視点を変える
ご無沙汰しました。
そしてこれが最後の記事です。
ではさっそく。
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結論だけ言えば今私の心は十和田湖のように静かで穏やかです。
それは夫を見る視点を変えてみたからです。
夫は二月から再び季節性気分障害に陥っています。
きっかけは外国人上司の無理な注文でした。
お国柄の違いもあるので一概に決め付けてはいけませんがあちらの方は「会議」と称する「上意下達」をなさいます。
夫も本音はこんな会社辞めてしまいたいのでしょう。
ときおり
「今辞めれば退職金が○千万円上乗せされるんだって」
などと言います。
実行はできないようですが・・・・・
男としての意地や見栄もあるでしょう。
でもなんと言っても夫が会社を辞めないのは私とのこの生活を維持しようとしてくれてるからだと思います。
毎日2.3時間しか睡眠も取れず、休日でも仕事の電話がかかってくる生活。
さぞかし辛いでしょう。
気分障害にまでなるほど辛いのに私との生活を守ろうと必死になってくれてるんだと思うと、これまでの怒りも悲しみも無くなりました。
むしろそのような精神的・肉体的極限状況でも仕事を投げ出さない夫に感謝と尊敬を抱くようになりました。
そうなると不思議なもので無視もダンマリも気にならなくなりました。
男脳は本当にくたびれ果ててしまうと何も喋れなくなるそうです。
女脳は逆におしゃべりによってストレスを発散しようとする。
このすれ違いをあらかじめ知っていればこんなに長く苦しまずにすんだのになあ(笑)
夫の将来のビジョンからは私への深い愛情も読み取れました。
幸・不幸は自分の心ひとつなのですね。
なので今はじんわりとした幸せを味わっております
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現代社会における精神医療の問題点も伺ってきたので書いておきます。
これも「精神科」という医療現場に対する視点を変えるということでは重要と思われます。
以下はお話してくれた先生の言葉です。
患者さんには「精神科医がきちんと詳しく話を聞かずに薬だけ出す」という不満が多いよね。
でも今の縦割り行政ではそれは当然なの。
精神科医がカウンセリングすると保健所から怒られちゃう。
なぜならば精神医療は厚生労働省の管轄、臨床心理士は文部科学省の管轄だから。
つまり健康保険でカウンセリングに時間を割いては駄目というわけよ。
もちろん、季節による鬱とか更年期障害、あるいは老人性鬱など特にこれといったストレスもないのに精神疾患になってしまった人には薬は有効ですよ。
でもね、明らかなるストレス性のもの、たとえばパワハラ・モラハラ・イジメなどの人間関係によるものはカウンセリングしないと完治はむずかしいのよ。
たとえ薬で一時元気が出たとしてもそれは対症療法で治ったわけでない。
根本的に治すにはやはり誰かに話を聞いてもらいながらそれに見合った種類と量の薬が必要というところかな?
なかにはカウンセリングだけで治ってしまう人もいるしね。
私は簡単なチェックシートで薬を処方するだけで患者さんを完治できない医師にはなりたくなかった。
必要な人には丁寧なカウンセリングもしたかった。
だから医師という仕事のかたわら文学部にも行って臨床心理士の資格も取りました。
おかげさまで今では私がカウンセリングをしても文句は言わせないわ。
何が本当に患者さんの利益になるのかを厚生労働省は考えるべきでしょう。
考えさせられました。
しかしこの医師のようになるべく薬に頼らずカウンセリングで患者を治そうという医師だらけになったら・・・・・・・・
製薬会社は困るだろうなあ
そろそろ抗鬱剤の副作用にも世間が気がついてきたので代わりにメタボキャンペーンなのかしら?
「ややメタボ気味のお年寄りのほうが元気で長生きですよ」
とはっきり言われる内科医もいるのであまり踊らされないほうがいいかもです。
医師と病院・製薬会社・厚生労働省。
あらためて見つめなおす良いチャンスをいただきました。
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最後は東京大学病院のアンケート調査により変わった視点です。
ニュースでも報道されましたのでご存知の方も多いでしょう。
末期癌患者の8割が
「駄目もとでいいから最後までありとあらゆる積極的治療を受けたい」
と望んでいる。
ところが医師の8割は
「むしろ苦しませることになるだけだから抗癌剤や放射線はある程度にとどめて緩和ケアを受け入れてほしい」
と願っている。
この意識のずれは大きいと感じました。
医師は最後の最後まで積極的治療を施してしまった場合の悲惨な症例をたくさん見てきているので患者さんを最後まで苦しめたくないと思う。
でも患者は自分の症例しか知らないから、まだ何か打つ手はあるのではないか?何とか生き延びていれば癌の特効薬が開発されるのではないか?という一縷の望みにすがりがちだということでしょう。
つまり余命告知をする場合、事前に患者さんの置かれてる立場・社会責任の有無・家庭事情・人生観や価値観などありとあらゆるリサーチが必要だということです。
「この人はもう平均寿命に近いし何の責任も負ってない。だから余命告知してあとはノンビリ好きなことだけしてもらおう」
などという単純なことではないと実感しました。
年齢なんて関係ありません。
誰でも一分・一秒でも長く生きていたい。この世とおさらばしたくない。
これが本音でしょう。
よくテレビドラマにあるような
「あと半年ならばこれとあれはやっておかねば~!」
と告知によってかえって力の出てしまう人はよほど精神力の強い人だと思います。
余命告知はしても一縷の望みは保ち続けられるようにしておくこと。
「奇跡が起きるかもしれない」という希望は捨てさせないこと。
それが人情でもあり患者さんを無気力にせずかえって長生きさせるのではないかと感じました。
緩和ケアを否定するものではありません。
ただ「自らの死」を静かに潔く受け入れろと言われてもなかなか難しいということです。
よく「往生際が悪い」などという言葉を使いますが、人間誰しも往生際が悪くて当たり前。
むしろそれが人間性というものだと感じました。
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最後の記事は以上です。
思えばブログを立ち上げたのは2006年9月28日だったと記憶しております。
最初はおっかなびっくりでしたが、やはり書いてみて良かったと思います。
自分の未熟さも知ると同時に世間も知りました。
あらゆる意味でとても良い勉強をさせていただきました。
なお恐縮ですがこの記事にコメントをいただいてもお返事できない状況でございます。
あらかじめご承知おきくださいませ。
長い間ご愛読くださった皆々様のご健康とご多幸をお祈りして筆をおきます。
ありがとうござました
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