殺す権限はない。北軍の大隊長の捕虜は、顔にいっぱい、アヘンの吸いかすがついていた。

旧軍閥にないのが、政治部、政治工作員だった。革命軍に帰服した軍隊は、まず政治工作員の派遣を求めた。
南軍はこの政治工作組織があるから勝利している、と敵軍も評価していた。

シナの都城は、兵糧攻めがいちばん効く。武昌には20万の人口がある。4週間で城内の食糧など食べつくす。
たくわえのない一般人は第一週から飢餓におちいる。

シナではごろつきの決死隊は次のように集められる。1人4円。軽傷を負えば100円、重症500円、死亡1500円の懸賞つき。

シナ語で「落下流水」は、さんざんに、ひどく、めちゃめちゃに、の意味。※『五輪書』「流水の打ち」の意味はそういうことか。
上海の娼婦、街娼、妾、女中はだいぶぶん蘇州の出身。蘇州では小作料を現金でとりあげるために地主が簡単に農民を搾取でき、女房や娘が売られることになる(pp.182-3)。

敗退した軍隊は、機関銃があっても臆病になる。とにかく砂糖きび畑の中しか歩かない。
シナの村は、土塀をめぐらし、その上にやぐらがあり、そこに旧式の大砲があって、流賊が近づくと警告に発砲する。兵隊くずれの泥棒を「兵油子(ピンユウツ)」という。兵隊の蔑称は丘八(チウパー)。

▼『郭沫若自伝6 抗日戦回想録』小野・丸山tr. 平凡社東洋文庫S48、原1948、1958

鹿地亘と夫人の池田幸子が香港に逃げてきていた。郭は、鹿地を宣伝要員にすることを提案した。日本に留学したシナ人では真の対日宣伝はできない。20年も滞日した郭ですらダメなのだ。ある外国語をモノにするには、小学校、中学校からその国の教育をうけ、シナ人ではなくなってしまうほどでないとダメ。20歳すぎて外国へ行き、老人になるまで学んでも、その外国語はモノにならない。3年くらい英米留学して帰ってくるシナ人で大葬なようすをしているのは、みなカタリだ。
※つまり日本人が英語で対米宣伝しようとするとき、ナチュラルにうまくやろうというのがそもそも無謀なんであり、米国人を雇って任せるか、さもなくば、とても不自然な印象を与えても良いので、事実だけをカッチリと書いて伝えるか、二つに一つではないだろうか。

敵が上海で「八・一三」戦役を開始した時、わが人形使い[蒋介石]は南京で急遽、8-21に、中ソ相互不可侵条約を締結した。それでも足りず、9-22には共産党と「共赴国難」という共同宣言を発表した。
その意味は、これ以上わたしをおいつめると、わたしは赤化しますよ、と蒋が日本にメッセージを出したものだ。しかし日本人は耳を貸さず、上海を奪ったばかりか、南京も奪ってしまった。
敵は西に追撃せずに、魯南戦役を始め、天津~浦江線をおさえて、満州-北支-東部沿岸をひとつに結びつけようとした。そこで武漢で郭らの宣伝が強化された。その宣伝の意味も、日本に対して、これ以上おいつめるのなら、赤化しますよ、と伝えるにあった。日本はそれにも耳をかさずに徐州を攻めた(pp.72-3)。

罪を加えんと欲すれば、何ぞ辞なきを患えん=シナでは他人を罰する口実などいくらでも創られる。
そのころ漢陽の兵器工場の労働者が、16時間労働の軽減と、賃上げを要求。国民党当局は、ただ弾圧。
国民党は、労組をあらわす「工会」は「公会」にあらためさせ、「農村」は「郷村」にあらためさせた。

日本軍は、江蘇省連雲港~甘粛省蘭州の朧海線を5-19に攻略し、さらに同鉄道に沿って西進し、北平~漢口線の南半分を奪って、大武漢の背をつこうとした。これを阻止したのが、6-11の黄河堤防破壊。河南省東部が沼沢化し、作戦できなくなった。
決壊箇所は複数で、「わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった」。これはシナの伝統戦術なのだが、シナ人民の被害の方が多大だった。日本軍は迂回戦略を放棄して正面攻撃に転換し、長江下流から水陸を並進し、直接に武漢を攻撃した(p.85)。

周恩来は、イヤな上司と協働せねばならない苦労について、誰もが我慢すべきだと郭を導いた(p.116)。
国共が合作していたこの時点で、シナの唯一の友好国がソ連。「空軍の義勇軍は鮮血を惜しみなくわが国土に注いでいる」。それに対してアメリカは、ガソリン、屑鉄、武器、綿花を日本に売って大儲けをしていた(pp.116-7)。

反動派のやり口は、外敵の圧迫がはげしいときには内部統制をゆるめる。外がゆるめば、内をしめる――というのは錯覚だ。じつは、かれらは、先ずカラいばりをして、敵の攻勢緩和をねらい、それで効果がないと、やむなく本音を吐いて、やはり敵の攻勢緩和をねらう。それだけのことなのだ。※今の北鮮と同じ。

シナ軍にも傍系と直系があり、直系は後ろで督戦。
シナの5里は約3kmである。

武漢大学には一発も爆弾が落ちなかった。敵はこの場所を残して利用する気だと推測したが、そのとおりだった。

国民党の党内共産党粛清を「清党」といった。李宗仁が徹底してやった。李の顔つきが誠実そうに見えるところが、彼のとりえであり、人々は彼に幻想を抱くのである。

汪清衛の日本への工作は「曲線救国」と呼ばれた。郭いわく、汪が早死にしなかったら、米国が汪を利用し、ロハスや李承晩のシナ版にしただろう。
戦争の刺激は強烈なので、落ち着いて鑑賞する必要のある小説や多幕ものの芝居は流行しなくなる。ルポルタージュか、うわずった詩歌しか聴かれることはない。

武漢の防戦中、ソ連はSB爆撃機とE15/16戦闘機を続々と補給してくれた。ソ連航空義勇軍は「正義の剣」と名乗っていた。かなりの戦死者が出たはずだが、ソ連は米国のように自己宣伝しなかった。ソ連の航空将校は生活規律が厳格で、飛行機の翼の下でテント生活していた。蒋もひたかくしにし、統計調査局という名の監視部隊に世話をさせていた。ジューコフもシナで顧問団長だった。武漢上空で日本機を迎撃したのは、事実上、ソ連パイロットだけである。4-29の天長節空襲では、30分間の空戦があり、敵機×21、味方機×5が撃墜された。※クルーを機側で常時待機させたのは、地上で奇襲を受けることをソ連軍は最も嫌ったからである。このため、関特演の動員後も関東軍は沿海州へ開戦奇襲空襲を仕掛けて成功する目途が立たず、まさにその故に、対ソ戦は諦められてしまった。こちらが奇襲準備をすれば、攻撃発起前に、一瞬早くソ連側が先手をとって満州の航空基地を大規模空爆すると信じられた。その場合、日本に万に一つも戦争の勝ち目はないというのが、東京の参本作戦課の判断であった。

郭は10-29日に長沙にでかけた。やけに大勢の乞食がたむろしているので、何だろうとのぞいてみると、それは乞食ではなく、「乞食にも劣る壮丁の一団だった」。冬なのに夏の木綿シャツ。元は白いのに泥色、ぼろぼろで胸がはだけ、片方の袖がとれていたり。大多数はズボンをはいていない。髪も髯も伸び放題。皮膚は土色で、そこに青や紫の不規則な斑点が出ている。飢餓状態で、不活発。番兵に聞くと、四川から送られてきた壮丁たちで、どこかの管区に編入されるのを待っている、と。

「私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているにちがいない」(p.198)。
後方部ではドライバーの経験のない者を多数、車の運転に使ったので、始終、公路上で事故を起こしていた。

長沙では警官まで撤退していた。
戒厳令下に、紺の制服を着た警備隊が出てきた。肩には小銃、手には石油罐か火桶。やがて市内の数箇所に火の手が上がった。警備隊が戸口をぶち破り、石油をかけて放火しているのだ。敵はまだ汨羅までで、城内には入っていない。
避難者用に一本の道だけは放火されず、人も車もそこに殺到した。傷兵・難民がどれだけ焼け死んだか分からない。
12月18日に、警備司令など3人が、この責任を問われて銃殺された。

事後に論ずるなら、人は誰でも諸葛亮。
武漢攻略直後の12-3の近衛の2度目の声明は効果的で、これで汪清衛は誘い出された。12-18に飛行機で重慶を脱出し、昆明経由、ハノイに。すぐに近衛は追い討ちの声明を出した。
新聞連載記事では、各節に小さい山がなければならない。

▼後藤・友枝校註『日本思想体系30 熊沢蕃山』1971岩波

「六韜に記す処の文・武・太公の論は、皆大なる偽也。後世事をこのむものこれを作れり」※素行がだまされたところに、だまされていない。

天下がおさまると将軍が参内する。そのときに大名も禁中に集まる。そして、公家のふるまいをみて、文化とはこういうものなのだと自覚するのだ。

もろこしでは仏教はとうとう禅学しか残っていない。日本も後世にはそうなるだろう。大衆は簡単なものを好む。一向宗がそれをはじめ、浄土・日蓮はその真似をして広めたのだ。近年、大衆は地獄や極楽を信じていない。
後世にはいよいよそうなるだろう。禅宗は、むずかしくなく、簡単に教え、しかも悟りを重視し、後生の地獄を問題にしない。これが文明の時にマッチしているのだ。

儒教では忌日は年1回だが、どうして仏教では毎月精進というのか。これは、坊主がたくさんになって収入が減ったので、都合のよい理屈を言い広めたのである。
日本は金銀が多い。小国である。異国は日本を欲している。しかし、武士がいるから侵略されないのである。したがって武士は遊民ではない。

足利氏は、敵の南朝が存在した間は、身内が堅固に結束していたが、南朝を廃してから、自滅した。孟子のいうとおりで、敵国外患は、必要なのだ。

辞世の作などしてはならない。死ぬのは天理で、それに無心に従えばよい。生に執着があり、名を好むから、辞世などを残そうとするのだ。遺言も無用だ。

湿田では裏作の麦作ができない。そこでは3割の年貢が限度である。にもかかわらず、そこからも6割とろうとする。けっきょく田畑を質にとられてしまう。代官が交替してあわてて年貢を下げても、総収穫はもとにはもどらない。

昔は籾で納めたが、いまは脱穀して納めているから、蔵の中で虫食いになって損している。酒と南蛮菓子にするために使用されるコメも昔の100倍はあろう。
これでは北狄(清国)が日本に攻めてきたとき、兵糧が足りなくて、困るだろう。北狄が「よも来はせじとおもふたのみは武備にあらず」。北狄が来れば人心は散ずる。諸侯はろくに兵糧もたくわえていないのに、どうして軍勢を出せるのか。大阪で調達しようとすればコメが値上がりし、細民に餓死者がでるだろう。あるいは強盗団が軍法者を大将にして暴れるだろう。特に、吉野・熊野の杣は強力で、しかも何千人もいる。

戦国時代に、日本のはげ山に森林が復活し、川は水量が多くなった。これは、奢りがなくなって、材木をとって堂寺を建てなくなったからである。しかし世の中を戦国にしなくとも、仁政を施けば、100年でもとの山川に戻すことができる。

鉄砲は目当ての稽古ばかりして、鹿鳥を打たせてはならない。というのはゲームが減ってしまい、弓を使った狩りができなくなるから。

五畿内の諸侯の使者は、鎌倉まで11日で達する。およそ使者は1日に7里~11里を行く。飛脚は12~15里である。この1里は36町である。※どんな飛脚でも1日に55km移動するのがせいぜいであった。

貞享3年8月の手紙で、来年か来々年は韃靼が攻めてくるから、今年の10月までには備えを整えなければ必敗だと。

▼蓑原俊洋『排日移民法と日米関係』2002
※米国両院とホワイトハウスはいかなる関係であるかがよく分かる。選挙対策としての議会の暴走は昔からあり、それは米国政府も止めようがない。もちろん暴走を牽引するエネルギッシュな議員がいる。

ハルノートから削除された譲歩項目に、1924排日移民法の撤回を行政府が連邦議会に積極的に働きかける、というものがあった。米国は17年経っても忘れていなかった。

1924-4に植原正直駐米大使が上院に送った書簡の中にgrave consequences とあり、これをヘンリー・カボット・ロッジ外交委員長がveiled threat だと騒ぎ立て、議員たちは排日法に一斉に賛成した。
じつは、この文句は植原が入れたものでも、松井外相が訓電して入れさせたものでもない。国務省内の親日の極東局長のマクマリーが提案し、やはり親日のヒューズ国務長官が植原に強く促して書き込ませた文句であった。
しかしヒューズはこの事実を遂に語らず、植原も固く秘密を守ったまま59歳で悶死した。

1906-10-11に、サンフランシスコ市教育委員会は、市内における全ての一般公立学校から日本人学童を隔離して、別に設けられていた東洋人学校に強制的に通学させる決議を正式に採択した。※正確には日本人と朝鮮人であろう。ウェイトは朝鮮人にあったが、アメリカ人の目からは区別できない。また日露戦争後は、法的にも区別がしにくくなるはずであった。

紳士協定は写真花嫁を呼び寄せることを禁止しておらず、そのために500人枠を超えて日系人の人口が急増しいた。
ウィルソンは珍田大使と会見するまで加州の排日の深刻さをまったく理解していなかった。

WWI中、21カ条要求がシナ側の宣伝によって誇張された形で全米に知れ渡ると、1911の辛亥革命で姉妹共和政体ができたとイメージしていた米国人の対日感情が悪化した。
さらに1919-1-8からのパリ講和会議で、ロクに陸兵を派遣しもしなかった日本が手前の利益のことばかり主張し、他の重要案件には無関心のように見えたため、米の対日世論はふたたび悪化。※アメリカは200万人を派兵して11万人が死んでいる。桁違いの貢献をしていたが、要求した分け前はつつましかった。日本はその逆。

1798頃、アメリカは洋上でフランスとたびたび武力衝突していた。半戦争状態。ところが国内では、ジェファーソン一派が、親仏的だった。
というのは、あとから移住してきたフランス系移民が、ジェファソン派の支持母体だったから。仏革命はこの移民を急増させ、ジェファソン派も勢力を強めた。

1819移民法は、アメリカに船が到達する前に、乗客の5人に1人が死亡するという実態を改善するために、輸送方法の改善を強制したもの。
1840年代、アイルランドのポテト飢餓のため、カトリックがアメリカに大挙移住してきた。これを制限すべく東部諸州は、一人2ドルの人頭税を州法として通過させた。極貧のアイリッシュにそんな金はない。よって移住できない。

1849頃、上海や香港まで、米国の東海岸や西海岸から、クリッパー航路が開設された。米史上はじめて、黄色人種が大量に渡米するようになった。
ゴールドラッシュが過ぎると、シナ人移民の過剰労働と低賃金が、全米に賃金デフレを招いていると認識され、The Chinese Must Go! 運動が1850年代後半から生じた。
これが中断されたのは、1861の南北戦争と、その戦後の東西横断鉄道建設ブーム。クーリー・レイバーが必要となり、最大時にシナ人が1万人に増えた。
南北戦争中、北軍兵士を増やすためにリンカーンは1864移民法をつくった。1年以下の専属労働契約を企業と結べば、アメリカへの渡航費用を移民会社が負担してよい。また、移民に関するあらゆる事項は国務省の管轄とされた。最初の移民局はNYにできた。

1891の修正移民法では、性病や感染病にかかっている者、一夫多妻主義者、道徳的に卑劣な罪で有罪判決を受けた者が排斥の対象となった。※栄養不良で不潔だと眼病になる。これはとても識別しやすい。スタッテン島のチェックで眼病のため上陸を許可されず追い返された東欧移民はかなりの数になるはずである。

欧州は1890から不況で、そのため東欧・南欧の移民が増えた。ニュー・イミグラントと呼ばれた。※アイルランド系がようやく警官になれる社会的地位まで上昇したところに、イタリア系が港湾労働者として流入した。

移民帰化委員会が1924-2に下院に提出した報告書。国家同一性national homogeneity を保つためにも、容易に同化しない新移民の入国を制限することは必要不可欠だ。また、外国の政府に忠誠を誓っている者を合衆国に入国させることはできない(pp.124-5)。
※白人労働者との利害対立や農地所有の問題が触れられていないのは、移民帰化委員会にとってその実害がさして重要ではなかったからだと著者は書いているが、これは公文書で美しいタテマエだけ書いているからだろう。

その頃、黒人に対するリンチを禁ずる法案が下院で審議されていた。これに南部の民主党議員がこぞって反対していた。この南部民主党の意向に、加州の議員はすこしも味方しなかったので、お返しとして、南部の選出議員が、西部の排日法案に大反対した。

ヒューズは日米紳士協定の内容を議会で説明しようとしなかった。※そのことを非難するような書きぶりとなっているが、ヒューズも忙しいんだよ。DCの日本大使館こそ、議会に直接に宣伝し説明する義務があった。

他の州の共和党議員にとって、日本を犠牲にするのが、いちばん選挙に打撃がなかったのだ。

日本外務省の若手外交官が最も憤激した。なぜなら米国が手本と教えられていたので。石井菊次郎はアメリカに愛想を尽かし、日本軍の満州事変を擁護するようになった。

排日移民法に強い抗議をしないことが、「幣原外交」の初仕事になった。この常識はずれの卑屈さが、大正民主主義を破壊する。

幣原は、船舶交通税は人道問題ではないが、排日法問題は、すでに米国に移民して住んでいる人たちにとって死活問題であることに鈍感だった。牧野伸顕はそこは分かっていた。※通州事件でもシナ人にかくまわれて殺されなかった日本人が百数十人いる。その違いは何か。海外で排斥された日本人の類似点は何か。日本国内で農業ができず、外国ならできる連中は、どういうフレンドリーなムラをつくろうとしたのか。幣原らは知っていた。
格差社会であった戦前の高級官僚は下等民を見殺しにすることがよくあるだろう。しかし政治家がその態度では許されない。
幣原外相の時代、日本の対米貿易依存率は4割。絹を買ってもらっていた。

加州についで日本人が多かったワシントン州も排日法を大歓迎。ところがシカゴ以東では44有力紙のうち40紙がこの法律に否定的論評。なにしろ排日法なしでも、日本人の移民枠は年に146人でしかないのだから。
最も排日移民法に批判的だったのがニューヨーク州。※日露戦争中、アメリカの軍艦に日本人のボーイが多数、乗り組んでいた。母港はニューヨークである。金持ちの屋敷にも日本人が多数、雇われていた。家族ぐるみの農業移民ではなかった東部都市部へのバラバラの移民は、現地コミュニティに何の問題も起こさなかったのだ。要は、集団でいる日本人の百姓がキモすぎたのである。

JPモルガン商会のラモントは、全米日米関係委員会の委員であり、著名弁護士たちを動員して排日移民法に反対する決議書をつくったりした。
1926にトインビーは書いた。イギリスの観点からも、1924の日米論争は大きなできごとだった。つまり戦争の可能性が懸念されたし、日本人がインド人の反英運動をそそのかし、人種間戦争を後援する契機になるかもしれぬと思われた。
徳冨蘇峰は、排日移民法が施行される7-1を国辱の日と命名し、米国と手を切って東亜の盟主になるという考えに傾斜していく。自由主義者たちは「踏まれても蹴られても、いまなお米国を先輩国、恩人国とみる人士」だと。
出口王仁三郎は、アメリカに移民できないのだから、こんごは蒙古にいくしかないと思うようになった。
石原莞爾は、日米戦争は不可避だと判断した。
クウェーカーの新渡戸は「この法律が撤回されないかぎり、断じてアメリカの土は踏まない」と誓った。満州事変直前の1931にもまだ感情が静まっていなかった。同年の英文著作の中で、日本は心中けっしてこの法律を許しはしないだろうと書いた。ある国が他の国民の心に猜疑と憤懣の種をまいておきながら、平和や国際親善をいくら口にしても空疎なことだ、と。
内村鑑三は、なるべく米国人の教会に出入しない、なるべく米国品を使わない、等の米国ボイコット運動を提案した。
金子堅太郎は、怒りのあまり、日米関係委員会の会長を辞任した。
渋沢栄一も、ガックリ来た。
唯一、石橋湛山は、シナ人の日本移住を排斥しているのだから、アメリカを非難できない、と考えた。
また尾崎行雄や水野広徳は、普通選挙法のない日本が平等に扱われなくてもしかたないと公言した。
ワシントン体制を支える日本の政党内閣の基盤は強固だった。そこで石原莞爾は、日本の内部ではなく、外部である満州で反ワシントン体制の運動を率先する必要があった。それを日本が輸入することで、ワシントン体制は崩壊した。
元外相の後藤新平は、排日法の成立で対ソ接近を思いつき、1925-1-20に日ソ基本条約が締結された。
オランダは、この排日移民法の成立により、日本は蘭印への南進を開始すると予測した。オーストラリアも人種戦争を予期し、白色人種の結束を呼びかけた。

キプリングの詩には後半がある。東と西が直接面会すればそこには国境も人種もないと。

▼保阪正康『昭和史がわかる55のポイント』2001、PHP文庫、原1988
大正15年12月28日、天皇がかわって最初の勅語は、昭和天皇自身が筆をとった。その中に「日に進むに在り新にするに在り」と。※『大学』には「日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」と、湯王の盤銘が紹介されている。つまり手水のタライに彫ってあったので、よごれを洗い落とすように、心も清めて、毎日、旧来の悪習を除けば、君主が新たになり、それで民も新たになる。周は古い国家だが、まだ若々しく、寿命はつきないのだ、と自分にいいきかせた。

著者いわく、大正の反軍的デモクラシーがなぜ昭和で一挙に変わり、陸軍軍人が威張るようになったかの理由は、新しい天皇へ軍人たちが報いようとしたからだ。※大正にはソ連が弱かった。昭和に急に強くなった。理由はそれだけ。資料を博捜しながら最も大きな構図を見落としているのが保阪氏の癖である。

政党に対する信頼が薄れたのは、恐慌に対する政策がまったくなかったため。

昭和初期には「知識人」は20万人いたと推定される。彼らはS10の天皇機関説事件で、すっかり黙ってしまった。美濃部の弟子の宮沢俊義は、大衆からの美濃部非難の手紙のレベルのあまりの低さに、日本には言論学問の自由は根付かないと悟ったという。

ドイツをひたすら信じた昭和陸軍の不思議さ。規律正しさや生真面目さが、日本軍人にはもっとも受け入れやすかったのか(p.89)。※そうではなく、奇襲開戦主義を高度に理論体系化していたのがドイツの軍事学だったから。それだけ。英米の島帝国には、奇襲開戦の必要がない。英米を味方にするWWI後の仏も同じ。ソ連も広すぎるので奇襲開戦の必要などない。ドイツにだけ、その必要が常にあった。それこそが日本の求める活路だった。

永野修身が、山本GF長の意見をいれ、オアフ島奇襲計画をまとめたのが、1941-10のこと。最終的に決まったのが、11-5の御前会議の帝国国策要領。そこに、海軍の作戦計画として、「開戦劈頭、空母基幹部隊をもってハワイを奇襲し、米艦隊主力の西太平洋機動作戦を未然に防止し、かつその勢力の漸減を図って、主として南方作戦を間接的に支援する」と。※「奇襲」の字が入っている。しかも奇襲開戦である。これではパリ不戦条約違反だ。これを天皇が承認したのだから、東京裁判はまったく恐ろしかった。じつは永野は獄中で自殺したのではないか。

休戦会談がはじまるまでの1年間に、47万人の韓国民間人が死傷した。
マックは、警察予備隊の創設を立法府で決めさせず、内閣の政令で決めるように吉田に申し渡した。吉田は旧内務省の地方局畑の官僚に、具体案を練らせた。かれらは警保局畑よりもリベラルだった。
警察予備隊令は2年の時限なので、保安隊と改称することに。

サンフランシスコ講和会議に、アメリカは国府をよぼうとしたが、英国が反対。中共は条約案に反対なので、参席せず。
インドは、占領下にむすばれた防衛協定がそのまま安保条約として日本を拘束するのでは、日本は実質、独立国ではなくなるという理由で不参加。
内務省統計によれば、アメリカ兵が日本人相手に起こした事件は、予想されたよりは少なかった。
S24の犯罪者は、泥棒ですむところを強盗、強盗ですむところを強殺、控訴上告ですこしでも長生きができるところをあっさり死刑判決に納得するなど、生に対する執着が薄い。直接に戦場を経験したためである、と。

S35の安保闘争は、岸が体現する戦前流の強権的指導に、国民が嫌悪感を示し、戦前を拒否するという儀式だった。
つまり、反安保ではなく、反岸だった。外相の藤山愛一郎が改訂の主役だったのに、藤山への怒号は皆無だった。

また芦田均日記1948-7-8によると、宮内府長官田島道治と真剣にabdication(退位)について話した、と。8-29、田島は芦田に、周囲の情勢(アジアの共産攻勢とアメリカの反撃体制づくり)は退位を許さない、と。

高松宮は開戦論者だったのに、文藝春秋の1975-2月号に、和平の主柱だったとフカし、これに昭和天皇は激怒した。
昭和天皇のお印は若竹。秩父宮は若松、高松宮は若梅、三笠宮は若杉。

▽南米雑メモ
1776米独立。1823モンロー宣言。1845テキサス乗っ取り。1846カリブに海兵隊のせた軍艦を遊弋させる。コロンビアからパナマ地峡の利用権を奪う条約。米墨戦争。1847-3ベラクルス港を閉鎖したうえ艦砲で無差別砲撃。各地市民ゲリラは広場でみせしめ処刑。1847ニカラガのサンファンデルノルテにマリンが上陸。1850英とクレイトン・バルワー条約。1895傭兵隊長ウォーカーがニカラガとホンジェラスを荒らしまわる。1856ウォーカーがパナマで騒ぎをおこしてマリンがパナマを占領。1861-12ナポレオン三世は南北戦争に乗じ、スペインと英を誘ってメキシコへ介入。1885パナマにマリンを送る。1898-2ハバナ港でメイン号沈没。4月に米西戦争。1900パナマに海兵隊を派す。1901ニカラガに軍艦を派遣し、サンチェス・メリー条約に署名させる。1903パナマがコロンビアから分離独立。ホンジェラスにマリン送って選挙干渉。1906キューバにマリン派兵。1907ニカラガのフォンセカ湾に米海軍が侵入して占領。1909-12ニカラガに軍事干渉。1912キューバにマリン侵攻。1914-11メキシコのベラクルスをマリンが占領。1915-7マリンがハイチに上陸し占領。1916-3ドミニカ共和国を軍事占領。1917-2米はキューバに四度目の介入。1918ハイチで米軍に対する叛乱。これを翌年鎮圧。1919コスタリカ沖に海軍とマリンを派し大統領を交代させる。1924-3ホンジェラスにマリンを送り首都占領。1926-12ニカラガのエルブルフ市をマリンが占領。1927-1ニカラガの首都マナグアをマリン占領。1933-12ラ米への善隣外交政策表明。※WWIに乗じて21カ条要求をシナにつきつけたのが日本の評判を落としたが、そのときアメリカも南米に対して好き放題のことをやっていた。そのカウンタープロパガンダを日本政府はしなかった。

▼弘法・山崎共著『水田と畑』1954-5
春先に晴天が続いて田の土がよく乾いた年は、水稲がよくできる。これは土の中に毛細管ができるため。※冬期も水田に冠水させておけば農薬は要らなくなるだとかの、複数の専門書にあたればすぐに嘘と判明する話にコロッと騙されてしまう愚かなインテリがこの頃は少なくないという。それだけ日本式水稲作の実体験=常識を有する人口が日本に稀になったのだろう。過去の日本農業の常識が分からないと、過去の日本の軍事国策の真相も分からない。

北海道の火山灰土は、石灰を十分に含んでいるので、開墾後、いきなり作物ができる。本土では雨で石灰が抜けているので、石灰、堆肥、燐酸を多量にほどこさねばならない。
アメリカ人は日本占領中、下ごえをかけた野菜はきたないといって、コンクリート床の上に小石をしき、養分をとかした水を流し、水耕栽培でトマトやカブを作っていた。

コロラド河は、降雨がきょくたんにすくなく、しかも冬に雪となって降るのがほとんど。春先にそれが融けて、下流は洪水。水の必要な夏には日照で作物全滅。これをならすために、ボルダーに大ダムをつくった。1931着工、1936完成。工事最盛期には5200人を雇用した。
このダムの発電により、南カリフォルニアにWWII中に軍需工場ができた。
またこのダムにより年間をつうじて1000万人の上水が確保された。※フーバー大統領の大不況対策。日本も琵琶湖の南北に本州縦断運河をつくって不況を克服すべきだった。

新潟の亀田郷では、排水事業を行なうと田押し舟のかわりにリヤカーが必要になるというので小農家は反対した。
国営事業では、国費5割、県負担25%、地元負担25%で、まるで貰うような土地改良。こういう仕組みでは、地元ボスが利権のために事業を導入するので、耕作者は、せっかく改良された土地を熱心に利用しない。

千葉県には、用水が不足なので、あえて冬の間も水をためておくという人工湿田がある。※5年ほど前の成田の周辺にまさしくそのような水田があった。

竹を暗渠にするときは、二つ割りにして節をとり、縄で結んで埋設する。

富山県の谷川は急流で、ほとんど暖まらずに扇状地までおりてくるので、反収はわずかに1石6斗である。

アメリカの農村は、点状村落。戸別経営でしかも耕作面積が広いから。平均63町歩も耕す。よって社会生活の便利は犠牲にされてきた。
先年、静岡県大宮市の高校生石川さつきさんが村の選挙の不正について当局に投書したために、その一家が村八分にされた(p.209)。

▼タイムス通信社『国際パンフレット通信』(毎月6回9冊発行)

ラ米のなかではブラジルのヴァルガスらが反日を煽り、移民制限している。日本はラ米から何も買っていないのが背景にある。

エチオピアの山岳では戦車は有効ではない。対戦車砲はスペインで初登場し、防禦側がふたたび有利となった。
ソ連、イタリア、ドイツから技師が応援にくるまで、スペイン人は戦車の修理ができなかった。ソ連が援助した

工業からの救援を断たれた農業生産は、極度に略奪農法化する。

戦時中のイモ増産は、緑肥作物の作付けを犠牲にして強行されたので、飼料不足となり、家畜は現象し、それが自給肥料を減らし、地力略奪農業に転落。

欧米の酪農の特徴は、搾乳業者が繋養牛を飼育したところから始まっていること。農家が主導しておらず、農業経営とまったく切断されていた。

恐慌いらい、全国で緬羊がやたらに増えた。しかし飼養農家の7割が、2頭以下の零細規模。要するに農場の廃棄物を餌に、サイドビジネス的に稼げる気楽さから選好された。
ベルギーとスイスは農業人口密度が高い。デンマークは逆に、農業人口密度が低く、経営規模が大きい。また国家の人口密度が低いので、労働賃金が上昇した。そこで労働節約的な先進的な高度な農業が、デンマークで実現した。
夏に高温多湿な日本では雑草が繁茂するから、休閑は逆に耕地を荒廃させてしまう。裏作することで、耕地を肥沃化させられる。

雇われドイツ人技師のコンシエルトは、M15に、やたらに開墾するよりも、いまある耕地の増収を図った方がいい、2割5分の増収は、耕地を25%増やすのと同じことだから、と提言。しかも開墾地とちがって、ただちに結果が出る。

デンマーク農法の契機となった農業恐慌は、1880年代に北米の穀物が鉄道を使って集められ、汽船でヨーロッパにドッと輸出されたために、穀物の価格が破壊されたことから。

酪農化が酪農品を食べずにコメと味噌汁にこだわっている。これがいけない。牛乳を売ってコメを買っているのだ。

▽農業と人口の雑メモより

WWIIの諸国の動員率はWWIより低い。機械化軍を、より多くの労働力が支援しなければならなかった。
1931~2の失業/人口比は、欧より米が高く、資源の多寡と人口問題とは無関係である。
ロシアはWWIを爆発中の農村人口で戦った。1928から工業へ人口移動。ブレスト=リトウスク条約で人口の26%失う。

7世紀以前の金属工業は水車に依存していたので、工業人口も農村に分散していた。

▼河口慧海著、高山龍三校訂『チベット旅行記(一)~(五)』1978講談社学術文庫、原M37
※これには1909英訳版があり、“Three Years in Tibet”という。映画の『テン・イヤーズ~』は、このタイトルを意識している。ネパールへ出かける自衛官は、この本を読まねばなるまい。

河口はM24から宇治の黄檗山で一切蔵経を読み始めた。サンスクリットの原書はひとつであるはずなのに、どうして漢訳に意味の180度違うバージョンがあるのか。どうしても原典にあたらねばならぬ。

ついで、ダージリンでチベット語の勉強。俗語は子供に習った。男子よりも女子、女子よりも子供が、発音の少しでも間違ったことは決して聞き棄てにはしない。間違いを面白がってすぐに指摘してくれるから俗語を習うのには良い。M31の1年間を昼夜、チベット語修得についやした。

チベット人は経文を読まずに積んでおいて供養する。内容など理解しようとしない。

水が貴重なのでほとんど身体を洗わない。ごく稀に洗っても顔と首筋だけ。他はみるからに黒光りしている。この不潔に慣れないとチベットでは飯も食われない。

雪豹が旅人を襲うという話を聞かされたが、見たことがない。
火を焚いているとよってこないという。スノー・レオパルド。チベット人はシクという。
ところが夜、火を焚いていると強盗が寄ってきて殺される。そこで砂をかけておくと、翌日の朝まで熱が続く。

行路死体の骨には頭の皿と足の骨がない。仏具にするために通行人が持ち去るため。

野宿ではまず、ヤクの糞と、キャンという野生ロバの糞を拾い集める。それが唯一の燃料。着火は火打石と皮の鞴。茶を煮るときは天然ソーダ水を汲んでくる。いたるところにある。

チベットでは月曜日にできた子供はダアワと名付けられる。「月」。金曜日はパーサン、日曜日はニマ。

なぜか日本でもチベットでも阿弥陀様を祀ってある寺は収入が多い。
行商人は荷馬をつれている。ときには100疋も。乗馬のみの男たちが現われたら、それは山賊強盗である。

モンゴル人いわく、チベット人は腹が立ってもにやりにやり笑っていて、あとで酷く仕返しをすると。

チベットでは秋の末に家畜類を殺して肉を貯えておく。ハエがいないので、ただ吊るしておけば干し肉になってしまう。

インド人は厠に水をもっていって左手で洗うが、チベット人はまったく尻を拭かない。上は法王から下は羊追いにいたるまで。
チベット暦は、トルキスタン暦。
川魚はよくいるのだが、魚を殺すのは罪が深いといって人々はとらない。ヤク、羊、山羊を食う。豚を食うのは在留シナ人だけ。

法王は政治に苦慮していた。英国にのっとられることを一番おそれていた。また身を守る智恵があって、毒殺をまぬがれている。8代~12代の法王はみな、25歳未満で毒殺されている。近臣がうまい汁が吸えないので。

チベットの最低カーストから二番目は、渡船者と漁師。

チベットではチャ・ゴエ(禿鷹)にくわせるのが一番よい鳥葬で、仏法では「風葬」というもの。次が火葬だが燃料がないから、稀。土葬はもっとも下等である。
これは、天然痘で病死した患者に適用する。鳥に食わすと菌が拡散するので。
水葬は死体をバラバラにして川に流して魚に食わせる。これも天然痘患者は不可。

鳥葬は、死体を解剖し、骨をよく砕いておく。すると、鳥が食い残すのは髪の毛だけ。
法王や高僧は塩に100日埋める。すると水分がぜんぶ吸い取られて死体は材木のようになる。それに漆喰のようなものを塗って、像にこしらえて祭る。
ラサでヤクや羊を殺すものは仏教徒ではなく、シナ人の回回教徒。これが皆、屠者である(3巻pp.164-5)。

日本にもむかし、真言宗に立川[たてかわ]流というのが起こって、陰陽道をまぜたセックス教をはやらせたことがあったが、チベットの旧教はもっと大々的。

法王だけは世襲でない。しばしば貧賎のなかから出ている。母親から乳離れすると寺に向かえ、特別の教育をほどこす。前生が立派なラマであるから、その生まれ変わりである自分は決して人から馬鹿にされない、という気象が満つるように仕向ける。この自信が不可欠なのだ(3巻p.178)。

チベットの平民はいくら貧乏しても盗みをしない。しかし下層民は強盗を平気でする。違いは、一見して見分けがつく。

蒙古人はかなり金をチベットに貢献した。しかし義和団事件いご、モンゴル人はチベットにあまり金をおくらなくなった。こうなると、ますます鎖国は維持しにくいはず。

坊主になると、人頭税を納める必要がない。

ロシアは30年前からチベットに工作をしかけている。モンゴル系のブリヤート族を征服したことがあるので、自信がある。ギリシャ正教を押し付けず、仏教を逆に奨励して僧侶をとりこんでいる。

カシミールでは一年中ほととぎすが啼いていると聞く。そこに昔存在した仏教王国チャン・シャンバーラが、回回教のためにほろぼされてしまった。ラマ新教の予言に、そこに仏教の大王がまた現われるという話があり、ロシア帝国は、その化身こそツアーリなのだと宣伝しているという。
またロシアは、交易のためではなく、宣伝のために良い物資をもってきて、チベットで配り、イギリス製品よりロシア製品の方がすばらしいという評判を狙っている。

日清戦争でシナ政府の威令がチベットで消えてしまった。チベット法王としても駐留シナ軍に頼ることができない。もはや英国に全土を支配されないためには、ロシアに頼るしかない。
河口は、ロシアから対英戦争用だとして駱駝500駄で送られてきたという銃器を1梃見せてもらった。それはアメリカ製で、遠射に向かないものであった。※シャープス・カービンのようなものだろう。

ロシアの鉄道端末からチベットのラサまでは、軍隊が到達するのに5ヶ月はかかる道のりがある。
チベットに最初に仏教を入れた大王は、シナから公主を娶った。だから国民の対支感情は良い(4巻p.106)。
のみならず、シナの五台山には文殊菩薩がいて、その化身として世に現われているのがシナ皇帝だと信じている。
ただし日清戦争以後は、シナ人を軽侮する気持ちが人民に生じてきた。※インド人にとっての日露戦争に相当するのが、チベット人にとっての日清戦争であったのか。

ロシアの狙いはチベットそのものではなく、その先のインド。これ常識。

チベット人の妻子を思う情は深いもので、とうてい合戦の間に合わぬと思われる。
蒙昧な人民でも、神は怖い、仏はありがたいと、キャラクターの区別がついている(4巻p.167)。

仏教徒は解脱、つまり精神の最大自由を得ようとするのだが、耶蘇教は神という無限の勢力者がいるために人は絶対的自由は得られないとする。また因果の道理が耶蘇教では明らかでない。だから両者は相容れない。
チベットではまったく耶蘇の布教は失敗に終わった。

インド人は草花の固有名詞を何もしらない。興味がないらしい。

ちょうど、奥中将がインド皇帝の戴冠式に来ていた。ボンベイには三井物産あり。

▼布施知足『イランと支那文化』S18
魏書に、イランのことがハルシヤとして出てくる。これは最古の都をギリシャ人がFarsと呼んだのに由来する。
イランとはAriaのことでペルシャ人の自称。ペルシャというのは他称。それで1935にペルシャの名を廃した。

西域では、イラン語にちかいZogdiana語が国際語になり、それはトルコ系のウイグルがマニ教化する8世紀まで続いた。仏典も多くZogdiana訳されたのである。そこで同語を解する景教僧Adam(景浄)が唐に雇われ、AD781の六波羅密教の漢訳作業を助けた。この他、大無量寿経の訳者もゾグド人。安息の王族・安世高も仏典を漢訳した。
仏典はイラン語に復してはじめて意味のわかるものが少なくない。
Sheerとは獅子である。阿羅憾とは、アブラハムである。イランの鳥葬は、死体が埋められると土地が苦痛を感ずるという信仰があったので。
隋唐を通じて、南海通商の支配者はペルシャ人だった。宋いらい、アラブ人が参入した。

▼ローレンス・R・クライン著、篠原・宮沢tr.『ケインズ革命』有斐閣S27-5、原“The Keynesian Revolution”1947
訳者はいずれも東京商科大学(一橋大学)卒の助教授。

著者はポール・サムエルソンのケインズ経済学の講義を取った新進。日本人は、戦後のこのクラインを通じて、ケインズ理論を知ったと。※98~99頁を読めば分かるが、ソ連のすばらしい成功はケインズ理論にもかなっているからだ、と宣伝する立場。米国東部の一流大学にソ連礼賛者がいた、その雰囲気が想像できる。

新しきものが古きものに置き代わろうとするときには、必ず誇張と行き過ぎがある。

自由貿易の命題。比較有利な財貨を生産し、比較不利な財貨を交易することは、各国にとって有利である。有用な財貨の輸入に不利はありえないが、国防産業の育成、幼稚産業の保護、反ダンピングについては、その限りでない。

1925に英国が戦前の平価で金本位制に復帰したので、ケインズは猛然と批判文を著しはじめた。これこそ彼が1918いらい反対してきたデフレーション政策だった。それでは英国内の賃金と物価が下がり、得をするのは不活動な利子生活者だけである。※なんでもイギリス政府のまねをしていればいいという日本外務省の役人出身の政治家が、日本人を不幸においやることもある。

だから家庭の主婦はもっと消費すべきであり、政府はもっと公共事業に支出すべきである、と。
またこのときケインズは、自由貿易は激しい失業期には得策でないと俄かに態度変更し、イギリス製品を買いましょう、という消費運動を呼びかけた。
ケインズは1923には保護関税が雇用をたすけないと主張していたのだが、その主張もひるがえした。

不況がまったく改善されない現実を観察するだけで、ケインズには、投資機会は低利子率で無限にあらわれるものではないと認めることができた。

ケインズが禍の源とみなしたのは、不断に変化する投資率。古手の学者は、資本が不足するから投資がされなくなる、よって、人々が過度の消費を慎んでくれれば好況が持続されると考えたが、ケインズは、投資機会がなくなるのだと説明した。また、過度の消費は決して悪いことではなく、それが投資支出と同じように、所得や雇用を刺激してくれるとした。
過剰貯蓄または過少消費が有害であるというのがケインズ。

事業家は、未配当利潤、減価償却、その他の準備金を通じて蓄積されてきた余剰資金から、投資活動を賄いたがる心理的な性向をもっている。
1920'sの合衆国の住宅建築のブームは、住宅資本の蓄積をもたらしたが、それは家賃を引き下げるほどのものであった。その後、長期間にわたり、住宅建築の新投資は低調にとどまった。
企業の新機軸か、戦争がないかぎり、投資活動の水準は停滞する。

予備的動機。必要な最低水準以下には現金残高を落とさない。
ケインズは、伸縮的な賃金で完全雇用が保証されるとは考えない。賃金引下げは悪い結果を生む。それは生産水準を上昇せしめず、雇用を上昇せしめない。
所得水準にかかわりなく貯蓄は自動的に投資に流れるとするセイの法則をケインズは放棄した。

もし賃金が粘着的でなかったら、賃下げは超デフレーションか完全雇用をもたらすかもしれない。が、それは非現実的。賃金はそんなに伸縮しない。

ピグーとの論争で、ケインズは理論的には勝ったものの、読み苦しい人格攻撃の挙句であった。彼は学問上の試合の規則を殆んど守らなかった。※若い学者ならそのくらいの客気がなくちゃね。

ピグーは、公共事業にたいする政府支出は利子率を上げる圧力になるから、投資目的の民間借り入れをできなくするだろうとした。ピグーは、投資の捌け口の枯渇を想像できなかった。非ケインズ派にとり、民間投資と公共投資はゼロサム関係なのだ。

イギリスのC・H・ダグラス少佐は、アマチュア経済学の奇説家として有名。過少消費論。緑衣隊と反労働宣伝の反セミチズムのすべての要素をあつめた戦前の運動のひとつ。「しかし煽動政治家は、往々にして重要な点をつくものである」(p.141)。

奇説家(crackpots)のひとり、N・ヨハンセンは、1908に、ケインズに先行した著述を発表。Multiplyingprinciple によって企業活動が経済全般に広がると、高水準の投資にともなった高水準の繁栄が生ずる。しかし貯蓄が投資されないときには必ずや不況が生ずる。
ヨハンセンは、1920'sの自動車と住宅の大きな拡張を予測できなかった。

ケインズいわく、戦前の自由主義は、資源配分の問題を適切に解決したが、失業の解決だけは失敗した。

煽動政治家は、大量失業を基盤としてのしあがる。失業者は、もし仕事が与えられるなら、どんな危険な議論にもすすんで耳を傾ける。
合衆国生まれのファシストたちが、1930年代の10ヵ年間に経済を改善するという約束によって、多くの追随者を得た(p.167)。
ファシストが登場し、戦争準備のための兵器を生産することで、完全雇用は実現されるであろう。※F-22は日本の失業救済にはたぶん役立たない。
アメリカにはケインズ主義=社会主義と警戒する者が多い。しかしケインズは私人の生産財所有権を侵害する思想をもっていない。※要するに中西部の共和党か。

1930年代の米国では、デフレギャップの大きさがあまりにも過小に推計されてしまった。ために、完全雇用に必要であった政府活動水準には、遥かに及ばないようなちっぽけな政府支出しかなされず、そのために10年間も大不況が続いたのである。
1929年の統計を回復の基準にしたのが間違いのもとであった。人口は増え続けていたのだから。もっと高い目標を据えるべきだったのだ。

合衆国のあらゆる大都市地区にある貧民窟は、一掃されて現代的な低廉なアパートによっておきかえられねばならない。
公害の低減、幹線道路、都市の再開発は、民間企業に任すことはできない。投資家のリスクが利潤にくらべて大きすぎるからである。また、投資の回収にはあまりにも長期間がかかるか、もしくは投資の回収などありえないからである。その危険を負担できる機関は、政府しかない。
ただし政府は、民間企業に補助金をあたえて、リスクをカバーしてやることもできる。また、法人所得税をまけてやるというインセンティヴもありえるが、これは案外、投資を刺激しないものだ。

1932~1941に、長期利子率が著しく低落したが、高水準の投資活動は一向に観察されなかった。投資表は、利子にたいして非弾力的だ。
17年間保護される特許制度は、左右の双方から、企業の新機軸の投資を阻害していると批評されている。

欲望をもつ人々は往々にして資源をもつ人々を動かすことができない(p.181)。
失業をなくすために公債を起債することは、生産手段(鉄鋼、コンクリート、機械、トラクター)が民間所有である西側世界では、避けがたい。
経済が成長しつづける限り、公債の利子負担は恐れる必要はない。

▼デイヴィッド・ブリン著、大西憲tr.『ポストマン』1998、原1985ハヤカワ文庫
※古書で販価¥1-円也だったが、読者の評価は実に正しい。このキモいヒキコモリ妄想SFを一回読み通す必要があるわけは、どうも米軍が参考にしている兆候があるから。

核戦争のEMPで通信が壊滅したままだという設定。※火花放電のモールスで、かなりの距離の無線通信は可能。ナポレオン時代の腕木通信や、WWIの砲兵の回光通信機、インディアン式の狼煙、独立戦争当時の信号火箭、アフリカ式のトーキングドラム、高砂族式の肉声通信、パラボラを使った空中伝声管だって工夫できるだろう。著者は郵便史を調べる前に通信史の本を読んだ方がいい。

▼ロジャー・ゼラズニイ著、浅倉久志tr.『地獄のハイウェイ』S47、ハヤカワ文庫、原“Damnation Alley”,1969.

元ヘルスエンジェルスで、握手をしない主人公。からの手をつきだすのが、むかしはナイフを持っていないという意味だったが、左利きなら、一杯食わすことができると。

著者は1938オハイオ生まれ。コロンビア大学卒業後に6ヶ月のROTCを終えた。※ベトナム戦争には行く必要はなかったが、朝鮮戦争には行ったかも知れないという歳まわりだ。

▼福島秀治『日本農業電化の展望』S28-3
S16までは、農業用動力は石油発動機がほとんどだった。
S17に戦争の統制のため石油消費ができなくなったので、採算上は少し不利でも、電動機がしようされた。特に共同利用の揚水機械と籾摺機。

滋賀県は県の面積の六分の一が琵琶湖だが、琵琶湖に流れ込む短い河川が多く、降雨が少ないため、琵琶湖に接していない水田はしばしば渇水にさらされる。このため灌漑用井戸が多数掘られ、小型の揚水モーターが支那事変中から普及した。

岡山県の児島湾干拓地では、S15に電力耕耘機を導入し、戦後の石油不足時代にはピーク500台に達した。
しかしもともと不便なものだから、石油が使えるようになるにつれ廃れ、S26年には98台まで減っている。面倒臭さのネックは、ケーブルの巻き取り方法に良いものがないこと。

▽農業雑メモ
馬鈴薯は1590年代に新大陸の珍植物として欧州にもたらされた。1780時点でアイルランド人は1日に4~5kgのゆでイモ、それと牛乳だけで生きることができた。WWII中にドイツはイモから工業アルコールをつくった。
日本ではS6、7、8年と連続大凶作になり、このときはイモもダメだった。
コーンは英国で小麦を意味し、トウモロコシは正式には「インディアンコーン」と称したものだ。
1885に万能農薬ボルドー液の成分が公開された。銅、硫黄、生石灰である。以後、欧州人口は急造する。19世紀まで水は沸騰させれば安全になるとは知られなかった。
船上でよくおきる病気は発疹チフスである。アレクサンダーはマラリアで死んだ。スカンジナビアにもかつてはマラリアがあった。
フキは日本特産である。ワサビはシナと日本のみ。ゴボウとコンニャクは日本人しか食べない。ハスは葉柄はアルカロイドを含む。
猪や虫も、コンニャクイモは食べない。インドネシアでもできる。
山菜はカリウムが多いので同時に食塩もとらないと死ぬことあり。B1破壊酵素もある。
梨の皮は下司にむかせろ、瓜は大名にむかせろ、という。メロンも同じ。
栗は堅皮があるので保存がきく。よって救荒作物の一つである。
ハチという単語は古代にはなく、やはりハエと総称されていた。
聖徳太子は山、沢、草薮を公私共有とした。M4に地租をとるため全山林に所有権がわりふられた。
熊の胆を好む虫はいないが、蜘蛛だけは好むという。
S16に青果物統制令。田の草取り前にリンゴの袋かけをすると罰せられた。

▼田口卯吉『日本開化小史』S4、改造文庫版、原M10~15
大5再版の序言に三上参次いわく、これは白石と山陽に続く通史であると。出版当初から「折焚く柴の記」のパクリじゃないかと言う者あり。
しかし明治10年代には国史の適当な参考書は日本外史ほか僅かであって、大日本史はなかなか利用できる史料ではなかった。史学会もなし、大学に国史科はひとつもなかったのだ。
初版が出たあとでドイツ人の雇い教師が、国民の教育には自国史は絶対に必要だと切言したのでようやく杉浦重剛が「折焚く柴の記」を東大教養課程のテキストにしたぐらいなのだ。

以下本文。人心の文化は、貨財が富むことによって進展する。貨財を得にくいところの人心は「野」。経済発展と文化は対応する。
古代宗教の誕生も、あるていど経済が発達したことで人々の想像力が強化されたればこそであった。

蘇我氏がほろぼろされた頃、日本は三韓を征する余裕はなかったが、国内にはおびただしい寺院がつくられ、僧尼多数が徒食した(p.47)。※シナの戦略だったか。

今日の欧米でも、大発明をしたのは一人の人物で、それを他の皆が模倣して、すごい文明になった。昔の日本人も真似上手だったのだろう(p.50)。※言語拙なら精神を模し得ず。
日本の公家は、留学生がてんでにもちかえった儒学と仏法を、どちらもシナ渡りだからOKだと、もろともに受容した。シナでは儒学と仏法とは互いに排斥し合っていたのだが……。
皇居をとりかこむ12門。陽明門と待賢門は東、美福門、朱雀門は南。御殿は、紫宸、清涼、温明殿など。桓武天皇まではとにかくシナの模倣。
和歌は仏説に染みてから其情巧みになった。浮世、陽炎、露などの無常のアイテムが増えた。

西日本が京都風に染まったのは、船便も陸行もどちらも便利だったからである。

保元の乱は、皇統あらそいが人倫上ただしくなかったために起きた、と白石。

中央の朝廷に支配されるより、地元の武夫に支配された方が、住民も苦労が小さかった。
およそ善行とは、損得ずくだと損になることを、世人が讃えたもの。一日の恩に百年の命を捨てるのは過当の報だから、やはり善行と思われた。これが忠義という武士倫理観のはじまりで、前九年のころから生ずる。
先代は利としておこなうのだが、後代には義務となる。

頼朝が国司の力を殺いだのではない。とっくの昔に国司は不在長官であって、治安維持の責任能力が消えていた。
北条氏のやったことはきわめて隠密で、歴史家に証拠を与えなかった。いまだに謎だらけである。
朝廷は三条白河に関東調伏の最勝四天王院を建てたはいいが、実朝がじっさいに討たれると、怖くなり、破壊してしまった。

北条時政いらい、使者が諸国に遣わされ、守護地頭が民間を苦しめていた場合は誅した。その死者、百余人という。時頼と貞時はみずからも視察したが、やはり守護地頭は悪事をはたらいていた。摘発されない悪政はいかばかりであったか。地方を治める方法は、治め方を人民にゆだねるのがいちばん公平である。※水戸黄門はフィクションだが、時頼と貞時はリアルだから怖い。

北条時頼時代の租税は、水田5段から籾米10石が収穫されるのをスタンダードとしていた。
時宗の時代、貨幣量が少ないので、ゴールドをシナに送って銅貨を輸入した。
日本の民間の著作でみるべきものは、鎌倉時代から始まる。
元の使者は6回来た。朝廷はそれに答えようとしたが、鎌倉幕府は抑えて、使者を斬った。
これについて吉田賢輔は、「使者を斬るは自ら国体を汚すなり」と批評している。「一民外国に害を受くるも、之を不問に置かざるは、独立国の職務なり、況んや国書を齎したる欽差大臣に於てをや」と。

皇統がニ系統に分かれた(どちらも後嵯峨天皇から)ことにより、鎌倉幕府が次の天皇の指名権を握った。さらに摂政になる資格のある氏族を5流にわけて、相争わせて権勢を殺いだ。

楠木のあとから後醍醐に味方した武士は恩賞の領地目当てだから、すぐにガッカリした。
最悪だったのは、いったん某武士に与えると約束された領地が、別な内奏工作によって、すぐに決定が覆されてしまうことがザラに起きたこと。誰も朝廷を頼もしく思わなくなった。

最初に文章の型があって、それに規定されてしまったそれまでの古典と違い、将門記と純友追討記は、まず言いたいこと、伝えたいことがあって、そこから文章が自由に書き始められている。文体はととのっていないが、革新的。これは、漢文と日本語がようやく親和した結果である。

王朝が弱まって、文学のパトロンがなくなったときに、逆に見るべき書が登場した。自然に任して衰えるのは、人世に無用なのであるから、憂えることはない。その反対に栄えるものがあるのだ。
編年体の困ったところは、人民の風俗や政治の実態、評判が記録されない。そういう記録を知りたくば、菅公の類聚国史の中から捜索するしかない。

太平記にちりばめられている漢語は、やや博きに誇るの姿がある。
着眼の鋭さでは、神皇正統記が一番だ。
徒然草が書かれた頃に、日本に程朱の学説が伝わった。
「無常」などの想像は、王政時代にはなかった。仏教がそんなに普及していなかったから。源氏物語にも、仏教由来の恐怖心理は具体的ではない。ところが源平盛衰記になると、仏教説を恐ろしがる心理が濃厚である。

豊臣氏は、諸大名の封を大きく削減することはできなかった。つまり、味方の大名たちを甘遇・優待して、天下をとったのである。
たとえば毛利氏に養子を与えようとしたが、小早川隆景に拒まれた。その程度の権力であった。
秀吉は、失望の極みから、征韓したのである。

社会の人は、永く己れに不利なるものに與することはない。これを、天は有道に與す、というのだ(p.136)。

徳川氏が恩賞として土地を与える大名は、小藩に限定された。大藩は、削らないことが賞と思え、削っても、滅亡させないのが賞と思え、という態度。
豊臣氏の歓遇政策では、恩賞の財源が続くわけがなく、決して永く天下を保つゆえんではない、と家康は見切ったのだ。不服なら、戦争だ、と。
ただし、封土を没収したときは、あとで必ずその遺孤に、旧功の恩典として、土地を再交付してやる。これで相手は恩に着て、恨まない。

京都の所司代には、常に非常の人材を撰んで任じ、対朝廷の工作をぬかりなくした。
三都には地租をかけず、都会を旺盛ならしめた。
中央集権の郡県制は、辺地の小叛乱が雪ダルマ式にふくらんで、ついに制御できなくなる。しかし地方分権の封建制ならば、隣国が平生から対立勢力となるので、雪ダルマ式にふくらむことはない。逆に、鎮圧して軍功に預からんと考える。

才智あって上長の意を迎える者は、ひとたび組織内で抜擢されれば、どこまでも累進して、ついには主君を篭絡するに至り、全権を握り、満堂を自己の党派にしなければ止むものではない。だから徳川時代に下位から累進して政権をとった者の多くは悪人なのだ(p.148)。

政府において制限せざれば、人民の驕奢は度がないと思うのは間違いである。一般人民の財がふえると生計の度も増えるのが当然で、これは開化の現象なのだ(p.153)。

安永の頃まで、召使の女でも、外出するときは顔を覆面または綿で隠し、顔を出して歩くことはなかった。

安永8年に日傘が登場した。これ以後、婦人は菅笠を戴くことはなくなった。またそれによって、結髪が変化した。髪を大きく結うことが可能になり、派手な簪もさせるようになったわけ。それが最も極端だったのが、寛政~享和ごろ。

戦国時代は坊主が公文書を扱った。禅が流行り、孔孟の道はほとんど消えた状態。

江戸期の儒学は、大名または大金持ちが歓迎したもので、中等以下の人民は、これをもって産を破るの基と警戒し、子弟に固くこれを禁じた。かわりに、往来物、今川の類によって子女を教育した。和学も、百人一首までで、古事記や万葉集などは庶民は無縁。逆に大名と大金持ちは、古事記の奇古ないいまわしを用いるのを博識としてもてはやした。庶民はひらがなの草子を読んでいた。

島原の乱の首謀者はもと大阪方。だから徳川を亡ぼすためには何でも宣伝すればよかったはず。しかるに、耶蘇を宣伝し、勤王を宣伝しなかった。これは、当時の日本人に勤王のキの字も知られていなかった証拠である(p.199)。

光圀が楠氏の墓を湊河に建てるまでは、誰も楠正成をそんなに偉いとは思っていなかった。墓ができてから、田舎の村の子供も正成は偉い、勤王は名誉なことなんだと知るようになった。
江戸期の勧善懲悪演劇の筋はワンパターン。臣下や奉公人の中に悪いやつがいて、主人がバカなので家がくつがえろうとする。ところがそこに忠義の部下がいて、さまざまな苦労をしながら、ついに主家を回復する。これ
を見て当時の観客は、切歯扼腕し涙したのである。

頼山陽の日本外史は、あの維新の燃料になったという意味で、古来無双のプロパガンダだった。あれほど当時の人心を鼓舞したものはない。山陽の参考書は、白石の読史余論であった。
黒船の脅威を知ったとき、日本人の抵抗のよりどころは、日本は神国なのだという一点しかなかった。

井伊直弼の一網打尽の挙は、開港はやむをえないことだと思っていた知識人すら反発させ、ついに、江戸幕府の味方は全国に一人もいなくなってしまった。
江戸幕府は中堅幕僚で持っていた。その実態は外からは分からないので、全体として恐れられていた。ところが将軍以下、上に立つ偉い幹部がみずから上洛して他の諸侯と並列すると、誰が見ても、いかにも威厳がない。
これで、全国をおそれさせてきた幕府の神通力が、落ちてしまった。

さらに長州征伐を不完全に停止してしまったので、これは兵力も弱いんだと人々に思われてしまった。
徳川幕府を倒したのは外様の封建諸勢力なのか? 違う。郡県(中央集権)を理念とする志士たちだった。それが証拠に、廃藩置県のとき、誰もその君侯に忠義だてして抵抗した者はいなかった。

▼上法快男『最後の参謀総長 梅津美治郎』S51-8

フォレスタルは、日本に勝ったのは米海軍=ニミッツであり米陸軍=マックではないと象徴させるために、ミズーリをハルゼーに用意させた。スチムソンは異議をさしはさまなかった。
※余談。WWII時点で米海軍は、黒人をMessboy以上にはしなかった。空軍は事実上、締め出していた。デトロイトには北部唯一のKKKがあった。

東久邇いわく、梅津は、大本営代表は参謀総長と軍令部総長の2名でなければいかんと再三、申しこした。参謀総長1人を代表とするなら自決する覚悟である、と。
東久邇は近衛、木戸、緒方と相談して、重光と梅津を代表とすることにし、31日の閣議で決定した(p.50)。※これは大失敗。日本軍の降伏であるべきところが、日本国の降伏になってしまった。

マニラ飛行場にはすでにウィロビー少将がいた。マニラは東京以上に荒廃していた。それで、のちの対比賠償の交渉では、頑張る気がしなかった。
会議場では参謀長のサザランド中将が主宰だが、誰もが丸腰。シンガポールの山下らとは違い、こちらが着席するまではちゃんと椅子の前に立っていた。

カナダ代表が署名の場所を間違えたために、重光は、これでは枢密顧問官会議が通らないと心配した。そこで岡崎がサザランドに談じ込んで、国名のタイプのところを訂正させ、そこにサザランドのイニシャルをつけさせた。
同行の富岡少将いわく、これが逆の立場だったら「このまま持って帰れ。敗戦国が生意気を言うな」でおわりだったろうと。

S20-7半ば、ソ連が攻めてきたらば関東軍は満州を捨てて満鮮国境方面にたてこもることに参本作戦課で決めた。それで杉田が朝鮮軍参謀となって7末に京城に赴任した(p.63)。

調印式には形式的な儀式がなにもなく、20分で終了したので日本人一同は唖然とした。
梅津は大本営の代表だった。では海軍の代表はどうするのか。とうぜん総長のはずだが、豊田は猪首を横にふった。次長もいやだというので、作戦部長の富岡定俊が行かされた。海兵に入ったときから、降伏するくらいなら死ねという教育環境だったので、これは辛かった。

横浜桟橋を駆逐艦が離れるときに、もやい綱が落ちる音や水兵が走る音がしないので、操船がうまいと思った。

ハルゼーは米軍人のなかで一人だけ戦闘帽をかぶっていた。許すまじき面持ちをしていたのはこの人だけだった。
マックの次に米国を代表してサインしたのはニミッツ。富岡はニミッツの写真を作戦室に掲げて、夢寐(むび)にも忘れたことはなかった。
マッカーサー演説の主語はいつもI、ニミッツはWeだとあとで米軍将校から聞かされた。
富岡はその後、海大あとにできた史料調査会で戦史研究。

クリスマスの前日は自宅の1室にツリーを飾り、女中に手伝わせてプレゼントをあちこちに隠し、翌朝食後、子供に発掘させた。子供を寝かすのは8時だった(p.84)。

2.26の後、梅津が次官、同期の中将・中島今朝吾が憲兵司令官、少将の阿南が人事局長になり、大分閥が集また。※東條の憲兵使いには先行モデルがあった。それは同郷コンビによるこの時の統制。人事局長も同郷だと、敵は反撃を企てようがなく、省による部の統制は完全になる。地縁をもたない東條は、同郷者をあつめられなかったので、ゴマスリ屋の富永や田中隆吉を顎で使うことになった。

次官の梅津は、恒例だった盆暮れの右翼への小遣い渡し(機密費使用)を廃止したが、これが右翼勢力から反発されて、中央を逐われた。

宇垣が組閣中に、元衆議院議長・元拓相の秋田清は、深夜に前触れもなく一少佐(花谷)に叩き起こされ、拉致同然に料亭に連行され、そこで、林銑十郎内閣をつくるから入閣して協力しろ、と迫られた。林に一面識もないので断ると、花谷少佐は、これから宮家廻りをする、と辞去した。S12-2-2の林内閣の組閣のさい、梅津は「某中佐」の介入ぶりを知り激怒し、関係局課長をあつめ、この中佐を処罰する方法について相談したが、知らぬは次官ばかりでじつは皆、その中佐のグルだったから、合意を得られなかった梅津は前言を取り消した。※この中佐とは武藤章ではない。武藤はS11-8-1大佐。
271頁によると、この男は片倉衷のことで、当時は少佐だった。集められたのは、阿南兵務局長、磯谷軍務局長、石本軍務課長、町尻軍事課長らで、その場に片倉もいた。いずれも片倉を支持したので梅津は片倉を処罰できなかった。

梅津は、もし文官陸相がみとめられた暁には、いかにして文民に陸軍人事行政に介入させぬようにするか、その法令規定を学生に考えさせたという(pp.134-5)。

元中将・橋本秀信いわく、明治いらい、日本の戦争指導は、地勢、資源、国民性の条件から、戦争は初動による速戦即決により解決するという大方針があり、しかもだいたい開戦から2年で解決することを、計画の目途としてい(p.140)。

S7頃、無線使用が普通になり、平時から暗号をたくさん消費するようになったので、下級の司令部や部隊が、自分で暗号を作ることが必要になった。その作成と使用の教育のために毎年、全軍から将校が集められ、参本で教育された(p.152)。

M34-9-7の「北清事変に関する最終議定書」は、列国に次の権利を認めた。すなわち、「各国が首都海浜間の自由交通を維持せむが為めに相互の協議を以て決定すべき各地点」を各国は占領できる。その各地点とは、黄村、郎坊、楊村、天津、軍糧城、塘沽、……昌黎、秦皇島、山海関の12地点。
また、M35-7の「天津還附ニ関スル日清交換公文」によれば、その外国軍は操練を為し、射撃および野外演習を行なうことは自由である。ただし、戦闘射撃の際には通告する。また、天津の外国軍とシナ兵が衝突しないようにシナ政府は天津に駐屯する外国軍隊から20清里以内にシナ軍を接近させたり駐留させないようにしてほしいとの要望に対して清国全権は異議の点を有せずと回答していた(p.163)。
冀東地区の指導援助は天津軍がするのではなく、関東軍がしていた。

池田純久いわく。S16に関東軍参謀になったとき、梅津司令官に、満人の心は満州国から離反しているから、満州はシナに返還すべきだと意見具申した。この意見に梅津は同意し、また吉岡安直中将も同意したと(p.167)。
満州国は満鉄を国有したかったが、梅津司令官はそれには反対だった。なぜなら、満鉄の利権は条約に基づく正当なものだから。他方でその梅津が、満州国には正当な根拠が薄く、世界が承認するわけはない、と思っていたわけだ。

S32に高橋担が供述した『梅津・何応欽協定の実相』によると、池田純久は、宋を北支に入れてしまったことが、交渉をすべて宋ルートに制限することになり、南京との連絡がとれなくなり、支那事変を導いてしまったので、何応欽との協定こそは、梅津の大失策だった、と評していた。

梅津の留守中に何と会見した酒井は、懇談どころか脅迫に近い要求をして、国民軍を河北省から撤退させた。
1935-6のこと。シナ中央軍の勢力が河北省から駆逐されてしまったのだから、国民軍と何上将の面目は傷ついた。

日露戦争いらい、あとで士官学校を卒業任官した者は、単に現役であるというだけで、先に応召した予備役より上位となっていた。これはじつは、まずい。満州事変では、召集者を早期に召集解除し、現役だけで部隊を編成するようにしたから問題にならなかったが、支那事変では、不都合になった。そこで、部隊編入後の実役期間は、現役と同じように認めることに、陸軍順位令を定めた。

山崎正男は、参謀飾緒もついでに廃止したらどうかと考えたが、これは誤りだった。山崎は杭州湾に上陸するとき参謀であったが、狙撃の目標になるというので、軍司令官以下、全員が兵の服を着、階級章だけ残した。ところが追撃戦の交通整理に参謀を派遣しても、飾緒がないから誰もいうことをきかない。たまたま視察に来ていた大本営参謀に隣に立ってもらったら、みな、交通整理に従うようになった。
※2007-6の熊本出張のとき、ホテルで、未見であった『硫黄島からの手紙』をビデオ上映していた。しかし、司令官が参謀飾緒をつけているのをはじめ、「学芸会」レベルの猿芝居なので、驚愕させられた。冒頭の30分で観るのをやめた。ピークの1950年代を境に、退化の一途をたどっているのが、日本の映画関係者の想像力だろう。

S11-8に新設された参本第二部ロシア課の課長になった笠原幸雄いわく、対ソ情報収集は、シベリア鉄道にクリエールを出し、実際にその目で実情を見させるしかなかった。たとえば列車の速度から橋梁の長さを測る。また列車の間隔や信号装置等を区間ごとに調べ上げる。月に一度は出すべきであった。この情報が、ポーランドとの情報交換で有意義だった。
田中新一いわく、支那事変の陸軍航空は無能で、そのために拡大した。また米国は、上海付近の戦闘で膠着したのをみて、日本軍をバカにした。

梅津は麻布歩兵第三連隊の第20代連隊長。第21代が永田だった。秩父宮を中隊長としてむかえたのもこの連隊。
それが2.26で動いた。反乱軍が期待する軍人名簿の中には、鈴木貞一の名もあった。憲兵隊の中にすら皇道派がいたために、事前制圧に失敗したのだ。

2-17夜に、常盤稔少尉は、部下に銃剣を握らせて、警視庁襲撃の予行演習をさせた。一部は内部に入り、二階にまでのぼった。

最初の4日間が魔の四日間で当局はまったく麻痺。
東京憲兵隊は被告真崎甚三郎につき「ニクムベキモノナリ」という参考意見を添付している。この見解は梅津の代弁である。

松本清張いわく、荒木と平沼の目的は最初から真崎一人の救済にあり、その戦術が成功したのだと。皇道派の権力は、平沼一派が継承することになった。

梅津の反発は、とにかく無能低能の板垣が陸相になるのが許せなかった。陸大序列からは話にならないのが板垣で、そんなのを陸相とか次官にしてはいけないのだ。

とうじ、日本陸軍はMax30個師団動員できた。うち、どうやりくりしても15Dしかシナには派遣できぬ。たった15コDでシナ大陸を征服できる道理はないのであった。
そこで石原は杉山陸相に、北支の全日本軍を山海関の満州国境まで後退させ、近衛が南京で蒋と直談判しろと主張。
その陸相室にいあわせた梅津中将は、(1)総理がそう考え、自信をもっているのか (2)北支の邦人多年の権益財産はすべて放棄するのか (3)満州国はそれで安定するのか と反問した。

石原は天才にありがちな自信過剰で、妥協性に乏しく、他人を納得させる説明を尽くさない。パラドックに富んだ痛烈な皮肉と罵倒を口にするので、梅津を筆頭とした第一級のエリートたちからは敬遠された。
矢次一夫いわく、梅津は林内閣に反対で、そもそも陸軍出身者ではもうダメであり、なんとか近衛に出てもらいたいと考えていた。しかしそのついでにもし板垣や末次が陸海相となったら破滅だから、言い出せなかった。

梅津の認識では、大将を軍人の人生のゴールとわきまえずに、その上の首相を目指そうと皆が考えるから、陸軍全体が暴走してしまうのだと。よって宇垣の出馬にも反対、林首相にも反対なのである。
陸相を補佐する軍務局が政治的に暗躍しすぎるとも見抜き、梅津は、憲兵行政の機能を軍務局からとりあげた。

坂西は稲田の親戚。杉山と梅津は、支那事変そのものを好感しないが、こうなったらやらにゃ仕方ない論。
完全な不拡大論者は、軍務課長の柴山大佐のみ。茨城出身のおとなしい男で、河辺と同期だが河辺のような優等生ではない。その柴山を梅津は信頼していた。

笠原幸雄はS13-1にドイツ出張。ドイツが対ソ戦準備をしているので、ソ連通として、派遣された。※その笠原や石原がS12に満州にやられたわけ、また石原がS12に参本第一部長にされたわけは、旧軍人が絶対に解説しない奥義だろう。それは、かねて陸軍では、対ソ戦をS12に予期していたからである。日本陸軍にとって戦争とは常に動員奇襲開戦である。開戦タイミングのイニシアチブは日本側/関東軍側になければならぬ。それだけが、我が最新兵器による敵の旧式兵器に対する技術奇襲も可能にしてくれる。「97式」=S12年式の型番のついた主力戦闘機と主力爆撃機と主力戦車などが一斉にまとまってデビューしているのは偶然ではないのだ。そしてもちろんソ連は、旧陸軍のこのような意思を、承知していて、いろいろな手を打っている。

杉山陸相が更迭されるというスクープが朝日新聞に載った。内閣はそれを発売禁止にした。しらべてみると、リークしたのは梅津次官だった。梅津はこの朝日記者に対して、徐州戦は八方塞がりだとも認めた。

梅津はうまく近衛を騙して東條を後任次官にした。あとで近衛は、東條のせいで板垣が手腕を発揮できなかった、東條と梅津と同心一体だとは気がつかなかった、と悔やんだ(p.293)。※政治家の「知/智」とは、儒学では、人を知ることである。近衛には「知/智」がなかったことが端的に分かる。他人に興味がないのだ。したがって近衛が梅津をアカだといったのも、ほとんど傾聴に値しない。単に平沼から吹き込まれた話を鵜呑みにしただけだろう。

原田熊雄は陸相に板垣ではなく梅津を推薦した。しかし近衛は、梅津が陸相になるくらいなら、自分は内閣を投げ出す、と言って阻んだ。
反発の背景。梅津の陸軍省はいつも首相に事前の説明をせず、何かを決めたあとで予算と責任のツケを内閣に迫るので、それが近衛には不愉快だった。
しかも梅津は陸相を立てて、自分では首相に直に説明しなかった。海軍は、米内大臣だけでなく、山本次官も総理に親しく連絡した。陸軍では、閣議で作戦の話をすると秘密が洩れるとして、首相に何も言わなかったのだ。

東條と多田・石原はほとんど犬と猿。板垣を陸相に推したのも石原と多田。岩淵辰雄いわく、その石原を、陸相になった板垣は中央に呼ぶことができなかった。これは人間として愚図だと思った、と。
石原の希望は、多田、石原、板垣の三人で中央を牛耳ること。ところが梅津がそのくわだてを粉砕した。関東軍では、梅津系の片倉が実権を握り、石原になにもさせなかった。しびれをきらした石原は無断で任地をひきあげて上京した。これは一般にも知られ、軍紀の弛緩頽廃がきわまった。
東條は板垣に、石原の処分を迫った。

東條は、一日のことは一日に片付ける主義。時が何かを解決するとも思わない。果断。睡眠は4時間。寝るときはもう懸案はなかったのだ。そして小食で清潔。左手でナイフをもち、いつも鉛筆の先をきれいにとがらしていた。
優等生がそのまんま、50歳、60歳になったというのが東條だ。言ったことは必ずやる。右か左か、必ず割り切る。

阿南が臨時議会で本土決戦の説明をしたとき、予期した万雷の拍手はなかった。
梅津・阿南の大分コンビ(梅津が3期上、初任連隊は同じ)は、本土決戦で何を考えていたのか。大兵力をあつめ、一回戦において必勝する。そこで有利な集結にみちびく。第二回戦はもう補充がつづかないのでだめだろうと思っていた。

義和団条約で決められた支那駐屯軍は、兵力には制限がなく、条約国と会議決定することになっていた。
S11-4-18、梅津次官は、支那駐屯軍の兵力を2倍にする決定。かつ、司令官を親補職とすることで、関東軍からの干渉をふせぐ。
ただし、条約は、京津鉄道から離れたところに駐屯軍を置くことを認めていない。だから、通州には置けず、北京の南西4kmの豊台に一大隊を置いた。

柴山が提案するように、最大の癌である冀東政権を解消するか。喜多誠一、田代皖一郎、杉山大臣、後宮、石原、今井清は賛成。富永、田中隆吉、東條、武藤、田中新一は反対。
S12-7-10に、定例除隊すべき歩兵の2年兵の除隊を延期。
参本(一撃論の武藤大佐)は、内地から3個師団を出せと陸軍省に要請。
梅津次官いわく、それは国際関係を悪化させる。北支の情勢も判明しない。まず関東軍から2個旅団を急派し、朝鮮軍から1個師団を臨時編成で出せばよかろうと。

梅津は、参本の総務部長として人事を担当した経験から、石原は軍秩破壊の張本人として、責任を自覚せずに軍の指導権を掌握しようと野心を燃やすのは言語道断であり、満州建国後は、自発的に軍職を辞すべきだと考えるようになった。
9月上旬、動員兵力は58.7万人、馬15万に達した。これに対する補給軍需品は膨大な額だった。
9-3からの帝国議会に、陸軍は16億円を要求、海軍は4億円だった。

石原は8-31に大本営設置を海軍に申し入れた。ところが軍令部の中将・近藤信竹第一部長は、戦時状態とすると米国が中立法を発動するので、困ると。
梅津はようやく10-27になって、大本営設置に同意した。
近衛は宣戦布告を望んでいた。現地の作戦軍も、宣戦布告してくれたほうが、作戦行動が掣肘されないのでよいと。
しかし梅津は海軍の山本に同心し、外国からの軍需物資の輸入が不自由になる、と、風見書記官長を説得した。

日清戦争では大本営が東京を離れたために、大本営の主導権が作戦部に握られた。名目的に「戦争」でない限り、事変の主導権は東京で陸軍省が握ることができる。
大東亜戦争とともに、三官衙を一箇所に集めることが実現した。さらに教育総監の第一課長は参本第一課長(教育)が兼任。また末期には軍事課長が参本の第三課長(編制動員)を兼ねた。

ドイツは、日本の消耗によって対ソの睨みがきかなくなるのが迷惑なので、トラウトマン工作に乗り出した。
しかし12月初旬は南京陥落まであと少しだった。日本側は、面倒な和平交渉などしなくとも、武力で蒋介石を屈服させられると信じてしまった。
堀場いわく、広田は外務省の代弁人として、参本が外交に介入するのが嫌いだった。そのために12-10閣議で話をブチ壊すような発言をした。近衛と末次内相が同意した。

堀場、高島、今田参謀は、12-10閣議決定を撤回させようと運動開始。堀場は次官の説得担当に。
堀場いわく、先方がいったん和平条件を提示しているのに、その回答を拒絶するのは、国際的に支持されるわけがないと。口実を設けて戦争を継続しようとしていると思われても仕方ないと。
梅津はすぐに同意して大臣に閣議決定取り消し方を進言した。梅津の部下にはそのような意見を具申するものがいなかったのだ、と。

近衛が秋山定輔と宮崎竜介をシナに派遣しようとしたら、憲兵が神戸で抑留した。これは杉山・梅津のさしがねである。

岩淵いわく、梅津の考え方はこうだ。シナ興亡の歴史において、遼、金、元、清という北方異民族に征服されてきた。いまの陸軍が北支5省といっているのは、昔の遼や金の領域であり、五胡十六国の北魏の領域に他ならない。そこに第二の満州国をつくるのは簡単だと思っているのだ。
同じ大分県中津市出身の池田純久の反論(『日本の曲がり角』)。東亜研究所を設立するさい、所員として250名の知識階級を新規採用した。そのさい、提出された履歴書をぜんぶ警視庁に審査してもらい、アカの疑いある者は事前に排除している。排除された者のなかには今の共産党員が数名いる。池田が企画員を去って2年後に、アカ問題がつくられた。
そのころ、陸軍内外で、梅津を中傷するデマがあった。砲兵工廠に関するもので、池田が調べたら案の定、でっちあげだった。
令息・美一によれば、梅津と昵懇の将官は、山下、中島今朝吾、柴山である。アカなどいない。
池田は陸大卒業御、東大経済学部に3年学び、マルエンも勉強し、資本論は読んだ。軍をアカから守るためには敵を知るべきであり、自分はミイラはとったがミイラにはなっていない。思想に対しては思想をもってしなければ。皇道派はただ弾圧のみによってアカを制圧しようとするが、愚だ。
秋山定輔とは麹町の政治浪人で、池田も懇意にしていた。秋山が月に一度ひらいていた会には荒木や真崎がよくきていた。そこに池田も顔をだしてみたが、とにかく統制派を赤だとして悪口雑言だ。美濃部の機関説に過剰反応し、皇道派でなくては国体の護持はできないと暴走したのが真崎らだ。近衛が赤色恐怖症にかかったのは、この秋山から吹き込まれたのである。

その近衛日記のS19-4-14欄に、平沼と会見した折に、平沼いわく、梅津の周囲には、池田、秋永少将のような赤がたくさんいる、と。※つまり近衛の発言ではなく平沼の発言だとハッキリ書いてある。

S15年度の作戦計画はS14秋に策定し、年末に裁可を受ける。遠藤は10月に上京して、ノモンハン以降は、東部方面への進行作戦はあきらめ、防御だけをするようにしたいと。しかし末次大佐や島村矩康少佐は、ノモンハン戦中は参本作戦課にいて、そこから関東軍に送り出された人材で、副長の意見には反対だった。
11-17、新京で、関東軍の作戦会議。今泉少佐は、もし防勢案を採用すると、沿海州のソ連航空軍が日本を空襲することにより、不利な持久戦争になると反論。
今岡少佐は兵站の見地から、いままで攻勢のために準備した鉄道や道路や通信インフラなどぜんぶやりなおさねばならず、無理だと。
けっきょく東京の参本は、攻勢案にせよと。

今村の第5師団はノモンハン事件のためにシナから満州に転用された。そのとき今村は、関東軍参謀がじぶんの師団の前線部隊に直接攻撃を命ずるようなことがあれば、取り押さえて軍司令部に送り届けると宣言。梅津いわく、そのような者はもう内地にかえされているようだと。

遠藤三郎いわく、張鼓峰やキャンサス(カンチャーズ)やノモンハンでなぜ国境紛争がおきたかというと、それは、関東軍の対ソ攻勢作戦計画の準備のために、ソ連国境に交通網、飛行場、デポをつくらねばならなかったから。防御計画に改めれば国境線で敵を刺激することもなくなるのだという考え。

中山源夫いわく、主攻の東方で5Aを虎頭につかい、東正面には3Aをつかうというのが中央案だったが、これは兵力分散のきらいがあった。対支戦の惰性および陸大のクセで、「何でも包囲すればよい」という形式主義になっていたのに、中山は反対した。つまり虎頭は離れすぎているので正面過広となるだろう。よって5Aは3Aのすぐ近くに展開すべきだと考えた。

ロシア通参謀は、誰もロシアが早く負けるとは思っていなかった。親独参謀は、数週間で片つくと信じていた。
中央の「熟柿主義」とは、ドイツが負けると疑ったものではなく、ドイツが勝つことは必然だが、日本からは遅くリアクションしようというもの。
※本書を見る限り、旧軍人は誰一人、アメリカがソ連を援助するだろうとは想像すらしていなかったようである。
杉山参謀長は、赤軍が極東に退避すると予測した。田中作戦部長は、単なる熟柿主義ではなく、日本から一撃を加える必要を力説した。

S16-7-24、豊田外相は連絡会議で、南部仏印進駐に対して米国は資金凍結や石油禁輸をするだろうと発言した。
※つまりその通りに事前警告を受けていたのだ。
S16-7-25、外相は米国の強硬態度に驚き、わが南進は仏印限りである旨を米国に通告すべきであると陸相に提議したが、陸相は反対した。

S16-7-26、米国は遂に日本およびシナの在米資金を凍結した。しかし大勢は、南部仏印進駐にとどまるかぎり全面禁輸はないだろうと判断していた。
7-28、部隊が南部仏印に上陸開始。フランス当局とはすでに話がついている。

7-29、このタイミングで海軍陸攻の重慶爆撃と、パナイ号誤爆事件。この日のうちに猛抗議がきた。豊田ひらあやまり。海軍航空隊は作戦を中止して漢口基地から引きあげることに。
8-2、発動機用燃料の対日輸出停止が発表された。この真夜中にテフシ情報。一晩中、参本の窓はこうこうと輝いていた。

8-4、帰朝した重光大使の荘重な口調の講話が参本であった。英国はなかなか参らぬ、ソ連もかんたんにはやっつけられないだろう、という話(p.386)。。※アメリカのアの字も出てこない。ということは、外務省も、アメリカがソ連を応援するとは読んでいなかったことがうかがわれる。あきれるしかない。

その前のS16-6-28決定の「帝国国策要綱」の「方針」にすでに「二、帝国は依然支那事変の処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立するため南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」とあった。またその「要領」の二には、「適時交戦権を行使して在支敵性租界を接収す」とあった。対英米戦のために南方には出るが、独ソ戦には介入しない、とも。※これまたまったく海軍案だろう。

S15末、陸軍の配置は次のとおり。内地9コD、朝鮮2コD、満州10コD、シナ29個D、合計50個師団。もし日ソ戦となれば、内地とシナから合計十数個師団を満州に移動させることになっていた。
もともと10個師団のところが倍以上に増える。これは、後方準備にそれなりの日時とカネと労力をかけないと、機能しない。つまり師団ばかり増えても活発な作戦は遂行できない。
関東軍兵站班長・今岡豊いわく、「関東軍特種演習」(p.389)。
関特演による兵力の集中がおわれば、いままでの29万人が、85万人になる。これは3倍近い。
ところが「帝国国策要綱」で対ソはやらないと決められてしまった。※もし梅津が関東軍の軍司令官でなかったら、ソ連は亡びていたかも……。そこで、アカの疑いをかけられることになる。
今岡いわく、梅津は独ソ戦の長期見通しについて、お気に入りの第一課長田村儀富大佐にたずねた。田村は即座に、ドイツに勝ち目がないと返答。梅津も同意した。
独軍からうけた大打撃をわずか4ヶ月で冬季を利用して反撃して独軍を後退させた。誠に偉大なものがあった。極東においてもまったく隙をみせていない。

張鼓峰のソ連軍は本気で、こちらがノゾキ孔からのぞくと、ただちに狙撃される。
飯村いわく、満州国人に対する非行は、関東軍の航空軍の将兵に多く、地上軍の将兵には少なかった。※つまり三船敏郎がいた部隊。
ノモンハン事件のとき、満人を動員してハイラルで築城したが、なんと百数十名が作業中に死亡した。関東軍築城参謀の某中将は、譴責された。
※この飯村は、ゲリラの金日成と北鮮首領が同一人物だと信じている(p.398)。これでもロシヤ通か。

関東軍の第5軍(麾下に11Dと12D)は、対ソ開戦の暁には、ウスリー河を渡河したあと、旧河床や湿地だらけの土地を夜間行軍で広範囲に浸透し敵を分断する。各部隊は、乾いた土地を選ぶ余裕はなく、方向測定機をもった小部隊を先導にして、直進するのみ。軽榴までの師団砲兵も、水深を考慮せずに河底を人力で引っ張ることになっていた。
5Aは毎夏、全兵力で、1ヶ月にわたり、ムーリン河畔に天幕露営して、この訓練をやった。師団長も、長い竹の杖をついて、部隊と行動を共にする。
この演習の準備のために4、5名、また演習後にも数名の死者がでたぐらい。
火の手や煙のあがらない炊爨も研究した。まったく声も音も立てずに2000mくらいの匍匐前進をこなした。10Dの歩兵団長の長勇少将は義太夫語りが上手いので、天幕から女の声がするとの報告が来た。

飯村いわく、レーニンは1902に、いやしくもボルシェヴィキたるものは、ウソでもペテンでもごまかしでも人殺しでも何でもやれ、と「何をなすべきや」に書き、また「共産主義の小児病」には、敵組織内に浸透して内部から征服しろ、と書いている。
飯村いわく、フランス軍は、戦時に軍司令官になる軍事参事官に、平時からその参謀長と幕僚になる若干の将校をつけて、一つのチームをつくらせていた。このやりかたを日本軍も採ってほしかった。

関東軍は常にソ側に比して劣勢であった。劣勢であればあるほど先制攻撃を企図するを要した(p.417)。

S16-6-2、田中新一・参本第一部長(少将)が満州視察。結論。関東軍の作戦準備は、対ソ互角の程度に達していない。
S16-8-20時点での梅津の意見。日ソ間の懸案は、日ソ単独間では解決される見込みは全然ない。だから独ソ戦の今日、行動を起こして解決するのが望ましい。至短期間に最小の犠牲でできる条件がそろうまで手を出すべきでないが、その情勢がきたら断じてやるべきである。

4-27に田中第一部長はこう判断した。対ソ戦にさいしては、陸軍航空が先制奇襲できることが最も大事。だから海軍航空と潜水艦に先走らせるようなことをさせては企図がバレてしまうので、注意を要する。もし逆にソ連が航空先制奇襲してきたら、対ソ戦で勝つ見込みなどなくなる。だから、日本の奇襲開戦の準備を、絶対にソ連には気付かせてはならない。気付けば敵が先制してきて、おしまいである(pp.427-8)。
※かくして独流が、統帥>外交を要請する。

関東軍司令官は、満州国駐在の全権大使と、関東州の長官を兼ねる。三位一体。
満州国の大官をレセプションに呼ぶのはよいが、夫人同伴とはできない。というのも一人で多数の夫人をもっており、その一人だけ選ばせるわけにいかぬので。
東條はかつて梅津の第一旅団の下で第一連隊長だったから、首相になったあとも、梅津にはタメ口はきかず、敬意を払っていた。

S16-5に、関東軍直轄の特種情報部、すなわち無線を傍受して暗号を解読する係の軍属が、情報資料をハルピンのソ連大使館に売り込もうとした。持ち出し資料は無価値に等しいものだった。この処分で、関東軍参謀副長の秦彦三郎が、北支軍に転出となった。
秦はS15-3までハルピンの特務機関長(p.449)。※ということは、資料は無価値ではなく、特務機関の内情がソ連にバレたのではないか?

満州と朝鮮のあいだの山岳は東辺道といい、匪賊の巣窟であったが、S18-2頃にはまったく治安は良好で、多くの鉱物資源が掘り出されていた。

満州国の張景恵国務総理は8-15直後、戦争は国際間の紛争に決着をつける一手段にすぎないのに、日本の軍人は、これを個人同士の果し合いと混同したのだ、とコメント。

有末いわく、北支からは満州に、大豆、包米(とうもろこし)、鉄道の枕木を供給した。北支からは山東苦力を満州に供給した。満州は統制経済で外貨封鎖。北支は自由経済、自由貿易だった。
北支では柳の枝をそのまま枕木につかっていたが、満州にはコールタールを塗った枕木が山積されていた。

阿片の生産地は匪賊地帯。全満で消滅させたが、熱河省だけは生産を認めていた。
満州の船がぜんぶ撃沈されたら、どうやって南方やシナから物資を得るか。ジャンクと空輸を研究した。空輸の場合、少量で高価な見返り品が必要。それは阿片、味の素、漢方薬だ。鉄1トンは300円、味の素1トンは5万円、阿片1キロは10万円だから。
けっきょく政策を変更し、満鉄の車窓から見える範囲で、ケシを栽培させることにした。

S20-4-22頃、武漢からひきあげるかどうかが一大問題。
梅津としては、帝国の信義の問題だから、満州の早期放棄を採用できない。5-3に、シナから4個Dを満州に移動させ、満鉄沿線を守ることにした。5-30に戦闘序列が令せられ、転入。しかし「時は戦力なり」で、この措置は2ヶ月遅かった。梅津の決心が遅かった。

大連で、関東軍総司令官と支那派遣軍総司令官と会談するために梅津が東京を留守にした。この往復に、天候の関係で手間取り、梅津は6-6最高戦争指導会議と6-8御前会議に欠席。当時の大本営輸送機では、6-1出発して6-9まで戻れなかった。梅雨前線のため。※このようなことがあったので、戦後、C-1が参謀移動手段として開発されたのだろうと兵頭は想像する。

S19-8-15に梅津は天皇に、独ソを和平させたいと返答。
S19-11-15、参本の暗号班長の金子中佐が、スエドロフ駅で死体となって発見された。毒殺。この前にスタは反日的声明を出していた。ソ連通の秦参謀次長は、これは従来国交断絶を予想せられるようなときソ連がとる常套手段である、もう日ソ関係は決定的だ、と。バルト三国などにソ連はこの手を使っていたらしい。なお、金子に同行して人事不省となった浜田航空兵大尉は、責任を感じ、みずから沖縄に特攻して散華。
※ダブルオーセブンの最新作ではプーチン似の敵がボンドの酒に毒を盛るというシーンがあるようだ(ユーチューブで見た)。イギリス人は実によくロシア人を知っている。

S20-6-1、閣僚懇談会の席上、米内と左近司から、戦争の前途になげやり的な発言があった。阿南は、戦争をやめることは同意だが、日本がどうなってもよいでは相すまぬと発言。
8-12の陸軍のクーデータとは、東部軍司令官と憲兵司令官に警備の兵力を使って和平派を軟禁しようとしたもので、陸軍省の竹下正彦中佐が首魁。阿南は竹下に同意したかのような態度を示した。14日御前7時に阿南は梅津を訪れた。ここで梅津が反対した。

16日、総長は、マニラ行きの使節にはならぬとゴネた。梅津は、そこで降伏文書に調印するのかと思ったのだが、電報で確認して、そうでないと分かった。中佐や大佐でこのマニラ行きの随員を断るという気持ちは分かる。
外国の戦史でのみ読んだことのある降伏の軍使になるとは……。
梅津はなぜミズーリに行きたくないとゴネたか。大本営のメンバーの最高先任者は、米内海相なのだ。米内が行くべきなのだと考えていた。さもなければ、梅津と豊田副武軍令部総長のコンビで出るべきだと。とにかく海軍はキタナイと考えていたのだ。しかし部下いわく、大本営内では統帥部が上なので海相を出せというのは無理筋だと。
ところが8-27に総理の指令で、大本営の代表は梅津ひとりということにされてしまった。

敵の爆撃機クルーを麻痺させる光線、秋水ロケット、イ号自動操縦爆弾などを、兵器行政本部長の菅晴次中将は、かつてドイツでそんな研究をしていた専任技師の山田博士に委嘱していた。梅津は5月ころ、しきりに菅を自室に呼んで、殺人光線の実験成果を問うていた。
5月初め、山田博士は戸山ヶ原射場で16歳のじぶんの娘に向けて1200mから光線をあてたところ、娘はフラフラとなったと。菅はそれを梅津に報告し、梅津は大悦びで、コニャックを一瓶くれたと。

関東軍司令官は満州の主権者だからシナ人が怨むのはあたりまえ。
こだわっていたのは、在満の日本人の教育行政権は、ぜったいに満州国には渡さない。というのは、駐支軍司令官時代に、反満反日教育を10年間徹底していたのを見ていた。教育のことは一日もゆるがせにいできないので。

※梅津は1950時点で68歳だから復活のおそれがある。ソ連はそれが怖かったのか。

興味のある方は武道通信まで→http://www.budotusin.net

塾生ノート:兵頭二十八・私塾「読書余論」 第12回07-6-25 [その他]

この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は武道通信まで→http://www.budotusin.net

▼セオドア・シュルツ著、吉武昌男tr.『不安定経済に於ける農業』1949-9、原1945

WWI後の農業への反動不況はひどかった。農業はそれに慣れてしまうとかんたんに畳めない商売であり、そのため、いちど拡大した農業生産を縮小させることは難しい。それどころか農家は、生産を全力で続けようとするものなのだ。これが戦後の農家収入を不安定にする。そして、価格が低下すればするほど、農家はますます労働を強化する。

フーバー大統領は、大不況対策として1929-6に、農産物の買い上げ価格の補助金を出すことにした。また信用供与も行ったが、これはほとんど焦げ付いて、赤字が次のFDR政権にまわされた。

WWII中に徴兵されて機械を扱う経験をした者が除隊帰郷したことが、機械化の遅れていた地方の農村を機械化した(p.28)。

1940に3000万人いた農村人口は、1944には2500万人に減った。これでやっと、残留農家が息をつけるようになったが、復員が本格化すると、また困ったことになるだろう。

綿花は土壌を損なう略奪作物。これが南部の農業経済の、統計にカウントされざるコストになっているのだ。綿摘みは、まだ機械化されておらず、大量の奴隷的労働を必要とする。南部に数百万人いる黒人のひとりあたり収入は、アメリカ経済の水準と比例しないほど、おそろしく低くされている。彼らの貧困は、ヨーロッパでも見ることができない(p.41)。

イギリスの人口は、マルサスの時代、半世紀で2倍になった。

米国には「農協」がないので、減反や生産量調整ができない。自主的な原産は、その農家にだけ損をもたらす。
※農協をつくり、しかもそれに反共産主義的な政治スタンスを与えることができたのが、戦後日本の一つのクリーンヒット。もともとムラ文化だからこそ可能だった。

WWI後、米国も含めた各国は、帰還兵を援助するために開拓政策を講じた。これらはすべて失敗だった。空いている土地が経済的機会を提供するという錯覚は捨てよ。農業は常に他の産業よりも労働力が過剰なのである(pp.207-8)。

経済的機会は、農業において、最も限られている。
農村の自給経済というのは妄想である。それは農家に高いコストを強いる。その結果、農民は不健康になり、生活はみじめなものになり、標準以下の教育しか得られなくなる。
農業人口を減らすためには、州間の住所移動をもっと自由にしなければならない。そのためには現在の社会保障制度を改める必要がある。復員は、貧困農村地帯での人種差別を激化させる懸念がある。

農産品の価格をいくら高くしても、工業労働者との絶対収入の開きは補正できない。※農本主義はけっきょく非人間的な経済社会しかもたらさない。そこでは古代ギリシャのような奴隷使用だけが、向上心ある者のよい生き方になってしまう。

農産品価格を政策的に誘導しようとするならば、それは回顧的であってはならない。つまり、趨勢に逆行してはならない。将来の供給と需要を先どりするような、予見的な価格づけをすべきである(p.268)。※コメ価格の自由化は当然であった。略奪漁業産品には税金をかけるべきなのか。

▼松本五楼『地力増強法』S23-7

欧州では交互休耕をながらくやっていたが、18世紀の囲い込みで遊休地を置く余裕がなくなり、完全休耕のかわりに蕪・クローバー、馬鈴薯などの飼料作物を植えるようになった。これがノーフォーク型輪作で、囲い込みとしか両立しない。というのは昔は牧草地は共同利用だったので。わずか10年でイギリスの小麦生産量は激増し、1770にはロシア、オランダ、アメリカにまで輸出し、これによって英国の人口が2倍に増えた。

人力開墾は1日に2坪が限度である。最初は5寸の浅耕で作物を栽培し、次の年から深耕すればよい。最初は、陸稲、サトイモ、甘藷などが無難。

日本はWWII中に濫伐をして山林が荒廃し、鉄砲水や山崩れが増えた。

暗渠は、下流から上流に向かって掘っていく。直系12センチの砲弾型のモグラを地下50センチの深さでウィンチで引くやり方もある。5年くらいもつ。暗渠排水するだけで、水田の反収が4斗以上増える。

▼川上幸治郎『営農技術』S26-5

トウモロコシは圧縮できず、輸送コスト倒れになるが、これを豚肉や牛肉に転換すれば、輸送コストはペイする。肉が値下がりしたら、トウモロコシを他の目的に売る。

スコットランドは低温低湿なので、カラスムギはとれるが、小麦もトウモロコシもとれない。ここでは、カラスムギと蕪とクローバーを輪作す。
※カラスムギは馬の餌だが、小麦が不作のときには、人間が食べるまずいパンとすることもできる。このまずい食事に生まれながらに慣れているアングロ=ゲルマン人は、世界のどこへ遠征しても望郷の念を抱くことはない。コメに慣れてしまっている日本の兵隊は、海外遠征と聞いてもよろこぶことはない。

ムギ類は粉状に挽かないと腸でよく消化できない。たとえばコムギは粒のまま食べれば65%しか消化されない。製粉すれば88%消化できる。

ライ麦パンは小麦パンより貯蔵がきくので、1週間分をつくりだめできる。馬鈴薯を3割まぜれば、硬さを緩和できるが、貯蔵はきかなくなる。
トウモロコシはいったん粉にすると急速に劣化して保存し得ない。
カラスムギはコメより脂肪が28倍、たんぱく質は2倍もある。ひきわって、ミルクをかけて食べる。

勝田の設計によれば、毎日4回、合計30kgの薪を燃やすと、外気が-25℃でも屋内は2℃までしか下がらないと。

八ヶ岳山麓で厩を母屋のうちにおくのは、狼から馬を守るため。
焼畑のことは、きりばた、きりかえばた、などともいう。焼き払って第一年目は秋ソバをつくる。アブラナも混ぜる。秋に間に合わないときはダイコン、カブ。
ソバは播種後、4~5日で発芽し、すじ地面を覆う。

稗は夏の低温に対しては、作物中で最も抵抗力が大。稈は馬が好む。連作はせず、大豆、麦と輪作する。じかまきはもう流行らない。間引きの労力が大なので。いまでは、苗床から移植する方法になっている。この方が収量も増す。
収穫を早く行なうのが必須で、タイミングを遅らせるとタネが落ちて、翌年から稗の雑草地になってしまう。
タネは発芽しやすいので、刈り取ったら雨にあわさずに早く乾かす。また二百十日の前に長木で風の方向におしたおす地方もある。

▼J・W・ダワー『人種偏見』斎藤元一tr.1987、原1986

東欧人、スラブ人、猶太人は欧米人からも見下されていた。1920'sからアメリカは彼らに対して移民制限をしていた(p.43)。
死の収容所に特派員がじっさいに踏み込むまで、英語圏のマスコミには、ユダヤ人全滅計画がまったく取り上げられなかった。計画は明らかに1942-11までには文書となっていたのに(p.43)。

辻の戦後の証言。勘定高いアメリカ人は不利な戦争を長く続けようとはしないだろう。ソ連さえ加わらなければ、日本は長期戦ができるだろう、と考えていたと。
真珠湾攻撃後の『タイム』の記者。1億3200万人の米国人は思った。「まさか、あの黄色いやつらが」と。

1937のシナの都市に対する日本軍の爆撃が欧米人にいかにショックを与えたかは忘れられている。1937-9-28に連盟の諮問委員会が全会一致で決議を採択。米国務省はその翌日、一般市民が住む地域を広範囲に爆撃するとは許しがたく、法と人道の原則に反すると非難。FDRは10-5の隔離演説で、爆撃の野蛮さを強調。1938-3-21と6-3にも、国務省は日本軍の都市爆撃を非難。6-3のときはスペインにも言及。

マッカーサー麾下の第41師団は、終戦後間もなくある米陸軍大尉が発表した記事に「第四十一師団、捕虜はとらず」という見出しがついているほど。ワクデ島では、将軍が望んだので捕虜を一人とらえた。オーストラリア軍も捕虜をとらないのでよく知られていた(pp.87-8)。

チャールズ・リンドバーグは1944なかばの4ヶ月あまり、民間オブザーバーとしてニューギニアの米陸軍と海兵隊の基地にいた。ナイフや機関銃による捕虜日本兵の処刑は、そこでは常態化していた。オーストラリア兵は、捕虜日本兵を収容所に運ぶ途中の飛行機から放り投げた。タラワでは米海軍士官が、尋問に英語で答えられる日本兵だけを捕虜に選び、あとは殺させた(pp.89-90)。

西洋での敗北叙事詩は、テルモピレ、ローラン、アラモ、リトルビッグホーン。
WWIIで死んだイギリスの飛行士の数は、特攻隊で死んだ日本人飛行士の十倍である(p.94)。
アーニー・パイルは取材した兵士たちの名前だけでなく本国での所番地まで紹介した。
ドイツ系アメリカ人2万人からなる親独協会は、ずっとヒトラーの宣伝をしていたにもかかわらず、米独戦がはじまったあとも、監禁されなかった。
日系人の立ち退きと強制収容は、1942-2-19以降、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州、カナダ、メキシコ、ペルーで行なわれた。

1941-8-31までにシナ戦線で30機の零戦が366機を撃墜していたが、欧米の航空雑誌には一行も報道されなかった。
シェンノートは詳報を英豪米に送っていたのだが。また英軍は墜落した零戦の調査を1941の半ばにしていたが、これも無視された。

マッカーサーは緒戦で在フィリピンの空軍を一掃されたとき、敵機を操縦しているのは白人の傭兵に違いないと言い張った(p.137)。

カナダ人、E・H・ノーマンは、禅が殺人を安易にしたと戦中に紹介。
シンガポール陥落直後に英軍は史上はじめて集団的な劣等感に陥った(p.146)。

1942に多くの出版社が、古い世代の黄禍論を復刻した。1909のホーマー・リーの“The Valor of Ignorance”は日本軍を褒め過ぎる一方で米軍をけなし過ぎた本だが、これも復活した。ちなみに日本国内でも再版された。
メキシコからカナダにいたる海岸には有刺鉄線が張りめぐらされ、沿岸の住民にはジャップの殺し方が指示された。

テディの息子のアーチー・ローズヴェト中佐のニューギニアにおける観察。もともとイギリス人がマレーのぶざまな降伏を日本兵の超人性に帰してごまかした言い訳が、アメリカ兵の先入観になっており、まことによくないと。
ある海兵隊員はじっさいの日本兵がチビなので驚いた。
そこでハルゼーは1943から終戦まで「モンキーメン」という呼称を使い、部下の自信を高めようとした。

ベネディクトは1934に『文化の型』を発表し、1940には人種主義を批判した本を書き、それは戦争中に改訂されて45年にも再刊されている。ただし1943-10に完成した共著のパンフレット“The Races of Mankind”は、下院の軍事委員会に、共産主義プロパガンダのようだと糾弾されて、USO(軍人に豆本を提供した団体)は配本をしなかった。

連合国は天皇制を攻撃するなという勧告は、彼ら人類学者グループが提言した。

ゴーラーは真珠湾攻撃後、数週間で作製した未公開のリポートの中で、天皇制について、敬意をこめない限り米国は決して言及すべきでないと結論していた。

捕虜日本兵はプロパガンダの手伝いはしたが、天皇制への信奉には揺るぎはなかった(p.181)。
イギリスの戦時情報局にあたる情報省は、ドイツは異端者であり、日本が決して知ることのない普遍的な規範から逸脱したという点で、野蛮人の日本とは違うと、出版物に明記。

グルーも日記『滞日十年』の開戦前夜に書いた。日本人は子供なのだから、子供として扱わなければならない、と。
トマス・ジェファソンは、インディアンは子供であり、白人との雑婚により人種改良すべきだと考えた。FDRは戦後の日本人について同じアイディアを持っていた(p.196)。

ラドヤード・キプリングの『白人の重荷』は、フィリピン戦争に応じて1899に書かれ、半分悪魔で半分子供というアジア人の認識を確立した。
フィリピン人は、「ニガー」「グーグー」「グーク」などと呼ばれる。ガガ(=狂気)を連想させる。
アーサー・マッカーサー将軍は、議会の委員会で、フィリピン人捕虜が殺されている件について質問を受けている。
弾丸はコメより安いとの理由で、フィリピン戦争でも、米軍は捕虜はとらなかった(p.198)。

1854のカリフォルニアで、シナ人は白人のかかわる裁判で証人となることを禁じられた。すでにインディアンは禁じられていた。
1879年、カリフォルニアの新しい州憲法は、シナ生まれ、白痴、精神異常のすべてに対して参政権を拒否した。
その3年後、シナ人のアメリカへの移民が禁止された。

英人小説家サックス・ローマーのフー・マンチュー小説は1913に第一巻が出た。10巻目は1941で、1932にはMGM映画になっている。マンチューはシナ人の天才医師。
第10巻はハイチ島のブードゥー教の力を借りてマンチューがゾンビの軍隊を作り、さらに有色人種の肌の色を白く変え、白人種を恐怖におとしいれる。

1941にスチムソンは、黒人の平等要求の陰に日本人と共産主義者がいると信じていたことが日記から知られる。
1930年代に、高橋少佐が、イライジャー・ムハマドのブラックムスリム運動と連絡したという。30年代末に高橋は帰国したが、その前にブラックムスリムの一派の「われわれ自身の発展」を説得することに成功したと。FBIは1942に三つの戦闘的な黒人教団を一斉手入れし、12人の黒人指導者を逮捕した(p.229)。

日本はジョセフ・ヒルトン・スミスという白人をエージェントにして、『リビング・エイジ』『ノースアメリカン・レビュー』などの雑誌をコントロールしようとした。1940に創立された通信社のニグロニュースシンジケートも。
これらの活動の司令塔はメキシコ駐在の日本大使だと疑われていた(p.230)。
黒人兵は血漿でも差別されていた。
日本が西洋の科学を移入しようとしていたときは、まさしく、科学的人種主義が猖獗をきわめていた。

大政翼賛会が1942-2に発行した藤沢親雄著『偉大なる神道の清めの儀式および日本の神聖なる使命』は、シュメール文明は皇国から分かれたのであると主張。また、新約のヨハネの書には、大祓いを暗示するものがある、と。

京都学派は1941末~1943に、非神がかり的な近代の超克を訴えた。「永遠の戦争」「永遠の建国」など。主な公開討論の場が『中央公論』だった。
ポパイとリプトン紅茶は戦前から日本人に親しまれている。

1942はじめ、ミンダナオ島で包囲された米軍が、拘禁していた約70人の日本の民間人を機関銃で射殺した。この事件は日本の新聞で報道された(p.289)。

1942-10に政府は「極東」なる語はもう使わぬように指導。

インドネシアの白人混血児は戦時中収監され、10%が死亡している(pp.331-2)。
日本の人口は7300万人で、世界の5%を占めていた。領土は、半島と台湾を入れても、世界の0.5%だった。
1941に文部省は『臣民の道』を、また1942には『家の道(戦時家庭教育指導要綱)』を発行。教義の本質は家族パラダイムであり、「其の所」という概念。
1940に松岡/外務省も「その処」とか「其の所」とか声明している(p.336)。

日本軍政下のビルマ首相バ・モーは、東南アジアでの日本の役人のうちで最も悪質な分子を「朝鮮閥」と読んだ(p.342)。
1942はじめの政府のガイドラインでは、戦争が終わったら在日朝鮮人は本国へ送還すべしとしてあった。またソ連国境近くに住む者は日本人の移住者に取って代わられるべきだと(p.345)。

テニアン島では8000~1万の日本人が殺された。米側死者は400以下である。
1944秋以降、終戦までに、フィリピンでは33万人の日本兵が死んだ。米軍の戦死者は2万人強だった(p.358)。
※比島奪回作戦で米兵がどのくらい死んでいるかという正確なデータは、なかなか見ることができない。これはマッカーサーが、ニミッツが主張したようにミンダナオから直接に沖縄へホップすることができたにもかかわらず、自分のメンツにこだわってレイテやルソンなどにも上陸した結果、比島人と米軍に大量死を強制したという非難を免れるための工作がなされたためであろう。

朝鮮戦争が勃発する数日前にダレスは東京で、日本人はシナ市場の代わりに米国市場を開拓しろと語っていた。

▼高田純『核災害からの復興』2005-2

植生ならばキノコを調べればセシウムのことは分かる。リンゴは根が深いから、その実はセシウムでは汚染されていないと予断できる。
※動物と違って植物では濃縮現象は起きない。

アメリカは、核の灰が降り積もったロンゲラップの島民に急性放射線障害が出たと汁や、爆発54時間後に、全員を救出した。そして1957年に、安全化したとして、元の地に戻し、以後、健康診断を継続した。しかし、広島や長崎でやったように、その結果を決して住民には知らせなかったので、ロンゲラップ島民は怖くなり、1985に島を捨てた。
著者が1999-7に調査したところ、まったく安全なレベルであった。しかし過去の経験で行政不信に陥っている元島民は、再定住はしないと言っている。

▼ジョン・ミアシャイマー著、奥山真司tr.『大国政治の悲劇 米中は必ず衝突する!』2007、原2001
著者は1947生まれでベトナム戦争中にウェストポイント卒、空軍に5年間勤務した。その後、コーネル大学の院生となり、「通常兵器による抑止理論」で博士号。ハーバード大の研究員になり、1982から米国保守インテリの牙城たるシカゴ大学で教えている。他には、リデルハート批判の未訳本がある。※米国でのリデルハート批判については、パレット著『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』の最新版文庫本の巻末の兵頭解説を見よ。オフェンシブ・リアリズムがカバーし切れないのは、テロネットワークという大穴への対策である。
訳者は英米流地政学の人らしい。

欧州人はいまでも、ドイツはアメリカの力に抑止されていなければ侵略者にまたなると懸念している。

大国は必ず安全のために覇権を求める。シナの国力増加は、米支衝突の必然の運命しか意味しない。

ある国が核兵器によって他のすべてのライバルを超越してしまうと、通常兵器のバランスはほとんど無意味。
※ではWWII直後の米国はどうなのだ。ソ連に手が出なかったではないか。

カーとウォルツは、経済の相互依存関係が平和につながるというリベラルの主張を斥けた。
モーゲンソーは、多極システムの方が二極システムより安定していると説く誤謬をおかした。
モーゲンソーは、国家がパワーを求めるのは、国家にはそもそもパワーを求める欲望が本質的に備わっているからだとする。ウォルツは、国家は国際システムのアナーキー構造のために、やむをえず自国の存続の確率を上げようとして、パワーを求めると。

リアリストは、国の内部の構造などどうでもよいとする。外部の環境だけが大国の行動に影響を与える、と(pp.37-8)。。※まさにこの反証が1905のドイツと1941の日本だろう。どちらも特異な「参本」にかかわる国内事情により戦争ができなかったり、あるいはすべきでない戦争に踏み込んだ。

オフェンシブ・リアリストは、国家にはパワーを求める本能が備わっている、というモーゲンソーの主張(人間性リアリズム)を否定する(p.43)。」

戦争は国際システムのアナーキー性から起こる、と指摘したのは、英人G.L.Dickinsonの“The EuropeanAnarchy”である。WWIの原因はドイツではなく、ヨーロッパのアナーキーだったと総括した。

ミルトン・フリードマンいわく、最も優秀な理論は、現実から大きくはずれたような仮定をもっている。その理論が重要であるほど、仮定も非現実的。
著者はこの行き方に反対。健全な理論は健全な仮定の上に成り立つ、と。

英仏は冷戦終了後、即座に統一ドイツの脅威を心配し始めた。
西洋社会でソ連の崩壊を以前から予測していた人がほとんどいなかった(p.60)。

スターリンはWWII末期に、すべての国家は、自国の陸軍が侵攻できる最大範囲まで自分たちのシステムを押し付けようとする、と表現。

いまのアメリカ合衆国の国土の大部分は19世紀の武力征服によってつくりあげられた。「軍事力における最も重要な要素は陸軍である」(p.72)。

アメリカ外交は道徳主義か? 人道的な支援をするためにアメリカ兵が殺されたのは、過去100年のうち、1992~93のソマリア介入だけだ。しかも1993-10に18人の兵士が殺されたことで、ただちにソマリアからは撤兵。1994春のルワンダでフツ族がツチ族を虐殺しているのは傍観した。阻止することは簡単だったのに(p.77)。

トルーマン政権の要人であったケナンとニッツェは、分断されたドイツは国際秩序を不安定にするとみた。しかし国務長官Dean Achesonは違った。
アイクは1950年代を通じ、アメリカはヨーロッパから撤兵し、西独に核武装させようと考えていた。これがヨーロッパを混乱させ、1958~9、および1961のベルリン危機につながった。

工業国ほど、余剰の富を防衛費にまわしやすい。
今日、シナでは18%の富が農業から生まれている。日本やアメリカでは、その率は2%にすぎない。

WWI前の20年間、ロシアは西部で鉄道網をあまり建設できなかった。フランスは独露の鉄道機動力の不均衡を是正するためにロシアの鉄道建設債を買った。

1914~1917に、独は47300機、露は3500機の飛行機を生産。同年の機関銃生産は、独28万梃、露は2万8000梃。
大砲生産は、独64000門、露11700門。小銃生産は、独854万7000梃、露330万梃。
これにより、人数で半分以下のドイツ軍は、ロシア軍を負かした。

1941~1945に、ソ連は10万2600機、独は7万6200機を生産。機関銃は、ソ143万7900梃、独104万8500梃。小銃
は、ソ1182万500梃、独784万5700梃。戦車は、ソ9万2600両、独4万1500両。自動車は、ソ35万300台、独6万8900台生産。
よって、ソ連が勝ったのは当然なのだ。

1980年代初めにソ連経済が傾きはじめたのは、コンピュータ技術での遅れによる(p.108)。※日本の省エネとOPECの増産で原油の国際価格が下落したことと、無能官僚のシベリア送りが上司に許されなくなったためである。そこでアフガン侵攻が待望された。

1820から1890まで、英国の富は、他のすべての大国の富の合計の45%を下回ったことがない。1840~60に限定すれば、その割合は70%で、圧倒的だった。
※この英国と最初の同盟を結んだ明治元勲の得意を思うべし。ただしそのとき英国は米国に追い抜かれそうになっていたが。

1930年代のイギリスと、1950年代のアイクは、防衛費支出は自国経済に悪影響をおよぼすと考えていた。アイクは核兵器に頼ることで防衛総支出を抑えようとした。※現実には高度ミリテクへの公共投資こそが、最大級の投資の乗数効果をもたらしたのである。これに1980年代にいちはやく気付いたアメリカが、1990年代に他国経済をつきはなすことになった。

日本は1987時点でソ連よりも大きなGNPを持っていた。※日本の戦前からの官僚制度が日本の自由にとって益であるよりも害な存在となったのも、この時点から。

連合国の爆撃機がドイツ経済にまだなんのダメージも与えていなかった、スターリングラード戦時点で、すでにソ連の工業生産力はドイツを上回っていた。
不思議にも、ドイツの方が、ソ連よりも高い割合で、国家予算を防衛費にあてていた(1942時点で、それぞれ63%と61%、1944時点で、70%と61%)。

WWIIの日本の降伏は、陸軍優越説への反証のようにみえるが、やはりそうではない。海上封鎖だけでは日本は降伏しなかった。※天皇は、九十九里浜の守備隊に銃剣すらも装備されていないという武官の視察報告を聞いて、陸軍の本土決戦論を斥けた。

M・オルソンによると、イギリスの食糧供給の阻害はWWII中が最悪、次がWWIで、ナポレオン戦争中はあまり阻害されなかった。ところが、英国民が感じた食糧上の苦境の度合いは、まさにその逆だったのだ。理由は、英政府の行政的対処力の進化である。

1943-8と10月、米軍のB-17はリーゲンスバーグとシュヴェインフルトを猛爆したが、ルフトバッフェが健在なので、途方もない機数が撃墜されてしまう。以後、1944初頭に戦闘機の長距離エスコートが可能になるまで、アメリカは空爆を再開できず。
ところが、ドイツの敗色は1942末には濃厚だった。つまり空軍力がドイツを負かしたのではない。

イタリア爆撃の本格化は1943-7からだった。これはイタリア降伏の2ヶ月前にすぎない。シチリアは1943-7に攻略されたが、守っていたのはドイツ軍だった。
イタリア人は1942-10~1943-8の空爆でたった3700人しか死んでいない。にもかかわらず政府が降伏を決めたのは、イタリア陸軍がすでに壊滅状態であったから。

1942-3~1945-4にドイツの上位70番目までの大都市の4割が破壊され、それにより30万5000人の一般市民が死んだ(pp.141-2)。

日本では1945-3~8月に90万人の都市民が死亡(p.142)。
日本に対する5ヶ月間の空爆では、上位64番目までの都市の4割を破壊し、78万5000人の市民を殺害した(p.143)。※この数字不一致は、原爆をカウントするかどうかなのだろう。つまりミアシャイマー氏は、ヒロシマとナガサキの原爆では合計11万5000人が死亡したとみなしている。

1936にイタリア陸軍は、けっきょくエチオピア全土を征服しなければならなかった。

ソ連は1979と1989に、アフガニスタンの人口集中地帯を空爆している。

朝鮮戦争では三度の空爆キャンペーンがあった。1950-7末~10末の、5つの工業中心地に対する爆撃。1952-5~9の、水力発電所と平壌に対する爆撃。1953-5~6の、ダムそのものを破壊してしまう作戦。

1999-3-24にNATOがユーゴを軽く爆撃したが、ミロシェビッチはすぐ手をあげると考えられていた。だんだんエスカレートし、500人の市民が殺され、6-8にようやく屈した。クリントンが地上軍派遣のスケジュールをロシアに伝えたのが、効いたのだ。

R・ペイプは、エアパワーの75年の歴史を調べて、結論。空爆は、国民の反乱の原因とはならぬ、と。

1998-12にアメリカは四日間、イラクを空爆し、サダムの首切りをはかるも、失敗。

ミアシャイマーは「首切り作戦」に否定的。連合軍がもしヒトラーを殺すことができたとしても、ゲーリングやボルマンが代役に立っただけだろう、と。
※もしFDRがさっさと殺されていたら、それでも歴史は変わらなかったとでもいうのか。対権力直接アプローチは、陸軍の侵攻によって、間違いなく達成される。

ドイツ兵士の戦死者の3/4はソ連兵によってもたらされた。

舗装道路は1900から発達した。自動車はその後からである。

ムルマンスクへの米英の補給は、ノルウェイ沖でドイツの空軍により、1942の後半まで、かなり沈められた。

1991-2-24のデザート・ストーム作戦で海兵隊がクウェートに上陸できなかったのは、イラクがデザート・シールド中に仕掛けた機雷のためである(p.162)。

WWII開始の時点でアメリカ経済は日本経済の8倍だった。

マクナマラは、核兵器は、敵に使わせないように抑止する目的以外には、役立たずだ、と主張した。

印パの間で1999に1000人以上が戦死する国境紛争あり。

フランスは1861~65の南北戦争中、アメリカの希望に反してメキシコに軍隊を駐留させた。北部が勝利すると、すぐに仏軍はメキシコから追い出された。
1866はじめ、オーストリーがメキシコに派兵しようとしたが、同年夏の普墺戦争に至る緊張のため、中止さる。

国家は自分のいる地域の中で一番圧倒的な陸軍を持ちたがる(p.195)。

19世紀前半のアメリカと1862~70のプロシアは、侵略と経済的利益が両立している好例だ。また1940以降のアメリカ経済は膨大な国防予算と両立している。
※砲弾と燃料と兵隊の給養だけに予算を使ってしまうような戦争――その典型が支那事変とベトナム戦争とアフガン戦争――は、損。しかし、高度ミリテクの研究開発に割合に大きな予算を注入する平時の軍備予算は、自国の経済競争力を高めてくれる。なぜなら、各経済単位が、発明ポテンシャルを最高に引き出せるポジションに上昇して行くことによって、時代遅れの経済活動には無能な人間だけが残るようになるから。日本の戦後の、土建ばらまき予算は、支那事変と同じことをやっているのである。

アメリカはサウジの石油をソ連にコントロールさせぬために、Rapid Deployment Forceを1970's後半に創設した。
ソ連はサウジ攻略の前段階としてイランを征服する必要もある。

67万4000人のナポレオン軍は、1912の対露侵攻時点で、その半分の部隊が、非フランス人であった。
1945のナチス親衛隊38ユニットのうち、ドイツ人だけで構成されているユニットは一つもなく、19のユニットは大部分が外国人士官が占めていた。
1944-8時点でドイツ国内には760万人もの外国人労働者・捕虜労働力が存在した。

1954にイスラエルは、エジプトにある英国系の重要施設をコマンドー部隊に爆破せしめ、イギリスとエジプトの関係を悪くしようという謀略作戦を考えたが、部隊が捕らえられ、作戦は大失敗。ライバル国家を騙して戦争を始めさせるのは非常に困難であり、策略が暴露しないことはほとんどない(p.206)。

バックパッシング(重荷転嫁)をするためには、バックキャッチャー(重荷を背負わせてしまう他国)との関係をふだんからあまり親密にしておかない方がよい。WWII直前のフランスとソ連はお互いにそのような関係になった。つまり、恐るべきヒトラーの侵略方向を互いに相手国へ向けさせるために、互いを誹謗し合ったのだ。

明治維新の独裁的な性質に対する痛烈な批判者であるE・H・Normanでさえ、日本は発展して帝国になるか、属国になるか、二つに一つしかないと歴史が教えていた、と結論(p.230)。※コミンテルンのシンパだったノーマンの日本現代史しか米国図書館にはないのだという英語文献事情が透けて見える。

1884末にソウルで日本軍と清国軍が衝突したが、双方はヨーロッパの大国がつけ込んでくることを警戒していたので戦争は回避された。

1919~1939のワイマール時代、ドイツは徴兵制も参謀本部も禁止された。
1920にソ連に勝っているポーランドがすぐにドイツに向かってきたら危ない、と信じられたほどだった。

ポーランドは内戦状態のソ連に1920-4に侵攻。ウクライナとベラルーシを分離独立させて、自国の支配する東ヨーロッパ独立国家連邦をつくろうと考えていた。
ソ連は5月にキエフを占領されたが押し返し、7月末にはポーランド国境に近づいた。ここでフランス軍がポーランドに加勢して撃退す。疲れ切ったソポ両国は1920-10に停戦し、1921-3に講和条約が交わされた。※この時点では日本だけがソ連に干渉を続けていた。

1924~1929にワイマールの外相だったシュトレーゼマンは、一度も戦争を首唱しなかったが、理想主義者ではサラサラなくて、力の政治だけを信じていた。彼は多くの条約を結び、英仏には徹底的に懐柔的に対し、賢い外交で領土の再拡大を狙った。もし当事のドイツ軍がじゅうぶんに強かったら、シュトレーゼマンがそれを使うと脅したことは確実だ。

モロトフ=リッペントロップ協定とは、スターリンによる、フランスに対するバックパッシングである。ドイツの背後に敵対的なフランスがある限り、ソ連はやりたい放題で、フィンランドとルーマニアから領土を奪った。
ところがフランスは崩壊した。フルシチョフの回顧によると、スタはそのニュースにひどく落ち込んだと。

戦後のスターリンのターゲットは、イラン、トルコ、東欧、韓国だった。
ソ連がイランから渋々撤退を開始したのは1946春。※これも東京裁判の開廷に合わせている。

一度負けた国は、その負けた戦略が無駄なものだったとは考えない。次の戦争で同じ間違いを二度と繰り返さないように努力する。

ヒトラーは、WWIのドイツのリーダー達の虚勢的なレトリックが有害だったことを知っており、公共のスピーチや外交上の談話では、平和へのゆるぎない望みを表現し続け、善良な意図を推進していることを周囲に確信させ、次々と有利な条約を締結した。

バルバロッサ作戦開始の決定は熱狂的に支持されていた。ドイツ国防軍はソ連を迅速に完敗させることができると認識していたのだ。英米の中でも1941時点ではドイツがソ連に勝つと広く信じられていた(p.286)。※有権者と政権のあいだに情報ギャップがあった。日本の軍部がドイツが勝つと早合点したのも無理はない。

1940時点で、日本経済は世界経済の6%を占めている。イタリアは2%、ソ連は13%、フランスは4%、ドイツは17%、イギリスは11%、アメリカは49%であった。
1930時点では、それぞれ、4%、2%、6%、9%、14%、11%、54%である。※ソ連の数字が信用できるとすれば、満州事変に際して、ソ連が軍事介入できなかった理由と、日本がアメリカの反対を非常に気にした理由が呑み込める。またもし1941に日独が協力して対ソ戦を始めていればソ連は亡んだだろうと理解できる。それが実現しなかった理由も、「オフェンシヴ・リアリズム」では説明ができない。日本国内では明治憲法が硬性で不磨であり、しかも、陸軍の統帥権独立をチェックできると政党や宮中によって期待されたのが、内務省の強化ではなく、海軍にも統帥権独立を与えること、すなわち、統帥二元の不合理な国内システムだと早計に結論されたことが、その解答となろう。
※日本が対ソ開戦の好機がありながら開戦できなかった理由の一つは、日本経済がまだ大きく農業就業人口に依存していたからである。農本主義経済では動員は自国への大打撃となるので、敵地が大資源地帯でもない限り、オフェンシブな国防は不可能だった。じゅうぶんに工業化されていないと、「オフェンシブ・リアリズム」は、好機に間に合うようには、実行がし難い。
※後知恵は次のように結論するであろう。米国は、WWI後の海軍軍縮条約を主導すべきでなく、無制限海軍軍拡をあくまでユニラテラルに推進するべきだった。これにより軍事ケインズ主義が米日主導で実行され、戦後世界恐慌は回避され、世界の共産主義は沈黙したろう。もちろん日本も海軍軍拡または航空軍拡またはその双方を追求すべきだった。その結果、日本の経済構造が脱農業化し、貧農が消え、しかも米国の建艦量には絶対に勝てるわけがなかったのだから、日本からハワイに出て行く対米開戦=海軍の暴走もありえなくなった。英国は対米パリティを維持できないので結局インドを手放し、そこがアメリカの新市場になったろう。英国はシナ市場を手放す気もなかったので日英同盟維持によってアメリカに対抗するオプションは不可能である。つまり、要するに英国の生き残りをかけた工作が、アメリカをして、英国以外の誰の得にもならないワシントン海軍軍縮条約を推進させたのだ。

1900における日露の経済力は、日本が世界の1%にも達しないのに比し、ロシアは6%を占めた。イギリスは23%、アメリカは38%で、すでに世界の最強国は逆転していた。

ペリーが日本にやってくる前後の1850時点ではイギリスが世界の59%の経済力を占め、アメリカは13%にすぎなかった。ロシアは3%だった。またこの時点ではフランスが10%に対してドイツは3%である。

「日本の不運は、一九四一年の時点でソ連の生殺与奪権を持つ決定的な立場にあったのが日本であったことである」(p.290)。

WWII直前、日本は6割の機械、7割5分のくず鉄をアメリカから輸入していた。

冷戦時代のmassive retaliation という用語は不正確だった。アメリカは報復だけを考えていなかった。むしろ、いざというときは先制攻撃でソ連のすべての核兵器を消滅させるつもりであったという証拠が数多くある。
ルメイは1950年代の中ごろ、むしろ爆撃機による大量先制攻撃(massive preemption)しか考えていなかった。

ソ連の人口の3割と工業の7割を破壊するには、上から数えて200番目までのソ連の都市を破壊せねばならず、それに必要なEMT=「1メガトン爆弾換算個数」は、400個であった。しかるに1976-1-1採用のSIOP-5では、25000の目標が挙げられており、1983-10-1承認のSIOP-6には5万の目標が挙げられている。※著者は何か勘違いしているが、SIOPは多数のシナリオをオプションとして想定しているもので、シナリオごとに攻撃目標グループが異なる。大統領は、とっさに、その中からひとつのシナリオのオプションを選んで実行を命ずることができるだけなのである。もちろん、SIOPが挙げた全目標をいちどにぜんぶ攻撃するようなシナリオは、ありえない。物理的に不可能である。

SIOP-62が承認された1960-12時点でアメリカの核弾頭は3127発。SIOP-6時点では1万802発。
冷戦終了までに、米国の弾道ミサイルは、ソ連の陸上ミサイル・サイロのすべてを破壊できるレベルに達した。

大国にとっての究極の目標は、地域覇権を達成しつつ、他の地域に競争相手が台頭してくるのを防ぐことにある。

ルイジアナはまずフランスがスペインから手に入れ、ついでナポレオンが戦費捻出のためにアメリカに売った。アメリカはフロリダを再三、軍隊で脅かし、スペインにその売却を決意させる。
1846-5にアメリカはメキシコに宣戦布告し、カリフォルニアを征服。これにより、ローマ帝国やアレクサンダー帝国に匹敵する広さになった。

1812の対英戦争はカナダ領有を狙ったものだった。19世紀を通じてアメリカはこの狙いをあきらめなかった。
南方ではキューバが最終目標だった。それが実現しなかったので、太平洋に目が向いた。※カナダとキューバをあきらめた理由。そこには既にまともな政府があったから。

1800の米領土はミシシッピまでだが、そのなかにインディアンが17万8000人いた。1850時点では、66万5000人のインディアンを領内に有し、うち48万6000はミシシッピ以西に住んでいた。これが邪魔になったので追い立てがはじまり、1900までにインディアン人口は45万6000まで減った。

1850から1900のあいだに1670万人もの欧州人が米国に移民した。
ブラジル、カナダ、メキシコ人は、アメリカのあとを追って独立国家になった。

イギリスは1807~1815に、五大湖周辺のインディアンと同盟してアメリカの領土拡大を防いだ。

アメリカ国内でドイツに対する敵愾心が突如、沸きあがったのは、フランスの崩壊を契機とする。1940初秋の意識調査で、イギリスを助けてドイツを負かすことが、孤立よりも重要だと考える人の数がはじめて過半数を超えた。

イギリス軍が日本に対抗するためアジアに残り続けたのは、アメリカの命令による。アメリカは、イギリスが対日防衛負担を分担しないのならば、ヨーロッパを見捨てるぞと脅した。
「日本が中国において一九三七年から一九四五年の間に経験したことは、ベトナムにおけるアメリカの経験(一九六五~七二)や、アフガニスタンにおけるソ連の経験(一九七九~八九)と驚くほどよく似ている」(p.335)。

大国は、二極システムの中ではバックパッシングできない。多極システムにおいては、日常的に使われる。

ナポレオンのヨーロッパ征服は、1805以降、フランスの国家歳入を1割以上、上昇させた。
1816時点の仏人口は、英の1.5倍、プロシアの3倍、オーストリーと互角、ロシアよりずっと少ない。しかし、「nation in arms」の思想で国民を統一できていたのはフランスだけ。フランスのために死ぬことに兵隊は同意していた。よって他国軍は仏軍には対抗不能だった。

フランスは常備軍に依存しつづけ、予備役動員でプロシアに負けるようになる。1866のプロシアの成功を見て、常備軍を減らして予備役を増やしたのだが、役人の効率が悪く、動員速度でプロシアにかなわなかった。ポテンシャルで動員できる数は普より50万人も多かったのだが、それを緒戦に動員できないので、速戦即決戦争に負けてしまったのが1870の真相。さらにまた、予備役兵の練度でも太刀打ちできなかった。仏軍は、予備役軍を常備軍と一緒に戦わせるために訓練しておくことを考えていなかった。

1907-8-31の英露協商は、互いにドイツを最大の脅威だと認め、ドイツを封ずるために、中央アジアでは英露は手打ちをしようというもの。※これにカウンターをあてるためにドイツは眉日外交を開始しただろうか。出てきたのは黄禍論だ。

ドイツがフランスを敗北させた直後の1940-6にイギリスはソ連と同盟を結成しようとして失敗。ソ連はバックパッシングをまだ続けたかったので。※前年のノモンハンで日本陸軍がショックをうけ、南進が近衛政府の方針になりつつあるようにみえたので。英と同盟すれば、欧州でもシベリアでもバックキャッチャーになってしまうから、ソ連が損なだけ。

英仏がもしヒトラーと戦わねばならないのだとしたら、それは1939よりも1938の方がよかったと多くの学者たちが考えている(p.408)。※Me-109がすでにドイツにあり、英仏には匹敵する何もなかった。だから戦争は不可能と考えられたのを、「多くの学者たち」は知らないのであろう。

1939までナチス・ドイツは圧倒的な軍事的脅威ではなかった。だからアンチ独のバランシング同盟がつくられなかった。
これに対して1870から1818までのドイツ帝国は、欧州最強の軍事力だったから、アンチ独のバランシング同盟がすぐにつくられているのである。

1947-6のマーシャル・プランは、フランスとイタリアのひどい経済を救い、両国を共産化させぬためのもの。
1947-12には、強力な西独を復活させることに米英などが合意。1949-9にドイツ連邦共和国が誕生。この動きにソ連は最もショックをうけた。それで1948-2にチェコで共産主義者によるクーデターを起こさせた。※東京裁判の最後の段階においては、ソ連に配慮する必要は少しもなくなっていたのだ。

Dean Acheson国務長官の1949-7-30のホワイトペーパーいわく、アメリカがシナを失ったのは、まったく蒋介石政権の腐敗によるもので、過去にアメリカが救済できた可能性はなく、今後もない、と。※これもモスクワを勇気づけ、朝鮮戦争の下地となる。

1939~1945に、英は590万人、米は1400万人、ソは2240万人を動員した。
WWII終戦時点で、英軍は470万人、米軍は1200万人、ソ連軍は1250万人いた。
WWII中に英は50個歩兵師団、米は90個師団、ソ連は小型歩兵師団を550個、編成した。

クリントンは、洗練された利己主義が、戦争に代わる、と演説した。

フセインによる1990-8のクウェート侵攻は、クウェートがOPECの定めた量の上限を超えて生産していたので、イラクの利益が低下するとおそれ、フセインが決心した(p.477)。※そうではなく、クウェートの過剰生産&販売は、地下でイラクの油脈につながっている油井によってなされていた。つまりイラクからみてクウェートは泥棒に思えたのだ。この利己主義的な行動の上に、イラクの苦情を鼻であしらった舐めた態度に対する怒りが、侵攻の理由である。一撃膺懲のあとですぐに撤退せず、欲を出したのが、フセインの運の尽きだった。

この本を書いている時点で、コンゴの内部で、七つの国が戦争している。

ロシアは1993に、領土の統一に対する脅威が起これば核戦争も辞さない、と。ここにおいて、長年の、ファースト・ユース自粛の誓約を捨て去った。

自国の領土に米軍を駐留させているアメリカの同盟国たちは、外交政策を自由に行なえる範囲がかなり狭い。
在日米軍の目的は、日本という潜在力をもつ国が、シナと深刻な争いを起こすのを防ぐためだ(pp.493-4)。

父ブッシュが、1990秋、つまりデザート・ストームの直前に、〈イラクは米国経済を悪化させ、アメリカ人の仕事を奪うおそれがあるのでクウェートから撤退させよう〉と主張したとき、輿論は猛反発した。以後、米国の政治家は二度とこのようなレトリックは口にできない。利潤とか繁栄のために遠征戦争する気は、米国の有権者にはないのだ。

2001現在、アメリカは、ヨーロッパでも北東アジアでも、やる気のない保安官reluctant sheriffになりつつあるように見える。
アメリカはオフショア・バランサーであり、世界の保安官ではない。※9.11とアフガン&イラク占領でその事情は変わった。

今日のヨーロッパには、大国となれる国は、英、仏、独、伊、露しかない。ドイツとロシアの人口格差は過去100年で最も小さい。ドイツは、だから、脅威だと思われている。

シナへのengage = 関与政策とは、シナを民主的に経済的に発展させれば、アメリカと軍拡競争しなくなるというリベラル派の夢想だったが、大間違いである。シナは現状維持するだけで満足しない。豊かになったシナはかならず地域覇権を狙う侵略的な国になる。どのような国にとっても、自国の生き残りを最大限に確保するための最も良い方法は、地域覇権国になることだから。

▼フェルナン・ファルジュネル著、石川訳『辛亥革命見聞記』S45、原1914パリ

トンキンの奥地の労開。シナの南西の玄関。日本の女たちが下駄やサンダルを引きずっている。外人部隊に春を売っているのだ。はがき売りの店は日本人の経営である。主人はきわめて純粋なフランス語も話し、外見は上品である。どうもアンナン国境を偵察している日本のスパイではないかと、後から気付いた。この主人は「お菊さん」たちから情報を買っている。フランス政府がこの男を追放しても無駄だ。別な知らない男がやってくるだけ。

雲南府で通行人は外人には無作法な好奇心はあらわさない。だが学生らしい空色の絹の長衣を着た若い男が「シャ! シャ!」と小声をかけた。「殺せ! 殺せ!」という意味である。※なぜ「殺せ」という単語がロシア語に非常に近いのだろうか?
学生たちは、120年前に死んだロベスピエールを称揚している。※その中にトウ小平もいたのだ。トウはパリ留学→モスクワ留学。

四川省は駕籠かき人夫の供給地。パリの石炭屋がオーエヴェルニュ地方の出身であるが如し。
「斬」という文字がでかでかと書かれたポスターを見る。外国人を殺したものは直ちに斬首してさしつかえない、としている。

辮髪を切らず、共和派でないという理由だけで人が殺されて路上に遺棄されている。

シナ女はしばしば精力的に見える。ときには男よりもたくましい。日本人の女の重順性とは、大違い。自分の意志を夫に強制できるほど強い心を持っているのだ(p.59)。※この指摘は重要で、渡部昇一氏は、戦前の日本にホモがいないのは、女がまったく従順そのものだったからである、と分析する。また西洋人からみて、女兵士と女政治家の存在という点でだけは、日本よりシナの方が近代的に見えた。これに、海外での娼婦の最大の供給国という事実が、戦前の国際宣伝戦上のマイナスになった。

シナのフェミニズムの実現は広東省から。被選挙権まで与えられた。
欧州でも婦人の議会進出はまだ見られない。シナが世界初になるのではないか(p.61)。
上海は海に面した港ではなく、黄浦という川に臨む河港。ただし川幅は400mある。
商船は桟橋。軍艦は、繋留索で、川の中央に停泊。
フランス疎開ではアンナン人を警察に使う。

村を通ると腕白小僧どもがヤンクイズ(洋鬼子)とはやしたてる。ほとんど全部の電柱に、日本の「ライオン印」の歯磨き粉の広告がある。これはインドシナの森林の中にまでみられる。

上海でも、これまでの伝等どおり、婦人はまったく舞台に上らず、男優が女の役を演じている。北京では女優が登場しつつあるけれども。
※これは明治・大正の日本との大きな違いで、シナでは中流の女を家の中に閉じ込めようとするから、その反動で、女兵士が生まれたのであろう。
革命派は劇場で社会問題を啓蒙する。たとえばひとりの知識人が阿片のために自分の娘たちに売春させようとするドラマ、など(p.80)。

上海では「革命が勝利して、人々は皆、初期の熱狂状態にあった」(p.82)。※この熱に日本の九州の浪人が当てられた。

儀式好きのシナ人には、プロテスタントの礼拝の厳しい冷たさよりも、装飾華美なカトリックの演出が好まれる。
フールニエ神父は、元海軍士官。拳匪の乱を鎮圧後、除隊して修行し、司祭になった。シナ語を読むこともできる。

伝道会は寄宿制学校で仏語の教育を提供しているが、シナ人は役に立つのは英語だと判断しており、わずか30名が習いに来るだけだ。
別なカトリックの学校には、良家のシナ娘が200名通学し300名寄宿しているが、絶対にカトリック教には改宗しない。何の宗教も信じていないのだ。

イエズス会のフランス人修道女が1857から少女孤児院を運営している。小娘たちは動乱の時期に連れてこられたか、10スーばかりで買い取られた。貧民による捨て子は徐々に減りつつある。

復旦大学は、ブロンドのあごひげでシナ服を着た、ラパラン神父の監督下にある。同神父の従兄弟はフランス学士院会員の地質学者である。げんざい160名のシナ人生徒に法学、数学、医学、工学などを、シナ語と仏語で教えている。教師はみな、修道会の仏人神父。彼らでなければ、シナ語で大学レベルの授業などできない。
この大学が上海の近くにあるおかげで、シナにおけるフランスのステイタスが認められているといって過言ではない。

上海近くにある極東中央気象台長であるフロック神父は、極東でもっとも好意をもたれている仏人。なぜなら、フィリピンで発生する台風の警報を出し続けてきた。マニラや日本やシナ、インドシナの大きな港と、電信でむすばれている。香港では、この警報をうけるや、黒い十字架をジャンクに対する合図として掲げる。

3万の在支ヨーロッパ人は、シナ語で原住民と意志が通じないために、政治的な変化が街頭にあらわれたときにしか、理解ができない。知性や思想を知る方法がない。
フランスのアンシャンレジーム時代、貴族の血管には民衆と異なって青い血が流れていると主張された。あの理論はシナに来るとよみがえり、あらゆる階級のヨーロッパ人はシナ人とアンナン人を侮蔑している。

袁世凱はいかなる外国語も知らない。欧州に旅したことはない。
袁世凱にたぶらかされなかった外国人は、ロシアの外交団だけである。
シナでは二派の談判は百回決裂して百回再開される(p.143)。

シナ革命は社会主義的である。なぜなら、西洋のブルジョア階級がシナにはなく、国民党は、ほとんど無産階級の代表に近かった。
革命政権は、土地から得られる剰余価値を、共同体のものにすると約束すれば、人々は嫌悪の念を起こすことなく支持した。
シナの家族は、財産の分割よりも共有を道徳的とする。
だからシナの中産階級は、共和主義的であると同時に、社会主義的である(p.161)。

国や自治体が道路をロクに整備しないので、農民はあらゆるものを背中で運ぶ。
この交通の悪さのために、飢饉や餓死が起こる。
にもかかわらず農民は反抗しない。災禍は天のせいである。
彼ら温和な農民に信用された外国人は、彼らから手厚くもてなされ、ひきかえに何一つ要求されない。
兵士は給料を貰っていないので、簡単に、河上での海賊や人攫いを働く。

漢口をめぐる戦いでは、革命軍は、外国租界の背後に放列を敷こうとした。革命派が牢獄を破ると盗賊も釈放され、たちまち市内で悪行をはじめたので、秩序を取り戻すために、盗品を持った者は誰彼なしに即座に斬首された。

袁世凱が兵隊に給料を支払わないので、兵隊は住民から支払わせることにした。まず街頭でたくさん発砲する。
これで住民は自宅内から出られない。それから壁をぶちこわして侵入し、好きなものを持ち出す。

シナの共和派が反ロシアであるというのは、反ツアーリなのであった。だから、共産党を含む反ツアーリのロシア人とは、彼らは留学生を通じてつながりがあった。シナ人に、言論よりも行動(テロ)だと教えたのは、それらロシアの反政府勢力である。爆弾の使用法もロシア人がシナ人たちに教えたのだ。集会で、絶対主義への憎悪をたきつける方法を教えたのも、それらのロシア人(p.228)。

西太后の小宮殿はドイツ人が設計したヨーロッパスタイル。ルイ14世や、イングランドの諸王が、清朝にいろいろな贈り物をしたが、それらはすべて宦官がニセモノとすりかえたらしく、俗悪な品物がガラスケース内に積まれている。

日本に長く滞在していたファーブル神父は、大正天皇が崩御すると、数年後に、日本は共和国化、社会主義化するだろうと予言した(p.266)。
フランスでもウルトラ保守派は過去40年間、共和制の没落の近いことを、倦むことなく予言している。

借款団には、モルガン、クーン・レーブ、横浜正金銀行などが名を連ねている。しかし袁世凱は明日にでも暗殺で消されるかもしれず、そうなれば担保も消える。

袁世凱は、顔にも視線にも、率直さのしるしを持つ。二心、狡猾、裏切りという評判とは、少しも一致していない。ところがかれの来歴は、まさにそれらに満ちているのだ。

ロシアの懸念は、真の共和国がシナに樹立されることだ。それはシベリアの元流刑者たちを刺激するだろう。
かつて1905年に、チタ、イルクーツク、トムスク、オムスクの各市では、共和国が宣言されたことがあった。それは瞬時に鎮圧され、反逆者たちは死刑に処されている。が、もしシベリアでふたたび独立共和国が生まれれば、それはヨーロッパ・ロシアの政権をも揺さぶるだろう。

ある種の薬局は、漢方薬のための動物園をもっている。

宋教仁は、第一次内閣の農相だが、憲法問題に精通していた。彼いわく、シナは連邦制度を拒否する。力の条件は統一である。腐敗した清朝よりも力強い統一政権を樹立しなければと思って、人々は清朝を倒したのだ。強力な中央集権が、外国に対する弱さと屈辱を払拭する。
中央集権が個人の圧制権力に化さないように、国の首席は国民の代表者による統制下に置かれねばならない。
だからシナにはフランス憲法が適合する。内閣は両院に責任をもたねばならない。共和国大統領には、制限された権力しか与えてはならない。
宋は、1913-3月20日に上海の駅で、拳銃弾数発を浴び、翌日死亡した。犯人はフランス租界で逮捕された。あきらかに袁の右腕の首相がやらせたという情況だった。

漢陽兵器廠で、広東人が指導する賃上げスト。副大統領は50名~数百名の、女を含む労働者と共和主義者を斬首した。
「武昌では、全くの屠殺場であった。経験のない兵隊が、斬首するために首を切り刻んだ。胴体は城門の外に投げ出され、野良犬や豚の餌食となった」「不幸な者たちはドイツ領事館に避難した。ドイツ人は彼らを引渡した。彼らはすぐに殺された」(p.369)。

北軍は、国旗の保護の下に避難した日本人を殺した。南京で、老満州派の張勲の部下の兵隊たちは略奪を公認され、日本人将校に乱暴した。張は2年前に追われた都市に復讐したがっていたのだ。
張勲の部下たちは南京の一般住民を虐殺し、「まだ母親の腹のなかにいる胎児を銃剣で刺し殺した」(p.381)。
外務省政治局長の阿部氏は、かれを袁世凱の政治に有利と考えたらしい二人の同胞によって刺殺された。
日本政府は南京の前に軍隊を乗せた艦船を派遣し、介入しようとしたが、ロシア外交界の敵意ある態度を前にして、慎重になった。
張勲は褒賞され叙勲された。日本は重大な侮辱を感じ、日本国民はロシア人に対して怒った。

▼東畑精一・細野重雄『日本の畑作農業の発展』1952、農林統計協会pub.
この企画には、戦前からニューヨークにある太平洋問題調査会が資金を出している。日本太平洋問題調査会は、講和前の1949に復帰を認められた。1952-5の日付で序文を書いているのは、同会の調査委員長の肩書きのある矢内原忠男。
※この種の協会が外国のスパイ機関と関係があったという話もある。とにかくよく調べてある。

水田で冬季に別な作物を植えないところは、田の排水が不良であるところ。
綿花は8世紀の奈良時代に輸入されたが産業化せず。16世紀から急増し、17世紀には、生糸中心地の三河、伊勢、安芸の桑畑はみな、綿畑になった。

17世紀末の元禄年間の和歌山の農民の記録『才蔵記』。これによると、水田2町、畑5反の農家で、コメのメシが食べられるのは正月、五節句、盆、神事など、年26日。田は、朝夕はキビの雑炊をひとり8勺づつ。昼食は麦2合5勺づつ。玄米は平年40石の収量で、そのうち年貢が26石余(65%)である。
また1685の著者不明『豊年税書』によると、田5反、畑5反の経営では、コメの収穫高7石5斗、雑穀15石。
年貢の4石5斗を出すと、家計および経営費にも不十分であると。要するに江戸時代前半はかなりの重税だ。
※熊沢蕃山によれば、諸侯が年貢を制度化した室町時代の率は10%であり、江戸初期には関東地方の開墾新田で9%以下のところもあると紹介されている。しかるに西日本では実質100%(借りて納める)の悪政が行なわれていると蕃山は指弾した。和歌山の65%はそのケースだろう。しかし後者の例の、雑穀もあわせて25%は、軽税ではないのか? 江戸時代の後期になるにつれ実質の年貢率は漸減した。なお1石は10斗=100升=180リットル。1俵は3斗5升で、これが1石の領地から取れる年貢の量の基準だったとの説が『BAN』の5月号に書いてあったが疑わしい。昭和前期にも人手不足から小作量は漸減した。コミンテルンが普及させた「江戸時代&戦前=暗黒時代」史観は、今日では崩壊していよう。

諸侯はコメに収入を依存していたので、農民の離農をゆるさず、土地の自由処分を禁止した。また煙草など商品作物の作付禁止もよく行なわれた。コメ収量に害があると判断された場合、水田裏作も禁止された。

新田開発の背景。鉱山業から土木技術がスピンアウトした。また徳川政権は、小領主が分割していた土地を譜代領主にまとまって与え、それによって一つの領域が、治水開発を可能ならしめる経済単位になった。
元禄以降は、大商人が開田を請け負えるようになった。元禄期は17世紀末。

問題は施肥。がんらい、日本の水田の肥料は、山野の刈草に最も依存していた。一反の水田を連年維持しようと思えば、三反の採草地が必要なのだった。しかるに開墾をやたらに進めた結果、特に大河の下流で、採草地が得られなくなった。そこで農民が魚粕肥料を金銭で購入する他になくなった。※新田は旧田の採肥地をなくしてしまうからよくないのだと最初に指摘したのは熊沢蕃山であるが本書にはその指摘がない。蕃山は、百年後には自分に対する誹謗者も死に絶え、自分の意見は公論になると予言していた。それが300年かかった。

18世紀、耕地1町歩には、常備労働力が4.7人必要だった。1950年には、それが2.4人に減っている。※小型耕運機がまだ普及していない昭和25年に、すでに効率が江戸時代の倍になっていた。

1919のコメ騒動の背景。コメの総量は減っていない。しかし、WWI中に第二次・第三次産業が発展し、農家が副業を持つようになり、その余裕の収入で、農民がコメを消費する量が増えた。そのため、都市で出回るコメは減り、しぜんに米価が騰貴し、貧乏な都市労働者や専業の漁民がコメを買いにくくなったのである。※つまり兼業農家よりも低所得となったそれらの層がコメではなくかつての農民と同じく雑穀を喰うようにしたらば誰も飢え死にするような話ではなかった。

江戸時代の商品作物の両横綱は、絹と綿。
もともと西陣織は輸入生糸を加工するものだった。徳川幕府が元禄以降に生糸輸入を制限したので、国内養蚕が増えた。
農民が自発的に養蚕を盛んにしたのは、信濃と上野(群馬県)と甲斐のみ。この三地方では、農民は商才を発揮した。その他はお上の奨励である。特に東北の養蚕は16世紀には存在せず、19世紀に領主が指導した。

1859の開港条約から、明治維新まで、生糸が日本の全輸出額の5~8割。炭の移出用の河川交通の便から、群馬県産が大宗だった。群馬では畑の三分の一が桑園になった。長野では畑地の12%である。

綿業は17世紀に急発達するが、それは大阪商人が前貸金を用立てたからである。幕末には、日本全国の繰綿の半量までが、大阪商人の扱いとなっていた。大阪の近くでは畑はすべて綿になったほど。
ところが1859の開港とともに、国内産綿は競争力の強い外国産に駆逐された。絹織物も輸入品に負けた。唯一、南北戦争中だけ、日本から繰綿が輸出されている。

麻は多くは農家の自給用衣服や馬具の材料になった。1910頃、九州の製糸工場が買い入れたボロの多くが、東北地方の麻製の古着であったという。つまり明治の終わりまで、東北では衣類は地元産の麻で自給されていたのだ(p.10)。

水田は急には増やせないし、また、景気が悪くなったからといって急に廃止されない。しかし畑は、景気に敏感に応じて面積を増減する。WWIの好景気では、畑地はやたらに増やされ、薄荷と除虫菊が産出量世界一に。
1920を境に内地の畑地は拡張限界に達し、あとは北海道で増やされた。それも1940には限界に達した。1942以降、畑地は急減した。※土作りから手間をかけている優良な水田は、何年も手入れを放棄すれば、次に作付けても収量がガクンと落ちてしまう。だから簡単には放棄できない。1942以降は人手不足と軍用地化。北海道の畑作が限界に達したといっても、今日でもいたるところに原野がある。つまり、農村不況を解決するのに満洲事変は役に立ったが「満州国」は不必要だったわけ。

旱魃の年には、全国規模では、不作とはならない。というのは、西日本では山岳中の水田の水温が上昇し、そこが豊作になるからである。実例が1939年。
1935時点で全国の焼畑の三分の一は高知県にあり。また、全国の1万町村のうち、1144町村に焼畑があった。

日本は1880~1900にのみ、コメを輸出した。それ以降は戦前ピークで砂糖を含めて年500メートル・トンの食糧を輸入するようになった。
ただし、日本ではコメだけは最初から市場経済の外側におかれた統制物資だった。殖民地での産米増殖は、内地の米価を安定させるためだった。もし米価が上がると、工賃も上げねばならない。それでは加工貿易の競争力がなくなってしまうのだ。

綿は、1885の綿不作を契機に紡績業者による輸入が始まる。1895にはインド綿がシナ綿を量で追い越した。
1896には、加工輸出産業のために、綿の輸入関税はゼロにされ、国内綿は壊滅した。インド綿は繊維が長かった。
繊維の短いシナ綿、日本綿は紡績工場で歓迎されず、たちまち駆逐された。

日清戦争後の1900~1910に、生糸と茶の輸出がシナを超えた。
この時期の新聞には、労賃高、労働不足の記事が多い。水田に必要な季節労働者を、村と工場とで奪い合うようになっていた。
かくして、自作農は利潤を増やせなくなり、寄生地主化が促される。目端の利く者は、村落内で肥料販売、醸造業、日用雑貨商を始めた。これは掛け売りなので、事実上の金融業者である。

所有地を小作に出す場合、一人ではなく、多数の小作人に貸す。小作料率は低下し続けたが、収量が増加したので儲かった。地主が小作人に資金や飯米を貸すのも、金融である。
藩の境界が撤廃され、消費が増え、コメが商品化すると、コメの検査制度が普及し、ブランド米を出荷すれば地主が一層儲かるようになった。ゆえに、不在地主も、土地改良や技術改良には熱心。だが現場を離れている不在地主には、小作人への説得力は無い。そこでその役割を、地方行政官庁が代行するようになった。なぜなら増産は国益だからである。

畑の小作料は古くから金銭だった。しかし水田小作料は、戦後の農地改革が強制的に禁止するまで、コメの現物だった。※つまり江戸時代の「年貢」システムは日本人の手では廃止させられなかった。逆から見ると、それほど水稲作は「アタマ」を使わずにムラに合わせていればルーチンでできる仕事になっており、しかも圧倒的国内需要と政府の統制に支えられて、商品経済の外側にあったのである。畑作物はすべて商品だから小作人がアタマを使わなければならない。それを億劫がる小作人が多かった。

水田に小作が多いのは、地主と小作人が一体になって危険負担を分担するのが合理的だったから。
畑は風水害を水稲ほどうけない。
台湾米が廉価に輸入されると、内地米は値下げで対抗するしかなくなった。

北海道開拓は、最初の入植から30年たった1900年に、ようやく開拓が進行しはじめた。内地式の農法を棄ててあたらしい方法を導入するには、周辺の非農業経済が発展する必要があった。

北満開拓は、範をソ連のシベリア開拓屯墾軍の型にとっている(p.72)。
隊長は予備の将校であり、隊員の中に多くの予備兵をふくんでいた。

粗飼料は、輸送費がかさむ。その点で濃厚飼料は有利。
1936の大豆粕など輸入飼料は3/4を満州に依存していた。戦後も満州依存率が高い。

羊は明治初年に軍服材料のために飼育が試みられたが、病気のために全滅し、陸軍では自給をあきらめた。
ところがWWIで羊毛の輸入が途絶した。これで反省してまた羊の増殖政策をとった。養蚕地域で、蚕の食べ残しの桑を羊用の飼料に混ぜられることが発見された。

豚は増産しやすいが、増産されるとたちまち価格が暴落し、仔豚を川に流してしまうようになる。
牛乳+乳製品の消費量の一人当たりピークは、1941だった。1949にはその水準を超えた。※工業の伸びは昭和10年がピークだが、以後は農業不況や統制経済にもかかわらず消費品目で昭和16年まで向上した面もあった。おそらくは厚生省などの体位向上運動で牛乳消費が推奨された。牛乳で国民病の結核も克服できるとされていた。

統制がおこなわれなかった1938以前で見ると、日本では牛乳+乳製品の需要弾力性はピカ一。国民所得がふえるとそれに応じて乳製品消費が増える。所得が減るとてきめんに乳製品の消費が減った。
戦後、酪農品に高関税をかけられなくなった。

農家から牛乳を購入する仲買人として「馬喰」がおり、個々の農民にはその全国的勢力に対抗不能だった(p.93)。

戦時中の都会の子供は、パン好きになった。この著者の一世代前の親は牛肉より魚肉を嗜好する。この著者の世代ではすでにその嗜好を逆転した者が多い。

農村では三食とも味噌汁がつき、魚を含むあらゆる副食は味噌汁の中に入れて煮て食べている。このため軍隊でも味噌汁を出すようにしていたから、ソ連の捕虜になった農村出身者はこれがいちばんコタえた。都市では味噌汁は一日一食になっている(p.93)。

味噌汁の問題はパンと合わないこと。戦後、小麦、トウモロコシ粉が主食として配給されたが、これが不評だったのは、それ自体の味ではなく、味噌汁のような安価で適当な副食が得られなかったこと。

1939において、イワシが最も下値。サバ、マグロ、タイの順に高くなる。タイの1kgあたりの値段は、牛肉をわずかに上回っていた。上等のタイは上等の牛肉よりうまいと感じ、下等の牛肉は下等の魚よりもうまいと感ずる日本人の平均的味覚を反映していた。

市場を気にする思考がみられるのは、畑作農民のみ。彼らには選択と行動があり、ゆえに解放がある。日本の水田農民にはそれがない。近代資本主義は、自然の制約や社会の制約を合理的にゆるくさせる選択と行動を人々がするように促すものだ。

▼金子嗣郎『松沢病院外史』1982

大正7年には全国で15万人の精神病者がおり、その9割以上は現代医学の恩沢から見捨てられ、私宅監置、すなわち座敷牢や掘っ立て小屋に監禁されている。国は精神病床の充足を怠り、警察官が訪問指導ならぬ臨検を行なっていた。
S25の精神衛生法で私宅監置が禁止されても、根絶はされなかった。昭和30年代なかばまで、動物小屋同然の環境から患者を松沢に移したことあり。

ヨーロッパには早くから大規模な精神病院があったが、江戸時代の日本には、牢か座敷牢か溜預しかなく、治安と防火が目的だった。溜預とは車善七が保護したもので、これが発展して明治5年の「養育院」になる。その養育院の癲狂室が、のちの松沢病院につながる(pp.16-7)。
十字軍とともにヨーロッパに癩病患者が増えた。十字軍が終息すると、同患者が減り、そのためにつくられた収容所が空いた。17世紀から、そこへ狂人、乞食、浮浪者を収容するようになった(p.26)。

幕末の弘化3年に接骨医が小松川狂病治療所を立ち上げている。入院者には最初に強力な下剤(梔子、または辰砂?)を投ずる。すると体力が奪われるので、興奮してもあまり危険にならない。治療薬としては、黄柏を主剤にした。この診療所の後身が、亀戸の加命堂脳病院である。

第71代の後三条天皇の第三皇子は、29歳から挙動常ならず、髪を乱し、衣を裂き、帳に隠れて言葉寡く、口にする言葉も譫語であり、まったく喪心の状態であった。しかし天皇の霊夢にもとづいて岩倉大雲寺の泉水を毎日飲ませ、昼夜観世音を祈願したところ、狂疾が癒え、もとの聡明に復したと。この噂がひろがり、岩倉の本堂前に籠り堂ができ、明治のなかばには、村内に手錠・足錠の狂者が散歩していた。そのありさまは、13世紀から村人が精神病者看護につくしてきたベルギーのゲール村に似ている、と。ちなみに角田文衛は、源氏物語の若紫の巻の場所のモデルは、この大雲寺だと推定し、中村真一郎は、光源氏が18歳でわずらった「わらわやみ」を北山のなにがしという寺で治したというエピソードが噂の元種ではないかとする(pp.33-6)。

明治5年、ロシア皇太子アレクセイの来日を前に、危険の源と帝都の恥である乞食と浮浪者を街上から一掃すべく、営膳会議所附属養育院が設立された。10-15の設立の翌日に皇太子は東京入りした。本郷加賀藩のめくら長屋がその場所で、非人頭の長谷部善七に扱いをまかせ、収容者は約240名だった(pp.58-60)。

大12に関東大震災が発生すると、なぜか精神病者も増えたという(p.103)。

大震災で逆に松沢病院内の患者の何人かは正気に還った。これは、非常事態で周囲のために働かなければならないという自覚から、片付け作業をするうちに、治ったのである。ここから作業療法の価値が認められた。無為な入院は患者の精神を萎縮させ、身体も脆弱にさせると。
『松沢病院九〇年略史稿』は、戦線離脱者の遠吠えである(p.126)。※予算や人事や学問的な名誉をめぐり派閥の暗闘がかなりあるらしくみえる。

朝鮮人来襲の流言に、松沢病院の男性患者はいきり立ち、女性患者は泣き叫んだ。精神病になっても、男女の差ははっきりしていた。

病院への往き帰り、甲州街道で何度か竹ヤリを突きつけられて訊問された。

東大医学部4年の某は、上野山に焼け出されていた人々にさっそくインタビューし、発火点を特定しようと試みた。魚屋や八百屋は最も早く店を捨てて逃げたので、価値ある情報をほとんど持っていなかったが、家具商はギリギリまで店を守ろうとしたので、どちらから延焼してきたかというその証言には価値があった。

戦前の、河合・蝋山著『学生思想問題』はMarxismの四要素をてぎわよく説明している。すなわち、唯物弁証法の哲学的態度をまず自己に課す。そして労働価値説からスタートし、剰余価値説を中心として今日の資本主義を説明する。その資本主義を理想の社会主義に変えようという理想の目的を掲げる。その手段としては暴力革命でなければならず、無産者独裁をうたう、と。
※これは軍隊で出す命令と似ている。軍隊の命令では、まず敵味方の現今の大きな概況を簡単に説明する。次に上級司令官の抱いているおおざっぱな意図を掲げる。次に、基隊はいつ、どこへ、どのような機動や攻撃をしなければならないのかを精密に具体的に示達する。あまりに細かくて命令では示達し切れない事態や予期せぬ突発事態があれば、上級司令官の意図を忖度して、下級指揮官がその場でイニシアチブを発揮する(これを旧陸軍は「独断専行」と訳して誤解を広めた)。

大川が入院してから1年余りが東京で最も電力が不足したが、病院では一度も電気系の不自由がなかった。またS20からS23春までの日本でただの一度も貨幣に手を触れずに過ごした者は、天子様と私ぐらいのものであろう、と大川。

S30'sに向精神薬療法が導入され、にわかに精神病院ブームに。

S22-6からロボトミー療法が日本で復活。最初はS17年の新潟大学の外科で実施。
ポルトガルの神経科医モニツが1935に創始し、1949にノーベル賞を受けて世界公認となった。

ニュルンベルク裁判以降、人体実験の原則が固まり、世界医師会がヘルシンキ宣言を出している。1947-8の同判決の中に、10原則が初出。死、または不具をもたらすような実験は被験者が自発同意したとしても許されず、また被験者は、同意をしたあとでも、実験中止を随時随意に要求し得なければならない。

▼保阪正康『昭和史 七つの謎 Part 2』文庫版2005

吉田の認識では、日本は天皇を中心とする家族共同体であり、それが大久保利通の国家像であり、その心理あるかぎり、旧憲法が新憲法にかわってもどうってことない。
※兵頭いわく、昭和天皇と日本は一体であり、日本の国防目的を達したかどうかが問われる。すくなくとも対ソ国防は全うしている。対ソ防衛の戦争達成責任は果たしている。対露国防こそ、明治維新の前提であった。
天皇・マック会見は1945-9-27であった。

※これだけの資料を渉猟し、数千のインタビューをかさねている人が、肝心のところを理解できない。このことがわたしをして人間の理性を軽信するなといましめさせる。

仮病のコツというものがあり、訓練でもしばしば意識的に倒れよ。
陸軍の委託学生として医学部を卒業した医者は、仮病を見逃してくれない。ふつうの医学部出で、軍医として召集された若い医者は、騙しようがある(p.213)。

戦後に昭和天皇が退位できなかったのは、少年の明仁皇太子の摂政として高松宮が権勢をふるうようになったらヤバすぎると考えていたから。

▼佐藤賢了『軍務局長の賭け』S60-12

警察は独自の通信構成ができなかったので広域災害になすすべがなかった。軍隊は独自に通信網を構成できたので市民の信頼をかちえた。

陸大で小畑に戦術を習う。小畑のキモは、「決勝方面に徹底的に兵力を集中使用する」(p.38)。
黒板の国史。日本の戦国時代は文化的にひとつだけいいことをした。それは易姓革命を肯定するシナ学の拠点を焼き払ってしまったこと。それゆえ蘇峰の近世日本国民史は織田から始まるのだろう、と。

東條中佐は欧州戦史を講義した。サトケンはしばしば噛み付いた。
東條はジョフルの退却戦術を褒めた。これは楠正成が尊氏を京都に引き入れようとしたのと同じだと。そして独軍は、自主後退した仏軍を軽々しく追撃すべきではなかったのだ、と。これはアト説として世界の大勢だった。
サトケンはこれに承服せず。ドイツには時間がなかったので速戦即決がモットーだったと。シュリーフェンの大胆を中和した小モルトケが敗因だと。また追撃中の各軍の連絡協同の悪さが敗因の第二だと。
※サトケンは教官の感情を害することなどにはいっさい配慮しないで強硬に意見展開をしまくるキャラクターであったことが行間から推定される。

サトケン中尉は、軍人が中佐ぐらいになると30円くらいなせすぐ用立てられると思っていたが、自分が中佐になるとそんなことはないことを知った。東條が、サトケンが返すあてがないと宣言している30円を隣家から借りてくれたことにしみじみ感動。

算盤計算は、さいしょ、プロの属官にやらせていたが、動員屋の西村課長が、それではいかんという。起案者が自分でやることで、縦横の計算のあわないところの見当がすぐつくのである。また、数字になじむと、数字がいろいろなことを語ってくれる、と。その通りだった。他人の作った統計表が理解できるようになった。

犬養毅いわく、軍隊では電信柱を電柱と教えるが、そういう余計な術後を増やすから在営期間を短くできないのだ、と(p.26)。

サンアントニオの野砲第12聯隊にオブザーバーとして半年、隊附。これには自動車が必需なので、いそいで免許をとる。

60ばあさんの車に追突して、アイムソーリーとあやまると、免許証をみせろという。そこに保険会社も書かれていて、そこが万事解決してくれると。
見舞いにいくと、首の捻挫で寝ているという。しかし主人は、フットボールでも首の捻挫くらいはやるからと、平然たるもの。米国ではこのような事故を起こしても、見舞いに行く者などいないのだと知る。
兵営内の独身将校の宿舎の一室を与えられた。困ったのは、夜になると米人将校のもとへガールフレンドがやってきて騒ぐこと。「遠来の独身生活の私は、実に悩まされたものである」。しかし勤務は確実に遂行するのだ(p.56)。※「騒ぐ」というのは性交の婉曲表現である

米憲法は軍隊が民家に宿営することを禁じていた。ヨーロッパで、政府軍が反対党の民家に長く宿営していやがらせをした歴史が背景にある。
2週間の機動演習はすべて露営。これは日本では考えられない。3晩以上露営をつづけることは、将兵の健康上から禁じられていたのだ。
その代わりに、米軍は演習中でも日曜日は休む。

日本では国旗掲揚のラッパが吹奏されたら、用の無い者は天幕から出て敬礼するが、米軍は逆に、可能な者は天幕内に入って敬礼を省略しようとする。アメリカの国旗運動はWWIで盛り上がったが、いまや形式もしくは装飾であって、実は伴っていないと察する。

米軍は兵の非違を上司将校が見逃してやることは絶対に無い。自由な国の志願兵だからこそ、必ず処罰しないと兵隊のしつけにならない。

11月、出淵大使はフーバー大統領に呼ばれて、もうすぐ議会がはじまり、議員がワシントンに集まる。だから国際都市の錦州は攻撃するな、とアドバイスされた。
けっきょく日本政府の約束はひとつも関東軍によって実行されず、日本政府が公式に米国政府にウソをついたことになった。
陸相や参謀総長が、錦州はやらない、なんて外相に言ったのが問題。

満州事変とその直後の上海事件を米国から見ていると、上海事件が米世論が支那贔屓になる転換点であった。
あそこで停滞したので米国世論は日本軍をひいきしなくなった――というのが、サトケンの見方。
スチムソンは何度も日本を威嚇し強圧しようとしたが、フーバー大統領は反対した。
※このときマッカーサーが参謀総長だった。スチムソンは、マッカーサーは日本人に対する脅し役としてはうってつけであることを、国務長官として見抜いていたかもしれない。

米国には世論づくりのブローカーとなる広告会社があり、外国政府の宣伝も請け負ってくれる。ところが出淵大使はその売り込みをぜんぶ門前払いしてしまった。支那大使館は彼等を雇った。俄然、日本ボイコット論が全米を風靡した。

このとき上院の外交委員長ボラがアイダホ州立大学で演説した。日本を経済封鎖すれば6ヶ月で参るが、封鎖開始の翌日に日本海軍がそれを破り、日米海軍の衝突になるだろうと。※サトケンは禁輸とブロケードの違いが分かっていない。

1932-8に帰朝した。欧州周りで、シベリア鉄道を使った。
英国は自信に満ちて安定していた。フランスはもっとも落ちぶれていると感じた。
イタリア国民はエチオピア戦争後で活気があった。ドイツではナチ党が政権をめざして活動している最中だった。

モスコーの食料品店の前に行列が長時間、立ちつくしているのを見て、戦慄。
シベリア沿線住民は極端に疲弊しているように見えた。栄養失調の子供を抱えた母親が列車の中に生野菜をもって、パンと交換に来るのだ。停車場には貧民がぼんやりとこちらを眺めている。
こんな困っている国に何もできないと信じた。ところが帰国すると、明日にでも対ソ戦が始まるような、対赤軍研究熱であった。堀毛一麿、宮野正年のふたりが、ソ連の宣伝にやられて帰国してかららしい。

他方で文民は、5.15のあとだというのにまったくノホホンとしていた。列国の文民政府がWWⅠ後の情勢に真剣に対処しているのに、あまりにも無策だった。

宇垣整理には根拠があった。国力を計算したところ、戦時40個師団は補給がまかないきれないことが判明した。
だから国力の限界である32個師団とした。戦時の8個師団を減ずるためには平時の4個師団を減らすことになるのだ。師団は2倍動員だから。

世間では独断を専断と同じ意味にとるが、陸軍では良い意味に使われた。海軍は、いつでも通信連絡が保てるので、下級指揮官に独断を推奨しなかった。

米軍は、将校と兵卒の間がまことに冷たい。日本の兵隊は義務で入ってきて、しかも絶対服従であるからこそ、初年兵係の少尉たちは寝食を忘れて身上の世話をしたのだ。

犬養は師団半減論を言い出した。帝政ロシアが崩壊したからと。
※兵頭いわく、そうではなく、半島と樺太をおさえた以上、日本上陸がありえない。だから再定義できるはずだったのだ。

日露戦争以後の日本人の満州移民は、振るわなかった。理由は、内地での生活水準がじゅうぶんに高いため、それ以上の生活、もしくは一攫千金を夢見ていたからである。
これでは、苦力との競争に勝てない。シナでは1日15銭で生活できた。クーリーなら2銭で生きられるのである。
そこで、たとえばビールの売価は、ほとんどビールの原価に等しい。瓶の値段だけ儲ければよい、という態度。
これでは日本製品は勝てない。
シナ人大工の日当は50銭。それで朝から晩まで動く。日本人の大工は1日実働6時間くらいで、しかも3円50銭もとる。刺身で晩酌しようとすれば、これだけは必要だった。
こうなると、現地の日本人が、日本人の大工を雇用しない。シナ人を雇うのである。特殊技工のみ、日本人を雇った。

支那では日本商人は営業の自由と土地の商租権を得られなかった。これを要求したのが21ヶ条なのだ。
軍隊の後についてでなければ、満州で商売を成立させられなかったのが、日本の経済人だった。

統制派という言葉はたしかにあった。それはジャーナリズムが騒いだので、本人は何派か知らなかった。同党異伐は、親分のイニシアチブではなく、下っ端の取り巻き同士が喧嘩をして騒ぐために、それを聞いた親分同士の感情が悪くなるのである。

満州革命は資本家排除だった。議会政治も排除。協和会が声明している。
資本家も、少佐や中佐に頭を下げてまで満州に出られるものかと。

満州事変のとき米国政府は出淵大使に、まもなく連邦議会がはじまるから、国際都市の錦州には手を出すなと忠告した。出淵が東京にとりつぐと、幣原外相は陸相と参謀総長に会い、錦州は攻撃しないとの言質を引き出した。幣原の指図で、出淵はよろこんでその話を米国政府に伝えてしまった。
サトケンは武官室で手伝いをしていて、これはマズイと感じた。東京の中央で何を表明しようと、満州の出先ではやってしまうに決まっているのだ。すると、日本の政府と外相と大使が米国政府に堂々とウソをついたことになってしまう。東京で陸相や参謀総長などが振り出す空約束は、むしろ米国に伝えるべきではないのだ。
しかし出淵の立場としては、悪い話を伝えるのは気が重く、喜ばれる話を伝えるのは嬉しいものだから、その自制はできなかった。
けっきょく、日本は大嘘つきの悪党国家になってしまった。
錦州爆撃は、38式野砲弾をちょっと改造したものを落としただけであったが、米国与論は沸騰した。以後、もう日本人のいうことは、あてにならないというネガティヴな評価が定着したことは、空気から察しられた。

アメリカでサトケンが感心したのは、統制令のような命令や法律はないのに、銀行も、また新聞も、だいたいアメリカ政府の方針にピタリと沿って行くこと。NYの日本の商社の支店は、この時期、まったく米国の銀行からカネを借りられなくなった。それは米政府の意向(満州開発に協力しない)に米国の民間金融業者が合わせているのだ(p.98)。※スチムソンの『極東の危機』を読めば、新聞表現について記者たちに協力を求めていた様子が知られる。また『モルガン家』を読めば、アンチトラスト訴訟を武器に米政府が金融業界の自由勝手を許さなくなっていく流れが分かる。

満州事変による国内の民衆の熱気は、獄中の多くのアカを転向させた。そこで昭和8年に荒木貞夫は、「皇道精神」で日本の左右を統一できると考えた(p.104)。

予備役は政党に入れる。そこで、政党が有力な政党本位内閣をつくろうとすれば、どうしても陸海軍大臣の現役制は有害であった。だから、楠瀬陸相のときに、予後備の大・中将でも陸相になれることにした。
しかしその後、予備役の陸海軍大臣は一人も実現したことはないのだが、2.26事件後は、これが大問題になった。というのは、真崎のようなクビにされた黒幕が、政党に迎えられ、陸相になって、統制派に報復人事をするかもしれないからだ。※とサトケンは具体的に書いてはいないが、敷衍するとそういう意味である。

サトケンは軍務課の前に整備局にいて、軍需動員と戦時の補給を考えていたのだが、いずれも、造兵廠や兵器廠が必要とする物資が手に入るハズという仮定に基づいており、本当の動員計画ではなかった。

これと同時に陸軍は、議会制度の刷新ももくろんでいた。これを知って、議会と政党は沸騰した。
ついに、浜田国松議員と、寺内大臣の腹切り問答になった。※じつは寺内は穏健派で、むしろ政党の味方について、サトケンのような下僚の暴走を阻止していた。ところが浜田は、たまたま陸軍の窓口であった寺内を、図に乗って挑発し攻撃した。おぼっちゃんの寺内は感情を害し、下品な政党に見切りをつけてしまった。

林内閣ができた。満州派の若い板垣を陸相にし、石原の五ヵ年計画をやろうとした。だが梅津次官が反対して陸相は杉山に。陸軍からは誰も協力しない。政党は一人の大臣も入れられず、遂にここで政党の時代は終わった。
さりとて宮崎も送り込めなかった。つまり梅津一派に石原構想をつぶされた次第で、まったく無為の内閣となったので、予算成立後に解散。
※梅津の弟子はアカの池田純久である。この対立は、「反ソ統制経済派vs.親ソのアカ」のようになった

WWI後の不況倒産や、第一次上海事変で神速な撤退によって特需がピタッと止まった時のことを企業主は覚えている。自由経済においては危険負担は企業主がするのだから、陸軍省に招いて1円50銭の弁当を出して、いくら弾薬を生産してくれ、そのための設備投資をたのむ、と懇願しても、応じてくれなかった。
いよいよ統制経済にしなければならない。

銀行が、砲弾をつくっている企業に、設備拡張のための貸付をしなければならないと義務付け、銀行に損失が出たら政府が補填するというのが、総動員法である。
日本の官吏制度では、高級者は更迭と進級が頻繁で、経済関係の各省では、実務は下級官吏が仕切っている。
ところが統制経済は、莫大な利権を左右する。それを仕切るのが薄給の下僚では、不正に手を出す誘惑が強すぎる。

対米開戦時、一課長にすぎなかった佐藤が、大臣たちと並んでA級戦犯の仲間入りをしたのはこの事件のおかげ。※だけではない。議会を憎悪してテロでもやりかねない異常なキャラが広く認知されていた。

S11年11月の綏遠事件は有名だが、規模は小衝突にすぎない。しかし、中国で最も恐れられていた関東軍を破ったかのような宣伝と相まって、侮日思想が強く植えつけられた。「排日思想はまだ始末しやすいが、侮日思想が生じると衝突の危険をはらむのである」(p.125)。その侮日を起こしてしまったのが綏遠事件だった。
※排日思想は戦争にはつながらない。しかし侮日思想は戦争につながる。

石原はこの悪徳政権に反対。
じじつ、この無税貿易が、シナ人に対日戦争を決意させた。領土を奪われても死にはしないが、経済的な搾取制度は死に至ると判断した。

冀東政権を利用して、利権屋や浪人が、たしかに阿片の密輸入はやった。背景は、日本の輸出が激減し、国民生活が逼迫したので、なんとかしなければと思った。※いまの北鮮と同じ。

上海出兵と同時に、米内海相の提案で、名前が北支事変から支那事変にかわった。サトケンはすぐに宣戦の詔勅を仰ぐ準備をしなければならないと考えて、参本へ相談にいった。しかし、参本は宣戦に反対だった。日支提携の必要があるときだから、戦争の名をつけたくないと。高嶋、堀場とサトケンとはそこで激論になった。
※アメリカから石油が輸入できなくなるからという話が一切書かれてない。

日本側は、なるべく簡単あいまいな原則的条件で和平をシナに約束させてしまい、そのあとからシナに無制限に要求をすべしという、ヤクザの強請り式を狙っていた。シナはそれがわかっているから、具体的な条件を先に全部並べろと要求。

防共駐兵の目的は、外蒙古からソ連軍が山東半島に進出するのを防ぎとめようというのである。北支駐屯軍を増強して、内蒙にも兵力をおきたかった。上海付近の駐兵は海軍が言い出したが、これは中国側は許せなかったろう。

※つまり陸軍は、シナ内部の反日共産党勢力よりも、ソ連軍そのものが、満州を迂回して満州の背後に回りこむ危険を感じていた。この防共駐兵ができないとなれば、シベリアに対して満州から先制攻撃するというドイツ式開戦術はすっかり抑止されてしまい、満州事変が無意味になる。

満州国がシナから承認されれば、満人の官吏がシナに残している家族は「満奸」とはいわれなくなるので、士気の上で大きく違ってくる。

S14夏に、サトケンは広東で汪清衛にたずねてみた。汪がいうには、日本が条件を緩和したとしても蒋介石とS12に和平が成立する望みはなかった。なぜなら中共や米英と、対日抗戦で数重に約束をした義理があり、それを脱することは不可能。またシナ軍内も主戦論が優勢だったから、と。

「計画上は補給がつづくといっても、実際やってみると続かないということがあるから、机上の計画で続かないというのをむりにやったら大変な困難にぶつかるかもしれないが、支那作戦はそれでやって来ているのである」。

シナは公路を遮断されてもすぐに迂回路をつくる。三ヶ月で自動車道路ができ、半年すると、その道路を夜間もひっきりなしにトラックが走れるようにするのだ。
昭和14年11月から広東の北方で作戦したのは、タングステンを得るため。

仏印の総督は、西原団長には「私はあなたの人格その他に非常に敬服する。《中略》あなたの不在間は重要な問題の交渉を一切さしひかえる」と語った。
※これは佐藤賢了の人格には問題があり、佐藤との話し合いは御免蒙るという意味。
「佐藤は軍刀をガチャつかせて総督を脅迫した」といわれた(p.177)。
※これについていろいろ弁解しているが、まさに語るに落ちている。サトケンは本当に狂犬だったようだ。
「モーリスハリマン式の飛行機」(p.178)。「バリケート」(p.180)。「ボーキサイド」(p.285)。
夜襲の原則にしたがって、「一木一草を暗識」するために、大隊長がまいにち、仏印側の地形を視察していた。
「一ぺんぶつかったら、すぐやめたといって、ひきさがるわけにいかないのが軍隊である」

9月23日から始まった仏印進駐のために、アメリカは9-26に屑鉄および鉄鉱の輸出を禁止した。また、英国も、先に閉鎖したビルマルートを再開した(p.198)。
進駐してわかったのは、ハノイは仏印の頭ではなく尻尾であった。政治経済の中心はサイゴンにあった。だから資源をとりたければ、南部仏印にいくしかない。

武藤は6-6電報をみて、ヒトラーが大島と坂西武官をだますのは、赤ん坊をごまかすようなもんだ、と言っていた。だから独ソ戦が始まるとは信じられず、ドイツは対英上陸の企図を秘匿するためにガセを流していると判断。
逆に米は、オーラルステイトメントを出す頃には独ソ戦がはじまるとの見通しをもっていたので、くそくらえという態度になっていたのだ。フーバーはそれを知っていて、岩畔に「熱くならないうちに」と忠告したのだ。

独ソ戦がはじまると、田中新一、東条英機は対ソ開戦論。サトケンは南進論。富永は仏印でしくじって作戦部長をやめさせられたが、ひきつづき作戦部長気取りで対ソ戦ばかりを言った。サトケンはこの件で、田中と富永から「まさにぶんなぐられそうにやられた」。続いて、参本の磯村課長らもサトケンを殴ろうという勢いだったが、サトケンの巨体と気迫の前に、手は出せなかった。

欧州戦争に不介入の約束をしようとして、こっちがいろいろだめを押すと、アメリカの自衛権さえ犯さなければ参戦しないというのである。しかしアメリカのいう自衛権の定義がさっぱり不明。他国の真ん中に線を引いて、これがアメリカの自衛の第一線だといった調子である。サトケンは「国防とは国土防衛に非ずして国是の貫徹、国策の遂行を支援するものである」と教わってきたが、彼らもだいたいそんな調子。アメリカの国策が妨げられたらやるんだという調子。

北へも南へも行ける姿勢をもっていることを「準備陣」という。伊藤の『軍閥興亡史』は、7-2御前会議の決定を三面作戦といって批判するが、三面同時という国策を決めたのではなく、準備陣にすぎない。伊藤は陸軍作戦がわからんのだ。
サトケンは、国策として決まるのなら対ソ戦もする気だった。

東条は10月中旬になって、海軍が戦争に自信がないのではないか、と気がついた(p.236)。※海軍の秘密主義と積極発言と国民間の人気が、陸軍から判断資料を奪っていた。開戦すれば米海軍は味方海軍が始末してくれるの
だと完全に信じてしまっていた。しかもこの誤解はサイパン失陥まで続く。

他力本願になったことを反省している。やはり昆明→重慶作戦をやって、「自主独立」に解決すべきであった。
アメに頼む気になったのが間違いだった。

支那事変のとき、これを第二の満州事変、すなわち、資本家排除の工作にはするなという声が、国内の資本家から聴こえてきた。戦線の後方に利権屋が押しかけた。
日支合弁とかうまいことをいって、工場、現物、原料、すべてとりあげてしまう。「日支親善、弾よりこわい経済合作」と北支でうたわれた。
利権屋は、現地の資材所有者に、それを自分に売ったという証文を書かせ、利権屋はそれを軍にもちこんで換金した。

「軍人は誰でも、靖国神社に参拝するときの気持は、他の神社に参拝するときのとまるで異なる。他の神社に参拝するときは何ものかを願い、あるいは祈る心が生じるが、靖国の神社に立つ時は、そんな心は起こらないで、『護国の神々の尊い犠牲は必ず生かして国運発展を誓います』と叫ばずにはいられない。」(p.264)。

日露戦争ではロシアの策源はハルピンだが、こちらからハルピンまでいけば、彼我の戦力比は逆転してしまうのだった。

ハワイの海軍工廠に大打撃を与え得なかったのは残念(p.298)。※日本海軍機の機数および爆弾の性能では、工廠の破壊は非効率すぎて不可能に近かった。なぜこんな話が出てくるのか不思議。
シンガポール直後に英米から和平提案があったのに軍部がそれを一蹴したのだというガセがあることを、巣鴨で聞いた。火元は不明。米英の戦意は終始、すこぶる高かった。

敵地上部隊は、戦闘機の活動半径、すなわち400kmを基準にして、ホップしてきた(p.323)。
こちらの航空抵抗が衰弱したとみると、400kmを超えて放胆に躍進してくる。だからこちらは、防禦準備の時間の余裕が決して得られない。これは追撃の原則にとても適っていた。
こちらはまず補給を断たれ、飢餓に迫られてから、守備していないところから上陸される。

要塞戦術用語はすべて「防禦」「防衛」であって不景気である。絶対攻勢主義の海軍には強要しにくいものがある。そこで、ほんらいは「本防衛線」という用語があるのを、「絶対国防圏」と言い換えた。これが昭和18年9月30日の御前会議で決定された。

サトケンは、マリアナとカロリンは一列の航空基地軍であり、米軍には各個撃破されるだけである。だからこれは放棄してしまい、群島に航空基地群を整備できる比島で決戦すべきだと東条に提案した。東条は同意したのに、結局あとで翻した。その理由を巣鴨で尋ねたかったが、陸大教官であった東条と自分のこれほどの意見の食い違いは他になく、訊けば詰問になるから、ためらったままに。

8年末、作戦課に服部大佐がなり、虎号兵棋をやって、航空要塞を考えた。第一線飛行場には哨戒機だけ置く。
敵の上陸前の空襲には反撃しないで戦力を温存。上陸が始まったら上陸点に集中使用するというもの。※これで本土の東北の空軍は温存された。

マリアナで海軍が実質全滅したことを、陸軍大臣も自分も詳しくはしらなかった。真田作戦部長は、海軍の戦果発表を半分に割り引いていた。しかし、爾後の通信諜報で、敵艦の数は減っていないと確認できた。

この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は武道通信まで→http://www.budotusin.net
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