再び環境問題について
1.はじめに
世界の経済の動向に一喜一憂する毎日ですが、経済がグローバル化する中で、今まで化石のように埋もれていたエコロジーが「地球は一つ、かけがえのないものである」の大合唱の中で、脚光を浴びるようになりました。そして、経済までもその影響下に置く一大概念として膨れ上がってきました。
「地球に悪いことをしている企業は、世界の悪者であり、猛省を促しても改善されないならば、地球の自己防衛のために切り捨てても良い」という考えにまで行き着いてしまいました。
エコロジーは、日本企業が考えているほど甘くはありません。先の湾岸戦争でも、「油まみれの海鵜」や「何日間も燃え続ける油田」が毎日のようにテレビで放映されましたが、戦争ですらエコロジーで糾弾される時代に、「地球に優しい企業」「環境保全を考えた企業活動」といった表面だけの薄っぺらなエコロジー宣言で、現実的行動が伴わなければ、ひどいしっぺ返しを受けるのは必須の時代になりました。
いま、「地球のため」という言葉は、誰にも反論が許されません。なぜなら、反対の表明は、そのまま自己否定と同じで、極論すれば、「地球に悪いことをしている者に加担する奴」は「人類の敵と同類」とみなされるからです。
現代のエコロジーはイデオロギーではありません。つまり、イデオロギーは個人や国家の世界観で、自分の信ずるところによって、他のイデオロギーとの論争が可能です。しかし、「地球のため」と言われれば、反論は許されません。まさに、[水戸黄門の葵の御紋]なのです。
こういう「絶対真理」の登場は、かっての魔女狩り的風潮を生み出しています。それが、エコパージであり、エコバッシングと呼ばれるものですね。地球はどっちの方向に向かって進んでいるのでしょうか。最近の捕鯨問題と狂牛病問題に絞って考えてみましょう。
2.捕鯨問題
捕鯨問題には鯨食問題の他に生態系の問題や欧米の異常ともいえるほどの鯨やイルカへの「偏愛」が絡んでいて、複雑な問題点を含んでいます。
1982年に商業捕鯨の一時停止(モラトリアム)が採択されてから20年経った今年、5月20日から24日にかけて、国際捕鯨委員会(IWC)の第54回年次総会が下関で開催され、鯨を巡る様々な問題についての議論が繰り広げられました。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド(アングロサクソン)などを中心とする反捕鯨国の「鯨は1頭たりとも取らせない」という主張は変わらなかったようです。
私がIWCの問題に初めて接したのは1992年に読んだ「鯨の教訓」(日本能率協会マネジメントセンター)からでした。当時はIWCで一体何が起きていたかなど、国内ではあまり知られてなかったように思います。今年のIWCでの話題は、日本その他の伝統的な捕鯨国側が求める捕鯨の再開が、加盟国の四分の三以上の反対で23日の総会決議で何時ものように否決されたことと、先住民狩猟権の否決でした。
ロシアとアメリカは、いままで自国内の先住民が求めている「先住民狩猟権」に基づく捕鯨を認めておきながら、IWCの場で議論する時には「捕鯨は世界中で全面禁止」という身勝手な行動をとってきました。「これは明らかにダブルスタンダードであり、国内で主張していることと、国際社会の外交場面で主張していることが食い違っている」ということは明らかなので、日本代表はここを突いて、何とか日本の捕鯨産業界の悲願である商業捕鯨の再開を国際社会に訴え続けてきましたが、これが21日に否決されたのを契機にして、「地域の生活維持という点では、先住民の捕鯨と沿岸捕鯨は同じものだ」と主張して、アメリカと衝突します。日本は、国内沿岸でミンククジラを年間50頭捕獲させて欲しいと要求してきたのに15年間否決されてきたと怒りをぶちまけます。
アメリカという国は、自分達が外に出て行くときには、他国の商習慣やルールの改変を要求し、アメリカ流を押し付けながら、他国がアメリカにやってくる時はアメリカ流ルールに従えと主張します。これがダブルスタンダードでなくてなんでしょうか。
それはともかく、その結果何が起きたかというと、今まで反捕鯨国にやられっぱなしの商業捕鯨の道を閉ざされた日本やノルウェー、アイスランドなどの捕鯨国が反撃と報復に出たわけです。つまり、ロシアとアメリカの自分勝手な自国の先住民の「狩猟権」だけは認めてもらおうという、全く虫のいい提案を、捕鯨国側も反対に回って今年の総会決議で葬り去ってしまいます。
アメリカが国内のベーリング海沿岸のイヌイット用として温存してきた、一番絶滅の恐れのある「ホッキョククジラの年間51頭の捕獲許可枠」というのが否決されてしまったわけです。当然といえば当然で、日本やノルウェー、アイスランドの捕鯨は禁止しておきながら、自国の先住民の捕鯨は認めるというのは、話の筋が通らないからです。これで、問題が国内に跳ね返って、ロシアとアメリカの国内がてんやわんやの大騒ぎになっているようです。事態が少しずつ動いて面白くなってきました。
ここまでに至る捕鯨禁止の歴史は以下の通りです。先ず発端は、1972年にストックホルムで開かれた「第1回国連人間環境会議」です。この会議でアメリカが「危機に瀕している鯨類のみ10年間の捕獲を禁止する」案を提案して決議されてしまいます。このときのアメリカ代表の演説は以下の通りです。「一頭の鯨を守れずして、地球を人類を守れるのか」と。感動的ではありますが、1972年といえば、アメリカがベトナムで絶望的な戦争を続けていた時期でもあります。多くのベトナム国民とアメリカの若者達の命が、共に虫けらのように奪われていたまさにその時に「鯨を守れ」とはよくもいえたものです。 この時、アメリカは、ベトナム戦争批判、特に枯葉剤散布から世界の目をそらすために「鯨保護」を担ぎ出したともいわれています。この議題を提案したのはニクソン政権の国務長官だったキッシンジャーで、人類の将来のために「環境に強い関心を持つアメリカ」をアピールする作戦だったようです。
彼は鯨漁に縁もゆかりもない多くの国々を会議に呼び寄せてその国民代表達に電話をかけまくって根回しをし、アメリカの提案を通してしまいました。グリーンピースなどの過激な環境保護団体が、石油メジャーからの多額の献金を受けて捕鯨反対の運動を始めたのもこの辺りからです。
それから10年後の1982年の第34回IWCでセイシェル(マダガスカルの北に位置し、人口7万5千人の小さな国です。この国が人口が億単位の国と同じ重さの投票権を持っています)が提案した「商業捕鯨のモラトリアム(つまり禁止)提案」が議論され、決議されます。国際捕鯨委員会のメンバーは名前も知らない国が多く、しかもメンバー国を代表する委員は、その国が指名した人物であれば、その国の人間でなくても良いということになっています。この工作はイギリスとアメリカの謀略ですが、セイシェルの国際捕鯨委員会委員は、なんと「ネオフィリア」や「シークレット・ライフ」のライアル・ワトソンです。イギリス人がセイシェル代表というわけです。このとき既に、15カ国の加盟国は39カ国までに増えていました。
何故アメリカが捕鯨禁止を言い出したのか、それはただ単に自然環境保護や動物絶滅種の救出という美名の課題だけに因るものではありません。本当の理由は「マッコウクジラの脳漿(のうしょう)の確保にあった」といわれています。
マッコウクジラの脳漿は、戦車用の燃料オイルや潤滑油の不凍液として貴重なものとして現在も使われています。この零下60℃になっても凍らない不凍液を人工的に作るには、今でも巨額の費用がかかると言われています。
アメリカ軍は既にこのマッコウクジラの脳漿を大量に確保して貯蔵しています。このアメリカの安全保障に関わる重大問題として、キッシンジャーが早くから捕鯨禁止の外交活動を始めていたというわけです。その目的のために、グリーンピースなどの環境保護団体を上手く利用したというのです。
これから分かるように、欧米諸国にとっての捕鯨業は「鉱工業や鉱山開発の延長」にあるのに対して、日本にとっての捕鯨業は「食糧産業」であるということが良く分かると思います。
実はこの件ではCIAの仕業?とも思える事件が発生しています。オーラフ・パルメというスウェーデンの政治家が1988年二度目の首相選挙に出ようとしていた時に、白昼ストックホルムの路上で暗殺されてしまいました。彼は、当時騒がれていた
○ベトナム戦争でのアメリカ軍の枯葉剤の製造問題
○アメリカの核汚染物質の所在
○鯨から採れる不凍液の問題
を知っていて、これを国際社会に訴えようとした矢先の出来事だったといわれています。鯨にまつわる問題は、このような背景があって複雑です。
さて、日本が商業捕鯨の再開を求めているミンククジラは日本近海で2万5千頭、南氷洋には76万頭が生息しており、捕鯨を何時再開しても問題のない資源量と言われています。この数字はIWCの科学委員会でも認定された数字であるにもかかわらず、反捕鯨国は「いかなる場合でも捕鯨は鯨を絶滅させる危険があり、捕鯨の再開には反対」と主張し続けています。
もともと、IWCは主要捕鯨国15カ国で設立されたもので、「鯨を持続的に利用するために作られた国際機関」でありながら、それが何時の間にか、「反捕鯨派の牙城」になってしまいました。
商業捕鯨の一時停止が採択された時には、「1990年までに新たな捕獲枠を設定する」と定められていました。ところが、反捕鯨国は何時までたっても捕獲枠設定の議論を始めようとせず、それどころか国際捕鯨取り締まり条約で認められている日本の調査捕鯨まで禁止しようとしているのです。
科学的根拠を示して鯨の持続的利用を説く捕鯨派に対して、反捕鯨は「鯨類保護」を盾にして条約違反の決議さえ通そうとしています。IWCでは科学的議論など行われていないと言うのが実情です。
現在、日本側は調査捕鯨によって「鯨は減っていない。絶滅しない」と反論しています。ミンククジラだけでも世界中に約80万頭棲息しており、年間2000頭を獲っても絶滅の心配はない、それどころか、1年間に世界中で鯨が食べる魚の量は、約5億トンであり、これに対し世界中の人間が漁獲する魚の量は年間約9000万トン、すなわち、1億トン以下であり、鯨の1/5であると日本鯨類研究所が発表しています。
マッコウクジラ1頭が1年間に食べる魚の量と日本人が1年間に食べる魚の量とがほぼ等しいといいます。ここでは、人間と鯨が海産資源を奪い合うライバルになっています。
我々の常識では、鯨はオキアミを食べて生きているということになっていましたが、最近、鯨捕食行動で衝撃的な事実が分かってきました。鯨は各海域ごとに様々な魚を捕食しています。
すなわち、ミンククジラは
○5,6月にはカタクチイワシを
○7,8月にはサンマを
○9月にはスケトウダラというように旬の魚を好んで食べています。
日本海沿岸で捕獲したミンク鯨の胃の内容物のうち、実に94%がスケトウダラ、サンマ、スルメイカなどの漁業対象魚種だそうです。エサの不足と見られる鯨の大量死、漁業への影響など鯨の増えすぎによる弊害も報告されるようになってきました。
このようなことが明らかになるにつれて、鯨の保護は、逆に貴重な海洋資源の持続的利用に深刻な影響を与える恐れがあると考える国が増えてきました。最近、日本の主張に同調する国が増え始めています。太平洋諸国、アフリカ諸国、カリブ海諸国などです。捕鯨をやっていない国であっても、海洋国家である限り鯨問題は避けて通れません。それは漁業問題だからです。ここ数年、カリブ海やインド洋の地元の漁師から「鯨がマグロの群れを襲うので漁が出来ない」という報告が相次いでいるそうです。つまり、鯨を放っておくと、漁業資源の枯渇につながらないかを心配しているのです。
「魚もとらない先進国に鯨の資源管理を任せてはおけない」と危機感をもつ途上国がIWCに次々に加盟するようになってきました。
今年下関市で行われたIWCの年次総会には、初参加のモンゴル代表のメッセージが目を引きました。モンゴルが配布した資料には次のように書かれています。
@地球環境は一層悪化し、内陸国も深刻な影響を受けている。
Aこのままでは今世紀は飢餓と難民の世紀になる。
B人類の飢餓を救う切り札として海洋資源の科学的で公正で持続可能な開発をすべきである。
C海こそが共有の未来を切り開く「生きる場」である。
というように、内陸国の立場から、海洋資源の持続的利用の重要性を訴えています。大国のエゴと強弁がまかり通り、正論が通用しないIWCに未来はあるのでしょうか。
3.狂牛病 問題
狂牛病とは、文字通り英語のmad cow disease の訳語です。この言葉通り、牛が狂い死にする病気です。テレビでも放映があったように、口から涎を垂らしながら這いまわっている牛の姿にはぞっとします。この牛を食べた人間が発病し、イギリスでは22人、ヨーロッパ全体で100人前後が確認されています。
牛は本来、草食動物なのに牛や羊の肉粉を飼料として食べさせられていたので、発病したわけです。自分と同種の動物の肉を食べさせられ続ければ、やはりその動物はおかしくなります。一種のカニバリズム(cannibalism)ですから、彼ら欧米人にとっては十分に神の怒りに触れる所業だったわけです。これを人間が食べて発病したわけですから、これは天罰です。草食動物を肉食性に変えて太らせるという考え事態が決定的に間違いなのです。
最近「エントロピーの法則」でも有名なアメリカの文明評論家ジェレミー・リフキンの「脱牛肉文明への挑戦」が話題になっています。 これによれば、
○西洋文明とは牛に支えられた文明である。
○古代には人間は雄牛を男神、雌牛を女神として崇拝していた。
○牛は生殖力、多産、豊ぎょうを象徴していた。
○したがって、牛は富の象徴であった。
など、人間は古代から牛を神格化し、あるときは生贄として神に捧げ、あるいは食糧、衣料、天幕の材料として、また荷役力、糞は燃料に利用されて、農耕には不可欠で鋤を引かせ、乳をしぼってきました。このような西洋から発した蓄牛文明が世界に広まり、知らぬ間に、我々の生活や健康に影響を与えるようになってきたわけです。
世界の穀物生産が食糧目的から飼料目的へと転換され、牛と人との穀物の奪い合いが始まったのです。やがて、牛が人を食うことに人間は気付きます。牛が人が食べる穀物を食い尽くしているからです。人間の都合で飽食に馴らされた牛が狂牛病になり、これを食べた人間が不治の病のヤコブ病という狂人病で死んでいきます。
リフキンは結論として、もし我々が地球の健康を取り戻し、増加する人口の食糧需要を満たすことを望むならば、今後何十年もの間に、全世界の蓄牛複合社会を解体し、人間の食事から牛肉を減らしていく必要があると全人類に強く訴えかけています。
現在、アメリカは世界最大の牛肉生産国であり、消費国でもあります。毎日10万頭の牛が解体加工されています。彼らはビフテキが大好きで1年間に一人で約30kgの牛肉を消費して、一生のうち体重500kgの牛の7頭分の肉を食べているそうです。オーストラリア人がこれに続き、西ヨーロッパ人はアメリカの半分、日本人はアメリカの10%に留まっているそうです。
しかし、今後ますます多くの日本人が牛肉を消費することが考えられます。アジアでも、日本に続き韓国と台湾が牛肉消費国に加わってきました。
先進国では、動物性食品の消費量がGNP(国民総生産)の伸びと共に劇的に増加しています。牛肉消費量は国力と富の象徴とまで言われています。不謹慎な話ですが、肉食飽食のアメリカ人が一人死んでくれるとインド人が50人生き延びられるとさえ言われています。つまり、贅沢なアメリカ人一人を支えるためのに50人のインド人が犠牲になっているという訳です。
さて、100人を養うことが出来る穀物を牛の飼料として牛肉にしてから食べると、10人以下の人しか養うことが出来ません。しかし多くの人が、これを美味で贅沢な文明食と称して憧れています。空間的にも畑と牧場では一人の人間を養うに必要な面積でも10倍以上の差があります。土地利用の集約性でも田畑は牧場より遥かに勝っているわけです。
肉食中心の白人は狭いヨーロッパを牧場にするには限界があるので、近世、世界に獲得した広大な新大陸を次々と牧場化し、飼料穀物を育て、牛の生産を高めて、安い牛肉を母国に輸出し、また海外にも売り捌くことが出来たわけです。
オーストラリアでは牛の数は人口の1.4倍、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイの牛の数は人口と同じだといわれています。牛の増加傾向は世界の飽食文化を急速に高めています。
アメリカではヨーロッパ人の移住によって、野牛のバッファローは絶滅し、森林の9割が伐採され、牧場や畑に変えられてしまいました。
世界の人々の所得が向上し、それに伴って牛肉消費量が高まっています。各国の畜産業界は、生産を合理化するために牛に各種の人工操作を加えることになりました。元来草を食べるべき牛に、濃厚な穀物を与えて太らせて、さらにホルモン剤などの薬を投与して無理やり成長を早めたり、贅沢な霜降り肉に育て上げています。
さらに、捨てるのは勿体無いと廃棄すべき牛の臓物や骨粉を牛に与えています。つまりやってはならない共食いをさせているわけです。栄養価の低い草を食べて反芻する動物の牛に栄養価の高い穀物や蛋白を食べさせ、牛を肥満の成人病にさせて商品化しているというわけです。
既に、人間社会には飽食による成人病が蔓延し、狂牛病からヤコブ病が発生するようになりました。日本には肉食の文化はなかったわけですが、飛鳥時代に大陸から肉食が伝わりましたが、天武天皇の時に詔勅を出して戒めたという歴史があります。その後桓武天皇まで10回ほどの肉食禁止の詔勅が出されたそうですが、明治になってキリスト教と一緒に肉食が本格的に入ってきて、すきやきなどの開化鍋が親しまれるようになりました。
今では、肉の多食による心臓病、脳卒中、癌といった飽食型の成人病が蔓延しています。最近東京のハンバーガーの売れ行きはニューヨークのそれを越えたともいわれています。
2002年の6月初めにイスラエルでも初の狂牛病が発見されました。1985年に英国で見つかったこの奇病は瞬く間に広がりました。汚染された肉骨粉飼料が原因でした。しかし、英国は狂牛病が人に感染しないという根拠の薄い楽観論にすがっていました。その結果、肉骨粉は英国内の使用が禁止されただけで欧州各国へ輸出され続けました。余剰の肉骨分はさらに販路を広げ、アジア諸国やイスラエルにも輸出されています。1996年になって英国は判断の誤りを認め、狂牛病が人にも感染する可能性を発表しました。
いまでは、日本を含め、すでに狂牛病は世界のかなりの地域に拡大し、狂牛病の人版である新型ヤコブ病の発生も英、仏などに広がりを見せています。
このときの日本の対応振りは以下の通りでした。英国での狂牛病の大発生を見ながら、日本は検査態勢さえ整えていませんでした。このとき、EU(欧州連合)が2000年秋から2001年春にかけて行った、狂牛病発生に対する各国のリスク評価に対して日本の農林水産省が猛然と反発し、報告から日本を省かせました。農林水産省は2000年11月、2001年1月と4月の3回にわたってEUに抗議しています。
EU側は日本が1988年に英国から19頭の生きた牛を輸入し、18頭が肉骨粉に加工されたと見られていること、1990年には英国から132トン、1998年以降にもイタリアとデンマークから肉骨粉を輸入したことなどを根拠に、日本の狂牛病発生の危険度を「カテゴリー3」としました。これは、4段階に分かれた評価の中で2番目に危険な国の位置付けです。最も危険な「カテゴリー4」は英国とポルトガルでした。次が日本などの17カ国でしたが、農林水産省がEUに計6通の抗議の書簡を農相名や審議官名で送り続けたため、EU側は、リスク評価を拒否するそんな日本を「最も危険な国」として「カテゴリー5」に分類しました。4段階評価の4ではなくて5とされたわけです。そしてこの事件の3ヵ月後に日本でも千葉県白井市で狂牛病が確認されました。
日本政府は、これまで危険情報に接しても、常に背を向けてきました。自分達の責任とされるのを恐れるあまり、常に問題を過小評価してきました。情報を軽んじ、無視してきた行政の過ちが、日本に狂牛病の侵入を許したといっても過言ではないでしょう。
以来、農水省の「肉骨粉全面法規制」、厚生省の「月齢30ヶ月以上の牛の全国一斉検査」と役人のパニックぶりは事態を悪化させるばかりでした。いま、酪農家や食肉業者、スーパーやレストランの担当者や経営者は、だだでさえ不景気な上にこの騒ぎで、廃業する者も出ています。欧州での狂牛病パニックを対岸の火事としてきた政府の責任は非常に重いものを感じます。
日本の対応のまずさをズバリ指摘したのは英国の科学誌「ネイチャー」(9月27日)の論説でした。欧州側が危険度を評価しようとしたのに日本側は「科学的根拠がない」と断った経緯や、日本の水俣病、薬害エイズを例にあげて、政府の政策的怠慢によって病気の発生を防げなかったと指摘し、行政不信が国民の不安に拍車をかけたとしています。このように、日本の政治家や官僚の無能さは「ネイチャー」が取り上げるほど「日本の恥」として全世界に知れ渡っています。
一方、アメリカでは日本とは対照的に、逆に自ら求めてリスク評価をさせています。1998年、アメリカ農務省は、ハーバード大学のリスク分析センターに、狂牛病阻止を目的にアメリカ政府の講じている措置は、実際に、アメリカ国内で発生した場合、どの程度有効であるか」について評価を行うように要請しています。
現在、畜産大国アメリカでは狂牛病の発生はゼロです。1億を超える牛が飼育され、肉骨分製造がなされ、狂牛病の原因とされる羊のスクレイピー病があるにもかかわらず、米国政府は「米国のビーフは安全である」と自らの管理体制に胸を張っています。
それでも、「隠されている狂牛病」(道出版)という本には、こんなことが書かれています。米国では毛皮生産のために大規模なミンク飼育場があります。そのミンクに古くから繰り返し起こる奇病があり、その症状は狂牛病やスクレイピー病と酷似しています。調べていくうちに感染源は周辺の農場で病死した牛が餌として与えられていたことを突き止めます。R.マーシュという学者の研究結果で、彼は警告を発しますが返ってきたのは称賛ではなく激しい非難だったそうです。今後のアメリカの畜産業界の動きが注目されます。
日本政府の対応は、アメリカのそれとは対極にありました。
○情報から意味を汲み取ることの出来ない組織は、危機管理など出来るわけがありません。
○情報に誠実に対応できない組織は、対応策もいい加減で、誠実さが欠けます。
などを考えれば、日本での狂牛病問題の解決など望むべくもありません。
4.おわりに
以上見てきたように、一言でいえば、鯨と人間は漁業資源の奪い合いをやり、牛と人間は穀物の奪い合いをやっています。
反捕鯨論者は「鯨の代わりに牛肉を食えばいいじゃないか」と言います。しかし、その牛肉は
○欧米人は昔から牛肉を主食とし、ミルクやバター、チーズと酪農品を食生活の中心に置く体制です。日本もこれに近い生活様式に近く、狂牛病は暮らしの根幹を脅かす大問題である。
○牛は多くの穀物飼料を消費して(まさに)生産されている。牛の胃袋に入る飼料のために、林は伐採され、畑に変わっていく。これは環境保護の面から地球にとって由々しきことである。
○反捕鯨国はいずれも大規模な牧畜産業を抱えています。ミンク鯨1頭で牛の15倍の食肉を生産することが出来ます。商業捕鯨が再開されると牛肉輸出産業がダメージを受けることになり、欧米諸国は国内産業を守るためにも反捕鯨を主張しているわけです。
○海洋中で鯨を捕食する生物はいません。海の生態系の最上位の属する鯨のみを人類が保護し、他の魚種を人類と鯨が捕獲し合う結果、人類は海の生態バランスの破壊を急速に進行させています。
さて、牛はもはや天然の資源ではありません。人が他の資源、エネルギーをかけて人工的に作っている資源です。生産調整される生産財であり、人間の管理が上手くいく限り絶滅はしないでしょうが、管理次第では狂牛病の例を挙げるまでもなく、絶滅も十分考えられます。
バッファローを絶滅させて、つまり光合成による草を食み、自然の恵みとして存在していた動物を絶滅させて、生産財として牛の生産を始めましたが、それは「金によって売り買いされる資源」でした。
反捕鯨国の論理の中に、鯨を捕ってそれで商売するのはけしからんというのがあります。いわゆる商業捕鯨の禁止です。ところが、牛はどうでしょう。商業蓄牛ですね。
○「牛を食え」というのは勝手ですが、それは食料資源としての牛を自給できる国の論法です。我々は、食糧自給できないから、飢えたり貧困に陥ったりしているのです。先進国が牛を食べないで、牛の資料となる穀物を他にまわすだけで、何人の人間が飢えから救われるでしょうか。
○外貨獲得のために、自らの食糧自給率を下げてまで、牛の飼料を生産する国や熱帯の伐採を行わないと、たちまち疲弊してしまう経済を抱えた国があります。そうした国にすぐに効く処方箋を用意できない限り、欧米諸国の「牛を食え」という大合唱はうつろに響きます。
○一方、「鯨肉は必要ない」という環境保護団体の主張は、鯨保護という観点からのみのものであって、全体の生態系を見ていません。偏った資源利用は必ずバランスを崩し、結局は人間にも跳ね返ってきます。
本当に環境保護を訴えるのであれば、バランスのある資源利用と保護の両立を考えるべきなのです。
私は10年余り、ずっとIWCの反捕鯨運動を注意してフォローしてきましたが、「人種偏見もここまでくればひどいなあ」(このことについてはまた項を改めて述べてみます)と思われる雰囲気の中で、日本代表の会議での「理路整然とした主張」とその「タフさ」に溜飲の下がる思いです。かって、チャーチルが「日本人は不思議な国民である。交渉というものを知らないらしい」といわれてから何年がたったでしょう。今の日本代表は、冷静に、理路整然と交渉にあたっており、これが他の国の支持を次第に受けつつあり、捕鯨問題も少しずつですが進展の方向に進み始めました。この辺の事情は一般国民にもほとんど知られてないし、マスコミが報道しないのも不思議でなりません。「日本も交渉では随分タフになったよ」と報道して欲しいと願っています。マスコミは、国の足を引っ張ってばかりいないで、もっと国民に勇気を与える報道を増やすべきです。
欧米の「環境保護団体は環境保護を謳っていながら、生態系全体を捉えた上での議論など全くされていないのを感じます。捕鯨問題や狂牛病問題、また地球温暖化を防止するための二酸化炭素の排出規制を話し合ってきた国際的な協議の成果であった京都議定書を拒否したアメリカの態度など、最近の欧米の身勝手な動きを見ていると、かって白人達は日露戦争後の日本の台頭を恐れて「黄禍論」を盛んに叫んできましたが、実はいま文明の中心であると自負してきた白人達こそが、人類を滅亡に追いやる「白禍論」として糾弾しなければならない時代になったのではないかと最近思うようになりました。
いい例が、医学です。西洋医学は「体の中の悪いところだけを見て、それを取り除きさえすれば体はよくなる」という考え方をします。つまり視野が狭いのです。ところが、東洋医学は、「体全体を見て、良いところをより活性化させ、生命力を高めて人間本来の治癒能力に期待をかける」という視野の広い立場をとります。実は、これが我々がしっかり認識しなければならない「環境保護の原点」ではないでしょうか。
エコロジーという言葉は確かに欧米のものですが、西洋的で過激なエコロジーというのは「地球の中の悪い部分だけを取り除いてしまえばいい」とエスカレートしてしまったのではないでしょうか。欧米のグローバリズムに立った環境保護運動の問題点は、民族固有の文化や風習を無視して、一方的に欧米の価値観を押し付けるところにあります。欧米のエコロジーは視野が狭すぎるのではないのでしょうか。
2002年8月10日