恋愛とか、親子の情愛とか、それらが表現された【歌】でも【小説】でも【ドラマ】でもいいのだが、
それって、なんて個人的な、せまい自分の範囲でしかものを見ていない・・・極めてプライベートな事じゃないか!!!
って思うことでも、
どんどん「内面」に向かって掘りさげる、その【ココロの動き】という作業が、
逆に、
たくさんの人に通じる「普遍」になっている場合がある。
僕は、みのや師匠の表現する歌を聴きながら、そういう事を学んだ。
内側に、個人的な部分に、ずんずん踏み込んでたハズなのに、
「あ、俺も同じだ」
「あ、あの人は、こんな思いをしてたんだ」
「あのときのあの人の苦しみ、悲しみが、ようやくわかってきた」
【内側】に向かう・・・・
それが、
【外側】と繋がっていく・・・
以上の事から、
ふと、さっき考え、気づいたことがある。
よく、
「一宗教、一宗派にこだわらない立場で・・・」
なんていう言い回しを聞くことがある。
現に、この僕も、よく言ってた言葉だ。
僕は、昔、仏教の勉強を始める際に、「浄土真宗」の勉強をしたくなかった。
「浄土真宗」は、たくさんの枝分かれした仏教の「一部」じゃないのか?
ひとつの宗派の「狭い」ことを勉強することに抵抗があった、
なので、【インド哲学】という方向から、「仏教学」にアプローチした。
確かに面白かったし、今でも、その選択には後悔していない。
でも、
思う。
一宗教、一宗派にこだわらない・・・・
っていう立場は、一見、カッチョよく見えるけど、
実は、
ゴウマンである。(自分はどこに立っているのか?ということだ)
その「一つ道」に生涯をかけ、歩み続け、学び続けている人がいる。
「自分自身」と真剣に向き合う「求道」の姿。
わたしには、この道しかない・・・・
「一つ道」をひたすら進む、その行程の中に、
仏教の根底に流れる広い「願い」に出会えるのではないか?
だから、
「あの人」の話す「言葉」には、
迫力も、優しさも、悲しみも、厳しさもあるのではないだろうか?
【内側】に向かう・・・・
それが、
【外側】と繋がっていく・・・
一宗教、一宗派にこだわらない・・・・
ってカッチョよく言いながら、
結局、
何一つ真剣に向き合えないまま
「自分の都合に合った」
“いいとこ取り”をしようとしているに過ぎない自分、
そんな「カルチャー」な自分に気づいたら、
「一つ道」をまともに歩んでもいないくせに、「せまい」と批判する「おまえ」は誰やねん?
って、世界が見えてきました。
「1人」という人間存在のワタシは、
結局、
目の前にある、縁(えん)のある
「一つ道」
しか歩めない。
でも、
僕は、
「一つ道」を歩みながら、
隣りの「別な道」を歩んでいる人と
「おぅい、そっちの道は、どうだぁぁぁ???」
というキャッチボールが成り立つ旅人でありたい。
我田引水で、凝り固まって、バランスの悪い傾向のある自分自身をいつもチェック確認させてくれる「眼差し」に出逢っていきたい。
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