桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への手紙 -神学研究の方法 17-
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仏教の創始者は、いわゆる、釈迦ですが、この釈迦というのは、氏名ではなく、生まれたのがインドの北東のネパールという小さな国の釈迦族(しかも、王子として生まれる)であったため、そのように、ただ、漠然と表現しているだけで、本当の氏名は、ゴータマ・シッダグールタです。小さな国でも、王子ですから、普通のひとに比べれば、大変、贅沢な、恵まれた生活をしておりました。釈迦は、普通に、16歳で、結婚して、子供がひとりおりました。しかし、何が原因か分かりませんが、29歳(19歳の時という説もあります、たとえば、『梅原猛著作集第9巻-三人の祖師-』(小学館、2002))の時、ある日、突然、奥さんと子供を捨てて、出家してしまいました。王子として、恵まれた生活を送っていたのでしょうが、世の中の貧しく、恵まれないひとたちの生活等を見て、世の中の矛盾を感じて、それで、むなしくなり、耐えられず、出家してしまったのでしょう。出家して6年間、悟りを開くために、苦行に苦行を続けました。しかし、なかなか悟りが開けませんでした。ある日、菩提樹の下で瞑想している時、そこで初めて悟りを開いたと言われております。釈迦が35歳の時でした。それは並の人間にはできない速さです。ところが、悟りを開いても、誰も見向きもしないため、釈迦は、苦行を続けていた5名の仲間に、自身の説(狭義には仏教哲学ですが、広義には哲学)を話してみました。すると、5名の仲間は、すごく感激して、弟子にしてくれと頼んできました。それが釈迦の説法の始まりでした。釈迦は、自信を得て、それ以後、インダス河の流域のあちらこちらで説法を繰り返しました。釈迦は、一時期、立派なお寺で生活しておりましたが、そこでの安定した生活にも満足せず、乞食をしながら、露命をつないで布教し、説法の旅を続けていたというのが釈迦の人生でした(いまでもまだ正確なことは、分かっておりませんが、約80歳で亡くなっているとされています)。釈迦の悟りと説法の過程を認識し、私は、いささか僭越ですが、自身の学術セミナーも釈迦の説法と同じような発展の過程をたどっていると感じたものです。最初は頭の中の世界、つぎに、周りの何人かの研究者に聞いていただき、小さな小さなセミナーを開催して、話してみる。それを繰り返す。すると、よいうわさが流れ、ひとが集まるようになってくる。学術セミナーのレクチャ内容を充実させ、募集人員も多くする。学術セミナーは、ひとつだけでなく、ひとつひとつ増やして、同様の試行錯誤をくり返す。そして、いまでは、連続5時間半の12種の学術セミナーを開催するに至り、セミナーで組み上げたオリジナルな概念は、日本原子力学会論文誌や関係国際会議、日本原子力学会研究専門委員会等の成果報告書、大学生用教科書等の形で発表してきており、全部で約20編になります。最初はただひとりなのです。私は、物事の本質を悟るために、積極的に苦行をくり返し、十分に耐えることができました。
桜井淳