● かなり遅れましたが年明け最初の更新です。今年もどうぞよろしく。
● アルテミジア・ジェンティレスキの絵をふと見て新年からちょい鬱になる。「ホロフェルネスの首を斬るユディト」と題された聖書のエピソードを題材にした絵が有名だが(画像参照)、二人の女が大の男を抑えつけてまさに首を斬り落とさんとしている。
「どんなに暴れても命乞いしても絶対ブッコロス」という絶対的な意志がユディト(画像右)の表情ににじみ出ていて、初めて見た時ゾッとしたものだ。
「旧約聖書・ユディト紀」に記されているエピソードはこんな感じ。
エルサレム近郊のベツリアに住む美しい未亡人ユディトは、攻め入ってきたアッシリア軍の将軍ホロフェルネスのもとへ、寝返ったふりをして侵入します。
彼女をすっかり信用したホロフェルネスが、ユディトのために用意した宴会の食事をすべて平らげて眠り込んでしまうと、ユディトは剣をとり、神に加護を願いながらホロフェルネスの首めがけて思いきり振り下ろします。
二振りしたときに、苦痛にゆがんだ表情のまま、首がごろりと床に落ちます。この劇的な「外典ユディト書」に記された物語は、あまりにも多くの画家によって描かれてきました。
というわけで、聖書中ではユディトは、敵国の大将を色仕掛けでたぶらかしつつ首級を取ってきた救国の女英雄なのである。
同じ題材を扱ったものとしてはカラヴァッジョの同名絵画もあるけど、比べてみると、ジェンティレスキの描くユディトの方が何倍も恐い。カラヴァッジョのユディトは若く美しく、嫌々ながらおっかなびっくりホロフェルネスの首を斬っているようで、どうも腰が退けている。力がまるで入っていない。こんなんじゃ大の男は殺せねーよと突っ込みたくなる。
ひるがえってジェンティレスキのユディトはと言うと、あらゆる修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の中年女性が、憎い男を躊躇なく殺そうとしているように見える。
あの表情は嫌悪感に近いかもしれない。人間の人間に対する憎悪というよりは、早いところ嫌なモノを始末してしまいたい、という冷酷さであるように思う。剣を持った腕にも腰にもしっかりと力が入っていて、顎を引いて奥歯を食いしばっているのがわかる。
これじゃホロフェルネスは絶対逃げられない。もう死ぬしかない。恐い。
殺される側のホロフェルネスの表情はカラヴァッジョの筆の方が秀逸だが、ユディトの表情としては、ジェンティレスキの方が真に迫っていると思う。あまり「救国の女英雄」という高潔な感じはしなくて、どちらかというとユディトの方が犯罪者っぽいところが玉に瑕なんだけど。
(なぜか毒物カレー事件の林麻須美を思い出した)
アルテミジア・ジェンティレスキは17世紀には珍しいイタリアの女性画家である。父親のオラツィオ・ジェンティレスキも画家であり、父によって絵画の手ほどきを受けたらしい。(*1)
女性的な絵画も描いているが、彼女は暗く、激しい、場面を描くことで知られている。フェミニスト(男女同権主義者)の批評家によると、彼女の絵画の暴力的な描写は、彼女自身が受けた暴力から来るのではないか、と言われている。
19歳の時に、Altemisia は個人教師から何度もレイプされて、それを訴えている。しかし、その訴えは、レイプをしたほうよりも、された彼女自身を傷つけた。
彼女の訴えを確かめるために、彼女自身が実際に、親指締め具で拷問を受けているのである。そのあげく、訴えられた男は、無罪放免となっているのである。
というわけで、彼女のそういう悲惨な経験が「ホロフェルネスの首を斬るユディト」の絵に投影されているという話。これだけの才能がありながら、女性であるという理由で当時のアカデミズムからも長らく無視されていたらしい。色々と男性、ひいては男性社会に対して鬱屈を抱えていた女性のようだ。
わたしは山岸凉子の漫画に描かれる女ほど恐ろしい女は見たことがない、とつくづく思っているのだけど、女の怖ろしさを克明に描けるのはやっぱり女だ、という感慨をこの絵を見るたびに抱く。
ジェンティレスキはカラヴァッジョの影響を受けたと言われているが、「ホロフェルネスの首を斬るユディト」については、たぶんカラヴァッジョの絵が気に入らなかったんだろうなあ。人一人を殺しているというのに、ユディトがあまりにもおきれいすぎるからな。
「そんなんじゃ男は死なねーよ!こうして、こうやって、こうするんだよっ!!」というジェンティレスキの魂の叫びが聞こえてきそうで、つい「わ、わかりました。殺す時は参考にします」(誰をだよ)と答えてしまいそうになる。
まあ、後世に残る作品を何枚も描き上げたってことは、それだけ彼女の苦しみも創作活動によって昇華されている証拠だと思うんだけどね。つーか、そう思いたい。
男性のみなさんはこの絵を見て、寝首をかかれないようにくれぐれもご用心を。(寝込みを襲われたらどうしようもないか。)
おお、ユディトは少し前に興味があって調べたことがあります。
今度この本を読もうかと思っているのですが。
http://mohican.g.hatena.ne.jp/shuji/20060106
「首を切られる」といえば武士もそれを嫌がりますが、
なにか象徴的な意味があるのかも知れません。
こんにちは。早く更新されないかなーと心待ちにしていた読者のひとりです。
たしかに女の恐ろしさとか厭らしさとかをリアルに描けるのは女ですね。男は、女自身も気づかない女の可愛さ・コケットリーみたいなのを描くのが上手いかもしれません(勘違いヤローもたくさんいますが)。
山岸凉子の作品は(バレエもの以外)好きで、かなり読んでいるほうだと思いますが、女の業、ひいては人の愛憎の業を感じさせる作品が多く、ちょっと古くなりますが、ギリシア・ローマ神話、古事記などから上手く題材を見つけていた80年代の作品群が、絵の線、コマ割り、ストーリー、どれをとっても神がかっていたような気がします。特に怖さという点では、「鬼来迎」「夜叉御前」なんか、よくここまでと感心してしまうくらいです。心霊モノも実は好きだったりもするんですが、やはりサイコホラーのほうが本領発揮という感じがしますね。
あ。ちょっと本文と話が微妙にずれました。んー、そうですね、私としてはこのユディト、力強さはそのままに、もう少し美人にしてもいいかなと思いましたね、なんといっても色仕掛けなんだし、美人の引き歪んだ顔ほど恐ろしいものはないんじゃないかと・・・特に男性にとっては。
●Shujiさん
ご紹介の本について調べてみたらこんな記事が。以下引用。
>ジュリア・クリステヴァ著『斬首の光景』(星埜守之・塚本昌則訳)
>彼女によると、夥(おびただ)しい斬首の光景が繰り返し描き出されるのは、つぎのような理由からだという。
>すなわち話す存在となり表象能力を獲得するために母から分離した子供は、その喪失感から
>抑鬱(よくうつ)状態に陥るが、斬首のイメージがそこからの再生を助けるのである。
>斬首の光景は「去勢」の象徴的代用物にとどまらず、母の胎内からこの世に生まれ落ちた人間が、
>かならず通らねばならない根源的な喪失の過程、死と女性的なものへの恐怖を表すとともに、
>その不安にたいする崇高な防御ともなっているからである。見方を変えれば、表象する
>動物としての人間が思考する心の奥底を視覚化したヴィジョンが、首の光景だというのである。
意味わかんねー(笑) 「斬首=去勢」ってあたりの解釈がまたフロイトかよ!って感じですけど、それって男性にしか当て嵌まらないような気が。男の首を捧げ持つサロメやユディトなんかは確かに画家(男性画家)の格好の題材になってきましたけどね。
女から見ると、ヨハネの首にほおずりするサロメの絵などは、狂気の域に達した所有欲を表してる気がしますけど。阿部定とか・・・ってあああやっぱり斬首=去勢なのか・・・。
●まりねこさん
こんにちは。いつもブログの方で取り上げていただいてありがとうございます。まりねこさんのブログも楽しく拝見しております。
>たしかに女の恐ろしさとか厭らしさとかをリアルに描けるのは女ですね。男は、女自身も気づかない
>女の可愛さ・コケットリーみたいなのを描くのが上手いかもしれません(勘違いヤローもたくさんいますが)。
「古今東西、女の神秘に迫れた男は『モナリザ』を描いたダヴィンチだけであり、女の神秘を解明した男に至っては、一人もいない」(だったかな)なんだそうです。
神秘の「し」の字もない女の端くれとしては「知らねーよ」ってなもんですが、モナリザの微笑は確かに恐ろしく深い表情ですね。ダヴィンチは、男性としては女性心理にかなり精通していた人じゃないかと思います。
ラファエロの絵なんかそれに比べると「女性はみんなママだもん。聖母なんだもん」って感じで、あ〜本当に女の人に可愛がられて育ったんだなあオメーは、と思わず微笑ましくなるほど、女性の表情が優しく母性的ですが、ただそれだけという気もする。ラファエロにはモナリザみたいな恐ろしい女の貌は絶対描けないと思う。実際、描かなかったんですけど。
>「鬼来迎」「夜叉御前」なんか、よくここまでと感心してしまうくらいです。
>心霊モノも実は好きだったりもするんですが、やはりサイコホラーのほうが本領発揮という感じがしますね。
まりねこさんとは漫画の趣味なんかもかぶってるかも〜と勝手にシンパシーを感じていました(笑) 同感同感。
「鬼来迎」「夜叉御前」「狐女」「スピンクス」「天人唐草」のあたりのプロットは、無駄なモノを極限までそぎ落として練り上げた傑作ですね。絵的にもこの頃が一番脂が乗ってる。(現在連載中の「テレプシコーラ」は最盛期のようには描けないみたいで残念・・・)
「夜叉御前」なんかは、鬼をテーマにした小説・漫画混合のアンソロジーに収録されていて、編者の夢枕貘が「これを見た小説家よ、たまげなさい。漫画はここまで恐怖を表現することが可能なのである」なんて得意げに解説してました。本当に、山岸凉子のどんでん返しというか「世界観の転倒」にはギョッとさせられます。
わたしもサイコホラーの方が好きだなあ。幽霊より人間心理の方が恐怖ですよ。
>美人の引き歪んだ顔ほど恐ろしいものはないんじゃないかと・・・特に男性にとっては。
そのためには使用前・使用後の絵を描かなくてはならないのでは?(笑) 恐ろしいのはその急激な変容であったり、顔は菩薩・心は夜叉というギャップではないかと思うわけで。そのギャップを極限まで二次元で表現したのがモナリザかもしんない。
あ、そういえば、我が国の能面「泥眼」とか「般若」なんてコワイコワイヒーですね。あれも男性の面打ち師が古来より丹誠込めて作りあげた「嫉妬に狂って鬼にまでなった女」の究極の表現です。昔の日本男性は結構女性心理に精通していたのかもなあ。歌舞伎には女形も存在したし。
>「古今東西、女の神秘に迫れた男は『モナリザ』を描いたダヴィンチだけであり、女の神秘を解明した男に至っては、一人もいない」
これはまた誉め殺し的な大仰さ(笑
だいたい「女の神秘」って・・・まあ勝手に妄想炸裂してもらってもいいんですが、女も生身の人間だって、ちょっと血のめぐりのいい男ならわかりそうなものですけどね。
>モナリザ
先月パリへ行く機会がありまして、ルーブルで見てきました。絵のかかった壁がガラスで保護されていて、約2m以内には近づけないようにロープが張られ、監視員が二人ほどいて、私たちを見張っているんです。なんか情緒もへったくれもなくて残念でした。
確かに凄みのある微笑だと思いますね、私、ポイントは眉かなと思うんですが。ナツさん、絵を描かれるんだから、わかっていただけると
思います。あと、目が沈んだ感じというか、考え深げですね。
>「女性はみんなママだもん。聖母なんだもん」
あはは。そういうのも無邪気で悪くないと思います、個人的には。「知らなくていいの、あなたは何にも知らなくていいのよ」って(笑
>まりねこさんとは漫画の趣味なんかもかぶってるかも〜と勝手にシンパシーを感じていました
いや私も〜♪過去ログを見たら、なんと「日出処の天子」についての文章があるじゃないですか、「おおっ、これは!」と。シャープな視点というか、私が思いつかないような角度から物語を分析されていて、なるほどーと感心してしまいました。私、あれリアルで読んでたんですよ。まだ十代の頃ですね、すごい「救いがない話」だと思いました。王子に肩入れして読んでましたから。今では「もうちょっとうまいやり方、発想の転換もあったろうになぁ」という気もしますが、当時のあのやるせなさというかせつなさは、「少女漫画でこんなのアリ?」って衝撃でしたねぇ。同時期の「風と木の詩」もラストめちゃくちゃせつないし。最近あまり漫画読まないんですが、ああいう濃ゆい話ってありますか?
萩尾望都も結局「トーマの心臓」が好きで、「残酷な神が支配する」は、さんざんひっぱってやっぱここにもってくんの?みたいな感じでしたし。
そうそう「天人唐草」は、私には暗すぎたというか、読んだ当時まだ若かったので、ヒロインの悲劇を直視するのが辛かった覚えがあります。ここまでイジメなくてもって・・・
関係ないけど、今話題の(?)「非モテ」の人には「黒のヘレネー」なんかお勧めかも(笑)
>恐ろしいのはその急激な変容であったり、顔は菩薩・心は夜叉というギャップ
ああ、そう言われればそうですね。一枚の絵で表現は難しい。ストーリーが欲しいですね。映画なんかどうかなぁと思うんですけど、日本の美人女優さんは怒っても恨んでも喚いても「まだ汚くなりきれてない」とかねがね思っていて、どこかしら薄っぺらな感じがするんですよ。自分の顔を崩すのが嫌なのかしら、それとも大根?と。海外の女優のほうがそのへん思い切りがいいように見えるんですが、偏見かしら。上のほうで「サロメ」の話が出ていますが、ケン・ラッセル監督の「サロメ」は私の一押しなので、もしまだなら是非。耽美です♪
>>「斬首の光景」
図書館から借りてきました。関係のありそうなところを抜き出してみます。
P.129
アルテミジア・ジェンティレスキが、女性の作品のもつこの側面を見事に明らかにした。つまり女性は強姦する男の男根的力だけではなく、陵辱された女の受動性とも戦っていることを‥‥絵を通してあからさまにしたのである。彼女の作品のなかでもっとも人目を引くのは、彼女自身が受けたと言われている強姦の情景ではなく、その逆にまさしく伝説的なユーディットによる一人の男の斬首の情景を描いた絵である。それに対して、どのような父性も、この不安から男を守ることはできない。それほどまでに子供、とりわけ男の子が、去勢と死刑に対する極度の恐れを繰り返し感じるということは真実なのだ。かくして、フロイトが、強姦された女性は無意識の裡に復讐心をいだき、それによって首狩り女に変わるということを強調したのは間違いではない。ただし、フロイトは語っていないのだが、この原初の谷に危険を冒して踏みこむ男の恐怖と、産みだす母親の力を前にした彼の不安こそが‥‥首という器官さえ犠牲にすることをためらわない、去勢する女の危険なイメージ、まさしく危険であるがゆえに刺激的なイメージを、男の幻想に押しつけるのだ。
「去勢」というのは母親との近親相姦を禁止するための父の罰則であるというのがフロイトの説明だと思いますが、特に日本ではこの拘束力が弱いような気がしますね。それも良し悪しですが。
偶像は物質から作られる。だから、偶像を崇拝することは、「物質=母」の崇拝につながる。ユダヤ・キリスト教は、そうした母なる神の崇拝に対するアンチ・テーゼとして現れた父なる神を崇拝する新しい宗教である。ここでもまた、質料か形相かが問題となっている。この問題は、多神教か一神教かという問題ともかかわってくる。偶像が崇拝対象であるならば、偶像の数だけ神がいることになる。質料は多様だが、形相は一なるものである。だから、一神教は男性原理に、多神教は女性原理に基づいていると言うことができる。
●まりねこさん
リアルモナリザ、ご覧になったんですか。いいなあ。道立近代美術館でルーブル展やエルミタージュ展が開催された時も行ったはずなんですがモナリザは見た覚えがない。そんな厳重警備されている絵なら貸し出し禁止なんでしょうかね。
>「日出処の天子」
これについては萌え話も書こうと思えば書けます(笑)わたしはリアルタイム読者ではなかったのですが最初に読んだ時は10代だったので、ラストの救いのなさに消沈しました。
厩戸王子ってキャラ的・心理的には完全に女性ですよね。でも、女性キャラでここまでプライドが高く、知謀・遠謀に長け、歴史を動かす強烈な意志を持ったキャラって少女マンガではまず出てこない。厩戸がモデルになって生まれた吉田秋生の「吉祥天女」は別として。
わたしはこういうタイプのヒロインに感情移入してしまう口なので、厩戸や叶小夜子が好きなわけですが、なかなか幸せにはなりませんねこういうキャラは。毛人だって従順でおっとりした布都姫を選んだしさー結局。
でも物語としての完成度の高さは今読んでもふるえが来るほどです。少女マンガとしてはハッピーエンドじゃないなんてありえねーよ!でしたが、あのラストで漫画界の歴史に残る傑作になったと思うしな〜。
「風と木の詩」は叔母の蔵書だったので小学生の時に読んでしまった。ブラウス一枚でフリチンでそのへんフラフラする美少年って今考えるとありえない。小学生の目にはベッドシーンも何してるんだかよくわかりませんでしたな。ジルベールがボナールに乗っかられてギャーギャー言ってるのも、何がそんなに痛いのかわからなかったし。(遠い目)
「残酷な神が支配する」は3巻まで買ってそれ以降は読めなくなりました。いつ主人公が救われるんだか先が見えなくてもうダメだとリタイア。児童性虐待系はせめて一巻完結にしてほしい。延々連載で虐待され続けるなんてヘタレなわたしには無理でした。母子家庭で再婚ってシチュが子供の頃に状況がかぶるし。
「トーマの心臓」は心のバイブルですね。オスカー・ライザーはいまだに大好きなキャラの一人。あとやっぱ「マージナル」「銀の三角」などのSFが最高です。
萩尾ファンなのに、そういうわけで「残酷な神〜」だけ未読なのが悔しいです。でも読めないよー。
あ、「バルバラ異界」の最終巻を買ってないや・・・。
最近の少女漫画には濃ゆいのってなかなかないんですよね。わたしも探してるんですけど。前のコメントでも書いたけど、ボーイズラブ系の漫画にはたまに「おっ」と思うような人が出て来ます。最近では円陣闇丸著「王子の方舟」が、サラッとSFで面白かったです。絵もうまいし。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4835214900/noraneko05-22/ref=nosim/
ケン・ラッセルの「サロメ」は観てませんが、機会があったら探してみます。
●Shujiさん
>つまり女性は強姦する男の男根的力だけではなく、陵辱された女の受動性とも戦っていることを‥‥絵を通してあからさまにしたのである。
>彼女の作品のなかでもっとも人目を引くのは、彼女自身が受けたと言われている強姦の情景ではなく、
>その逆にまさしく伝説的なユーディットによる一人の男の斬首の情景を描いた絵である。
>フロイトが、強姦された女性は無意識の裡に復讐心をいだき、それによって首狩り女に変わるということを強調したのは間違いではない。
難解だなー・・・翻訳が悪いのか原文が悪いのかわからないけど。えーと、陵辱「された」という受動性自体が女を傷つける、被害者でありながら被害者として世界に存在することそのものが苦痛であり、その心理的状況と闘わねば自意識は取り戻せない、そのためにジェレンティレスキは絵の中で男の首を斬り落として加害者となることで心理的復活を遂げたってことですかね?
後半部分はほとんど何書いてるかわかりませんでした(笑)
>ユダヤ・キリスト教は、そうした母なる神の崇拝に対するアンチ・テーゼとして現れた父なる神を崇拝する新しい宗教である。
キリスト教は大地母神を崇める土着的原始宗教を一掃するために現れた、って話は、わたしも以前の記事で書いてます。このへん。
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2003/0627220157.php
>つまり女性は強姦する男の男根的力だけではなく、陵辱された女の受動性とも戦っている
受け身のまま、プレッシャーを撥ね退けるだけではなく、受け身であった自分自身とも戦っているという感じでしょうか。
しかしその受け身である自分というのも、やはり自分であるわけですからむしろその価値を認めてやることが肝心なのではないかと。
>キリスト教は大地母神を崇める土着的原始宗教を一掃するために現れた、
すごい。おもしろい記事ですね。たぶん否定するだけでは、それから自由にはなれないんだと思います。
・・ただもう「相手の身になって考える」というのが一番いい方法のような気がしますね。理解してしまえば怖いものはないんだし。
・・ああ、でも。
自ら批判しておきますけど、理解もいきすぎると束縛になってしまいそうですね。それと、もしも受け身であることを追求するなら自分の存在も消えてしまうと思います。
まあその時点で加害者である主体が回復されれば、害を及ぼそうとする対象も消えてしまっているのですが。
●Shujiさん
すみません。「理解」って誰が何を理解するのかわかりませんー。
わたしの頭はかなり単純に出来ているので難解な話は受けつけませんのです。わかりやすくお願いします。
ああしまったボーッとしてるうちに日にちたってるやん!今週は更新する。とここで宣言。
ニュースサイトやブログを見ていてツッコミ入れたいな〜と思った記事を見つけても、頭の中でツッコミを入れるだけで書かないから旬が過ぎてしまいます。
あんがい、主語とか目的語とか明確でない文章ってよく見かけます。うちの奥様によく怒られます。「あんたの文章はなにがいいたいのかさっぱりわからない」
ごめん。俺にもよくわかってないんだ実は。
しかし俺は絵画とかまったくわからない人なんですが、聖書に題材をとった糞リアルな絵画って、なんか目をそむけたくなるような気分がします。描かれているものが、たとえ神々しくても、酷たらしくても、ひとしく写真よりも生々しい感じがして、なんかダメです。
>日出処の天子
読んだのいつだろう。二十代前半だと思いますが、読みながら常々思っていたのは「うっわー、毛人になって厩戸に支配されてなんにもわからなくなりてー」とかでした。いま読んだらだいぶ感想が変わりそう(変わらないと困る)。とにかく、あれほど繰り返し読みに耐えるマンガもそうはないです。
>つまり女性は強姦する男の男根的力だけではなく、陵辱された女の受動性とも戦っていることを‥‥絵を通してあからさまにしたのである。
ううーんと、多分。
女はセックスにおいて、受身にならざるを得ない、これは肉体の構造上仕方がないことなんだけれど、それが互いに望んでの行為ではなく強姦と言う一方的な形で行われてしまった場合、「女→受身」であることを受け入れる事は非常に困難だと思うのです。
受身→一方的に男にレイプされる女と言う存在の自分を、男を断首する位置に置く事によって、それを乗り越えようとしたのでしょうか?
>キリスト教は大地母神を崇める土着的原始宗教を一掃するために現れた、
私、問題児だったので教師だった叔母に親がそそのかされた結果、キリスト教学校にぶちこまれました(笑)。
そこで聖書に触れて感じたのは随分男尊女卑だな、ってことです。不思議だったのは、結構フェミっぽうことを言う女性教師にクリスチャンが多い事でして。
あの矛盾はどう整合させるんだろ? 今でも解りません。
>日出処の天子
これは、ほんますごいよね。
すごいのは、あれだけ独創的な聖徳太子像を作って、各々の人物の愛憎劇(や、場合によっては愛欲劇)を描きながら、彼らの感情と事象が実際の歴史的事実が矛盾なくシンクロすること。
構成力といえば構成力なんでしょうが、あれだけのものを描ける作家ってそうそういないだろうなあ。
>すみません。「理解」って誰が何を理解するのかわかりませんー。
ええっと・・・。包括するような理解のことかな? 書いてるときにイメージしたのは。ずっと遠くからの理解っていうのもありますね。また抽象的ですが。
>あんがい、主語とか目的語とか明確でない文章ってよく見かけます。
自己が自己において絶対の他を見ると考える時、我々の自己は死することによって生きるという意味を有し、他の人格を認めることによって自己が自己になる。私の根底に汝があり、汝の根底に私があるということができる。
自己の底に絶対の他を認めることによって、内から無媒介的に他に移り行くということは、単に無差別に自他合一するという意味ではない。かえって絶対の他を媒介にして汝と私が結合することでなければならない。
私は他に於いて私自身を失う、之と共に汝も亦この他に於いて汝自身を失わなければならない。私はこの他に於いて汝の呼声を、汝はこの他に於いて私の呼声を聞くことができる。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html
この記事のことが思い浮かびました。
>受身→一方的に男にレイプされる女と言う存在の自分を、男を断首する位置に置く事によって、それを乗り越えようとしたのでしょうか?
ジェレンティレスキの体験と、この絵が足して0になるような状況を考えているのですが・・・。それがうまくいけば、絵を描くことによって心の治癒になったと思います。
●MK2さん
>聖書に題材をとった糞リアルな絵画って、なんか目をそむけたくなるような気分がします。
わかります。ルネサンス期は別として、中世ってキリスト教的宗教画以外は認めないみたいな風潮だったので、自由な題材では中々描けなかったんですよね。で、その窮屈な時代でも萌え絵やグロ絵を描きたいという人はいっぱいいるわけです。人間の本性なんて昔から変わんないから。その抑圧されたリビドーが「半裸でうっとりした顔のキリストの磔刑画」とか「ヨハネの首を抱えて恍惚とする美少女サロメ」なんかに注ぎ込まれるんですね。←超主観的解釈
宗教や道徳の縛りが厳しい時代の絵もそうやって見ていくと面白いです。
その点日本の浮世絵なんか、春画だの枕絵だの好き勝手に描きまくってて、抑えきれずほとばしるリビドーが感じられないなあ。その意味ではつまんない。
>読みながら常々思っていたのは「うっわー、毛人になって厩戸に支配されてなんにもわからなくなりてー」とかでした。
そ、そんなすげー感想は初めて聞きました。「布都姫萌え〜♪」とか「刀自古たん萌え妹萌えハァハァ」とかはよく聞きましたけど。(男性読者の感想としては)
さすがはえむけーつーさん、どこに出しても恥ずかしくない立派なMですね!!
毛人 「王子。人とはもともと…一人なのです」
厩戸 「そなたは一人ではないではないか。そなたは布都姫と二人!」
毛人 「いいえ。私も布都姫もそれぞれ一人です。
王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み、相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを指しているのです。
元は同じではないかと言い張るあなたさまは、わたしを愛しているといいながら、その実それは……あなた自身を愛しているのです。
その思いから抜け出さぬかぎり、人は孤独から逃れられぬのです」
10代でこのくだりを読んだ時は「毛人ひで〜。そこまで言うかお前」と憤慨しましたよ。山岸凉子という人はナルシシズムとか依存傾向には非常に厳しい目線を持った漫画家だから、思春期少女にとってはグーで殴られるようなセリフが満載。
王子は母親の愛に飢えた見捨てられた子供で、その意志の強さも支配欲も「自分を絶対に裏切らない相手」を求めるあまりの不安の裏返し。
そこに思わず人を感情移入させておいて、「でも、大人になってもこのままの奴って、誰にも愛されないから。(断言)サクッと気が付いた方がいいよ」とストーリー中で突き放すのが山岸凉子クォリティ。いつまでも成長しないで「見捨てられた子供ごっこ」をやってる主人公は必ずラストで不幸になるのだった。
そのサディスティックなまでの冷徹さが好きなんですけども。
まあ、王子も淡水とくっついちゃえばよかったんですがね。ああいう根暗は同族嫌悪で駄目なんでしょうね。毛人タイプの「誰からも愛される男」に惹かれてしまう業の深さに首がもげるほど納得しながら読んでました。
●イカフライさん
>受身→一方的に男にレイプされる女と言う存在の自分を、
>男を断首する位置に置く事によって、それを乗り越えようとしたのでしょうか?
そうなんでしょうね。アルテミジアはかなり残酷というか暴力的な題材を好んで描く画家だったようだし。
精神病理学でもよく言われるんだけど、表現手段を持たない人間の方が問題の根は深いと。過去のレイプ体験の話を聞いて彼女の絵を観ると、相当病んでるように見えるんだけど、実はこうやって発散できる人は大体が昇華している。傷と真っ向から向き合って自分自身に納得させているわけだから。
問題は表現手段を持たない人間の方で、絵とか文章で昇華するより単純に暴力衝動の方向に行ってしまう場合もある。だから絵画療法なんてのもあるわけですが。
>聖書に触れて感じたのは随分男尊女卑だな、ってことです
キリスト・ユダヤ・イスラム教に限らず、仏教も男尊女卑ですよ。「女人に九つの悪法あり。(女には9つの悪い属性がある)」なんて言ってますから。悟りを得た男ですら、ジェンダー的価値観からは自由じゃなかったんですね。
まあ、キリストにしろ釈迦にしろ自分で本を書き遺したわけじゃなく、弟子が彼らの言葉を勝手に編纂したわけだから、その途中で弟子の思想が混じらなかったとは言えないですけど。
●Shujiさん
>ええっと・・・。包括するような理解のことかな? 書いてるときにイメージしたのは。ずっと遠くからの理解っていうのもありますね。また抽象的ですが。
いや、すみませんがまだわかりません。「何を」包括して理解するのかを聞きたかったんです。遠くから「何を」「誰が」理解するのか。理解される側の人間は女性一般なのかな?そのへんも曖昧ですし。
わたし抽象論って駄目なんですよ。具体的に書いてないような本は眠くなるから途中で投げ出すし。自分が語りたい思想について極限まで突き詰めている思想家はそれを解体してわかりやすい形にして投げ出すことができますから。そういう人の本でないと読む気しない。ってカッコつけて書いてみたけど要するに馬鹿ですので、抽象的な話のお付き合いはできなさそうです。ゴメンナサイ。
>ジェレンティレスキ → ジェンティレスキ
ああっ、本当だ。あちこち表記が間違ってるっ(恥)。あわくって直しました。ご指摘ありがとうございました。
>ナツさん
エントリ記事からずいぶん逸れてってますが・・・
日出処の天子、あの池のほとりで会う場面ね・・・決定的な別れの愁嘆場。
私は十代当時、よく意味がわかりませんでした。「私も布都姫もそれぞれ一人」以下の部分が。あーそうかって腑に落ちたのは、十年ぐらいたってからですよ(笑)
それにしても、毛人ってさんざん王子に気を持たせてるじゃない?それもこれも、王子が美しいからってのが大きい。で、布都姫を好きになったのだって、その容姿から。性格もわからないうちに、「お慕いしております!」だもの。なんていうか、布都姫登場後の毛人って「この男、ただの面食い野郎?フラフラと二股かけて」みたいな気がちょっとしてきて、んもー、王子もこんな男に恋々とするのはやめとけばいいのにって思っている矢先に、いきなりこんなモノのわかったような、賢げなセリフ。それがなんとなくチグハグに感じて、「おまえ、(今までの行状がありながら)どの口でそんなこと言えるんや!」と、ほっぺたつねりあげたくなりましたね。いや、まあ王子に感情移入して読んでましたし。
それにしても、えむけーつーさんの感想、笑ったわ〜。すごい発想。私にはできない。
>「何を」包括して理解するのかを聞きたかったんです。遠くから「何を」「誰が」理解するのか。
う〜ん。でも、「あなた」を「私」が。でしょうね。その後に注釈が一杯ついてくると思いますけど。
これは本当にくだらない冗談ですけどね。「あなたって誰?」、「私って何?」。そこから哲学は始まるのかも知れない。
・・オチてませんか?
>この記事のことが思い浮かびました
マジですみません。なぜ思い浮かぶのかさっぱりわかりません。俺、低学歴なので。
勉強できる人は、バカ相手にはもう少しやさしくしてあげてください……。
>立派なM
Mて……。
まあ、あれです。読んだ当時の俺は徹底的に「他者」なんてものを認識してなかったです。そんな世界観の人間にとっては厩戸の愛しかたこそが正当性があるもので、それを受け止めない毛人のほうがむしろ理解できないというすごい状態。ナツさんが引用したセリフは覚えてないのに雨乞い(だったかな?)のあたりは明確に覚えてるという。
だいたいいちばん好きな作品が「蛇比礼」っていう時点でもうごめんなさいと言うしか。
「女」を「女」たらしめているものがあるとしたら、そういうものに飲み込まれたいと当時の俺は願っていて、だから山岸作品が好きだったんだと思います。エントリの記事にしても、テーマ的に嫌悪感がさほどないのは、きっと積極的に去勢されて女の子になりたいと願ってたからです。
そりゃそーと淡水好きだったなあ……。
>私にはできない
だいじょぶです。できないほうがいいです。
ちなみに、できてもあんまりいいことないです。
>日出処の天子
ウマちゃん、毛人のバカなんて忘れて淡水とくっつけよ! あっちのほうがなんぼ良いぞ!
いや、その……。
厩戸は毛人の凡庸さに惹かれたのでしょうね。彼の周囲は彼の非凡な能力を恐れるものとあがめるものしかいなかったから。
あの作品の厩戸の描き方って最初は「理解しがたい能力を持つ魔物のような存在」から読者を入らせて徐々に「己の特殊性や恋愛に苦悩する人間」としてどんどん身近に感じさせて、その心の奥底の苦しみや葛藤まで自己同一視させたところで、ぽーんと遠くの地平に突き放す、ってすごいことやってるんですよね。
私、淡水とくっつけと言うけれど、淡水もまた厩戸を崇めている人間なんだよな。
あの中で「もし私が女であったなら、そなたは私を選んでくれたのか?」という毛人に向けた科白があるけれど、多分、厩戸が王子じゃなく皇女であっても毛人はフツ姫を選ぶんだろうなあ。
山岸先生ってホンマシビアですよね、どんなに辛い境遇であっても、どんなに傷ついても、結局、自分を救うのは自分だけで、それが出来ない人間にはこれでもかってほど手痛い。
そこが好きなんですが。
●まりねこさん
>日出処の天子
>私は十代当時、よく意味がわかりませんでした。「私も布都姫もそれぞれ一人」以下の部分が。
「超能力」によって完全に同一化することによってしか相手と繋がった気がしない、そういう愛を求めてしまう王子の不安感と疎外感にわたしは感情移入してました。で、それに対する毛人は、精神感応で心が通じ合ったりしなくても、自然に布都姫と恋愛できる男なわけです。心が読めなくても相手の愛を信じられるんですよね。
わたしも10代の頃は深く分析はできませんでしたが、そういう毛人と布都姫の「まっとうさ」だけはわかった。でも王子に感情移入してたから、そのまっとうさが非常に憎らしかったですね。王子の方が布都姫より孤独なのに、どーして孤独な方を救わず放置するんだ、という。もっと大人になればわかるのかなあ、と思いつつここまできて、世界の厳しさを認識しつつも根本的には何も変わってないような気がする今日この頃。
>布都姫登場後の毛人って「この男、ただの面食い野郎?フラフラと二股かけて」
言われてみればそうかも(笑) まー布都姫の方がどうみても性格がいいので仕方ないんだろうな、と納得してましたが。ほら、小公女でもシンデレラでも、物語上はあのタイプの女の子が王子様に選ばれて幸せになるって相場が決まってるでしょ。
あれに洗脳されていたので、「どーせ厩戸タイプは選ばれないんだよこの野郎」と憤慨しつつ納得。
●Shujiさん
>う〜ん。でも、「あなた」を「私」が。でしょうね。
いやですから、「わたし」をShujiさんが理解するとして、何を理解するのかと・・・(略)
哲学も嫌いじゃないけど具体的な話にならないなら意思疎通は不可能ですよ〜。
●MK2さん
>読んだ当時の俺は徹底的に「他者」なんてものを認識してなかったです。そんな世界観の人間にとっては
>厩戸の愛しかたこそが正当性があるもので、それを受け止めない毛人のほうがむしろ理解できないというすごい状態。
でも厩戸ってある意味ストーカーですからね。ライバルの布都姫を殺そうとまでした執念と妄念の塊。厩戸に感情移入して読むと「布都姫死ね!」と思いますけど、毛人の立場になってみれば、ドン引きするのも当然だよなあ。
そういう執念深さには引いたりしないんですか? 飲み込まれたいとか支配されたいってことは、喜んで獲物になっちゃうタイプなんですかね。
>エントリの記事にしても、テーマ的に嫌悪感がさほどないのは、きっと積極的に去勢されて女の子になりたいと願ってたからです。
ゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」という絵を記事中で取り上げたこともあったけど、MK2さんって母親にいつ食べられるかと怯えているのが怖いから自分から母親に食べられてしまう子供みたい。母親っつーか、グレートマザーつーか。
いや、抽象的連想ですんません(笑) ゴヤの絵があんまり怖いので、わたしが子供の立場だったらそうしちゃうかもと思ったことがあったんですよ。ゴヤの絵は父親だけど。
ちなみにわたしは高所恐怖症ですが、高い所が怖いのは、怖すぎて緊張に耐えられず思わず飛び降りたくなる自分の心理状態が危険だからです。
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2004/1004070227.php
>だいたいいちばん好きな作品が「蛇比礼」っていう時点でもうごめんなさいと言うしか。
あー、蛇の化身のような美少女小学生が大人の男を次から次へとたらし込んで精気を吸い取っていくアレですね! 真のロリコンの究極の願望とは、少女に身も心も支配されることだという話を聞きましたが、やっぱりMK2さんはどこに出しても恥ずかしい立派な(略)
あれを読んで思ったことは、やっぱ女性の描くロリコン物は男性向けとは明らかに違うなあ、ってことでした。大人の男が知恵と暴力で少女を支配するんじゃなく、早熟な少女が大人の男を支配下に置くという構造と、あと、男性キャラがイケメンモテ男ばかりで、のび太系とかキモいロリオタじゃないってとこ。エロゲーにはこういう構造の話ってないんでしょうか?
●イカフライさん
>ウマちゃん、毛人のバカなんて忘れて淡水とくっつけよ! あっちのほうがなんぼ良いぞ!
毛人と淡水のどっちが聡いかっていったら淡水ですからねー。厩戸のことを理解できるのも淡水だし。でもどんなに鈍くてバカでも、毛人じゃなきゃ駄目なんですよ。山背が産まれた時厩戸は、「毛人に似ているな。誰からも愛される、そんな所も似るだろうな」と言ってましたけど、愛される人間ほど嫌われ者を惹きつける存在はないっすよ。
でも毛人はさすがにバカすぎですけどね。ポジ男が好きなわたしでも、布都姫と刀自古を間違えてエチしてしまった時はえーかげんにしろと小一時間。脳味噌が下半身に支配されて全く働いてません。
>山岸先生ってホンマシビアですよね
シビアすぎて読むたびに痛いんですが、だからこそ現実感があるし臨場感がある。都合のいいドリーム漫画も人間には必要だけど、時々むなしくなりますからねご都合主義ばかりだと。山岸凉子は容赦がないので、逆に活を入れられたような気分になってカタルシスを得るのかもしれない。
えむけーつーさん
>マジですみません。なぜ思い浮かぶのかさっぱりわかりません。
ふと思いついたのですよ。そういや、あの記事のなかに主語と述語の話があったなあ〜っと。引用したのは個人的に気に入ったところです。(^^;
ナツさん
>いやですから、「わたし」をShujiさんが理解するとして、何を理解するのかと・・・(略)
たぶん、こういう説明で合ってると思いますが・・・。心には、鏡のような性質があって、そこに相手が映るんですね。それを感じ取っているような。
ということは自分の、無意識も同時に見てるような場合もありまして。それについて色々と知っておかないといけない。
まあでもコラボレーションみたいなものだと思いますよ。
追記:
ところで僕も『日出処の天子』は読んだのですけどね。(中古で揃えて持ってます。)毛人はこじんまりとながら綺麗な鏡を持っている感じ。厩戸は・・鏡がないのかも知れないなあ〜っとか。まあ究極ですけど。
すんごい遅レス失礼。
>自分から母親に食べられてしまう子供みたい
ああ、それそれ。そのまんまです。
抑圧的で支配的な母親のもとで育って、そこから抜け出そうとすると恐怖と罪悪感がはたらくっていう。「母親の庇護下から出るのは怖い、そして、僕が庇護下から抜け出たら、お母さんにはだれもいなくなる」という二重の縛り。
そんで、
>執念深さには引いたりしないんですか?
その執念深さを愛情と錯覚する構造ができあがってるわけです。「こんなに自分のことを支配したがるのは、きっとそれだけ僕のことが必要だからだ」っていう誤変換。いや、それも愛情の一形態に違いないとは思うわけですけど。その「因って来るところ」が問題なわけで。
「対等」ということを理解できるようになったのは、結婚もきっかけだったんですけど、やっぱ仕事でさんざん叩かれたのが大きいなあ……。
>早熟な少女が
前者についてはまちがいなくあると思いますが、後者(イケメン)についてはたぶんないです。俺が思うに、少女と成人男性の組み合わせになんらかの思い入れを抱くのは、支配-被支配でしか愛情を把握できない人たちで、そこには、無様な自分を無条件で受け入れてもらうか、あるいは無様な自分を無条件で受け入れさせる(完全支配)かの二択しかないんだと思います。イケメンであれば、そもそもこんなとこ(ロリコン)にはいないってのがあるから、感情移入の対象にならないのかと(痛)。
ちなみに俺も高所恐怖症なんですが、俺の場合は、高い場所にいると「きっとこの場所は崩れる。必ず崩れる」という思い込みが働くからです。
あっと先を越された。(汗)
差異がないと人間は会話をしないのではないか? ・・というテーゼがコメントの下書きをしながら思い浮かびました。いいところで出そうかと思っていたのですが、もしかしてそういう状況に陥らせてしまったかも知れないなあ〜っと思ってコメントの削除要請を出そうかと準備していたのですが・・・。
僕は本を読むときでも、映画をみるときでも、メールのやり取りなんかでも、「意識の流れ」に注目しています。そこには物語性みたいなものがあって、僕はそれを把握することをなによりも得意としています。そういう観点からすると、今ここで必要なのはこの引用かも知れません。
>>
P.227 そして不協和を解決するということは、これも殉教者が最も高いレベルで行うことだが、苦痛を移動させ、メジャーな協和をさぐってそれと協和し、こうして苦痛そのものを抑えてしまうのではなく、その反響やぶり返しを抑えること、たとえ殉教者の抵抗力にまでは到達できなくても、受動性を斥け、原因を抑えるために努力を続けることなのである。
逆の例は、呪われた人間によって提供される。彼の魂はたった一つの音だけをもつ不協和を生み出す。それは復讐あるいは怨根の精神であり、神への限りない憎しみである。しかしこれもまた、悪魔的ではあっても一つの音楽であり、和音なのである。呪われた人間は、自分の苦痛そのものから快楽を引き出し、そしてとりわけ別の魂たちにおいて完全な協和が無限に進行することを可能にするからである。
『襞―ライプニッツとバロック』(ジル・ドゥルーズ)
まあ意味なんかについてはそんなに知らなくてもいいことだと思います。これは特殊なケースですから。しかし・・僕は自分のブログだとよく書いたり消したりするのですけど、コメント欄でこの手の話をするのは難しいなあ〜。
やっぱり削除をお願いします。too much かも知れない。一つ前のと、下記を含む三つ並びの投稿に関して。
えむけーつーさん
>マジですみません。なぜ思い浮かぶのかさっぱりわかりません。
ふと思いついたのですよ。そういや、あの記事のなかに主語と述語の話があったなあ〜っと。引用したのは個人的に気に入ったところです。(^^;
ナツさん
>いやですから、「わたし」をShujiさんが理解するとして、何を理解するのかと・・・(略)
たぶん、こういう説明で合ってると思いますが・・・。心には、鏡のような性質があって、そこに相手が映るんですね。それを感じ取っているような。
ということは自分の、無意識も同時に見てるような場合もありまして。それについて色々と知っておかないといけない。
常識的な解答として、ラカンをご紹介しておきます。
精神科医ラカンは患者に何をどのように伝えればいいかということを、よくよく知っていた。その方法は意外だろうけれど、なんと「中断」である。
知る人ぞ知る、ラカンの患者セッションではしばしばセッションの突然の中断によってセッションがぷっつり終っていた(これを短時間セッションとも呼んだ)。この大胆な方法が意味するのは、ラカンには「中断された活動は、完結した活動よりも連想的な素材を生み出す」という考えがあったからだった。これはぼくも確信しているのだが、未完成な部分を残すこと、あるいは負の部分をあえて提示することは、かえって全体の輪郭と内容を深く暗示することが多いものなのだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0911.html
会話を続けていると、どんどん存在の底に向かっていってしまう。しかしすべてを与えることはできないので、どこかで区切りをつけないといけない。その限界には個人差があるようですが、やはりここら辺りに留めておくのが無難でしょう。
また、僕がいってる「鏡」についても、「鏡像段階」「対象a」なんていう言葉を使ってラカンは解説してくれています。そういうことに興味がおありなら、『精神分析の四基本概念』という著作がオススメです。
更新できませんでした。いま「嫌オタク流」読んでるからその感想書こうと思ってたんだけど、帰ってきたのが遅かったので断念。
とりあえずコメントレスでお茶を濁します。
●MK2さん
>「こんなに自分のことを支配したがるのは、きっとそれだけ僕のことが必要だからだ」
支配する奴隷としての必要なら必要とされたくはないな〜。かといってこっちが支配するのもめんどくさいからやだ。未来の世界のネコ型人間なのでまったりとした対等な関係でないと愛情を感じられません。
支配−被支配の関係は、無条件に完全に自分を受け入れてもらう願望を満たすとの話ですが、本当にそうでしょうかね。「無条件で」とか「完全に」なんて願望がこの世で満たされるはずがないわけで、そんなことを考えてる限りいつまでもその関係は不完全のままでいつ崩壊するかしれない危険をはらんでいます。そんなめんどくさくて緊張感のある関係性をよく持続できるなあと思う。
高所恐怖症の話で書きましたけど、わたしは緊張状態が長く続くのが駄目なので、支配とかSMっぽくて物騒な関係を求める心理ってぶっちゃけよくわからない。
「恋人を支配したい」と考えるような人間の不安感や精神の不均衡も、緊張状態を強いるのでわたしの求めるまったりとした関係にはならない。だからそういう不安感とか劣等感の強い人間からは逃げ続けてます。
恋愛関係ではなく、例えば、仕事や師弟関係などの人間関係でも、精神まで支配されるのって快感ですか?(でしたか?と過去形にした方がいいかな)
●Shujiさん
>会話を続けていると、どんどん存在の底に向かっていってしまう。しかしすべてを与えることはできないので、どこかで区切りをつけないといけない。
えーと、別に会話で全てを与えて欲しいとは思ってないし深遠な話をしたいわけでもないのです。ラカンの引用で「未完成な部分を残すことはかえって全体の輪郭と内容を深く暗示する」ということをおっしゃりたいのはわかりましたが、それは相手に言いたいことが伝わらなければぶっちゃけ無意味だし、どんな内容が深く暗示されているかわたしにはさっぱりわかりません。わたしとそういう「未完成な言葉で内容を深く暗示する」ような会話をしようと思われても無理です、という話です。
まあ、共通概念のある仲間うちとか、気心の知れた人同士でならばそういう会話も成立しますけど。わたしとShujiさんはそもそもそういう共通概念すら構築されていない見知らぬ他人同士なので、具体的な話でしかわかりあうことはできないわけです。いくらラカンせんせーが主張していても現実にわかりあえなければ机上の空論です。
そもそもこの話の発端は、
http://noraneko.s70.xrea.com/mt/archives/2003/0627220157.php
というエントリに対してShujiさんが「理解してしまえば怖いものはない」というコメントをくれて、何を理解すると言っているのかわたしにはわからないので具体的にお願いしますと、ただそれだけの話です。
んで、今回のShujiさんのコメントを読んでもやっぱりわかりませんでした。意思の疎通は不可能みたいです。
ってマジレスしてますけど、釣られてますか?もしかして。
>支配されるのって快感ですか?(でしたか?と過去形にした方がいいかな)
ああ、全部過去形です。
そして快不快でいえば、おそろしく不快でした。不快である自分を認められないから、フィクションのなかではそれを快感に仕立て上げたかったんです。人間、自己正当化のためなら、なんでもやるなあ、と、これは現在の感想。
いまは、対等じゃないのは、甚だしくダメです。
>というエントリに対してShujiさんが「理解してしまえば怖いものはない」というコメントをくれて、何を理解すると言っているのかわたしにはわからないので具体的にお願いしますと、
だってそんなこと、隠喩を隠喩として書けってことになるんですよ。でも、それが隠喩ではなく、具体的なものとなったらそれは隠喩ではない。なので、隠喩を隠喩として書いているかぎりは意識される筈がない・・・
いやぁ〜、面白いですね。(^^) 与えたいのはたんに僕の性分です。それに、深遠なのですよ。この話は。なので「理解」については・・・。この文章を持ってきてみようかな?
http://mohican.g.hatena.ne.jp/shuji/20051104
・・と、ここまでは勢いです。ひとまず今の段階でこの問いに答えてみると、それは相手の「業」を理解しているんだと思いました。
それと、「理解」というのも言葉によるものと、そうでないものがあると思います。ここの違いがたぶん意思疎通のポイントでしょうね。
えぇっと・・・。深遠ではないですね。深遠なものを深遠でないように話すのがカッコいいと思ってるので。(^^ゞ しかしコメントを消してもらうのには意味があります。
彼にとって悪は、善の欠如ではなく、却って善を超え出る過剰、超過である。さらに悪はその超過によって、他なるものとの関係というレヴィナスにとっての真の善へと道を開くものである。こうした悪は、「私」の身体的苦しみを通じて考察される。悪の問題を、悪を被る者の視点から離れて、正当か否かと客観的に判断するものと考えないのが、レヴィナスの悪の考察の特徴である。
http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/25.html
・・コメントを消してもらえないのならば、この引用がないと収まりがつきません。「業」を理解するというのは、こういうことです。
「客観的に判断しない」というのは、つまり言葉にしないということです。言葉にするということは、客観的に判断するということですから。
──僕の印象です。
(わたしの一部はじっと横たわったまま、誰も押し出したがらず、わたしのこの死んだ断片すらも体外の寒さのなかに押し出すのをいやがっていた。ひきとどめ、あやし、抱き、愛することを選んだわたしのすべて、孕み、とどめ、まもったわたしのすべて、世界中の情熱的なやさしさのなかに閉じこめたがったわたしのすべて。わたしのこの部分は子供を、わたしのなかで死んでしまった過去を、外に押し出すのを拒んでいた。それはわたしの生命をおびやかしたけれど、過去の断片とおなじにわたしはこの生命の断片をそこねたり、引っぱり出したり、切り離したり、放棄したり、さらしたり、ひろげたり、明けわたしたりすることはできなかった、わたしのこの部分は、子供だろうと誰だろうと、冷たい外界に押し出されて、他人の手で拾い上げられ、見知らぬ土地に埋められ、永久に失われてしまうことにさからったのだ。)
『アナイス・ニンの日記』
それがどういうことなのかはわかりません。更新を楽しみにしています。
ナツさんはじめまして。
「文化系女子」関係の記事にコメントしようとおもったのですが、思わず絵のほうに目がいってしまい、こちらにコメントしました。
それにしても、ジェンティレスキのこの絵、すごいですね。
カラバッジオの同じ絵はしってますが、彼女の絵は初めて知りました。
躍動感と生々しさが伝わってくるようで、ホロフェネスの絶叫が聞こえてきそうです。
首掻っ切られたら声もでないか・・・
残酷だけど、思わず目が釘付けにされそうな絵ですね。
●HIDEさん
はじめまして。
この絵、女のわたしが見ても首のあたりが苦しくなってくるような気がします。
でもホロフェルネスの屈強さから考えて、たかが女二人に抑えつけられたくらいで大人しく殺されるなよ・・・とも思うんですが。
なんか抵抗する気もなく屠殺場の牛のような目をしてるのが気になります。
腕力ではなくユディトの「殺意」に負けたのかなーと思ったり。
中世の宗教画や、神話に題材を取った絵って面白いんです。風俗画より時代背景が現れているものもあったり、「同じ題材なのに画家によってこんなに違うのか」と驚くようなものがあったりして。
他にもあるので、またいずれエントリで取り上げたいなと思ってます。
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