元寇の役の元国・高麗国・日本国敵味方の
怨親平等悉く本覚の自性に帰らしめん

                          入江孝一郎  
                             全国一の宮巡拝会世話人代表
                                社団法人日本移動教室協会理事長
                      日本ペンクラブ会員

鎌倉幕府の再三にわたる襲古の使節を追い返し、あげくには使節の首を斬るという暴挙にでたことから元冠の役は始まった。文永・弘安の二度の蒙古来襲は、始めての外国からの大軍の侵攻で、まさに国難であった。それも今では歴史として伝えられ、人々の暮らしとは何も関係ないことと思われている。福岡の筥崎宮の「敵國降伏」の額や生の松原防防塁跡などの史跡が物語っているだけである。

文永11年(1274)10月3日、元軍は、蒙古人・女真人・中国人など約2万人、高麓軍8千人と、舵取り、水手など6千700人を加え、合計900艘の遠征軍で対馬・壱岐を侵攻し、やがて松浦半島の沿岸の浦々、島々を侵した。10月19日、博多湾に進入、翌日上陸を開始した。元軍は、集団で攻め.毒をぬった矢、火薬をこめた鉄砲が撃たれた。博多の各所に火の手があがり、箱崎八幡宮も焼け、日本軍は太宰府まで退くという激戦であった。しかし、夜になると元軍は軍船に引き上げ、21日の朝になってみると、博多湾をうめつくしていた元軍の大船隊が姿を消した。この急な撤退の原因は軍2O日夜半の大暴風雨といわれ、「神風」とされてきた。元軍の大船隊は、1ケ月以上もかかつて、11月27日に高麗国の合蒲にかえったが、1万3500人がかえらなかったといわれ、日本から捉えてきた少年・少女2OO人を高麗国王などに献上した。

弘安4年(1281)、元軍は壱岐・対馬より上がり、見かける者をうち殺し.残酷な狼藉の悲劇を伝えている。元軍14万、戦艦5干艘にちかい大軍の主力は、肥前国鷹島へ移り、全面的な攻撃が開始されようとしたが、7月30日、太陽暦8月23日の夜になると暴風雨となり、嵐は元軍の大船団の多くの船を破壊し、兵士たちは荒海に投げ出されて溺れ死にをした。生き残った元軍の兵士たちは捕虜となり、逃げ帰った。溺死した元軍10万、高麗軍7千、14万の大軍の4分の3を失ったといわれる。翌年の12月、鎌倉幕府執権北条時宗は、彼・我の犠牲者の冥福を祈り鎌倉に円覚寺を建立した。

それから721年の歳月をへた平成15年9月17日、元冠の古戦場の筒城浜に蜜壇を設け、遠くモンゴル国ガンダン寺ハンバラマ管長猊下を大導師・モンゴル国仏教大学々長を副導師に、高野山蓮花院東山大阿闍梨とともに「元寇の役敵味方鎮魂地球平和祈願」が行われた。最初の予定地は、耶馬台国一支国の跡であった国特別遺跡原の辻遺跡の前であったがが、数日前の台風のために変更になったのも不思議なことである。

敵味方に当たるモンゴル国・日本国の導師によって、チベット密教の読経、低音の波長のながいパイプレーション.ガンダン寺の読経の指導僧による。その音波は玄海灘の海底にとどき吸い上がる響きがした。導師ハンバラマ管長猊下は、ダライラマ法王とともに、9.11テロ事件追悼のため、急遽ニューヨークに行き、モンゴルに帰り、さらに成田空港・福岡空港・壱岐の元寇の役供養と続く強行な修行である。今回の意昧するところは、味方だけの片方だけの鎮魂ででは救われないことを示した神仏からも指差である。

「怨親平等を問わず悉く本覚の目性に帰らしめんという理趣般若の秘法を修め」と、高町山蓮花院上綱伝燈大阿闍梨権大僧泰清の表白は、「元寇の役過去亡魂に甘露の法味をそそぎ、以て元国・高麗国・日本国敵味方怨親平等追福供養に資せんとす」「美しき壱岐の島内静謐にして四海安穏なり、神仏の冥応何ぞ空しからんや」と、朗々とわたる。モンゴル・日本の6人の僧による修法は、秋の日射しが照りつけ・円覚寺ゆかりの両忘庵USA大木宗完が脇座に控えて、1時間にわたる修法は終わった。

壱岐で少年時代をすごした長岡秀星のポスターに描かれた玄海灘の海底に沈んだ元軍の兜、兜の剣は不動明王の剣を思わせる。輝く太陽のもと、いざ帰りならん、である。時空を忘れて澄み渡る天空を見上げた。敵昧方鎮魂地球平和祈願が両国双方で協力して行われたのは、恐らく史上始めてのことである。つづいて一の宮行脚奉納舞をつづけている金崎二三子さん、石笛奏者横沢和也氏、螺員の奉納があった。この発端が壱岐より起きたことを壱岐人は、誇りに思っていいし、大いに誇りにしてほしい。「壱岐日報」9月21日の社説でこのことを高く評価している。

今回のガンダン寺と高野山蓮花院との交流で、豊臣秀吉の朝鮮の役の敵味方鎮魂を韓国で、ノモン八ン事件・八ルハ河戦争の敵昧方鎮魂の話がモンゴル国でと話題にのぼった。怨みから怨みは消えない、怨みを増すだけである。高野山蓮花院は徳川家の菩提寺で、秀吉の朝鮮出兵しない徳j川家の霊的はたらきは大きい。

全国一の宮巡拝会が、壱岐国一の宮天手長男神社の宮司不在になったことから助言のつもりで動いたのに対し、力ルマの反撃にあい、逆に主体的になって動くことに神様は導かれ、さらに地球的救済の軌道修正に役立とうとしいるのは有難いことである。壱岐人に壱岐国一の宮の認識がないのは、元冠の役の残酷な悲劇から『むごい」という言葉が生まれたといわれるほどの荒廃がもたらしたと考えられる。悲惨な戦争の傷蹄から大きな力ルマが形成され、それが地中に、海底に、深く沈み、多くの神霊、眷属、人霊が傷つき、落ち沈んだままになっている。家庭の先祖供養は、親があって子が存在し、その祖先を大事にすることによって家が栄える。その厄をするのが不成仏霊であると信じてられてきたからである。それが明治の神仏分離令と政教分離令によって、仏教伝來以来神仏習合の歴史を否定し、近代学校教育で、伝統風習のすべてを迷信としてしまった。

壱岐の元寇の役の犠牲者の身になって考えて貰いたい。見えないものは信じないと、千人塚があるけれども、関係ないと片付けていいものか、その脱却が「元寇の役敵味方鎮魂地球平和祈願の行為で、目に見えない力が加わったのである。それはイベントというものではなく、鎮魂地球平和祈願なのである。それは魂のルネッサンスであり、この忘れらていたことを、壱岐の島から地球へ発信した事実は大きい。戦争に、テロも加わった今日、不安と隣合わせて生活している。日本の治安は、大丈夫といわれたのが、最近、
急速に悪化の傾向にある。核の脅威、テロ、戦争と不安の材料は増すばかりである。その上バブル崩壌からの不況であるが、まだ壱岐は開発されたといえ自然が残っている。

壱岐は、農業・魚業からの生産額が年間約145億円あるという。壱岐に観光で訪れる人は年間約70万人で約140億円の収入、観光の占める率が大きい。「光を観る」と書くのが観光であるのに、その本質を知る人が少ない。誰もが活性化をいうが、欲の前に温かい心で人を迎えることが先である。四国遍路が盛んであるのは、接侍する心と仏がいるからである。壱岐の人が、壱岐国一の宮を認識して、壱岐一の宮を参拝から始めることからである。現在7千人が、御宋印帳をもって巡拝している。壱岐の人が巡拝を始めることは、
他国の人も巡拝することになる。全国一の宮を巡拝する人で全国を循環する人の波が生じてくれば、神様の気がみなぎり、自ずから活性化するのである。先ず「隗より始めよ」である。

また、埼玉県の学校の先生が書いた「耶馬台国五文字の謎(角田彰男著)を出版にして世に問うた。読みやすい本で、ことに壱岐人には郷土を誇ることができる。ぜひ読んで貰いたいものである。 終り。