愚樵空論

「文脈」と卑怯・人格攻撃のフレーム

このテーマは、現在、当ブログで議論になっているテーマと少なからず関係しています。

どことどう関係しているかは、敢えて示しません。正直、実りの少ない議論になってしまっていると思っていますので、興味をお持ちでない方にまで紹介する意義を認められないのです。残念なことですが。

その議論の場では、卑怯であるとか人格攻撃とかいったことが話題に上っています。どういった場合が卑怯でどういった場合が人格攻撃になるのか? 私、愚樵というブログ人格の文脈を示す一環として、私の主観を披露させていただきたいと思います。


今朝、今日も雨で仕事は休みなのでTVを見でもなく眺めていましたら、小向美奈子なる女性が画面に登場していました。 (この文章は2月27日に下書きをしてあったもの。表現を変えるのは面倒なので、当注釈にて済まさせていただきます。)

「小向美奈子」をgoogleしてみるといろいろと情報が出てまいりますが、そちらは各々でご覧頂くとして、TV画面に映し出された様子は、彼女が彼女の侵した罪についての判決をうけ、記者たちに囲まれて受け答えをしている場面でした。

彼女は涙ながらに次のようなことを語っていました。

覚醒剤を始めたきっかけは、昔つきあっていた男性に勧められたから。断るとDVを受けたりすることもあって、そんなきっかけで覚醒剤を始めた。今回の使用は、仕事の解雇等でストレスが溜まり、酔った勢いで使った。今後は普通の生活を送りたい...。

私は、このように語る見ず知らずの女性を眺めながら、「まあ、人生いろいろあるものだな」と、他人について抱くごくごく普通の、そして無責任な感想を抱いていたのですけれども、驚いたのは彼女に浴びせた記者の質問。どこの記者かレポーターかは知りませんが、そんな彼女に、

「誓えますか!?」

と問いかけていました。もちろん「誓うこと」の内容は、「覚醒剤を再び使用しない」ことなのでしょう。あるいはこれも、ごくごく普通の問いかけなのかもしれません。しかし私は、この問いかけを卑怯だと感じた。その理由は、その問いかけを為した人物に、彼女に向かって「誓えるか?」といった類の言葉を発する「文脈」などありえないと感じたからです。

彼女は罪を犯した。それは議論の余地がありません。では、罪を犯した彼女の「文脈」――DVもあった、さまざまなストレスもあった――は、情状を酌量する余地のあるものなのか? こちらについては私個人の立場からすれば「知りません」としか答えようがない。私と彼女とは無関係だからです。情状を酌量するもなにも、無関係な間柄に情状などが存在するはずがない。

そういった意味では、彼女に問いかけた記者も彼女とは無関係なはずです。無関係な者が「誓えるか?」と問いかける。これはどういうことか?

「誓う」という行為は関係性を前提にしてます。誓った者は誓った相手に対して誠実に行動することが要求されます。無関係な相手に「誓う」ことなど無意味です。ところが彼女は、その無関係な相手から「誓う」ことを要求されています。このことは、彼女が一方的に関係性を要求されているということを意味します。一方は無関係なのに――問いかけた記者にとって、彼女が誓いを守るか否かなど、彼自身にはまったく無関係でしょう――、一方は誠実な関係性を要求される。この非対称な要求を卑怯と言わずして何というのでしょう? 

もしかしたら、この記者は「視聴者の知る権利」などといったものを持ち出してくるかもしれません。しかし、無関係な相手のことを知る権利など認めてよいものでしょうか? そんなものを認めてしまったらプライバシーの概念だと吹き飛んでしまいます。

彼女は無関係な相手に知ることを売る――つまり芸能人として生きていたから仕方がないという答えもあるでしょうが、彼女が裁かれたのは芸能人としてではない。ひとりの人間として裁かれている。であれば、彼女に接するのは、プライバシーを売ることを生業にしている芸能人としてではなく、プライバシーを守る権利をもつひとりの人間として接するべきでしょう。

彼女がひとりの人間として裁かれた時点で、芸能記者たちと彼女との「文脈」は断ち切られているはず。私はそのように捉えたので、記者の一方的な関係性要求を卑怯だと感じたのです。



しかし、これはあくまで私の主観でしかないのですね。では、当の彼女がかの記者の要求を卑怯だと感じたのかといえば、どうもその様子はなさそうです。彼女の方は、彼女が芸能人で会った頃に生じた「文脈」がいまだ断ち切られていないと考えていた様子が見て取れます。そういった彼女にしてみれば記者は卑怯でもなんでもないでしょう。正当な「文脈」から正当な要求がなされたのだと彼女は解釈しています。

では、私の主観的判断は誤りなのでしょうか? 彼女が取ったであろう判断とは異なっているという意味では誤りでしょう。しかし、仮定の話ですが、私が彼女の立場に立ったとすれば、私の判断で記者を卑怯と判断することは誤りとはいえない。結局の所、卑怯か否かの判断は、判断を為す者それぞれに委ねられるということになる。もちろん、なんでもかんでも卑怯と判断すれば卑怯になるといったものではなくて、そこには関係の非対称性がなければなりなせん。非対称性なき卑怯の判断は、かえってその判断が卑怯と呼ばれかねません。関係の非対称性が存在した上で、それを卑怯と判断するかどうは、各人の自由ということになると考えられます。



それでは、当事者でない第三者は卑怯の判定はできないのでしょうか? 上で私は、小向美奈子さんに向けられた「誓いますか?」の問いかけを卑怯と判定しましたが、これは越権行為だったのでしょうか?

もし私が「卑怯と感じない小向美奈子はバカだ」といったような発言をしたとするなら、それは越権行為と指摘されるでしょう。彼女の「文脈」を無視しているからです。けれども、私が私の「文脈」を明らかにしつつ、私の責任において卑怯と判定することは認められるべきだと考えます。もしこれが認められないというならば、卑怯云々の判定のみに留まらず、言論の自由そのものが担保されなくなることになるでしょう。



卑怯に関する以上の記述は、ほとんどそのまま人格攻撃ということにも当てはまると考えます。つまり人格攻撃も「文脈」依存であり、「文脈」の判定は、各人がそれぞれの責任で為すべきもの、ということです。

たとえば、です。ある人Aに“(最近聞かなくなりましたが)社会の窓が開いている”という「事実」があったとします。それを発見したBはCにその「事実」を伝えた。このBの振る舞いをAが知ったとき、Aには、BがCにむかってAの人格攻撃をした、と解釈する権利がある、ということです。このとき、「事実」は存在するのだから人格攻撃に当たらない、というBの反論は通用しません。重要なのは「事実」そのものではなく、「事実」を解釈する「文脈」なのですから。BにはAの解釈を認めつつそのつもりではなかったと釈明するか、人格攻撃を認める以外に選択肢はありません。

また、第三者Dにも、このAとBとの「やりとり」を解釈する権利はあります。その際には、DはDの「文脈」――Aの側に立つか、Bの側に立つか、あるいはどちらの側にも立たないか、etc――を明らかにした上で、Dの責任において発言しなければなりませんが、それらさえ担保されているのなら、だれにもDの発言を遮る権利はありません。

AもしくはDが批判に曝されることがあるとするなら、それは各々の「文脈」に整合性がない場合でしょう。科学者を標榜しているのに非科学的な主張をしているといった場合は、 明らかに「文脈」に整合性がないわけですから、批判の対象となるでしょう。けれども、そうでない者が非科学的な文章を持ち出したからといって、「文脈」がおかしいとはいえないのですね。

科学的な証明は普遍的な「事実」であるとされます。そこに私も異存はない。けれども、「事実」も「文脈」によっては人格攻撃になる。「社会の窓が開いている」という「事実」も「水は言葉を解さない」という「事実」も、誰もが確認できる、もしくは普遍的とされる「事実」です。

ということは、です。非科学的な文章を持ち出したとしての批判は、「文脈」によっては人格攻撃だと解釈されうる、そう解釈する恣意的な権利は批判を受けた者にはある、ということになり、また第三者もそう解釈する権利がある、ということになる。普遍的な「事実」だけでは、各々の「文脈」を完全否定することはできません。

これは当たり前の話であって、人格と深く関わりがあるのは「事実」よりも「文脈」だからです。「事実」はいかなる人格の前でも平等な事実。しかし「文脈」は各々の人格によって違います。

現代社会は、各々の人格は平等だということが前提になっています。そうはいっても実社会では様々な制度があってその前提がそのまま当てはまることは少ないのですが、実社会のような制約のないネット空間では、その前提が強く作用する。ネット空間の中では実社会よりも各々の「文脈読解の自由」が強く認められるということです。そうした空間のなかで、科学を解読する人格と非科学を信奉する人格に、人格としての差があるがごとき記述は、人格攻撃と解されてもやむを得ない。「社会の窓」が開いているという指摘が、事実の指摘に留まらず人格の差だと解釈されうる要素があれば、人格攻撃と解されてしまうのと同じです。
(この「要素」は多くの場合、非対称性です。当人に知らないところで批判したというのも非対称性に当たります。)

確認しておきますが、「やむを得ない」は可能性があるの意味で、そうであると断定するものではありません。ここでも「解する」のは各々の人格の「文脈」読解に依存します。なので、同じ表現を巡っても意見の対立が出てきてしまう。これは避けようのないことなのです。各々が別人格なのですから。そして、人格が平等であるという前提を認めるならば、意見の対立は容認しなければならないということになります。「対立の構図」はあって当然のものなのです。



もうひとつ、言及しておきます。それはニセ科学批判に対する批判についてです。

私はニセ科学批判の一部に対して、「科学が宗教と化している」「科学が制度になっている」といった批判をしてきました。このことは、冒頭で触れた記者の小向美奈子さんへの「問いかけ」と共通のものがあります。

私は、上で「視聴者の知る権利」を背景に各々の「文脈」を無視して一方的な関係性要求することを卑怯だと称しました。それは科学でも同じなのです。科学の普遍性を根拠に、各々の「文脈」無視の一方的な関係性の要求――これは、一般的、普遍的であることを利用してのイジメに他ならない。自分の「文脈」を明らかにせずにそうした主張を行う者は、卑怯なのです。

科学とどう接しようと、それは各々の人格の自由――とまで、私は主張するつもりはありません(いえ、実は主張しているのですけどね。私は『水伝』を道徳教育に使用することを認めるべきだと発言していますが、これは科学に対する絶対的自由の要求と受け取られても仕方がない。ただしこれは、科学があまりに制度と化していることへの反発の意味合いの方が大きい。)しかし、科学の普遍性を盾に「文脈」解釈の自由を奪うべきではないのです。私はそのように考えます。 /font>

コメント

ありがちなのが

「道徳教育」としての「論理性」をいえば、

「ありがとう」は美しい言葉で「ばかやろう」は汚い言葉だから、
使う言葉によって、人間が美しくなったり、汚なくなったりするよ・・・

という「前提」の問題があります。

前後の場面も考えずに「ありがとう」が美しくて「ばかやろう」が汚いのか?
そんなことで、人間性をAかBかに分けていいのか?

 …というのが、「水伝」の危険性なんですよ。

いろんなことをごっちゃにして、
実験の正確さが云々するから、問題がややこしくなる。

(科学的を叫ぶ人が、論理的には科学的な考えといえなかったりすることはよくありますが)

珍しく共感しました

愚樵さん、なんだか大変そうですね。
いつもは、愚樵さんのニュアンスとはズレの多い私ですが、今回はまずまず共感できましたよ。

で、「科学的」態度についての私の考えですが・・・

私も「ニセ科学批判」をよくしますが、そうした批判をする人の中には、「自分の科学は、間違いはなく完璧に正しい」という前提での主張がよく見られる気がします。私は、そういう「ニセ科学批判」は「ニセ」だと思っています。「自分には間違いはない、間違っているのはやつらだ」と吼え続けている困った方にも、同じ匂いを感じます。

最近典型的だったのが、「ムペンバ効果」を自ら実験もせずにニセ科学だと決めつけた人たちです。
本来の科学的態度とは、科学的知見の未熟さを常に意識し、明らかとなった事実には謙虚であることが求められます。「ムペンバ効果」を頭ごなしに否定する態度は、とても科学的態度とは言えないのですね。これまでの常識では考えられないかもしれないが、本当かも知れないから実験で確かめてみる。そして事実なら、なぜそうなるのか?を突き止める。これが科学的態度だと思っております。

ただし、思考実験だけで反証が出来てしまう「水伝」は、ニセ科学以前のデマであることは間違いありませんが・・・(笑

ある意味、科学もニセ科学も同じ

第二名神さん

>…というのが、「水伝」の危険性なんですよ。

はい。結局ですね、言葉とは「文脈」を通じて解釈されるべきもので、その「文脈」を絶対的に規定できる「事実」など存在しないということなんだと思います。

その意味では科学もニセ科学も同じでしょう。人には「文脈」読解の自由と責任が与えられていて、それには己の人格をかけて当たらなければならない。寄りかかれる普遍性などどこにもないということですね。

*****

Looperさん

なんだかそちらも大変らしいですねぇ(笑)

>いつもは、愚樵さんのニュアンスとはズレの多い私ですが

ははは。そうですよねぇ。けれど、今回は共感していただいたということで、素直に嬉しいと表明させてもらいます。

>本来の科学的態度とは、科学的知見の未熟さを常に意識し、明らかとなった事実には謙虚であることが求められます。

はい。鍵は「謙虚」なのだろうと。科学に対しても他の人格に対しても謙虚でありさえすれば、「水伝騒動」などといった現象はなかっただろうと思います。けれども一部の人間が、科学を他の人格を貶めるために使った。また使えてしまうのですよ。科学の普遍性は強力ですし、ほとんどの者がそのことを理解していますから、「科学的ではない」の言葉は容易に「黄門さまの印籠」と化してしまうのですね。私の科学に対する態度は、「黄門さまの印籠」に悪態をついているようなもの、です(笑)

>ただし、思考実験だけで反証が出来てしまう「水伝」は、ニセ科学以前のデマであることは間違いありませんが・・・

ぼちぼち「「水伝」を学校道徳で使うことは許される」の立場は撤回しましょうかね。「美しい言葉を使いましょう」を教えるのに、優れた教材は他にいくつもあるはずですし。

なるほど。

関係の非対称性というのは、重要な視点ですね。

ブロガーは公共メディアで発言しているのだから、全ての発言に責任を持つべきで、間違いは容赦なく糾弾してよい、という考え方もありますが、私はそこに「非対称性」を感じることがしばしばあります。

また、悪人は死刑にするべきだと声高に主張する人たちにも、同じものを感じたりします。

非対称性により安全を確保された場所からのこうした「正義の後出しじゃんけん」は、卑怯でもあり、下品でもあるなと感じます。

家出掲示板

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トラックバックありがとうございます。

ここは「7%理解しました」と言えばいいのかな。

とりあえず、
本エントリーに私に対する言及はないようですね。
自分について書かれてないことについて
「おれのことだ」というような「読み込み」は
「共感派」の皆さんが一番嫌うことだと記憶しています。

たんぽぽさんが「アク禁でないアク禁」になり、
安全を確保された瞬間に書かれた」
上の水葉さんのコメントも、
当然、私(たち)のことではないのでしょう。

ゆえに、コメントすることは何もありません。


愚樵さんも私のエントリーに対して「何もいうことはない」と
おっしゃられていたので、
これからも、安心して
「水葉さんがセクハラの二次加害者になっている」という
たんぽぽさんの問いかけについて
「質問があったことすら無視しつづけた卑怯者」
と公言させていただきます。

※当家にいただいたコメントについては、当家のコメント欄で回答
させていただきます。

(不快なものを見るのは嫌なので、今後、こちらに返事を書かれても、読む保証はできません。ゆえに、このコメントも黙殺いただいても結構です。御用のせつは、当家にコメントまたはトラックバックいただければ、と、思います)

では、失礼します。

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プロフィール

Author:愚樵
和歌山県の熊野地方在住。
職業はきこり。

モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す。

gushou@work.odn.ne.jp

      

      

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