──
まず初めにお断りしておくが、私は「原発に大賛成」という立場ではなくて、「原発はやむを得ない」という立場である。つまり、「他のものに比較して、原発は悪が少ない」という比較論だ。
もちろん、原発の難点は理解している。原発にはいろいろと難点がある。ただ、巷にある原発反対論は、ちょっとピンボケであるので、少しだけ言及しておこう。
(1) 高放射性廃棄物
高放射性廃棄物には処理が必要であり、そのためのコストもかかる。
ただし、これは、現世代が負担する必要はない。現世代は単に「貯蔵」のためのコストを払えばいい。ガラス化などで保存ができるのであれば、そのまま保存しておけばいい。別に今すぐあわてて処理する必要はないのだから。
ま、千年後に処理したっていい。そのころの人類はものすごく高度になっているはずだから、今のわれわれが悩む必要はない。
たとえて言えば、平安時代の人々が、21世紀の科学技術水準について心配して悩む必要はない。
(2) 国の補助金
原発には、その周辺地域における地域振興のため、国の補助金が出る。では、このコストも考慮するべきだろうか?
実は、補助金の分は、生産コストとはならない。生産コストならば、その金は生産過程で消えてしまうが、補助金ならば、その金をもらう人がいるからだ。
たとえば、国が 100億円を払うと、その 100億円をもらう人々がいる。100億円は、コストとなって消えてしまうわけではない。単に国民の間で富の配分の変更があるだけだ。
だから、国の補助金をいくら増やそうが、それは、コストがかかったことにはならない。逆に、補助金をゼロにしても、コストが減るわけではない。
マクロ経済的に言えば、この補助金を増やそうが減らそうが、一国全体の富は何ら変わらない。
( ※ この点、他の発電における生産コストとは全然違う。たとえば、太陽光発電のために、料金の上乗せ制度を取ると、そのせいで、国全体の富が大幅に減ってしまう。太陽電池産業は伸びるが、その分、自動車やパソコンなどの生産量は減ってしまう。国全体で言えば、太陽電池をせっせと生産して太陽電池を受け取り、パソコンの生産を減らしてパソコンの所有量が減る。国全体では、富の規模が縮小する。……太陽光発電では、そういうことが起こる。原発の補助金では、そういうことは起こらない。)
(3) 放射能の問題
放射能の危険性はある。それは、私も否定しない。
ただ、その危険性は、現実にはかなり小さい。昔なら、スリーマイル島の事故があったが、あれは 30年も前のことだ。原発はもはやかなり成熟した技術である。(完全ではないにせよ。)
なお、チェルノブイリと混同する人もいるが、勘違いしないように。チェルノブイリは非常に危険なタイプの原子炉(核爆弾製造用の原子炉)であり、種類がまったく違う。あのタイプの原子炉は日本では使われていない。( → 黒鉛 )
それでも、戦争が起これば、非常に危険になることは間違いない。日本の自衛隊は、米軍基地を守るためにミサイル防衛網を整備しているが、そんなことよりは、原発を守ることの方が優先されるはずだ。
ただし、それを言うなら、戦争の危険そのものを減らす方がよほど大切だ。さもないと、「原発は守れましたが、戦争そのもののせいで、莫大な人間が死んでしまいました」というふうになりかねない。
だから、原発の心配をするよりは、戦争の心配をして、世界平和の維持に努めた方がいい。「テロとの戦い」なんて騒いでいるくらいだったら、パレスチナ敵視政策をやめる方が、ずっと賢明だ。
「ガザの人間をいっぱい殺しているのを放置しながら、自分だけは助かりたい」
なんて思うようでは、自分で自分を危険にさらしているのも同然だ。戦争の危険性は、技術だけで解決することはできない。人間精神そのものが影響する。
人間の愚かさを、原子力のせいにするべきではない。
(4) 原子力
「原子力」の意味を、多くの人は「原爆」と混同している。(さすがに概念で混同することはないが、心理的な価値観で混同している。)
「原爆」は悲惨であるが、「原子力」は人類が切り開いたすばらしい技術だ。キュリー夫人を皮切りに、ボーアやアインシュタインの知恵を経て、人類は酸素を使わないエネルギー源を入手した。これは実に画期的なことだ。
なるほど、原子エネルギーを悪用して、原爆を使う人もいる。しかし、そういう悪用と、原子エネルギーの有効利用とは、全然別のことだ。
これはつまり、「科学の有効利用」と「科学の悪用」という関係だ。
そして、「科学を悪用する人がいるから、科学をすべてやめてしまえ」ということにはならない。そのことは、原子エネルギーについても当てはまる。
(5) エコと経済
「エコのために原子力エネルギーもやめてしまえ」
という発想もある。それはそれで一理ある。
しかし、その発想は、莫大な人間の死を意味する。金の不足のせいで死ぬ人はものすごくたくさんいるのだ。今日の経済不況の日本でも同様だ。(新幹線に飛び込んで自殺しようとした人もいる。彼は助かったが、普通の鉄道では、毎日毎日、自殺者が出ている。金の不足のせいで。)
私は別項で、
「原発を容認できないというのなら、原発を全廃するべきだろう」
と述べた。しかし、これは、「そうしろ」という意味ではなく、「そんなことはできっこない」という皮肉だ。仮に、そんなことをやり出したら、日本経済は急激に破綻して、莫大な死者が出る。たぶん、数十万人になる。
エコのために数十万人を死なせてもいいのか? 私は「駄目だ」と考える。しかし、「それでもいい」と考える人々も多い。
「エコのためには原発を廃止せよ」
「エコのために(原発の廃止で)数十万人を死なせよ」
と。そして、それは、冗談ではない。実際、途上国に対して、同じようなことを主張する環境保護論者は多い。
「自分たち先進国はエコをやらずに成長したが、途上国はエコをやれ。そのせいで、途上国は金がなくて貧しいまま、何十万人も死なせてしまえ」
というふうに。(金がなければ医薬品不足などで莫大な死者が出る。)
(6) まとめ
エコを得るということは、かわりに何かを失うということだ。そのことを理解しないまま、エコの道をまっしぐらに突き進めば、他のものをたくさん失うことになる。金を失い、人命を失う。
だからこそ私は訴えたい。
「エコよりも人命が大事だ」
「エコよりも金が大事だ。(貧しい人々の金は、生命を救うから。)」
具体的に言えば、太陽光発電に莫大な金をかけるよりは、医療費のために莫大な金をかける方がいい。今の日本では、生命を救うための医者や病院が大幅に不足している。そういうふうに人々が死んでいる(金の不足のせいで死んでいる)のに、そういう死者には目もくれずに、エコばかりに莫大な金をかけるのでは、ほとんど狂気的だ。
(7) 真のエコ
ただし、私は「エコ」を完全に否定しているわけではない。「温暖化ガス削減」という「エコ」は「偽善エコ」として否定しているが、「環境保護」つまり「緑の減少を防ぐ」という「エコ」は「真のエコ」として肯定している。
人類がなすべきこと。それは、屋根に太陽電池を載せることではなくて、地面に緑豊かな植物を増やすことなのだ。原発廃止という「偽善エコ」ではなく、大地に草木を増やすという「真のエコ」なのだ。
[ 付記1 ]
最新のニュース。経産省は、太陽光発電の普及のために、電力料金に上乗せ金をかける方針を出した。太陽電池の購入者に補助金を出して、その分、一般家庭の電力料金を引き上げる。
経済産業省は24日、太陽光発電の普及拡大を進めるため、家庭で発電した電気を電力会社に買い取らせる制度を創設、平成22年度までに始めると発表した。これを聞いて、「万歳」と浮かれている連中が多いだろう。しかし、この分、確実に経済成長は低下する。同じ日の記事に、次のこともある。
これまで電力会社がサービス扱いで買い取りにあたってきたが、これを義務化したうえで価格も2倍程度に引き上げる。電力会社としてはコスト増になって電気料金に転嫁されるが、値上げ幅は標準家庭で月額数十円程度に抑えられる制度に仕立てる方針だ。
買い取り対象は、太陽光発電設備を設置している家庭のほか、事業会社、学校などで発電しても使い切れなかった余剰分となる。電力会社による現行の買い取りは、家庭用で1キロワット時あたり24円程度だが、これを50円弱に引き上げる。買い取り期間は10年程度を想定している。
家庭用太陽光発電の設置費用は現在、250万円程度。設備購入にさいして受けられる各種補助制度などと電力買い取りを併用すれば、10年程度で設置費用を回収できる計算だ。
今後普及が進めば設備は値下がりすると見込まれるため、買い取り価格も引き下げていく。ただ、各家庭で発電を始めた年度に適用された買い取り価格は、契約期間中は固定する。
政府は昨年7月に策定した「低炭素社会づくり行動計画」で、太陽光発電の導入量を32年に10倍、42年に40倍との目標を立てた。支援策強化で普及を図り、3〜5年後に太陽光発電設備の価格を現在の半額程度に引き下げたい意向だ。
( → 産経ニュース )
24日の東京株式市場では、日経平均株価が昨年10月末の終値でのバブル後最安値を一時下回り、アジアの株価も軒並み下落。これに先立つ23日の米国市場では、ダウ工業株平均が約11年9カ月ぶりの安値となった。現状は、世界恐慌の危機に瀕している。なのに、それに気づかないで、エコに浮かれている。
金融市場の混乱は続くとの見方が根強く、証券をはじめとする金融株に売り注文が殺到。業績のさらなる悪化への不安が高まっている精密機器や電機などの輸出関連株も大きく値を下げた。
( → 朝日新聞 )
たとえて言えば、「家が燃えている! 大至急、消火しなくては!」という緊急時に、太陽電池の設置を考えているわけ。
笑い話にもならない。
現在、エコにとらわれ、原発廃止にとらわれ、そのあげく、人類は自殺への道を進みつつある。だからこそ私は訴える。
「エコよりも人命が大切だ。目先の炭酸ガスの濃度なんかよりも、現実の数百万人の命を救うことが大切だ」
と。
( ※ とはいえ、そういうことを言うと、現状では 変人・狂人 扱いされそうだ。……「そんなことを言うやつはトンデモだ!」と批判する人もいるだろう。「エコ、エコ、ラララ!」 「エコこそすべて」 「エコのために 世界はあるの」と。)
[ 付記2 ]
ネット上に面白い見解を見つけたので、紹介しておく。以下、引用。
ドイツは単独政権を作ることが難しく、緑の党が政権に加わった際に2020年頃までに原発を廃止すると決めざるを得なかったのです。[ 付記3 ]
そして風力発電、最近は太陽光発電に熱心ですが、電力会社は、その度にバックアップ電源として自国にある豊富な質の悪い石炭(褐炭、泥炭)火力発電所建設を余儀なくされ、過去5年で電気代が2倍となり、多電力消費産業(アルミニウム製錬等)は国外に工場を移転し、雇用問題にもなっています。
また、フランスから大量の電気を購入していますが、フランスの発電電力量の 80%は原子力です。原子力反対と言いつつ、他国の原子力による電力を購入している矛盾は常に問題とされるところです。
メルケル首相自身も原子力発電を継続、発展すべきと考えていますが、単独政権でないためできないのが現状です。
──
皆さん言っている通り、ドイツの電力は非常に高いです。ドイツの伝統もあるでしょうが、家庭ではいまだに「ろうそく」を重宝しています。薄暗いロウソクの光の中で黙々と夕食をとる。一見風流に見えますが、ドイツではろうそくによる火事が多く発生しているのもまた事実です。
日本はすでに高度な文明社会を築き上げ、この主要な部分を「電力」が支えています。日本のインフラ整備度は、ドイツよりはるかに高度です。例えばドイツのパソコンはいまだにADSLが主流、当然電話はアナログだし、夜の道路は驚くほど暗い。ベルリンやハンブルクといった都会ですら、日本の田舎町のような暗さです。
( → http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1023069890 )
──
危険性について考えるときに重要なことが、世の中に全く危険性のないものは存在しないということです。
飛行機が良い例です。飛行機は一度事故が起こると多くの人命が失われます。
それでも飛行機を廃止しないのは、飛行機を使うことで私たちが大きな利益を受けているからです。
( → http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013667240 )
ドイツという国は、たしかにエコを実践しているが、その代償として、文明生活を放棄してしまったようだ。以下、ドイツ生活についての引用。(一部中略)
アイドリングも徹底していて、交差点では、たとえ救急車でも、エンジンを切ります。もちろん、救急車といえども、赤信号では進まないです。なるほど、それならエコ生活はできるだろう。しかし、そんな非文明的な生活、今の日本でできますか? 特に、スーパーのレジ! 信じられない不便さ。
私がいた当時から、「マイバッグ」は当たり前で、レジ袋は有料なうえ、高いので、みんな袋を持って行きます。
ドイツのスーパーでは、レジの人はイスに座っています。レジ台がベルトコンベアーみたいになっていて、客の方が、1品ずつ、そこに置いていきます。レジ係りは、それを見て、レジを打つだけ。(当時バーコードではなく、手動で打ってました。)確認の終わった品を、また客が、1品ずつ、カートに入れなおし、レジ係が読み上げた金額を支払った後、別の台の上で、マイバッグなどに、収めていきます。
ドイツ人たちは、日本人の我々とは、「灯り」に対する感覚が全く違うようで、「夜は暗いのが自然」と捉えることです。住宅の隣りの部屋に住んでた夫婦のお宅に、夜、訪問したことがあるのですが、壁に灯った 20ワットほどの灯りだけで過ごしていました。
( → http://aranfes.blog.ocn.ne.jp/potato/cat4531033/index.html )
夜のドイツはホントに暗い。電灯の量が日本と比べて圧倒的に少ないのだ。まず蛍光灯がない。夜が暗いのはいいことだ。寝るしかないから。その分、朝早く起きれるよ。たぶん。
( → http://catsberryrecords.at.webry.info/200601/article_5.html )
ベルリンの夜は静かで仄暗い。もちろんディスコなど、街のどこかでは、ばか騒ぎをしているのだろうが、それは例外。東京のように街中、ネオンやお店の照明が煌煌と照り、昼間と違わぬ、あるいはそれ以上の人通りがあるところなど、ベルリン中を探したって見つからない。
以前ウィーンを訪問したときに「夜のウィーン」というジョーク絵はがきがあったのを思い出す。片面を真っ黒く塗りつぶしただけの絵はがきだが、ヨーロッパの都市の夜というのはそういうものなのだ。
( → http://www.bmkberlin.com/Berlin/040516nacht/text.htm )
おまけに、都会の夜のにぎやかさが消えたとなると、経済活動そのものが停滞して、莫大な失業が発生するだろう。その結果は、想像するも恐ろしい。
また、夜が暗いということは、文字が読めないということだから、誰も読書しないことになる。大人は本や新聞を読まなくなるので、新聞社や出版社はどんどん倒産する。子供は夜の自習をしなくなるので、子供の教育水準は大幅に低下する。……人間が猿になるようなものだ。まさしく文明生活の退化。
[ 付記4 ]
現在、われわれが取っている方針は、何か? それは、「現状維持」である。
「原発を現状維持しよう。すでに作った分は廃止しないが、これ以上は増設しない」
なるほど、これは好都合に思える。しかし、その本質は、「見て見ぬフリ」である。
「現状維持」というのは、実際には、「原発を使わない」ということではなくて、「過去に作った原発を利用する」ということだ。そして、「これ以上はもう増設しないから、原発推進をしていることにはならない」という理屈になる。
なるほど、そうすれば、「自分は原発推進派だ」という立場を取らずに済む。しかしながら、そこでは、「自分が過去の原発を使っている」ということを見失っている。実際には原発を使っているくせに、そのことを無視する。つまり、「見て見ぬフリ」だ。
実際には、もっと悪い。次のことを意味するからだ。
「原発を作ったという汚名は、過去の世代に負わせる。その一方で、原発を作ったことの利益は、自分たちが享受する」
これは、「責任は他人で、利益は自分で」という方針だ。泥棒と同じ。悪いことはみんな他人に負わせて、利益だけは他人の利益を奪い取ろう、というわけだ。最も悪質で、最も非倫理的。
なるほど、泥棒をすれば、とても得をする。悪いことは他人のせい。良いことは自分のもの。原発から出る放射能の危険などは他人のせい。原発から出る電力は自分がいただき。
「オレのものはオレのもの 人のものはオレのもの だから地球はオレのもの なんでもかんでもいただき ごきげんだ」( → グッパイジョーの歌 )
現代の方針は、「泥棒」の方針なのである。なるほど、それは、最も有利だろう。
ただし、それで浮かれていると、やがて「原発」の耐用年数が来たときに、大あわてすることになる。なぜなら、耐用年数が来たとき、過去の世代は何も贈ってくれないからだ。自分自身で決断する必要に迫られるからだ。……そのとき、「原発あり・電力あり」と「原発なし・電力なし」の二者択一を迫られる。もはや「泥棒」という方針をとれなくなる。
そのときになってあわてふためいても駄目なのだ。だからこそ、われわれは今、現実に目を向けるべきなのだ。「現在の電力の半分程度は原発に負っている。それなしでは生きられない」という現実に。
( ※ とはいえ、「つらいことからは目を逸らす」という方針が、常に最も人気を得る。だから「現状維持派」がとても多い。)
[ 付記5 ]
なお、原爆について言えば、私は「原爆の悲惨さ」を無視しているわけではない。「原爆の悲惨さ」を日本で最も訴えているのは私だ、と言えるかもしれない。
→ Google 検索「原爆の写真」
※ 2番目に出てくるのが私のページ。
1番目は広島原爆写真館だから、個人ページでは私が1番有名。
※ 原爆を憎む活動を最もなしているのは、私だ。が、原子力は憎まない。
私にとって最も大切なのは、人の命だ。そのために、原子力は役立つ。
タイムスタンプは 下記 ↓