February 28, 2009
雨天順延??
子供のころ野球の切符を買うと
「雨天順延」という言葉が書いてあった。
子供のころ、私が好きだったのは野球とプロレス。
野球に関してはジャイアンツのV9とともに卒業。
それまで頭の中を支配しまくっていたのに
川上監督が退陣すると、翌年からは、まったく見なくなった。
長嶋さんが監督というのは自分の頭が受け入れなかった。
野球というものはON砲がいなきゃ野球じゃなかった。
ON砲がなくなってから、一試合もまともに日本の野球を見ていない。
1番 レフト 高田
2番 セカンド 土井
3番 ファースト 王
4番 サード 長嶋
5番 センター 柴田
6番 ショート 黒江
7番 ライト 末次
8番 キャッチャー森
9番 ピッチャー 高橋一三
これが私の頭の中のベスト。
そうそう。なんで雨天順延ということばが出てきたかというと
昨日ターザン山本さんと行く予定だったキャバレーが今日に
順延となった。
理由は単純に昨日、約束通り電話したら「今日は7時から仕事ですよぉおお」
といわれたから。
で、昨日は一人で赤羽店の「7コース」で安く飲んだ。
2人W指名してショーチャージ込みで12000なんぼか。
きょうはター山のおじさんといく。
山本さんは私が週刊プロレスの仕事をしていた遠い昔、
週プロのナンバー2だった。で、なんだかんだ世話になったから
恩返し。
いまでも忘れられないのは
長州&谷津組VSブロディ&ブルックスの両国の試合後
「ジミー、写真選んで出してくれ」と言われた。
私はブロディとブルックスが長州をボコっている写真だけを10何点か
選んで出した。
「なんだコレは!長州がやられている写真ばかりじゃないか!!」
と言われたが「だって山本さん、今日はそういう試合だったじゃないですか。
あの試合を形容するならこの写真だけで組まなきゃ何のインパクトもないですよ」
と言い返した。
私からしたら外国人レスラーが自分の担当だったし、
自分自身ブロディ番だった。
日本人VS外人という伝統が守られてこそメシが食えるという
感覚があったし、それからすると日本人対決に流れを変える
長州力という存在は私の生活を脅かす存在だった。
ブロディのほうがずっと強いというイメージを植え付けてこそ
メシが食えるんだという意識が働いた。
山本さんは私の反論にやたら納得して、そのままページを組んだ。
発売になってすぐにジャパンプロレスからクレームがついた。
週プロといえば、私は週プロで馬場さんのインタビューをして
「プロレスとはシューティングを超えたもの」という名言を引き出した。
当時、純プロレスと言われていた団体にとって「シューティング」
なんて言葉は禁句と思われており、誰もが口を閉じていた。
私は若気の至りというか、恐れ多くも
天下のジャイアント馬場さんに、その言葉をぶつけた。
その結果の言葉だった。
その時「よしジミー、馬場さんにインタビューしてこい」と
言ったのは山本さんだった。
実を言うとそのころ週プロと全日本の関係は最悪で
取材拒否寸前だった。ロープに飛ばさないUWFなる
敵団体ばかりをプッシュしている雑誌は控え室で
いつも紙吹雪になっていたという。
私は子供のころからの全日派だったし、
元子さんに可愛がっていただいていたから、
それをなんとかしたかった。
で、「僕に全日本の仕事をさせてください。まずはいきなり馬場さん
の取材がしたいです」と進言した。
最悪の関係の中、少しでも全日本のページを取らせて、関係改善に
もっていきたかった。
すべてはなつかしい思い出。私が週プロを去り
それからしばらくすると、山本さんが編集長になり
週刊プロレスは全日シンパの雑誌に生まれ変わった。
それはひとつの歴史であり、それに関して自分も大きく関わったんだなぁ
という自負は私にとって忘れられない人生の思い出である。
「雨天順延」という言葉が書いてあった。
子供のころ、私が好きだったのは野球とプロレス。
野球に関してはジャイアンツのV9とともに卒業。
それまで頭の中を支配しまくっていたのに
川上監督が退陣すると、翌年からは、まったく見なくなった。
長嶋さんが監督というのは自分の頭が受け入れなかった。
野球というものはON砲がいなきゃ野球じゃなかった。
ON砲がなくなってから、一試合もまともに日本の野球を見ていない。
1番 レフト 高田
2番 セカンド 土井
3番 ファースト 王
4番 サード 長嶋
5番 センター 柴田
6番 ショート 黒江
7番 ライト 末次
8番 キャッチャー森
9番 ピッチャー 高橋一三
これが私の頭の中のベスト。
そうそう。なんで雨天順延ということばが出てきたかというと
昨日ターザン山本さんと行く予定だったキャバレーが今日に
順延となった。
理由は単純に昨日、約束通り電話したら「今日は7時から仕事ですよぉおお」
といわれたから。
で、昨日は一人で赤羽店の「7コース」で安く飲んだ。
2人W指名してショーチャージ込みで12000なんぼか。
きょうはター山のおじさんといく。
山本さんは私が週刊プロレスの仕事をしていた遠い昔、
週プロのナンバー2だった。で、なんだかんだ世話になったから
恩返し。
いまでも忘れられないのは
長州&谷津組VSブロディ&ブルックスの両国の試合後
「ジミー、写真選んで出してくれ」と言われた。
私はブロディとブルックスが長州をボコっている写真だけを10何点か
選んで出した。
「なんだコレは!長州がやられている写真ばかりじゃないか!!」
と言われたが「だって山本さん、今日はそういう試合だったじゃないですか。
あの試合を形容するならこの写真だけで組まなきゃ何のインパクトもないですよ」
と言い返した。
私からしたら外国人レスラーが自分の担当だったし、
自分自身ブロディ番だった。
日本人VS外人という伝統が守られてこそメシが食えるという
感覚があったし、それからすると日本人対決に流れを変える
長州力という存在は私の生活を脅かす存在だった。
ブロディのほうがずっと強いというイメージを植え付けてこそ
メシが食えるんだという意識が働いた。
山本さんは私の反論にやたら納得して、そのままページを組んだ。
発売になってすぐにジャパンプロレスからクレームがついた。
週プロといえば、私は週プロで馬場さんのインタビューをして
「プロレスとはシューティングを超えたもの」という名言を引き出した。
当時、純プロレスと言われていた団体にとって「シューティング」
なんて言葉は禁句と思われており、誰もが口を閉じていた。
私は若気の至りというか、恐れ多くも
天下のジャイアント馬場さんに、その言葉をぶつけた。
その結果の言葉だった。
その時「よしジミー、馬場さんにインタビューしてこい」と
言ったのは山本さんだった。
実を言うとそのころ週プロと全日本の関係は最悪で
取材拒否寸前だった。ロープに飛ばさないUWFなる
敵団体ばかりをプッシュしている雑誌は控え室で
いつも紙吹雪になっていたという。
私は子供のころからの全日派だったし、
元子さんに可愛がっていただいていたから、
それをなんとかしたかった。
で、「僕に全日本の仕事をさせてください。まずはいきなり馬場さん
の取材がしたいです」と進言した。
最悪の関係の中、少しでも全日本のページを取らせて、関係改善に
もっていきたかった。
すべてはなつかしい思い出。私が週プロを去り
それからしばらくすると、山本さんが編集長になり
週刊プロレスは全日シンパの雑誌に生まれ変わった。
それはひとつの歴史であり、それに関して自分も大きく関わったんだなぁ
という自負は私にとって忘れられない人生の思い出である。